日本人にとっての国際化とはなんなのか。
最近はあまり正面から語られなくなった命題です。
でも日本から外国に出る人は増えています。逆に外国から日本へ入ってくる人間や事物も増えています。日本人にとって、非日本の文化や事物、人間との調和をより真剣に考えざるをえないことは現実でしょう。
私のようにアメリカに在勤し、日本への報道をしていると、日本とアメリカ両方の文化や価値観には常に同時にさらされます。だから日本人の国際化とはなにか、などと考える頻度も高いわけです。

もっとも「国際化」という言葉にも落とし穴があります。日本の外に広がる国際社会とはいっても、実際に存在するのは韓国であり、中国であり、アメリカであり、他の国家のわけです。地球上、人間の住むどんな場所も「国際」という空間はなく、どこかの国家に所属するわけです。
それでも諸国家をまとめての多国という意味の「国際」という概念は存在します。でも個々の日本人が日本以外の主体との調和を考える場合は、その対象は日本とは別の国家であり、その国家に帰属する社会や人間、ということになるでしょう。

前置きが長くなりました。
要するに外国にいる日本人にとっては「国際化」よりも、その目の前、周りの国の社会や人間との調和が最大課題だということです。
その意味でアメリカにいる日本人がアメリカ社会にどこまで溶け込むか、をよく考えさせられます。日本の企業から派遣され、日本人の家族と住み、という人たちのアメリカ社会への溶け込み度と、日本の組織に所属せずにアメリカに住み、働き、家族もアメリカ人というケースとでは、当然、その溶け込み度合いが異なってきます。

さてそこで話題がまた柔道となって恐縮なのですが、12月2日にアメリカとカナダで30年、40年と柔道の指導をする日本人の方々と顔を合わせて、おもしろい「アメリカ化」の現象を発見しました。
加藤良三駐米大使が日本人の北米柔道指導者たちの業績に感謝する集いをワシントンの大使公邸で開いたのです。
その際、アメリカ、カナダの各地から22人に柔道師範たちが集まりました。ほとんどが日大、明大、慶應、早稲田、中央など主要大学の柔道部でかつて活躍した名選手、強豪選手たちで、1960年代、あるいは70年代から北米に定住して、柔道指導にあたってきた人たちです。
この人たちは日本の柔道を教えながら、日本とは最も遠い距離に立ち、アメリカやカナダの社会に密着している、あるいは没入している、つまり「アメリカ化」「カナダ化」の度合いが日本企業駐在員や日本外交官らより、ずっと高いことを知らされました。
日本の組織とは縁がなく、日本語を話すことは少なく、配偶者もアメリカ人、あるいはカナダ人、という人たちが大多数でした。
その人たちについて書いた私の記事が以下の紹介です。


【緯度経度】ワシントン 古森義久 北米柔道指導者の風雪  

 昔の柔道試合の展開がなまなましく浮かびあがった。激しく動く相手がこちらの柔道着をがっちりとつかんだまま、捨て身になって、足元に飛び込んでくるのだ。そして下から片足を私の腹に当てて、勢いよく跳ねあげる。自分の体がすうっと宙に浮き、半回転して、横倒しに畳に落ちる。そのときの「しまった」という嫌な感じまで、つい思いだした。

 12月はじめ、加藤良三駐米大使が日本人の北米柔道指導者たちを招いて催した夕食会でのことだった。ワシントンの大使公邸でのその集いで日大柔道部出身の柴田錬蔵氏に再会した。

 1964年5月の全米柔道選手権大会の軽中量級準決勝で私は柴田氏と対戦し、巴(ともえ)投げで倒されたのだった。私の留学中、ニューヨークの万博会場の巨大な屋内スタジアムでの大会だった。慰めは試合時間いっぱい闘って、判定負に持ち込んだことと、その柴田氏がその級の全米チャンピオンとなったことだった。

 柴田氏も42年ぶりの再会を喜んでくれた。名刺をみると、「柔道師範7段」とあった。詳しく聞くと、60年代以降ずっと米国西海岸で柔道を続け、海兵隊の正規の師範を務めたほか、フジモリ大統領に招かれ、ペルーでも指導にあたったという。その結果、弟子からは米国の五輪選手が3人も出たとのことだった。

 柴田氏は柔道指導だけでは収入が少なく、生活に苦労したことまで率直に打ち明けた。母校の推薦でロサンゼルス地区クラブの師範として渡米したものの、給料が少なく、他の仕事を自分で探し、なんとか柔道を一貫して続けたという。

 同じ苦労は国士舘大学出身の小笠原長泰氏も語っていた。いまでは東部のニュージャージー州で自分の道場を開く同氏も67年に渡米してから昼間は建築事務所で製図を描き、夜は柔道を教えるという二重勤務を長年、強いられた。ちなみに小笠原氏は9・11テロでの“第四の旅客機”乗っ取り犯に立ち向かった米国青年の師範だった。

 加藤大使は北米各地に定住してきたこれら柔道指導者たちを日本政府代表としては初めて3年前に慰労したが、今回さらに輪を広げ、22人を招いての宴となった。同大使は「柔道指導を通じての米国、カナダとの友好や理解の促進に感謝します」と謝辞を述べた。

 米国とカナダの公式登録の柔道人口は合計7万ほどだが、米国柔道連盟幹事タッド・ノルス氏の言明では実際に練習をしているのは米国だけでもゆうに10万を超えるという。この両国での近年の柔道の広がりは50年代から70年代にかけ日本からやってきた学生柔道の元名選手らの指導によるところ大だった。

 日本で生まれ育った柔道の外国への普及は間違いなく日本の文化や価値観の対外発信にもつながるのだが、ふしぎと日本側でこれら日本人指導者たちの労苦が認知されることは少なかった。海外での日本語教授、華道や茶道の指導、さらにはビジネスがらみの技術指導などが日本政府機関からも認められ、支援されるのに対し、北米での柔道は日本代表の形の人たちが指導に献身しても、日本側からはほとんど無視されてきた。

 柴田氏や小笠原氏のように長年、柔道指導だけでは生活が苦しすぎたというのも、そんな現実と無関係ではないだろう。もっとも母国を離れ、北米で柔の道を歩むのも、個人が決めた選択である。だから個人で苦労するのも当然ともいえようが、指導者たちの話を聞くと、それぞれが日本からは最も離れた環境で自分ひとりの技や力だけに頼り、武者修行同然の幾多のチャレンジを経て、地歩を築いた辛苦の風雪の物語である。

 大使の招宴にカナダから参加した中央大学出身の中村浩之氏はモントリオールで450人の門弟を抱える「志道館」道場を経営するだけでなく、カナダ政府から財政支援を得る全国柔道訓練センターの首席コーチでもある。だが68年に当時、勤めていた博報堂を退職し、移民としてカナダに渡った中村氏も、母校からも講道館からも、まして日本政府機関からも支援は皆無、まったくの単身でカナダでの柔道活動をゼロから始めた。小兵ながら日本の学生柔道でも最高レベルだった技量で各地の道場で実力を示し、指導権を確立するまでには負傷の挫折もあり、限りない労苦があったようだ。

 いまではカナダ柔道の名実ともに頂点に立った中村氏は「日本の柔道を必死で広めた結果、皮肉にも日本とはすっかり縁遠くなりました」と苦笑する。日本の事物の対外発信とか国際化の究極は意外にもこうした形をとるのかもしれない、と実感させる述懐だった。(ワシントン 古森義久)

産経新聞12月16日朝刊「緯度経度」から