しかしその安倍外交に関して、きわめて新しく重要な要素なのに日本国内ではまだあまり注視されていない部分があるようです。それは安倍首相が日本の外交の展開に際して、民主主義や自由という日本自体が信奉する基本的な価値観を重視し、外交政策そのものにその価値観を主要要因として盛り込んでいこうとする姿勢です。
価値観外交とは相手国との対立や摩擦をも恐れずに、自国の信ずる価値観を対外政策の支えとして打ち出す外交のことだといえましょう。価値観が異なる国が相手となる際には、自国の価値観を表面に出せば、当然、ミゾが明白となります。それでもあえて価値観を強調する、というのです。
そんな安倍首相の価値観外交が明白となったのは、昨年11月のハノイでのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)での首脳会談が最初でした。
そのハノイの会議の取材に出かけた私が安倍外交について書いた一文を以下に紹介します。雑誌VOICEに巻頭言として掲載された報告の抜粋です。
日本の外交も、もしかすると本当に変わるのかな、と感じさせられた。もちろんまだ予断はできない。だがまちがいなく新しい風が吹いたようなのだった。
ベトナムの首都ハノイで感じたことである。二〇〇六年十一月中旬、APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議に関連して安倍晋三首相の一連の言明を聞いてだった。
安倍首相にとってはこのAPEC首脳会議への参加が多国間の国際舞台への初登場となった。首相はAPEC会議に加わるだけでなく、アメリカや中国の首脳らとの二国間会談も活発にこなした。私もふだんの在勤の地のワシントンからハノイへ出かけ、この会議での安倍首相やブッシュ大統領の動きを報道した。
首相は主催国ベトナムの側からはハイライトを浴びせられた。地元の新聞やテレビで大々的に紹介される度合いが他の首脳たちより高くみえた。ベトナムにとってますます重要性を増す日本の新しいリーダーへの自然な注視だろう。
さて安倍首相の言動で目立ったのは、戦後の日本が信奉し、定着させた民主主義や自由という基本的な価値観の明確な強調だった。ブッシュ大統領との日米首脳会談では首相の方から冒頭に近い部分で「日本とアメリカは自由、民主主義、基本的人権、法の支配など共通の価値に立脚した同盟関係を保持しており、その同盟をより一層、強化したい」と述べたというのだ。
当然のことではある。だが日本の首相がアメリカの大統領がまだまったく触れていないうちに、「共通の価値観」を同盟の基礎として始めに指摘することは、珍しい。比重のおき方、熱のこめ方はこれまでに例がないといえる。
安倍首相はしかもこの日米首脳会談の直後、同じAPECの全体会議開幕の直前に開かれた日米韓三国首脳会談でも冒頭でこの三国を結束させる要因として「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」を強調したというのだ。民主主義の価値観とはおよそ縁遠い北朝鮮に寛容となっている韓国の盧武鉉大統領には痛いところを衝く発言だといえる。
APEC加盟の二十一の国家、地域の首脳が錯綜した合従連衡をみせるなかで安倍首相はアメリカとオーストラリアの両首脳ととくに緊密な歩調をとった。民主主義という共通の価値に基づく有志連合である。偽造品や海賊版を追放するための知的財産権保護ではこの民主三国が結束して、中国の難色を抑え、APECとしての指針を策定することに成功した。
ハノイでの安倍首相のこうした軌跡から感じられたのは、こんごの日本の外交政策で民主主義の価値観をくっきりと打ち出していこうとする姿勢である。民主主義や自由、人権という価値観を他国との関係を決める政策ファクターにするという構えでもあろう。
民主主義の価値を共有する相手であれば、政策の共通項も増えて、友好や協調の度合いも自然に高まる。逆であれば、距離が遠くなる。つまりは自国の価値観が外交の内容や質を変えていくことにもつながる。
民主主義や自由、人権というのはいまの世界では普遍的な価値観である。世界でもっとも広く受け入れられた価値なのだ。戦後の日本はその民主主義をもっとも堅固に、もっとも着実に実行し、定着させてきたといえる。その実績は世界に向けて、凛として告げてしかるべきだ。
だがこれまでは日本の外交は自国の民主主義その他の価値観の表明をむしろ抑えることが多かった。相手国と基本的な価値観を共有するか否かは、日本外交の推進にはほとんど反映されなかった。「全方位外交」とか「等距離外交」、「橋渡し外交」、あるいは「国連中心主義」というような呼称に象徴されるように、日本とどれほど価値観の異なる相手でも、自国の価値観はあえて表明はせずに、ひたすら相手との調和を求める姿勢がとられた。自国と他国の拠って立つ価値の基盤が相反すれば、往々にして「足して二で割る」方式が暗黙のうちにとられた。
もちろん主権国家の外交はその国の基本的な価値観だけで動かすことはできない。国家や国民にとって、損か得かで判断される実利も当然、考慮されねばならない。だがそれでも国民の大多数が生き方の拠りどころとする価値観が国家としての外部への言動に政策としてまったく表現されなくてよいはずがない。そうした自国の価値観を外交にインプットすれば、日本と民主主義を共有するアメリカと、一党独裁の中国と、正三角形になるなどという認識は絶対に生まれてこないこととなる。
安倍首相のAPECでの一連の言動は確かに外交へのそのような価値観の注入を思わせたのだった。
そんな感覚はハノイの亜熱帯のさんさんたる陽光の下、さわやかな風を覚えるようだった。ただの一瞬、吹いただけの風ではないことを期待するところである。
コメント
コメント一覧 (50)
安倍総理が、そのような信念で、国際社会に向かおうとしていることを、新年に(チョイオヤジギャグです)心強く感じます。
仰せの通り、他国に対して「ご無理ごもっとも」的な姿勢が多かったですから(特に中韓)、自国の価値観を押しだし、うちはこうだが、おたくはどうなの、みたいな外交交渉してもらいたいですね。
ま、こういうことを言うと、相手国の立場を尊重せよ、などというアホが決まって出てきますが、外交では相手より、まず、自国民の利益を考えるのが先です。
サヨな情緒的、感傷的な他人への思いやりは、自国民だけに向けてくれ(^_^;)
これまでの日本外交は、アメリカの民主主義や自由、人権といった原理原則を重視する外交とは対極にあったように思えます。長期的に見れば、多くの
人間を動かしていくのは権謀術数や寝技ではなく、はっきりとしたメッセージや大義名分なのでしょう。
また、第二次世界大戦後、欧州諸国がアメリカをヨーロッパに引き込むために、「全体主義と戦う自由主義世界を守る」「ヨーロッパ合衆国」といった
合衆国国民をひきつける魅力ある理念を必要としたというエピソードを思い出します。
アメリカには伝統的に「旧世界」に対する反感・嫌悪感が根深かったため、
国民にアメリカが世界的役割を果たさねばならないことを納得させるのは
大変なことだったとか。
麻生外相も東欧の旧共産主義国で、民主化定着を支援する姿勢をアピールする予定だそうで、本当に日本外交は変わりつつあるのかもしれません。
たった今、他のブログに
『国際摩擦はいろいろありるが、自分の信義に忠実に言動するのが、結果として最善の結果をもたらすのではないか。
臨機応変というやりかたもあるが、いつかどっかでつまずいたり、しっぽを捕まえられたり・・。
どうせつまづく事柄なら始めにつまずいておいた方が立ち直りやすい。
あとで、繕う必要もない。
この方針でいけば、最後まで筋は通せる(例え討ち死にしたとしても)。
私は安倍総理に小手先の小細工をしないで、信義に従った言動を願いたい。』
という要旨のコメントをしたばっかりでした。
(台湾高速鉄道に関連してのことでしたが。)
その後、こちらにお伺いして、何か安堵した気がします。
おっしゃる通り「戦後の日本はその民主主義をもっとも堅固に、もっとも着実に実行し、定着させてきた」と思います。
私は安倍さんが、首相就任の時、政策の6つのポイントを挙げ、4番目に「主張する外交」を挙げておられたので、期待していました。
それが「民主主義や自由、人権という価値観を打ち出していく」外交として、APEC会議で出たものと思われます。
作家の塩野七生さんが、誰かの引用として「外交とは血を流さない戦争であり、戦争とは血を流す外交である」と良く言われていますが、まさに食う関われるかの世界であるはずです。
日本も今までの場当たり的な外交から脱却して、信念を持って、言うべき事を言う外交をして欲しいと思います。
信念を新年に、ですね。
いいじゃないですか。
安倍外交のこの姿勢は実態として対中国への対応がきわめて大きいと思います。いわゆる「歴史問題」で中国が日本を攻め、日本が「過去の悪を悔いない道義性欠如」をしきりに喧伝することに対し、「ではいまのあなた方の道義性はどうですか」と問い返す効果がこの価値観外交には期せずして含まれています。
中国に文句をいわれたら、民主主義で切り返そう、ということでしょう。
アメリカが旧世界への挑戦として自国の価値観をことさら強く外に対して唱えたというのは、そのとおりですね。そもそも建国の基礎が民主主義とか個人の自由にあったわけですから、その価値観がたとえ現実の国家や社会の運営できちんと実現されないとしても、なお目標として唱え続けることの意義は大きいということでしょう。
日本の場合、戦争に負けたことから、「降伏した国がなにを言うか」という意識が日本にも外部にもあって、そのことが日本に外交面で自分たちの考えを語らせないというブレーキになってきた現実は大きいと思います。
しかしもう日本の国家としての実績、国際社会の主要な一員としての実績は外部に自己の思考を明確に表明する権利を十分に与えていると思います。
「--最後まで筋は通せる(たとえ討死したとしても)」というのは、理念としては、これからの日本のリーダーシップに本当に必要な意識だと思います。日本の国全体の討死は困りますが、そのときのリーダーの討死は大いに結構でしょう。
そのくらいのメリハリ、覚悟、意思がトップにあってこそ、日本全体がよい方向に発展していくと思います。そのトップのあり方を決めるのは、あくまで国民ですけれども。
安倍首相はもうすぐ欧州歴訪に出るようですが、そこで何を重点に述べるか。注視されるところです。
いずれにせよ、日本が外に対し、もっと明確に発言をすること、大切ですよね。「以心伝心」「言わぬが花」「沈黙は金なり」というような姿勢は日本の外では大きなマイナスになってしまうこと、外国に出る日本国民の数が増えれば増えるほど、わかってきたようです。
対中はナンシー・ペロシ新下院議長におおいに期待したいところです。
国政のトップともなれば、信義に則った言動はペロシ議員のような過激は出来ないでしょうが、精神は勉強になりますね。
ペロシ氏は同じ過激でも、グリーン何とかの筋もへったくれもない動物盲信(愛護・溺愛を通り越している)団体とは一緒にしてはならない崇高さがあります。
同じ「民主党」でもどっかの国の民主党とは大違い。
ナンシー・ペロシ議員の民主主義擁護の基本的価値観に基づく中国非難はこれまでは、ものすごいですね。なにしろ「ペキンのトサツ(この言葉の漢字表記は日本の新聞ではタブーのようです)者よ」なんて、述べてきたほどですから。
いくら価値観の表明でも、ここまでいくと過剰でしょうね。ペロシ議員も下院議長となることが決まってからは、中国非難もあまり述べていません。
このペロシ議員の反中言動については産経新聞でも詳しく報じましたが、
また改めて、ラントス議員(下院国際関係委員長)らの中国非難と合わせて、報道するつもりです。
美意識ではなくて、論理だと思います。 誰でも自己の論理、自己の脳で考えるのだ。
だから、どうしても「 バカの壁 」が出来るのだ。
あなたと、古森 氏とはバカの壁で仕切られているかもしれない。
それから建前に引きずられて本末転倒やすいのが日本人ですから、また道を踏み外さないか心配です。
今年も貴重なコメントを期待しています。
加工貿易国というのは、自国に資源が少なく、他国からの原材料を加工して、貿易で生きていかなければならないから、どの国ともよい関係を保つ必要があり、そのためには、いたずらに価値観などを主張しない方がよい。
こういう意味のなのでしょうか。
しかし主張する価値観が普遍的、つまり国際社会での大多数の諸国にとっての規範である現状の下では、価値観を鮮明にしても、離反されてしまう諸国というのは、きわめて数が少ないと思うのですが。
貿易には価値観が入らないという前提も疑問の余地があります。
たとえば安全保障上の配慮は貿易でも要因となり、しかも価値観と結びついている場合がよくあります。中国にヘリコプターの主要部品を日本から輸出し、それが軍事目的に使われたら、その貿易は批判の対象になりますね。
日本人がまた「道を踏み外す」という点に関しては、私は現代の日本国民の叡智と民主主義の定着にかなり強い信頼感を抱いています。
>いたずらに価値観などを主張しない方がよい。
外交というものは、相手国に対して自国の利益を確保する手段だとおもいます。
もちろん、国によって価値観は違いますから、妥協が行われます。
(先の日中首脳会談での戦略的互恵関係はまさに外交の成果でしょう。)
これは古森さまが先に述べられた通りだとおもいます。
>日本人がまた「道を踏み外す」という点に関しては、私は現代の日本国民の叡智と民主主義の定着にかなり強い信頼感を抱いています。
これは私は逆で、日本人の叡智というものを信頼していません。
民主主義については戦前よりも風通しは良くなったようですが、流されやすいサイレント魔女リティは多少でも価値観外交が成功すると「価値観外交こそ唯一の道」と考えてしまうのではないでしょうか。
(先の郵政選挙は典型的な流されやすさの例だとおもいます)
手段である外交の一手法にすぎない価値観に国家が振り回されないことを祈るばかりです。
是では話にならぬ。 日本には日本の長い歴史に培われた最高の文化がある。それによって日本人は教化され続けて来たのだ。幕末の武士たちの教養と、それによる行動によって、明治維新が成就できたのだ。 日本人の叡智を信頼していないとは、日本人なら決して言えないはずだが。
では逆説的なお尋ねですが、「日本人には叡智がない」というのが実態だと仮定してーーこの際、「叡智」という言葉の厳密な定義づけも差し置いてーー、それでは日本人には叡智がより多くあった方がよいとは、思えませんか。叡智も賢明さも私たち日本人は不十分だとすれば、それを十分にしていきたいと願うことには同意していただけると思うのですが。
いやいや、大東亜戦争の経緯は相当に複雑怪異ですよ、日本人の叡智どころか、世界の流れと陰謀に、日本が翻弄されたのではないのだろうか。 僕も少しは勉強しょうとは思っているが、果たして膨大なこの歴史を勉強する事すら不可能だろう、只、歴史の複雑さに呆然とするだけだ。
mochizukiの相手は、もうその辺にした方が良いと思われます。
だれかれ構わず食いついて、不毛の議論をふっかけて遊んでるだけのようですから(^^;)
http://14471.iza.ne.jp/blog/entry/36114
冷戦時代の東アジアは東西のBalance of powerが成立していました。
未だに東アジアに冷戦構造は残っているにもかかわらず、ソ連の崩壊と、中国の開放経済の選択、成長するアジアで儲けたいアメリカの金融資本の思惑・相次ぐ戦争による疲弊等々で、従来power playerであったアメリカが、buck-passingをして、off-shore balancerになりたいという本音がチラチラ見えます。例えば、在韓米軍の縮小と、アメリカの保守派の一部にある、「日本が核武装を考えても驚かない」などという論調がそうです。
東アジア圏での、力の空白を背景に、中国は着々と"Offensive realism"を実践しています。ASEAN各国は中国、日本、アメリカの出方を窺っています。中国の軍事力のビルドアップがこのまま進み、地域での経済的プレゼンスが、あるレベルに達するとASEAN各国は、中国のband-wagonに乗るものと思われます。
一方、日本は戦後一貫して、安全保障に関してはまさにアメリカに対して、buck-passingをしてきたわけであります。日本は、新しい東アジアの秩序に対して、本来ならばbuck-catcherにならなければならないわけですが、「自由、民主主義、基本的人権」を叫ぶことにより、アメリカに加えて、オーストラリア、インドを含めて
back-passingをしつづけたい、あるいはしなければならないという悲痛の叫びのようなものを、安倍外交に見てしまいます。
これは、古森さんのように、日本の外交の新たな発展とポジティブに解釈することの、コインの裏側を見ていることになるのだと思います。
なお、同記事で触れられていましたが、麻生さんも頑張ってます。
『本日は「価値の外交」という言葉と、「自由と繁栄の弧」という言葉。どちらも新機軸、新造語でありますが、この2つをどうか、覚えてお帰りになってください。』
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/easo_1130.html
http://www2.jiia.or.jp/report/kouenkai/061130_aso.html
(ついでに、ご紹介。)
■安倍総理 年頭所感(平成19年1月1日)
http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2007/01/01syokan.html
>叡智も賢明さも私たち日本人は不十分だとすれば、それを十分にしていきたいと願うことには同意していただけると思うのですが。
まったくその通りだとおもいます。
でも国民全てが叡智にあふれ賢明に富んでいるというのは無理な話なので、安部首相の価値観外交で叡智を発揮していただきたいとおもいます。
価値観のために日本が他国に何を与えるのか、その裏づけとなる国庫の支出がどれぐらいになるか、見返りはどれぐらいになると試算しているのか。
まずはそこから目処をつけないと、よく批判される全方位外交とか国連中心主義といったものの仲間入りをするのではないでしょうか。
お呼びですかな。
今回は、以下のおぬしの言により、語るに落ちた、としか言えませんな。
この一語をもって、南無妙法蓮華経、第二・第十六の際に唱えることや、ここでグダグダ唱えていることも、一抹の泡となりましたぞ。
“殺害や虐待をする目的でむりやりに連れて行かれたわけではないようだし、外交の場で外国人の「基本的人権」を著しく侵害している様子はないから”
これでは、どんなに正論らしく?多くの語数をもって語ったとしても、蔑まれるのがオチ。お話になりませんぞ。
中国との関係の中で、もうひとつ大切なことは、反体制派への支援であるように感じています。かって孫文を支援したように、自由、民主主義、人権の理念に立って、その流れを代表する反体制派を、物心ともに支援することが、中国とつき合って行く上で大切なことと思います。もちろん、政府ではなくて民間の仕事と思います。
朝日新聞など、中国共産党のスポークスマンの役割を買って出ているかに見えますが、とっくに”天命”を失い先が見えた政権と運命を共にするつもりなのでしょうか。
屁理屈屋のネットストーカーにいちいち対応していると、場が荒れます。
どこか場所をお代えになって議論なさるか、無視して放置しておくのが最善と思われます。
どうされるかは各自のご判断に任せますが。
いやいや、中国への警戒をなくしていない日本の言論人はまだ多数いますよ。個別の名前を私がここであげると、差しさわりがあるかも知れませんが、たとえば読売新聞の中国報道もかなり現実的だと思います。読売の何人かの記者の中国からの報道はとくに行間を読むと、客観性つまり中国の問題点への認識がきちんと出ているように思えます。
新聞以外のジャーナリストではいま書店に出ている中国関連本をさらりとごらんになってください。
日本政府も安倍政権下で「自由と繁栄の弧」とか「民主主義などの価値観」と述べ始めたことも、中国とは戦略的に一線を画し、海洋民主主義有志連合の方へ向かうことの、大きな潮流の始まりとも思われます。
「新聞等を読む限り四面楚歌の観ある安倍政権」という点に関しては、安倍首相の誕生までのプロセスを思い出してください。読売、朝日、毎日など大手紙はこぞって、靖国参拝問題とからめて反安倍キャンペーンを展開したけれども、世論と国会議員の圧倒的安倍支持に押されて、すごすごと引き下がった経緯を覚えていらっしゃいますか。
大手新聞の主張と世論の乖離、あるいは現実の政治動向との乖離、この現象が顕著だったのが、小泉政権時代の特徴でした。
大新聞が日本の政治を動かすなんて、あるのでしょうか。
もし日本が朝日新聞の主張どおりに動いていたら、どうなっていたか、想像してください。
中国内部の反体制、あるいは非漢民族などの窮状への理解や激励というのは、日本側としても確かに大切ですね。普遍的な価値観を強調すれば、では隣国でその普遍的な価値を奪われている人たちはどうなのか、という疑問や懸念が当然、起きるはずです。
中国を念頭に置きつつ、更に深い読み方ができるかもしれません。
現在、世界各地で独裁政権が人権蹂躙、虐殺(ダルフール、ミャンマー、コソボ等々)が存在するにも関わらず、国連で制裁決議が、中国、ロシアの拒否権のために成立しません。また、インド、ブラジル、ドイツ、日本などの民主主義国がUNSC常任理事国入りするのを、拒否しているのがこれらの国であります。
そこで、世界にはソ連・中国、北朝鮮、スーダンなどのLeague of Dictators (Robert Kagan)が存在しており、これらの国が世界の民主主義浸透の阻害要因になっているわけです。 国連は、 WHO, UNHCR, World Food Programなど、重要な機能を担っている機関はあるものの、その本体は地域紛争に対して一致して有効な議決をすることができません。一方ソ連、中国が加盟していないNATO, OECDやG8など有効に機能している機関もあります。そこで、いっそのこと世界の民主主義国でConcert of Demcracies(仮称)を作ってしまえという議論があります(James Lindsey, Ivo Daader).このCD(世界で約60カ国、D-60) には世界で最も裕福で、健康で発展している国々があてはまり、上位20カ国の軍事費を合わせると全世界の軍事費の3/4、一人あたりの年収は16000ドルで LDの国々の約三倍とのことであります。米国にとっても国連ベースの機能しないマルチラテラリズムを求めるよりもはるかに有効な政策オプションとなり、また発展途上国もLDとCDの何れを望むかと問われれば答えは自明です。ソ連崩壊後のロシア、開放政策後の中国を、西側秩序の中に取り込むことを目指してきましたが、別のオプションも有ることを認識するべきときかもしれません。
コメントありがとうございます。読売新聞の左翼転回(乱心?)や日経新聞の富田メモ報道などに驚かされ、意気阻喪する感じもあったので、大新聞の影響力はたいしたことはないとお聞きすると、励まされる思いがします。
アメリカ政治についての報道も、日本の大新聞は民主党系の大都市リベラルの新聞論調に依拠することが多いようで、かなりバイアスがかかっていると感じております。ブッシュ再選の選挙前後の、民主党有利の報道などがそうでした。メディア・リテラシーということについての産経新聞の貢献をありがたく思っております。
それにしても、産経新聞がひとり孤塁を守るというのも落ち着きが悪く、読売新聞には早く元の路線に復帰してもらいたいと思います。
読売新聞はまた従来の健全な方向へもどりつつある兆しもあります。
1月4日の社説がその一例です。朝日の「戦前の軍国主義」の文脈でしかいまの日本の安全保障を論じられない倒錯とは対照的に、いまの日本がおかれた危険な安全保障環境をまっさきにあげて、日本の安全保障を論じています。
読売新聞5日付けの「論点」、袴田茂樹氏による北方領土問題論も、朝日などがばらまく「妥協論」の論破でした。
読売がこうしてまともな論調を展開するようになると、産経にとっては商業的には必ずしもプラスではないんですけどね(冗談ですが)
安倍外交での価値観強調と中国への姿勢については、あなたの見方は表面での現実の2、3歩、先を行っていますが、真実が隠されている気がします。
その前のコメントですが、アメリカは韓国はあきらめても、アジアからの撤退は考えておらず、そのためには日本との同盟は絶対に縮小しないというのが当面の状態だと思います。その一方、日本も中国の脅威を感じれば感じるほど、すべてをアメリカ任せにはできないという意識が高まるように思えます。民主主義を強調することが米国依存だというのは、ちょっと違う気がします。
>アメリカの保守派の一部にある、「日本が核武装を考えても驚かない」などという論調がそうです。
日本の保守派にも「英米派リベラル保守」と「アジア派国粋保守」の二種類があって、後者が左派の一部とくっつく兆しが見られますね。
最近、「『帝国以後』と日本の選択」(エマニュエル・トッドほか著、藤原書店)という本を読みましたが、小倉和夫・榊原英資・高成田亨(朝日新聞論説委員)・西部遷・武者小路公秀といった、冷戦時代なら反対の陣営にいたであろう人たちが共著者として名前を連ねていました。
また、朝日新聞社が発行している雑誌『論座』2007年2月号で、小林よしのり氏と編集長の薬師寺克行氏が対談を行っています。
将来、日本では冷戦期のような左右のイデオロギーではなく、アメリカ寄りの勢力と、日本版ド・ゴール主義勢力の二つに分かれていくのかもしれません。
戦後日本が信奉し体現してきた価値観を前面に押し出した外交を安倍首相が真剣に考えているのであれば、経済力だけを唯一の日本外交の武器としていた時代からの脱却として高く評価すべきことだと考えます。中国に対して自由と民主主義をもって対抗している台湾の例をひくまでもなく、力だけを信奉する国家に対抗するのに自由と民主主義は最高の武器となります。
とはいえ、自由と民主主義を前面に打ち出すからには、政治亡命者、あるいは難民の受け入れなど、彼らの母国との関係悪化を避けるために、これまで日本が逃げてきた問題に直面することになります。日本にとって一文の得にもならないようなことのために、時には体をはる状況も出てくるかもしれません。そのような時にそれをするだけの覚悟が今の政府にあるのか、正直なところ勇ましい言葉だけが先行している印象が否めません。古森様は、今の政府に価値観外交のもたらす不利益をも感受する覚悟があるとお考えでしょうか。
文献の紹介有り難うございます。
>日本の保守派にも「英米派リベラル保守」と「アジア派国粋保守」の二種類があって、<
概念的にはわかりやすい分類であり、歴史的にはそのような保守勢力もありましたが、問題は東アジアにおける、offensive realism国家、中国の存在です。
「英米派国粋保守」がoxymoronではなく、「国粋」の部分を、「自由、民主主義、基本的人権、法治主義」で充分希釈あるいは置換することにより、実際に有効な外交選択でありうるというのが安倍政権の目指す方向のように思います。
何も、二度呼び出すこともなかったろうに。
何れにしろ、どんなに尤もらしきゴタクを並べてみたところで、既にあのような拉致に関することを述べたからには論ずるに値しない。
おぬしのこれからの歩む道は暗闇であろう。自分自身で「命」が何たることかをも気付かず、このままの姿勢を貫くようならば。
その姿勢のままならば、いくら知識を誇っても糞尿に等しい。自己を見つめ直すことだ。
ブログ主様ほかの方々に迷惑です。
どこか場所をお変えになって議論なさるか、無視して放置しておくのが最善と思われます。
どうされるかは各自のご判断にお任せしますが。
屋山太郎氏の一文は私も読みました。
麻生外相の新政策提言となにやら連動したような意見だと感じました。
ご両人の世界観、国家観、哲学などは共通項が多いのかも知れませんね。
屋山氏といえば、小沢一郎氏の国連待機軍構想をこっぱみじんに論破したり、久間防衛長官の左傾無責任発言を非難して、辞任を求めるなど、小気味のよい主張が目立ちますね。
「アジア派国粋保守と左派の一部がくっつく兆し」のご指摘は、まさにそのとおりであり、その連合体は国際協調の日本派を激しく攻撃する傾向があります。
その連合体の数少ない共通項は「反米」だと思います。
日本が対外的に普遍的な価値観を主張する場合、その普遍的価値観の実践に伴う政治亡命者の受け入れその他、「これまで日本が逃げてきた問題に直面」する覚悟があるのかどうか、非常に重要なご指摘です。
日本はつい最近まで「難民」を受け入れる制度さえありませんでした。
古い話ですが、ベトナムからのボートピープルへの対応に関して、カーター政権下で私自身が体験した、忘れられない思い出があります。
ワシントンからホワイトハウス記者団の専用機に乗って東京でのG7サミットの取材に向かう途中のことでした。その時点つまり1976年には、米国政府がすでに数万人のベトナム難民を受け入れていました。その資料をみた米人記者が「ところで日本にはベトナムからの脱出者はいま何人いるのか?」と疑問を提起しました。
その答えは「3人」でした。30でも300でも3万でもない。米国はベトナム戦争関与の経緯から米側についたベトナム人を受け入れる道義的責務はあったでしょう。しかしフランス、オーストラリア、カナダ、イギリスなどが軒並みにすでに数千人を受け入れていたのに、日本は3人、その大きな理由は「難民」という概念が法的に認められていない、ということでした。その背後にはもちろん「単一民族国家の保持」論もありました。
それ以来30年、日本も変わりました。
しかしいま普遍的な価値観に基づく制度を新たに構築する覚悟があるのか、その結果、起きる対外的な摩擦や国内的な批判、出費に応じられるのか。
私自身の観測では安倍首相自身にはそのつもりはあるように思えます。
「英米派国粋保守」がoxymoronでなくーーーというあたりのご指摘は、もの凄く重要だと思います。とても勉強になるコメントです。私も趣旨に同感です。
上記の私のコメントは舌足らずとなりました。ちょっと追加します。
ホワイトハウス記者団の専用機の話をしたのは、そこで「日本のベトナム難民受け入れが3人」という数字をみた知り合いの米人記者は、それが一種のジョーク、あるいは比喩だと思ったというのです。そういう言葉を私にかけてきたので、日本の特殊事情がことさら印象に長年、残る結果となりました。ボストン・グローブの記者でした。
価値観を外交に打ち出したことで、その分、国としての出費が増えるという因果関係はそれほどないように思えます。宣伝するだけでも効果がある場合が多く、普遍的価値を強調するために、とくにODAを増額せねばならないということはないでしょう。
日本は外交においてむやみに臆することなく、今まで培ってきた「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」という資産を効果的に利用すべしとの考え、全くおっしゃる通りだと思います。
小泉首相の最後の訪米において、日米共通の価値観を強調していたことを思い起こされます。今後も小泉政権のよい部分は進んで取り入れて政権運営をしてほしいとおもいます。
しかし、当該価値観を強調するあまり、価値観共有こそが目的であると誤認識することだけはあってはならない。ここで共有できる価値観とは米英などと共有できる最大公約数である普遍的な価値観に過ぎなく、基礎にあるのは日本的価値観でなければならない。あくまで価値共有の目的は日本の有利な国際的地位の確保であるという認識を常に保持する必要があると考えます。
安部政権になってからかどうかはっきりとはいえませんが、閣僚の答弁内容や外務省の文書などで不必要なカタカナ英語の使用が顕著になっている気がします。
これが価値観共有の弊害だとは思いません。しかし日本的価値観の基礎である日本語を軽視することはそのまま日本的価値観の軽視につながり、ひいては普遍的価値観しか持たない「厚み」のない国になってしまうのではないかという危惧を最近感じます。
価値観共有こそが目的であってはならない、というご指摘はまさにそのとおりだと思います。国のあり方としては民主主義などの価値観は揺らがないでしょうが、外交面でそのことを表明することは目的というより手段であり、とくに民主主義ではない国との駆け引きには、ときには相手を揺さぶる戦術的武器であってよいと思います。
普遍的価値観に加えて日本的価値観が必要という点もこれまた超重要だと思います。日本的価値観とはなにか、という問題もありますが、「日本」という概念、「日本の国益」という概念は日本外交の核心です。日本の国益のために普遍的価値観の方がたまには脇におかれても、やむをえない。それほど日本外交では「日本」の概念の優先度が高いのは当然だと思います。
>価値観を外交に打ち出したことで、その分、国としての出費が増えるという因果関係はそれほどないように思えます。
麻生外相の提唱する自由と繁栄の弧構想と現在の国際情勢を考えると、3つの要素があるとおもいます。
東欧諸国ではロシアの影響力を少なくするための支援、中東では圧力としての援助外交の強化、東太平洋での海軍力増強です。
なるほど、そういう要素があるのですね。ご指摘のとおりだと思います。
ただしそれら要素への出費が増える一方、これまでの「価値観無視外交」で巨額の資金が出ていた中国へのODAのような領域での削減ができるという実態もあると思います。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/index/kunibetsu/china.html
外務省のページを見てみましたが、円借款は新規案件額より償還額が上回っている状態ですし、無償援助については環境問題や人材育成などに近年は重点が置かれているので、これから削減できる余地は大きいとはいえないのではありませんか?
その削減されたぶんはアフリカ向けの援助として振り分けられたと記憶しています。
ODAに関して削減の余地が少ないというのは、ご指摘のとおりです。前の私のコメントでは正確には「削減」というより「振り替え」というべきでした。
中国へのODAが最盛時のいまは半分ぐらいとなり、その他のインドとかベトナムという国への援助額が増えています。ベトナムについては、民主主義の国ではないので、普遍的価値観をあまり喧伝できません。しかし中国への牽制という側面からは日本外交の柔軟さを示すといえるでしょう。
チマチマ・ネチネチとお話しても聴く人もいまいに。
これでは誰をも真っ当に論破できないだろうに。
たぶん、きっと。
なんか、哀れになってきたね。これもネットの弊害って事かな。