この思考と現実はアメリカでも中国でも韓国でも、自明の理と受け止められていますが、日本ではなぜかそれを拒めとか、目をつぶれと叫ぶ勢力が存在します。いわゆる無抵抗平和主義、国家否定主義という戦後の左翼思想の残滓を必死で保とうとする勢力です。そのシンボルはやはり朝日新聞でしょうね。
この点では日本の新聞では最大の部数を誇る読売新聞は明らかに朝日とは一線を画しています。基本的なスタンスの違いです。読売新聞の国家観、安保観というのは、靖国神社参拝への唐突な猛反対でこのところ訳がわからなくなった感じがありました。読売のドンの渡辺恒雄氏の強力な主張で靖国に関しては朝日と同じ論調に変貌してしまったのです。しかし本体はなかなかその変貌には付いていかないようでした。その証拠に読売新聞の社説はここ1年ほど、首相の靖国参拝への反対の主張を明確に打ち出すことはきわめて少なく、その一方、アメリカ議会での「慰安婦」非難決議案に対しては激烈な批判の主張を述べています。また日本の安全保障政策に関しても朝日新聞とは天と地ほど異なる、従来の読売らしい論調を変えていません。朝日がやはり少数派だということの例証かも知れませんね。
このへんの朝日と読売の違いを書いた私の一文を紹介したいと思います。
月刊誌VOICEの最近号の巻頭言に書いた文章の抜粋です。
二〇〇七年の冒頭には防衛庁がやっと他国並みの「省」へと格上げされた。国家にとって安全保障という国自体を守る重大な責務を政府の各機関のなかでも一人前ではない「庁」という低い位置におき、内閣府に頼る形をとらねば自前の予算さえも求められない旧来の状態が異常だった。
集団的自衛権を保有はしても行使できないという状態も、日米同盟での米軍との協力を阻む。国連平和維持活動での他国の部隊との連携をも不可能にする。主権国家の安全保障では全世界でも例のない異常な制約である。戦後の日本がみずからに課してきた自縄自縛のタガであり、普通の民主主義国家になるためには、解除せねばならないくびきであろう。
だが日本がこうして国際社会での他の国並みの措置をとることをあたかも軍国主義を復活させるかのように描いて反対する勢力が日本国内にも存在する。その代表が朝日新聞だといえる。同紙一月九日のコラム「天声人語」は「今日、防衛庁が防衛省になる。長く『庁』だったことには、軍が暴走した昭和の一時代への深い反省が込められていたはずだ」と書いた。防衛省が生まれると、とたんに「軍の暴走」が始まるかのような表現である。
朝日新聞元旦の社説も安倍政権が防衛省、集団的自衛権、憲法第九条などに関して「戦後レジームからの脱却」に努めることへの反対の主張を展開していた。具体的には以下のように述べていた。
「軍事に極めて抑制的なことを『普通でない』と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない」
「『軍事より経済』で成功した戦後日本である。いま『やっぱり日本も軍事だ』となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国に対して『日本を見ろ』と言えることこそ、いま一番大事なことである」
この朝日新聞社説のレトリックには明白なゆがめや論理の欠陥がある。
第一に、いまの日本が取り組んでいるのは自国の安全保障なのだが、この社説はそれをすべて「軍事」と呼び、おどろおどろした印象を前面に出している。自国を守ることの効率を高める努力をいかにも他国を攻める野望であるかのように描くのだ。
第二に、「軍事より経済」という表現で安保と経済とを二者択一、つまり一方を立てれば、他方を立てられない背反のように描くが、これも虚構である。安保と経済とは両立できない概念ではなく、両方があってこそ国家がきちんと機能するのだ。
第三に、同社説は「『軍事より経済』で成功した戦後日本」と強調するが、日本が同盟国の米国の「軍事」に依存してきた事実はまったく無視している。日本は安保面では同盟によって米国と一体となり、軍事の保護を受けてきた。安倍政権はいまその同盟の強化にも努めるが、朝日新聞はそれにも反対する。
第四に、社説は「『日本も軍事だ』となれば、世界にその風潮を助長してしまう」と述べるが、日本がこれまで軍事面での制約を保ってきても、北朝鮮も中国も軍拡を進めてきた事実を無視している。「日本を見ろ」と言える状態を戦後、ずっと続けてきたのに、北朝鮮による日本人拉致や核武装が起きたではないか。
そしてなによりも重要な第五の点として、同社説は日本がいま安保面で前向きな措置を取り、「普通の民主主義国家」を目指すことになった最大の動因といえる日本周辺の安全保障環境の険悪化になにも触れていない。日本は自国に対する軍事脅威が強まったからこそ、安全保障面での前向きな措置をとり、普通の国家並みの防衛メカニズムを築こうとするにいたったのだ、といえる。
だが朝日新聞はこの現実の因果関係をまったく無視して、日本の防衛省は現在の脅威への対処よりも、過去の軍国主義や侵略の復帰を目指すかのように描くのである。
この点、読売新聞の社説は対照的だった。一月四日の社説は冒頭で次のように述べていたのだ。
「北朝鮮の『核』の深刻な脅威の下で、日本の安全保障環境は今、戦後最悪の状況にある。中国の軍事大国化も加わり、安保環境はさらに悪化するだろう」
「万一の事態も想定し、日本の平和と安全を守る万全の備えの構築を怠ってはなるまい」
こうした認識は現実の事態にきわめて合致した「普通の国家」の感覚であろう。同社説は「『北』の核の脅威を排除せよ」「深化すべき日米同盟」という見出しだった。同盟国のアメリカが示す認識や主張でもある。この読売の社説は朝日新聞の主張の偏りをことさら実感させる論旨だったともいえよう。(終わり)
コメント
コメント一覧 (27)
事、安全保障問題に関する限り、朝日さんは「いつ何時も左より」ですね。毎日でさえ“時にはニュートラルに”なっているのに…まあ、こんな新聞も「一つぐらい無いとね」とも思わんでも無いのですが。
産経さんの社説(net版)には他の主要4誌へのlinkも用意されており、比べて読むのに重宝しています。(あえて言えば後中日さんが欲しいですかね)
そうなんですよね、左翼の文化人は上手いレトリックで読者を煙(けむ)に巻くのが上手いのです。 その点、古森 氏の論文はレトリックでなく、冷静で正確な、的を射た正論で、好ましいと思います。
これは「左翼思想」ですらないのでは?
たとえば欧米の左翼政党がこの手の主張をしたとは寡聞にして知りません。
朝日の唱える「平和」主義の実体は、「反政府」「反米」「反安保」主義ではないでしょうか? その是非はともかくとして、私が特に偽善的と感じるのは、朝日は国内の問題・安部政権やブッシュ政権に対して発揮される悪魔的洞察力を中国・南北朝鮮に対してまったく働かそうとしないことです。
「こんな新聞も一つぐらいないと」という点は強く同感です。
冗談ではなくて、朝日新聞にはいまのような論調をいつまでも続けてほしいです。「朝日さん、変わらないで。朝日さん、変わらないで」と本当に祈っているくらいです。
伝統的に左翼の人たちのほうが文章での表現、アジ演説やプロパガンダ、デマゴーグをも含めて、ずっと上手ですよね。共産党では教宣というのは中枢の活動です。これまで左の人たちの方が語彙が豊富、表現が多彩だったことはまちがいありません。しかしいまでは異なってきたと思います。
確かに国家否定は日本の戦後の左翼に限定したほうがよいでしょうね。
いまの中国でも、旧ソ連でも共産主義政党が政権を独裁的に握っていた、いわゆる「左翼」ですが、国家否定なんて、とんでもないですね。国家安全保障に関しても、無抵抗平和主義とはむしろ正反対です。
日本の特殊性ですね。
そういう意味で、時々、その偏向ぶりを明らかにして頂くことは非常に重要です。
ネットで国内他紙どころか、国外の報道と、簡単に比較ができる世の中になり、
世論形成における新聞の果たす役割は相対的に減少するものと思われますが、逆に
新聞社にとってはやりずらくなるでしょうね(例えば新聞は購読せずにネットで済ますとか)。特に、オンライン版を読むと、如何に日本の全国紙が配信記事や、官庁のプレスリリースに依存した紙面構成になっているかが良く分かります。
(例えば、先週のポスト紙OutlookのGeorge F. Willのコラムを、やはり古森さんが取り上げたか、 ってな感じでしょうか・・・笑)
あなたの英語での情報把握よりも先にいける日本人記者はきわめて少ないと思いますよ。私もずいぶん教えられています。
朝日新聞に代表される戦後日本のマスコミ・有識者の論調が根強く残っている原因の一つには、第一に(日本国内でのマスコミと読者の間の)情報の壁、第二に(日本国内と外との)言語の壁の存在があると思います。
前者はインターネットなどの普及により新聞報道の「舞台裏」まで一般人にも見えてきたことにより、マスコミによる印象操作も難しくなったのではないでしょうか(現役記者が書いて頂ける本ブログの役割も大きいと思います)。米国と違い、日本では官房長官会見も総理のぶら下がりもケーブルTVやネットで全て見ることはできず、マスコミの編集したものしか接することができません(この点は、国民の「知る権利」を掲げながら業界利益のため人為的な情報格差を作り出している、産経を含むマスコミ全体の責任でもあると思います)。この状況が変わって、総理・官房長官とマスコミのやりとりの「全て」が国民に伝わるようになれば、もっとインパクトは大きいと思います。
後者については、朝日を含む一部の日本のマスコミ関係者は国内と国外で使い分けているように思います。たぶん朝日のワシントン支局長が親元の社説のような調子で日米安保を語っていたら、ワシントンでは相手にされなくなるからでしょうが。。今の論説主幹もワシントンでお見受けした記憶がありますが、国内のような調子で発言したところを聞いたことはありません。ただ、そうした二枚舌の姿勢は、いずれ日本通の外国人や、国際経験のある日本人には見透かされ、見放されることになると思います。
ここ数年、朝日の社説・投稿・歌壇・コラムをウォッチングして楽しんできた私も朝日が路線変更しないでと祈りたいぐらいですが、少し前の新潮か文春で朝日の社長は朝日の正常化を目指していると記事があったり、社説やコラムに以前よりぶっとんだ論理展開が少なくなったり元気がないのが気になります。
でも仮に朝日を少し右寄りに修正しても、旧来の左派系の読者は失望して離れる、路線変更が成功しても保守系の読者は読売と産経が抑えている、現状維持じゃジリ貧はさけられない・・・どっちに進んでも地獄のような気がしますが・・・。
国内と国外の使い分け、まさにそういう実態がありますね。
すぐに思い浮かぶ具体例がありますが、またの機会に触れましょう。
「どっちに進んでも地獄」とは、カラフルな表現ですね。
昔の東映のヤクザ映画にもあったような記憶があります。
刺しても、刺されても地獄、というようなセリフでした。
インテリのための大新聞の将来をヤクザ映画のセリフに喩えるるのは、失礼かもしれませんね。(ヤクザ映画を比較に出したのは私ですから、失礼があるとすれば、私だけですが)
価値(美・利・善)の獲得と維持および行使に関係する欲望が人間には本能的に備わっており、人類が誕生して以来、個人同士または集団同士の間際でのせめぎ合いを連綿と続けており、そこには知力と体力を基盤とする「防衛→安全保障→社会保障」に用いる情報と武器に対する思考と工夫および信用・信頼の現実があるわけで、この現実は米・中・韓・日などの国家的集団に限らず如何なる集団・個人にも普遍的に存在し、或る相手からの要求に対して、それを拒絶しようとする思考と容認しようとする思考とが併存するのは自明の理だが、“相手にNOと言わせない/YESと言わせる工夫”が肝心要でしょう。
ここで、「防衛→安全保障→社会保障」の基本方針は“汝、須らく一身の安堵を思うならば、先ず四表の静謐を祷らん者か”ということで、「最小利益の極大化」もしくは「最大損失の極小化」を戦略目標とし、それを実現する為の工夫は、“方針・目標は一つと雖も、機に遵って行法には萬差があるのは当然で、取捨宣しきを得ても一向にしてはならず、時に適い場に合うようにする”のが必然であるが、日本の「マスゴミ」には、一度取捨宣しきを得たら一向にして、機・時・場を思慮しない勢力が存在するようです。
「戦後的な思考再生機能(レジューム;resume)」が、いわゆる「無抵抗平和主義・国家否定主義」という戦後の左翼思想で、その残滓を必死で保とうとする勢力の象徴がやはり朝日新聞ならば、その対極にある「戦前的な思考再生機能への回帰」は、いわゆる「侵略的覇権主義・国家至上主義・面目重点主義」という戦前的な右翼思想で、その残滓を必死で復活させようとする勢力の象徴がやはり産経新聞ということになってしまようだが、「戦前的・戦後的な思考再生機能からの脱却」には「平和希求主義・呉越同舟主義(協調主義)・民主主義・人権尊重主義・実質重点主義」という中道思想(中庸思想)を実践すべきで、読売新聞がそれを目指しているならば、朝日新聞とも産経新聞とも一線を画すのではないでしょうか、たぶん。
>
>国内と国外の使い分け、まさにそういう実態がありますね。
こうした使い分けの背景には、「世界の流れ、日本の世論の主流から取り残されたくない」という朝日新聞の恐怖感があると思います。政党で言えば、旧社会党系の民主党左派といったところでしょうか。朝日新聞の本音は社民、共産、赤旗と共通するのに、民主党を応援しているのも非現実的だと見放されるのが怖いのではないでしょうか。いっそのこと社民・共産・赤旗路線と共同歩調をとったほうが潔いという気がしますが、それだと公称800万部の維持は難しいでしょう。朝日にとっては悩ましいと思います。
>すぐに思い浮かぶ具体例がありますが、またの機会に触れましょう。
是非紹介してください。
個々の朝日新聞の記者には優秀で取材熱心な方も多いと思うのですが、何となく、社の方針・イデオロギーに沿って記事を書く「会社型」「官僚型」の人が多いように思います。
本来、ジャーナリストというのは組織のしがらみにとらわれず、自らの考えに即して自由に意見を表明できる数少ない職業のはずだと思いますので、(論説委員、編集委員クラスにはあまり期待してませんが)少なくとも若手の記者の方には是非そうして頂きたいものです。(ただそうなると、朝日の論調が変わらないで欲しいという古森さんの願いには反してしまうかも知れませんが。)
http://medialiteracy.blog76.fc2.com/
新聞社の組織内では記者の若手はニュース報道専属といえるので、自分の意見を記事に反映する余地は少ないようです。
警視庁が今夜はどんな逮捕状をとったのか、なんていうことの事実関係のキャッチに血道をあげねばならないのが一線若手記者の現実です。
ただし、その「報道」記事にも、もちろん書き手の価値観が入る余地はあります。全体に記者は確かに自分の意見をなんらかの形で表明できる数少ない職業という特徴づけは、まちがっていないでしょう。
読売新聞の中堅記者層には、社説の規範と異なり、朝日的志向の人がかなりいる、というのが私のこれまでの考察です。
幸か、不幸か、読売の紙面がときに支離滅裂にみえるのは、そのことも原因の一つ、というのが、これまた私見です。
ご安心ください。
最近は東京新聞が頑張ってます(笑
左翼の方々も東京新聞に大いに期待しているようです。
そうですか。
日ごろ東京新聞(中日新聞)を読むゆとりがないのですが、朝日のレプリカ、あるいはもっと左の記事や論評が出ることは、ちらほら聞いていました。正月に東京にもどった際、銀座の書店に東京新聞の記事や出版物の宣伝コーナーのようなのがあり、そこの文句が1960年代の左翼のスローガンそっくりだったのを記憶しています。
ワシントンにも東京新聞はくるので、ときどき目を通しましょうか。
ただし朝日新聞とはまたいろいろな意味で違う新聞ですよね。論評に値するかどうか。
ま、するにしてもしないにしても、そんなとこでしょうかね。
>日ごろ東京新聞(中日新聞)を読むゆとりがないのですが、朝日のレプリカ、あるいはもっと左の記事や論評が出ることは、ちらほら聞いていました。
こんにちは。東京も左傾化がひどいですね。言ってることがころころ変わるし。
それで私は、サヨのATM(朝日、東京、毎日)と呼んでおります。
それで、東京(中日)は、朝日の真似をしていれば進歩的に見えるだろうみたいな幼稚さを感じます。
所詮は、名古屋だけで威張っている、主体性のないお山の大将じゃないかと思います。
サヨのATMですか。
なるほどね。
ワシントン在勤だと職業上、日本の新聞は東京新聞までみな送られてきますが、ぜんぶ読んでいたら、本来の仕事ができなくなります。そこでどうしても一部を省略するわけですが、東京新聞にまでどうしても手が回らない、というのが実態です。
でも東京新聞の左翼論調はいまのままでどうぞ、どうぞ、というのが実感です。
初めまして。
軍事というよりも、安全保障あってこそ、経済が成り立つ、あるいは政治があってこそ経済がある、という現実は、つい忘れられがちなのですね。
「昭和の動乱」からのご指摘は、私にとっても有益な指針だと思いました。