日本人として国外に長く暮らしていると、日本的価値観とか日本文化とか日本の思考が国際社会でどのように受けとめられるか、頻繁に考えます。日本の物事にどれほどの国際的な普遍性があるのか、つまり日本独特の価値が外国人にどれほどアピールし、理解されるのか、というようなことです。
 この点で、話はやや極端に飛びますが、日本で生まれて育ち、世界へと発展していった柔道はスポーツとしても、武道としても、他の国のきわめて広範な人々に受け入れられています。私自身が学生時代から社会人になってからも柔道の練習を重ね、アメリカやベトナムという外国でもかなり一生懸命、稽古や指導をした体験があるので、そんな考察をしてしまうわけです。
 そうした日本の柔道の外国人にとっての魅力に関連して、最近、あるケースを日本の「柔道新聞」に書いたので、紹介したいと思います。



柔道新聞十一月号掲載記事

 

「25年目の黒帯」

 

 アメリカの首都ワシントンにあるジョージタウン大学の「ワシントン柔道クラブ」のベテラン・メンバー、マーク・キャロル氏がこのほど柔道を始めてからなんと二十五年目、五十二歳で有段者となった。同氏は連邦検事を長年、務めた法律家だが、柔道への情熱は若々しい。だが四半世紀も黒帯を取らず、ただ稽古だけを続けるという同氏の生涯柔道にはアメリカ柔道のユニークさが目立つ。日本とは異なる柔道のあり方を紹介するためにも、このキャロル氏の軌跡を報告したい。

 ワシントン柔道クラブはアメリカ東海岸でも最古かつ最大の道場の一つとして活発な練習を週三回、続けている。ジョージタウン大学の柔道クラブをも兼ねるため、大学生の入門が絶えないのと同時に、首都の性格からか、欧州、旧ソ連、中南米など外国出身の選手も多い。技術の水準でも国際性でも米国有数といえるようだ。会員は約百人、ふだん稽古に参加するのは四、五十人である。

 私事となって恐縮だが、慶應大学柔道部員だった私は五年半前、五十代の終わりにこのクラブの練習に定期的に加わるようになった。産経新聞記者として北京での二年間の勤務を終え、ワシントンに戻ったときに、慶應での大先輩の宮崎剛氏に奨められたのだった。宮崎八段はかつての慶應柔道部の名選手でワシントン柔道クラブの師範の一人である。

 二〇〇一年春、私はそれまで十数年は柔道とは無縁だったので、恐る恐る稽古を再開した。その時期にまっさきに乱取りを挑んできた一人がキャロル氏だった。当時の彼は四十代後半だったのだが、もっと若くみえた。身長は一八三㌢、体重は九五㌔ほどの巨漢で、煮しめたように黒ずんだ茶帯を締めていた。アイルランド系の男っぽい、いかにもアメリカ人というタイプだった。

キャロル氏と組んでみると、荒削りだが、右の大外刈とか払い腰、帯をつかんでの隅返しなど、なかなかパワフルな技をかけてきた。とにかく稽古が大好きなようで、自分より強く大きい相手にも青年のように、どんどんぶつかっていく。ただ試合にはもう出ないようだった。

 キャロル氏は気性もさっぱりと明るく、話しやすいので会話もはずんだ。聞いてみると、首都ワシントン地区の連邦検事を務め、しかも担当は殺人事件なのだという。こちらも新聞記者としての好奇心から尋ねると、首都の凶悪犯罪について異なるギャング組織同士の抗争などをぽつりぽつりと話してくれた。それ以来、すっかり親しくなった。彼の柔道の水準は明らかに茶帯の域を超えていたから、なぜ有段者にならないのかと質問したこともあった。

 「黒帯になるにはかなり難しい形の試験を受けなければならないし、忙しくて。茶帯でも満足しているしーー」

 あまりはっきりしない答えが返ってきた。だがその後、また時間が流れ、この二〇〇六年夏、彼から報告を受けた。

 「やっと黒帯になりました。柔道を始めてからちょうど二十五年目です」

 彼がそれほど長く柔道をしてきたとは知らなかった。日本では成人男性がそんなに長い年数、稽古を続けて、初段にもならないということは考えられない。そこで彼の柔道経歴を少しくわしく聞いてみた。

 キャロル氏が柔道を本格的に始めたのはちょうど二十五年前、二十七歳のときだったという。

彼は大学卒業後、まずFBI(連邦捜査局)の捜査官となった。犯罪捜査の技術を学ぶなかで格闘技の訓練も課された。テコン道を選び、一生懸命に練習した。二,三年でテコン道では黒帯となった。

一九七八年、二十四歳のとき、ボルティモアのFBI支局に配属された。知能犯罪、組織犯罪、殺人などの捜査にあたる。八〇年にはニューヨークに移った。ときは東西冷戦のまっさなか、キャロル氏は反諜報活動にかかわり、国連内外で当時のソ連圏の人間を監視し、接近して、米側への情報提供をさせる工作にたずさわった。

 そんなころFBIの同僚数人とニューヨークのバーで飲む間、格闘技の話題となり、なかに柔道の選手がいて、テコン道と柔道とではどちらが強いかなどという話になった。議論は過熱し、結局、路上で戦ってみようということになった。

 「まあ、アルコールのせいもあって、おろかな行動でした。外に出て私がその柔道選手の同僚と対決したのです。その結果はこちらが回し蹴りを放つと、相手はふところに飛び込んできて、小内刈で背後に勢いよく投げられてしまった。勝負あった、です。そこで私も柔道を習おうという気になったのです」

 そしてキャロル氏は翌八一年、ニューヨークの名門スポーツクラブ「ニューヨーク・アスレティック・クラブ」の柔道クラブに入り、本格的な柔道修行を始めた。二十七歳のときだった。このときの師範が国士舘大学出身の松村洋一郎氏(現在七段)だった。キャロル氏は同時にFBI捜査官の活動を続けながら、地元のフォーダム大学の法律大学院に入り、八四年には弁護士資格を取った。

 このころの柔道は週三回ほど、稽古自体は必死でやったが、試合に出ることは少なかった。捜査活動には容疑者らを傷つけてしまう打撃系の格技よりも抑えつける柔道が最適でもあったという。

 その後、検事の資格を取ったキャロル氏はFBIを辞めて、一九八七年に首都ワシントンの連邦検事となる。殺人などの凶悪犯罪を捜査し、刑事訴追することが任務となった。柔道の稽古の場はワシントン柔道クラブへと移した。ここではジェームズ・タケモリ八段やタッド・ノルス五段の下で稽古に励むことになる。このころには激しい捜査、起訴の活動の合間だったが、柔道はキャロル氏の生活の欠かせない一部になっていたという。段位はまったく気にかけなかったものの、三級から二級へと上がっていった。

 ワシントンでの十数年間の同氏の練習ぶりについて尋ねてみると、日本では珍しい成人柔道の実態が浮かびあがる。レクリエーション柔道とか趣味の柔道と呼ぶには週3回の練習は激しすぎる。だが試合に出て勝つための柔道でもない。キャロル氏の場合、3年に一度ほど肩やヒジの負傷があり、何週間も練習を休むことも多かった。

 「検察官としての仕事は苛酷であり、心配や不安、不満に悩まされることも多かったが、そういうときに柔道は私にとって大いなる安堵感を与えてくれました。精神と肉体の両方を癒し、鍛えてくれたといえます」

 こう語るキャロル氏にとって血なまぐさい犯罪を追う仕事の合間の柔道は確かに慰めとなったのだろう。だが同氏は柔道にはもう一つの効用があったとも語る。

 「柔道の稽古は検察官として法廷に立ち、自分一人だけで刑事訴追の職務を果たすことと似ています。いざ裁判の場に出ると、まったくの孤独、だれにも頼れない。柔道と同じです。自立の精神が肉体を通して学べるのです」

 こうして検察の職務と柔道の稽古とを続けてきたキャロル氏は二〇〇四年十一月、検事を引退した。民間の刑事事件専門の弁護士となった。時間のゆとりが初めてできたのを機に、柔道へのエネルギーを増やして、黒帯を取ることに挑戦するようになった。その挑戦には夫人のジーンさんも、ケーガン、ケイティリンという二人の十代の娘さんたちも、大賛成で後方支援を惜しまなかったという。ちなみにジーンさんはペプシコーラ社の販売担当の役員待遇で、全米を駆け回るビジネスウーマンである。

 キャロル氏は二〇〇六年夏に本当に二十五年ぶりの黒帯を取った。

 あくまで試合主体、現役の若者が主役という日本の柔道では、こうしたキャロル氏のような気の長い、ある面ではのんびりした柔道はまずできないだろう。しかし少しはこのタイプの柔道練習があってもよいのではないか。

柔道はどんな形で、どんな世代で、どんな目的で、修行していくべきなのか。キャロル氏の実例は日本の柔道のこんごのあり方にも、なにか参考になる要因が含まれているような気がする。(終わり)