安倍首相がNATO本部を訪れました。日本の首相の初めてのNATO訪問です。
この訪問の意義やジレンマについて産経新聞1月13日付のコラム「緯度経度」に以下のようなことを書きました。

緯度経度

 

 安倍晋三首相は十二日、日本の首相としては初めて北大西洋条約機構(NATO)本部を訪れた。日本の安全保障への取り組みに国際的カラーを強め、対外政策に普遍的な価値観を濃くするという点で戦後の日本外交でも歴史的な転換となりうる訪問だといえよう。だが安倍首相にとっては同時に日本の安全保障の異端の自縛を再考させられるというジレンマを実感する機会ともなってしかるべきだろう。

 日本のNATO接近というと、日本が安保面で欧州に近寄り、従来の対米同盟を希薄にする動きかのように受け取る向きもある。しかし集団的軍事同盟としてのNATOの中核はあくまで米国である。長い東西冷戦の歳月、西欧諸国の運命を超大国の米国のそれと連結させ、米国の強大な軍事力でソ連の軍事脅威を抑止したのがNATOの本質だった。米国が軍事面の主役だというその構造はいまも変わらない。  

 だからワシントンでも日本のNATOへの接近は日米同盟を立体的に強化する動きとして歓迎され、注視されていた。先代ブッシュ政権の国防総省高官として対NATO政策を担当したブルース・ワインロッド氏も本紙への寄稿で日本のNATOとの協力関係樹立を日本の国際安全保障への関与の拡大と対米同盟の側面での強化という二つの観点から歓迎していた。

同氏によれば、日本はNATOが進める国際テロの抑止や大量破壊兵器拡散の防止、さらにはミサイル防衛戦略を参考にできるうえ、中国などからの安全保障上のチャレンジを欧州諸国に明示し、同調を得ることができる。一方、米国も中国の軍拡のような懸念対象への現実的な取り組みをNATOの欧州諸国に訴える際、日本とNATOとの新たなきずなを効果的に使えるようになる、ともいうのだ。

安倍首相の今回のNATO本部訪問はもちろん接触の始まりであり、安保面での実質的な協力はまだまだ先の課題である。しかし首相が民主主義や自由という基本的価値観をNATOに向かっても確認しあうことの意義は大きい。戦後の日本が体現してきた自由や民主、人権という価値観は首相が就任以来、対外的に一貫して強調する安倍外交の最大特徴の一つである。

同時にこれら価値観こそNATOが発足以来、共産党独裁の旧ソ連などの脅威に対し一貫して掲げてきた精神的支柱だった。いまも民主主義の保持と拡大はNATOの政治的な存在理由とされる。守るべき価値を明確にしてこそ安全保障の目的や形態が決まるという基本である。この点でもNATOとの協力は安倍首相が目指す「普通の民主主義国家」の安全保障には合致するようだ。

だが軍事同盟としてのNATOの物理的支柱をみると、日本との断層を感じざるをえない。NATOの軍事面の基本は集団的自衛である。いかなる加盟国に対する外部からの武力攻撃も全加盟国に対する攻撃とみなし、組織全体が集団となって反撃するという集団的自衛権の行使メカニズムそのものなのだ。この集団自衛の態勢こそがソ連の強大な軍事脅威や侵攻意図を抑えてきた。冷戦中、もし西ドイツがソ連・東欧軍の攻撃を受ければ、その攻撃は米国への攻撃ともみなされ、NATO全体が反撃するという態勢が築かれてきたわけだ。戦争ができる態勢を集団で築いておくことこそが戦争を防ぐという抑止政策であり、その効用はみごとに立証された。

一方、日本ではなお集団的自衛権は保有はするが行使はできないという奇妙な自縄自縛が続いている。NATOの本質を概念として否定する一国平和主義の異端である。現在のNATOはさらに欧州メンバー各国がアフガニスタンにも部隊を送り、国際治安支援部隊(ISAF)を結成し、戦闘地域での活動をも含めて平和の維持に努めている。これまた海外でのいかなる戦闘のかかわりをも禁じる日本の「平和主義」とは天と地の差の現実であり、思考である。

安倍首相は今回のNATO訪問でこうした日本との落差や背反を突きつけられることこそないが、単にNATOの実績と現状をみるだけでも、日本の安保面での特殊性や例外性の支障を実感する好機であろう。首相にとっては防衛庁が防衛省となるだけのことに「軍の暴走」とか「満洲への侵略」というおどろおどろした扇情スローガンを打ち上げ、まじめな安全保障努力を阻もうとする朝日新聞的な反防衛プロパガンダの論破をさらに容易にする実体験となることをも期待したい。NATOこそ「普通の民主主義国家」群が自衛のために集団の軍事態勢を築くことの実利と大義を実証してきたからである。(古森義久)