朝日新聞がワシントンのシンクタンクと共催した「安倍政権下の日米同盟」というタイトルのシンポジウムが10月末、開かれ、若宮啓文朝日論説主幹が「日本から」という基調報告をしました。基調演説です。
私はその集いには出ませんでしたが、若宮氏の基調報告の要旨を11月1日の朝日新聞でみて、「なんだ、これは」と感じ、ここで論評することにしました。
若宮氏は私も個人的に存じ上げており、礼儀正しく接していただき、そiういう方の批判は私的には気がとがめます。しかし活字となった公的な主張への批判は私的な事柄ではありません。

若宮氏はこの基調演説で安倍首相には「自由と民主主義協調」の資格がないことを示唆します。その理由は「靖国神社を支持する」から、だというのです。もうこの「理由」だけでも論理が欠けています。

では若宮演説の内容を具体的に紹介しましょう。

「安倍氏には『自由民主主義のためには武力行使をためらわない』というネオコン(新自由主義)の発想に通じるものがある」
「しかし安倍氏を『日本のネオコン』だとも言いにくい。やはり
ネオコンの論客マックス・ブーツ氏は03年に書いた靖国神社の遊就館の展示が旧日本軍の軍事行動をすべて正当化しているとして、驚きと憤りをあらわにした。ネオコンが信奉する自由や民主主義は、靖国の象徴するものの対極にある」
「安倍氏はそんな靖国神社を支持し、A級戦犯も擁護してきた。つまり『自由と民主主義』を唱える一方で、靖国神社の信奉者でもあるという自己矛盾を抱えている」

さあ、以上の発言では、靖国神社を信奉する人、参拝する人は自由と民主主義を信奉していない、あるいは信奉できない、という断定がまず浮かんできます。これはあまりの屁理屈ですね。

私は中国が激しく反対するようになってから靖国に参拝するようになりましたけど、自由と民主主義の信奉は個人としてはもちろん、新聞記者として朝日新聞のどの記者にも負けない分量を書いてきました。靖国への信奉は戦没者の追悼です。戦没者の追悼が民主主義の否定になぜなるのでしょうか。たとえ日本の戦争行動の一部を歴史の解釈として「アジアの植民地解放を早めた」と主張したところで、現代の自由と民主主義を否定することにはなりません。、

若宮論文の非論理的な「因果関係」に従えば、靖国を否定すると、自由と民主主義を信奉する、ということになりますよね。では靖国を最も激しく否定し、攻撃する中国共産党はどうでしょうか。自由と民主主義を信奉していますか。

若宮氏も他の朝日記者と同様にネオコンという言葉が好きなようです。批判や非難の対象によく使いますね。でもアメリカではこの言葉はきわめて意味の曖昧なレッテル言葉です。左派、リベラルが保守側やブッシュ陣営を叩き、ののしるときに使う揶揄の言葉です。日本語でなら「新右翼」とか
「ネオ反動」にでも匹敵しましょうか。

若宮氏はこの演説で金科玉条のように引用したブーツ氏が
「『ネオコン』とは一体なんだ?」という論文を書いているのをご存知でしょうか。ブーツ氏は次のように述べていました。
 
「私はこれまでいろいろなレッテルを貼られてきたが、最も不可解なのは『ネオコン』というレッテルだ。私の保守主義はずっと一貫しており、転向を示唆する『ネオ』の部分はまったくないからだ」

若宮演説はこのネオコンという揶揄言葉を主要な基盤に据えて、安倍首相をそれに一方でなぞらえ、他方でネオコンよりも劣るとけなしています。靖国を信奉するからだというわけです。しかしせっかく「日本から」の基調演説をするならば、なにもアメリカ側のレッテル言葉を最大の材料になどせず、もっと日本らしい安倍批判の根拠を示してほしかったですね。この点や靖国問題で安倍首相を自由と民主主義を唱える資格がないと断じる点こそが、陳腐な演説だと思わされる理由です。

しかし若宮氏もフランスの日本核武装論者の主張をわざわざ詳細に紹介したり、支離滅裂な屁理屈で安倍首相の国際的な民主主義主張をけなしたり、やはり演説や報告の対象は本来の専門領域である日本の国内政治に限られたほうが無難ではないでしょうか。

こんなふうに楽しませていただけた若宮主幹の「基調報告」でした。