「日本やイランが核を持てば、世界は安定する」
 「(日本という)核攻撃を受けた国が核を保有すれば、核についての本格論議が始まる」
 「核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたから」
 「核兵器は安全のための避難所。核を持てば軍事同盟から解放され、戦争に巻き込まれる恐れはなくなる」
 「(日本の核に関する)国民感情もわかるが、世界の現実も直視すべきです」
 「核を保有する(中国と日本という)大国が地域に二つもあれば、地域のすべての国に『核戦争は馬鹿らしい』と思わせられる」

 さあ、以上の発言は間違いなく日本の核武装論です。核武装を奨める強い発言です。百歩後退しても、日本の核武装に関する議論だといえます。
 最近、核武装関連発言で波紋を呼んだ中川昭一自民党政調会長でも、麻生太郎外相でも、こんな強いことは絶対に述べないでしょう。
 ところが以上の核武装議論はなんと朝日新聞10月30日の紙面に堂々と登場したのです。
 発言者はフランスの学者エマニュエル・トッド氏、対談記事なのですが、その相手は朝日新聞論説主幹の若宮啓文氏です。トッド、若宮両氏は日本の核武装について議論しているのです。
 
 この朝日新聞の一ページすべてを使った長い対談で、若宮氏は当然ながらトッド氏の日本核武装の奨めに対し、反対論を述べています。しかし一方が「日本は核武装すべきだ」と述べ、他方が「日本は核武装はすべきでない」という言葉のやりとりは、どうみても「日本核武装議論」ですね。

 しかし朝日新聞はその一方で10月20日の社説などで、中川昭一政調会長や麻生太郎外相の「核兵器の保有に関する議論」への激しい非難を浴びせています。「日本核武装議論」はしてはならない、つまり語っても、論じてもいけない、と主張しているのです。でも自分たちは論じ、語っているんですね

 この対談記事からみる限り、中川氏も、麻生氏も、朝日の若宮氏と立場はまったく同じであることが判明しました。日本の核武装についての議論は堂々とするけれど、日本の核武装には反対という点で、です。若宮氏は本当にこの対談で日本の核武装について堂々と議論をしているのです。

 しかし若宮氏と中川、麻生両氏とが異なる重要点は若宮氏がこの日本の核議論を「頭の体操」と総括していることです。トッド氏は広島や長崎の悲劇を繰り返さないためにも日本の核武装を、と説き、被爆の悲劇にも触れています。ところが広島、長崎も若宮氏は「頭の体操」の一部として片付けるのです。もし政治家が被爆をも含む核問題を「頭の体操」などと呼んだら、朝日は欣喜雀躍ふうでその政治家に紙面リンチを加えるでしょう。被爆の悲劇を除いても核議論は日本の安全保障という重大な課題そのものです。それを「頭の体操」だなんて、いいのですか、若宮さん。

 ということで、朝日新聞さん、「日本核武装議論」はむしろ奨励するということなんですか。もしそうだとすると、20日の社説や一連の中川叩き、麻生叩きの論評との整合性はどうなのでしょうか。結論は反対だとわかっていても、そこにいたる議論さえしてはダメだと、さんざん主張しているではないですか。まさか、同一テーマでも「政治家は議論してはいけないが、大新聞は議論してよいのだ」なんて、ヘンなこといわないでくださいね。

 でもこれだけ楽しませてくれる朝日新聞、だから私は年来の愛読者なのです。しかし愛読するのは朝日が朝日らしいからです。まさか核武装の議論は「頭の体操」だからよいのだ、なんて主張に豹変しないでくださいね。

 しかし私は長年の言論人としての体験を通じ、日本という国の進路の基本的選択の際は、朝日新聞が主張することと正反対の道を選べば、だいたい日本にとっての物事はうまくいくという考察を重ねてきました。
 対日講和条約しかり、日米安保条約しかり、日米ミサイル防衛しかり、有事立法しかり、ちょっと「基本」から外れて、中国の文化大革命の評価しかり、などなどです。
 今回の日本の核武装議論ですが、実は私は日本の核武装には否定的立場をはっきりさせてきました。だからとくにそのための議論もいま急いでする必要はないと思ってきたのです。ところが朝日新聞が「議論もしてはならない」と主張し始めると、これまでの多数の事例のように、その正反対の道を選ぶのが日本にとっての利益になるのかな、といま感じ始めました。
 上記はまったくのジョークではありません。
 この部分の私の考えの詳細は『朝日新聞の大研究』(扶桑社)という本に記しています。稲垣武氏、井沢元彦氏との共著です。