数日前からベトナムの首都ハノイにきています。APEC(アジア太平洋経済協力会議)の取材のためです。

ベトナムは私にとって海外特派員としてのスタートの地なので、独特の思いがあります。その一端は以下に紹介する産経新聞の本日付コラム「緯度経度」の「ベトナム戦争の皮肉な結末」に書きました。

いまベトナムにきて感じることの一つは、あれだけ戦争や植民地支配の被害を受けた国がフランス、アメリカ、あるいは日本に対して、「過去の侵略を認めて、謝罪せよ」なんていう態度はおくびにも出さない現実です。

いまのベトナムは官民あげてアメリカ大歓迎、対米友好のムードに満ち満ちています。ベトナム戦争中は米軍機の爆撃をあれだけ受けたハノイでさえ、そうなのです。いまのベトナムの「アメリカ好き」は実に思いがけない旧知の人物からも聞きました。この人物は日本人でもおそらくベトナムを熟知するという点では最高レベルの専門家です。

ハノイに着き、日本のプレスが作業をする部屋に入ってしばらくすると、よく日焼けした紳士に「古森さん、お久しぶり」と声をかけられました。なんとベトナム戦争の終わりにサイゴンで行動をともにした赤旗記者の鈴木勝比古さんだったのです。鈴木さんはいままた数回目のハノイ駐在、赤旗ハノイ支局の特派員です。

鈴木さんとは1975年4月30日にサイゴン(もちろんいまのホーチミン市のことですが)が陥落した直後の混乱の中で会いました。ただし背景は大違いです。私は毎日新聞の記者として南ベトナムの首都サイゴンにずっと駐在していて、戦争の最後を迎えました。鈴木さんは北ベトナムの首都ハノイに駐在して、南を制圧した北軍とともに、5月上旬にサイゴンに乗り込んできたのです。
赤旗と毎日新聞と立場は違いますが、ともに報道記者として助けあうという何日かが続きました。ただしハノイの大学に留学し、勝利した北ベトナムの軍人や高官と行動をともにする鈴木さんと、崩壊した政権の側に駐在してい私とでは、私が彼の教えを請うことがずっと多かったのは当然です。

まあ複雑な経緯は省略し、31年ぶりでその鈴木さんとハノイで会ったのです。そして彼からいまのベトナムについていろいろ聞くうちに話題になったのがベトナムの対アメリカ観でした。鈴木さんは概略、次のように話してくれました。

 「ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を政策としており、ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から戦争中の枯葉剤などについても、あえて『民間団体』に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気をつかっている」
 「一般のベトナム人も経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にするべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している」
 「アメリカから戦争で受けた被害を問題にするという動きはまったくない。ベトナム人は前向きで、実利的で、過去にはとらわれない」

ちなみにベトナムはフランスの80年もの植民地支配に対しても謝罪や反省を求めたという話はありません。中国や韓国の日本に対する態度とはまったく異なるわけです。もっともフランスもアメリカもベトナムに対して謝罪をするという兆しはツユほどもみせませんから、それを求めても無理という意識がベトナム側のどこかにあるのかもしれません。 

以上がハノイで感じたことの一端です。

以下は私がハノイで書いた記事です。


「ベトナム戦争の皮肉な結末」
 
のどかな田園の風景を眺めながら、タイムマシーンの心境となった。ゆったりと広がる水田に農民が散らばり、水牛までがのっそりと動く光景は30年以上も前の南ベトナムを思わせたからだ。激しい戦争の中でも農村の作業や日常の営みはいつもゆったりとみえた、あのベトナム戦争の驚異の一つだった。

ハノイのノイバイ空港から市街までの40キロ近くの往路は工業や商業の発展を示す工場やビル、看板類も目立った。だがその合間に点在する農家のたたずまいは過去の映像と変わりなかった。ところどころに広がる水田はさらに過去を連想させたのだ。

ハノイの街に入って、「なんだ、サイゴンではないか」と感じた。サイゴンとはいうまでもなく、現在のホーチミン市、ベトナム戦争中は南ベトナムの首都だった。オートバイの洪水が勢いよく流れ、交わり、喧騒を生む光景はちょうど30数年前のサイゴンにあまりにそっくりなのだ。

私はベトナム戦争中、サイゴン駐在の特派員として三年半を過ごした。ちょうど三年目の1975年4月末、当時の北ベトナムの大部隊の総攻撃を受けて、サイゴンは陥落し、そこを首都としたベトナム共和国は崩壊した。その後の半年はハノイからきた新たな支配者たち下で厳しい検閲を受けながら報道を続けた。

その三年半は劇的な出来事に満ち、自分の青春の残りをすべて投入したような虚脱と満足とがあったから、その後もベトナムはずっと特別な意味を持つ地となった。ベトナムという語を聞くだけで、皮膚がぴりっとするような反射感覚がいつまでも残ってしまったのだ。

さて今回、ハノイを訪れたのは1998年以来である。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の取材のためだった。その前の来訪は89年である。

89年はベトナム軍がカンボジアからの撤退をついに宣言した年だった。ベトナムは79年にカンボジアに軍事侵攻し、大虐殺のポル・ポト政権を首都プノンペンから撃退はしたが、その後は泥沼のような戦いを続けて、国家として疲弊しきった。全世界でも最貧国の部類に落ちていた。そのときのハノイはまさに戦時の首都らしく、すべてを削ぎ落としたような貧しげでスパルタふうな街だった。

98年もベトナム社会主義共和国はドイモイ(刷新)の標語の下に市場経済をたぶんに導入はしていたものの、おりから東南アジアの金融危機の余波を受け、経済は停滞していた。ハノイの街路は依然、自転車ばかりで、オートバイは数えるほどだった。街の質素さも相変わらずで、色彩が少なかった。その前後に訪れたホーチミン市とではちょうどカラー映画と白黒映画の違いだと思った。

8年後のいまハノイはカラー映画の街となっていた。街路を走るのは自転車よりもオートバイが大多数となっていた。市民の服装も表情も明るくみえた。ちょうど昔のサイゴンに似た外観なのだ。そんな時間のズレも、いまのベトナムがなお貧しいことを考えれば、説明がつく。APEC加盟の29メンバーでも国民平均所得ではなお最下位なのである。

ベトナム共産党はそんな窮境を自由経済と外国投資の導入で脱しようとする。

中国と同様の「社会主義市場経済」という、わかったようでわからない標語の下で新経済政策である。だが自由経済も外国投資も経済学的には資本主義の権化だろう。共産主義のテーゼが反動思想として厳しく排除する対象である。サイゴンを占拠した当時の革命政権としての北ベトナムは外国と結びつく資本主義を闘争の標的とさえしてきた。

 そのベトナムが17日、米国のブッシュ大統領を国賓として迎えた。官民あげての歓迎の態勢を示す。ベトナム政府は国家転覆罪の疑いで一年以上も拘束してきた3人のベトナム系米国人を対米友好のあかしに、つい数日前に釈放した。米国民間の人権擁護団体から自国民の苛酷な人権弾圧を指摘されても、ベトナム当局は温和な対応をみせるだけだ。ベトナムは米国となんとしても緊密なきずなを築きたいのである。

 こうした米国への接近と融和、そして共産主義を離れての外資依存の資本主義経済の導入とは、いずれもベトナム共産党が「抗米救国」として戦った米国と米国に全面支援された南ベトナムの政府相手の戦争の大義にとって許しがたい背反となる。

 ハノイの明るく活気ある街頭をみて、なんだ昔のサイゴンそっくりだなどとつい感じた私は皮相で不遜と知りながらも、ついベトナム戦争の結末のそんな壮大な皮肉を思ったのだった。

(ハノイ 古森義久)