毎年、4月30日にはベトナム戦争について考えてしまいます。この日がベトナム戦争最後の日であり、その日の体験は私の永年の国際報道でもおそらく最も強烈な思い出だからです。
なにをいまさら古い話を、と思われる方も多いでしょう。
しかし自由な感想や思考を書けるこの記者ブログでも一度、ベトナム戦争の体験について書いてみたいと思っていました。

1975年4月30日だから、もう32年も前のことです。20世紀後半の世界を揺さぶったベトナム戦争は北ベトナムの革命勢力が南ベトナムという国家を滅ぼす形で終わりました。
この日、中国製やソ連製の戦車部隊を先頭にした北ベトナム人民軍の大部隊は南ベトナム(ベトナム共和国)の首都だったサイゴン(いまのホーチミン市)に四方八方からなだれこみ、南ベトナム側の残存部隊を蹴散らして、敵の首都を制圧しました。

北ベトナム軍の先頭部隊の戦車はサイゴン市内中央にある南ベトナム大統領官邸の鉄のゲートをぶち破り、戦車や装甲車から飛び降りた革命軍の精鋭将兵が官邸の建物内に飛び込んでいきました。そして南ベトナム政権の最後の大統領や閣僚を拘束し、建物の屋上まで駆けあがって、革命旗を高々と掲げたのです。永年のベトナム戦争はこの一瞬に終結を迎えました。

サイゴン市内は革命側を恐れて逃げ回る市民たちでいっぱいでした。すでに何万もの市民が船や航空機で国外に脱出していました。ちなみにアメリカ軍はこのサイゴン陥落の2年前に完全に撤退していました。この2年間は北と南の闘いだったのです。

私はこの日のこうしたサイゴンの状況を見届けて、報道しました。当時は毎日新聞の記者でした。サイゴンにはこの時点ですでに3年、滞在しており、サイゴン陥落後も半年ほど残留しました。このベトナム体験をのちに「ベトナム報道1300日ーーある社会の終焉」(筑摩書房、講談社文庫)という本にまとめて書きました。
その本の「まえがき」を以下に紹介します。


  まえがき

 いまはもう存在しない南ベトナムという国で、私は新聞記者として3年半の歳月を過ごした。日本人のベトナム特派員では最長の滞在だった。

 この間に戦火が燃え、和平協定が成立し、アメリカ軍が去った。そして平和とも戦争ともつかない安穏がしばらく続いた後、北ベトナム軍の大攻勢が突如、始まって、ベトナム共和国(南ベトナム)はまたたく間に崩れ去った。永年の戦争がそれで完全に終わり、こんどは旧社会を根本から変えてしまう大手術のような革命が始まった。この本は私自身が報道という仕事を通じて見たその3年半の南ベトナム興亡の記録である。

 

 ベトナムで私がとくに強い関心をもっていつも見つめていたのは人間の生き方だった。戦争とか革命の中で人間は一体どのように生きるのか、どんな言動をとるのかを、至近距離から魅せられたように熟視していた。そして生と死の極限下で人間がみせる醜悪と崇高、脆弱と強靱の底深さを、したたかに思い知らされた。

 ベトナムから東京の空港に帰り着いた時の自分が急に年老いてしまったような、あの虚脱感を私はいまも忘れることができない。平穏で取り澄ました社会でなら一生かかっても経験できるかどうかわからない、人間のむき出しの争いをわずか数年の内に圧縮して見せられてしまったような実感だった。私自身が時にはそうした葛藤の当事者でもあった。

 ベトナムで何を学んだかと問われれば、ためらいなく「人間について」と答える。人間が持つもろくてたくましい、醜くて美しい無限の万華鏡を目前に突きつけられて、「人生」とか「社会」に対する私のそれまでの思考や観念が少しずつ昇華していった。 

 しかしベトナムの人を知れば知るほど痛切に感じたのは彼等も基本的には我々と同じ感性を持つ、同種の人間であるという、ごく平凡な認識だった。我々とあきれるほど似かよった喜怒哀楽を示し、同じような幸福を求めるアジアの人間なのである。だからベトナム人を自分たちとまったくの異次元において眺め、あれこれ論評する二重基準の適用は私にはできない。たとえば西洋の事物に顔を向けたり、辺地よりも都市に住みたいと願うことは日本人にとっては当然であっても、ベトナム人にとっては堕落とみなす。体制を批判する自由を主張するのも日本人なら自明でも、ベトナム人がそうすれば反動だと断ずる。こういう基準や論理の使い分けはベトナム社会で暮らすうちに私はいつしかできなくなっていた。

 

 いわゆるベトナム問題は、日本ではファンファーレとともにすでに完結してしまった物語のようである。永く険しい民族解放闘争が幸せな大団円で幕を閉じたという解釈だからだろう。

 ベトナムに平和がやっと訪れてよかった、と私も心から思っている。そもそもフランスの植民地支配が悪だった。アメリカの介入ももちろん誤りであり、悲劇だった。永年の殺し合いに終止符を打つには、革命勢力がああいう形で完全勝利する以外に方途はなかったであろう。

 しかしその一方、南ベトナムの多くの人たちが戦争のそういう形での終結をめでたしめでたしの「解放」としては決して受けとめていない、という事実に私は目をつぶってしまうこともできない。戦争終結からすでに2年半以上もたったいまなお、毎月1000人もの人たちが祖国を捨て、命を賭して逃げ出してくる「ベトナム難民」の現状が、その一つの例証である。

 日本でのベトナム問題の認識は永い間、白か黒かの二元論だった。一方に民族解放をめざす正義の闘士たちがいて、他方にアメリカに従属する腐敗集団が存在する。一般民衆もみなこの正義の闘士たちの側だ、という色分けである。ところが現実には、この白と黒の間に広大な灰色の領域があった。アメリカの介入にも腐敗集団による政権にも反対だが、かといって革命の闘士たちにも決して同調できないという人たちが存在したのである。実際には南ベトナム国民の大多数がこの灰色の世界に属していた。私自身が接触したのもほとんどがこの範疇に生きる人たちだった。だからこの人たちのたどった運命は自然と、とくに注目して跡を追った。

 

 ベトナム戦争は民族独立の闘争であると同時に、壮大なイデオロギー革命でもあった。革命というのはいわば削ぎ落としの作業である。削ぎ落とす側と削ぎ落とされる側と、そのどちらに光を当てるか、視点をどこに据えるか、によって革命のドラマは希望と歓喜の物語にも、絶望と悲嘆の物語にもなりうる。

 私の滞在のうち3年間は革命をされた側の旧政権下だった。残りの半年間は革命をする側の新政権下で過ごした。この年月の長さの単純比からみても、私の視点が主として削ぎ落とされた側におかれていたのは明らかである。だからこの本に書いたのは敗者の側の記録だともいえよう。この点、「客観性」とか「中立」とかいうスローガンを掲げる気は最初からない。

                (中略)

 最後に、人間のすべてについてを私に教えてくれた南ベトナムの人たちに心からの感謝を述べ、その多幸を祈りたい。実際、ベトナムの友人や知人に対する私の感慨は万言を費やしても尽きない。親交のあった人たちの多くはいまなお不遇な境遇にある。そういう薄幸な友人、知人の身の上に思いをはせる時、いま自分だけがこの何の不自由もない環境にいることが後めたくさえ感じられる。胸の奥にトゲが刺さったような痛みをずっと意識しながら私はこの本を書き終えた。

                 1977年12月 ワシントンで

                           古森義久