なにをいまさら古い話を、と思われる方も多いでしょう。
しかし自由な感想や思考を書けるこの記者ブログでも一度、ベトナム戦争の体験について書いてみたいと思っていました。
1975年4月30日だから、もう32年も前のことです。20世紀後半の世界を揺さぶったベトナム戦争は北ベトナムの革命勢力が南ベトナムという国家を滅ぼす形で終わりました。
この日、中国製やソ連製の戦車部隊を先頭にした北ベトナム人民軍の大部隊は南ベトナム(ベトナム共和国)の首都だったサイゴン(いまのホーチミン市)に四方八方からなだれこみ、南ベトナム側の残存部隊を蹴散らして、敵の首都を制圧しました。
北ベトナム軍の先頭部隊の戦車はサイゴン市内中央にある南ベトナム大統領官邸の鉄のゲートをぶち破り、戦車や装甲車から飛び降りた革命軍の精鋭将兵が官邸の建物内に飛び込んでいきました。そして南ベトナム政権の最後の大統領や閣僚を拘束し、建物の屋上まで駆けあがって、革命旗を高々と掲げたのです。永年のベトナム戦争はこの一瞬に終結を迎えました。
サイゴン市内は革命側を恐れて逃げ回る市民たちでいっぱいでした。すでに何万もの市民が船や航空機で国外に脱出していました。ちなみにアメリカ軍はこのサイゴン陥落の2年前に完全に撤退していました。この2年間は北と南の闘いだったのです。
私はこの日のこうしたサイゴンの状況を見届けて、報道しました。当時は毎日新聞の記者でした。サイゴンにはこの時点ですでに3年、滞在しており、サイゴン陥落後も半年ほど残留しました。このベトナム体験をのちに「ベトナム報道1300日ーーある社会の終焉」(筑摩書房、講談社文庫)という本にまとめて書きました。
その本の「まえがき」を以下に紹介します。
まえがき
いまはもう存在しない南ベトナムという国で、私は新聞記者として3年半の歳月を過ごした。日本人のベトナム特派員では最長の滞在だった。
この間に戦火が燃え、和平協定が成立し、アメリカ軍が去った。そして平和とも戦争ともつかない安穏がしばらく続いた後、北ベトナム軍の大攻勢が突如、始まって、ベトナム共和国(南ベトナム)はまたたく間に崩れ去った。永年の戦争がそれで完全に終わり、こんどは旧社会を根本から変えてしまう大手術のような革命が始まった。この本は私自身が報道という仕事を通じて見たその3年半の南ベトナム興亡の記録である。
ベトナムで私がとくに強い関心をもっていつも見つめていたのは人間の生き方だった。戦争とか革命の中で人間は一体どのように生きるのか、どんな言動をとるのかを、至近距離から魅せられたように熟視していた。そして生と死の極限下で人間がみせる醜悪と崇高、脆弱と強靱の底深さを、したたかに思い知らされた。
ベトナムから東京の空港に帰り着いた時の自分が急に年老いてしまったような、あの虚脱感を私はいまも忘れることができない。平穏で取り澄ました社会でなら一生かかっても経験できるかどうかわからない、人間のむき出しの争いをわずか数年の内に圧縮して見せられてしまったような実感だった。私自身が時にはそうした葛藤の当事者でもあった。
ベトナムで何を学んだかと問われれば、ためらいなく「人間について」と答える。人間が持つもろくてたくましい、醜くて美しい無限の万華鏡を目前に突きつけられて、「人生」とか「社会」に対する私のそれまでの思考や観念が少しずつ昇華していった。
しかしベトナムの人を知れば知るほど痛切に感じたのは彼等も基本的には我々と同じ感性を持つ、同種の人間であるという、ごく平凡な認識だった。我々とあきれるほど似かよった喜怒哀楽を示し、同じような幸福を求めるアジアの人間なのである。だからベトナム人を自分たちとまったくの異次元において眺め、あれこれ論評する二重基準の適用は私にはできない。たとえば西洋の事物に顔を向けたり、辺地よりも都市に住みたいと願うことは日本人にとっては当然であっても、ベトナム人にとっては堕落とみなす。体制を批判する自由を主張するのも日本人なら自明でも、ベトナム人がそうすれば反動だと断ずる。こういう基準や論理の使い分けはベトナム社会で暮らすうちに私はいつしかできなくなっていた。
いわゆるベトナム問題は、日本ではファンファーレとともにすでに完結してしまった物語のようである。永く険しい民族解放闘争が幸せな大団円で幕を閉じたという解釈だからだろう。
ベトナムに平和がやっと訪れてよかった、と私も心から思っている。そもそもフランスの植民地支配が悪だった。アメリカの介入ももちろん誤りであり、悲劇だった。永年の殺し合いに終止符を打つには、革命勢力がああいう形で完全勝利する以外に方途はなかったであろう。
しかしその一方、南ベトナムの多くの人たちが戦争のそういう形での終結をめでたしめでたしの「解放」としては決して受けとめていない、という事実に私は目をつぶってしまうこともできない。戦争終結からすでに2年半以上もたったいまなお、毎月1000人もの人たちが祖国を捨て、命を賭して逃げ出してくる「ベトナム難民」の現状が、その一つの例証である。
日本でのベトナム問題の認識は永い間、白か黒かの二元論だった。一方に民族解放をめざす正義の闘士たちがいて、他方にアメリカに従属する腐敗集団が存在する。一般民衆もみなこの正義の闘士たちの側だ、という色分けである。ところが現実には、この白と黒の間に広大な灰色の領域があった。アメリカの介入にも腐敗集団による政権にも反対だが、かといって革命の闘士たちにも決して同調できないという人たちが存在したのである。実際には南ベトナム国民の大多数がこの灰色の世界に属していた。私自身が接触したのもほとんどがこの範疇に生きる人たちだった。だからこの人たちのたどった運命は自然と、とくに注目して跡を追った。
ベトナム戦争は民族独立の闘争であると同時に、壮大なイデオロギー革命でもあった。革命というのはいわば削ぎ落としの作業である。削ぎ落とす側と削ぎ落とされる側と、そのどちらに光を当てるか、視点をどこに据えるか、によって革命のドラマは希望と歓喜の物語にも、絶望と悲嘆の物語にもなりうる。
私の滞在のうち3年間は革命をされた側の旧政権下だった。残りの半年間は革命をする側の新政権下で過ごした。この年月の長さの単純比からみても、私の視点が主として削ぎ落とされた側におかれていたのは明らかである。だからこの本に書いたのは敗者の側の記録だともいえよう。この点、「客観性」とか「中立」とかいうスローガンを掲げる気は最初からない。
(中略)
最後に、人間のすべてについてを私に教えてくれた南ベトナムの人たちに心からの感謝を述べ、その多幸を祈りたい。実際、ベトナムの友人や知人に対する私の感慨は万言を費やしても尽きない。親交のあった人たちの多くはいまなお不遇な境遇にある。そういう薄幸な友人、知人の身の上に思いをはせる時、いま自分だけがこの何の不自由もない環境にいることが後めたくさえ感じられる。胸の奥にトゲが刺さったような痛みをずっと意識しながら私はこの本を書き終えた。
1977年12月 ワシントンで
古森義久
コメント
コメント一覧 (26)
古森さんは、当時、毎日新聞でしたね。
サイゴン市民が、「解放軍」を必ずしも歓迎していなかった実態を、毎日新聞は正確に掲示してくれましたか?
「解放」を称えるかのように記事を修正されて、歯がゆくありませんでしたか?
毎日新聞では当時ほとんどの場合、サイゴン「陥落」ではなく「解放」という表現が紙面に出ていましたが、そのうち「陥落」も併記するようになりました。そして私が現地から「陥落」という表現で記事を送り続けたので、そちらが多くなったという記憶があります。いまでは「サイゴン解放」「ベトナム解放」という言葉を客観的に使う向きはほとんどありませんね。
現地からの送稿は当時、革命当局の事前検閲があったため、英語で書かねばなりませんでした。日本ではそれを日本語に訳して掲載したわけですが、修正はいまから思えば、意外なほど少なかったです。毎日新聞の古き、よき時代とまでは申しませんが。
近藤紘一記者は私の懐かしく思い出します。
私も近藤紘一さんの本を読みました。
あの頃は日本でも「ベ平連」等の反戦運動が盛んでしたね。
日本のマスコミもアメリカとベトナムが戦争しているかのような書き方で、アメリカの武力介入にだけに反対していましたね。
私は戦争が始まった経緯は良く知らないのですが、南ベトナム解放民族戦線(べトコン)は北ベトナムの支援を受けており、ゲリラ活動を始めた事から戦争が始まったのではないかと思われます。
南にはアメリカが、北にはソ連と中国が肩入れして、代理戦争となった訳ですがその後、和平協定(パリ協定)に調印して、アメリカ軍は撤退しました。
その後、解放戦線はパリ協定に違反して、攻撃を再開したのですが、アメリカ軍撤退後の南べトナムでは守る力はなく、サイゴンは占領され、北べトナムに併合されてしまいました。
その後、社会主義を嫌う南ベトナムの多くの人々は所謂、ベトナム難民(ボートピープル)となって国外へ脱出し、また海上で亡くなりました。
当時の南ベトナムの人口2千万人のうち海上で亡くなった人も含め、6百万人ぐらいの人が国外に逃れたようですが、こうしてみるとあの当時の日本の反戦運動とは何だったのか、革命は本当に人々を幸福にしたのか、レビューしてみる必要がありそうですね。
私はアメリカ軍撤退後に、また戦争が再開されているのに、ベ平連を中心とする勢力が「ベトナム戦争は終わりました」と盛んに宣伝していたのに
違和感を感じていました。
当時のべ平連の代表の小田実氏などは反省もせず(したのかもしれませんが)いまも評論活動を続けていますね。
前回の朝日顔負けの飛ばしエントリや高橋某の紹介記事を同じ人物が書いたとは信じられません。
”日本人の為に”と長年いろんな物に目を瞑っている内にイデオロギーに飲み込まれ、置くべき軸足すら失われてしまったのでしょうか。
彼らは極悪ではありますが目的がはっきりしており対処のし様もあったのですが、時間が経つ内に、「反米、反日本権力=平和」と本気で思い込む人達が出てきてしまいました。そして逆に、「反米、反日本権力=平和」に反対さえすれば保守、愛国者だと勘違いする人も出て来ました。もちろんこちらにもCIA一派(自民党、ヤクザ、統一協会など)の協力がありました。
そして、これを言うと問題があるかもしれませんが、両側とも多くは日本人では在りません。
冷戦時代の汚物をそろそろ掃除しましょう。
ベトナム戦争では北ベトナムという共産主義の国家が国の総力をあげ、最初から共産主義の下でのみの民族独立、しかも武力革命での民族統一、という大方針を決め、それを実行したことが端緒であり、基本だといえます。
その大方針の下に北ベトナムは南ベトナムに「民族解放戦線」という下部組織をつくり、「南独自のイデオロギーに無関係な組織」と宣伝しました。
解放戦線には確かに一部、南独自の非共産の勢力も存在しましたが、これらの勢力は1975年の共産勢力の完全勝利の後、みな排除されていきました。
日本の大多数のマスコミや、いわゆる識者は北ベトナムの政治宣伝をすべて信じ(あるいは信じたフリをして)、「南ベトナムには北ベトナム兵はいない」などと論じていたものです。
私の言論人としての思考や精神の形成プロセスは、ご指摘とは正反対なのです。
ベトナムでの体験があったからこそ、そこで得た教訓によって、いまの「軸足」があるのです。
ベトナム難民、ボート・ピープルは確かにベトナム戦争の本質部分の特徴を期せずして、物語っていますね。
アメリカにはいま合計150万近くものベトナム人が在住しています。
多数の人がアメリカ社会で成功しています。
ほんの一例ですが、9歳ぐらいのときに難民としてアメリカにきたディンという人物は30代で司法次官補となりました。ハーバード大学やジョージタウン大学で法律を学び、最優秀の成績をあげた結果でした。いまもジョージタウン大学の教授として教壇に立っています。
反戦運動や革命の本質に関するご指摘の諸点には賛成です。
こんにちは。
私自身はベトナム戦争を実体験した世代ではありませんが、以前ベトナムに縁があった時期があり、ホーチミン(サイゴン)の旧大統領官邸やクチ・トンネル、枯葉剤の被害を展示した戦争博物館(正式な名前は忘れました)などを訪れたほか、マクナマラの回顧録"In retrospect"を読んで、自分なりにあの戦争を間接的ながら追体験しようとしたことがあります。
また数年前のアメリカ滞在中にイラク戦争の開始を目の当たりにしたのですが、今から振り返って二つの戦争を比較すると、アメリカにとっては悲劇的ながら多くの共通点があることに暗然たる思いになります。開戦当初の楽観的な見通し、戦況の悪化・長期化に伴う当初見積もりを大幅に凌駕する戦費・派遣兵力の膨張、現地に民主主義を定着させようとするアメリカのナイーブなまでの思い込み、内紛を繰り返し民心とも乖離した現地政府当局の脆弱性など、枚挙に暇がありません。さすがにアメリカ人の知人に対し「もし世銀総裁になりたかったら、まず国防総省に入って戦争を始めて泥沼化させることだ」といったブラックジョークまでは言う気になれません。
(続く)
この二つの戦争に見られる共通点が特に悲劇だと思われるのは、ベトナム戦争では「冷戦下における共産主義の東アジア自由世界への波及の阻止」、イラク戦争では「冷戦後の世界における対テロ戦争・大量破壊兵器拡散防止」といった、十分な大義が両戦争ともにあった(ある)ということです。
(この点、私自身は、アメリカの軍事行動が絡む国際情勢について、他の複雑な要因を全て捨象して批判一辺倒になる多くの日本のマスメディアとは意見を異にします。この日本メディアの相変わらずの報道姿勢も、残念ながら、両戦争の共通点の一つに追加できます。)
戦争の大義がなくアメリカはそもそも軍事行動を起こすべきでなかったと言うのであれば話はより単純ですが、十分な大義がありアメリカが行動を起こすそれなりの理由があった。にも拘らず、状況は芳しくなく軍事行動の終結の見通しはない。「他策ナカリシヲ信ゼムト欲」した結果が現在の状況であるわけですから、これ以上の悲劇はないでしょう。
一つ相違点を挙げるなら、ベトナムではホーチミンが生き残ったが、イラクではサダム・フセインが死んだということでしょうか。ただ、これはイラクでは「統率者なき敵対勢力」が相手であることを意味するので、イラクの悲劇がベトナムのそれ以上に長期化・拡大するおそれを示すものといえます。
4年前の2003年の今頃は、バクダッドが陥落して米軍と復興支援チームがバクダッド入りし、アメリカではブッシュ大統領が"mission accomplished"の旗の翻る空母に意気揚々と降り立とうとしている時期だったと記憶します。私のネームではありませんが、イラク復興が依然としてmission possibleであることを願うばかりです。
今回の記事には関係ありませんが、中国共産党の李長春中央政治局常務委員がこの様なな発言をしていました。ご報告します。
☆「台湾解放のための装備近代化だ。平和解決が目標だが、武力行使を放棄したわけではない」
「中国の国防政策は防御的であり、覇権を唱えることはない」
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/23173_all.html
>また数年前のアメリカ滞在中にイラク戦争の開始を目の当たりにしたのですが、今から振り返って二つの戦争を比較すると、アメリカにとっては悲劇的ながら多くの共通点があることに暗然たる思いになります。
国際政治学者の故・高坂正堯氏が、『世界地図の中で考える』(新潮社、1968)で、
「彼らは農民の支持を得るためには土地改革が必要であると考え、日本の戦後の土地改革を助けたラデジンスキーを送って、サイゴン政府に土地改革を
おこなわせた。しかし、日本では輝かしい成功を収めたラデジンスキーは、
南ベトナムでは完全に失敗したのである」
「イギリスは文明を伝えることの困難さを認識し、同化を不可能と考えていた。そこに知恵が生まれた。それに対し、アメリカ人は世界を作り変えることに関して、より楽観的である。彼らは知恵よりも、生命力によって特徴づけられているのである。だから、彼らはより多くの成功をおさめると共に、
より多くの失敗を犯すことになるであろう。それはアメリカの宿命と言えるかも知れない」
と書いていたことを思い出します。
「アメリカ人がフランス流の抽象的な思考法を捨てきることが必要ですが、
しかし、アメリカ人は人間に対するアメリカらしい楽観主義をなくしてはならないのです」
という言葉を引用し、楽観主義に支えられた粘り強さによって文明を広めようとすることはアメリカの宿命だし、それは世界にとってやはり悪いことではないのだと、ポール・ミュスは考えていたように思われるのであると締めくくっていました。
おそらくイラク戦争終了後は、アメリカは挫折感から内向きで現実主義的な(キッシンジャー外交のような)外交政策をとるのではないでしょうか。日本にとっては厳しい展開ですね。
イラク平定作戦とベトナム戦争の類似はご存じのようにアメリカでもよく語られてきましたが、このところ後退しています。
確かに類似点は多いですよね。とくに大義の存在(当初の段階での大多数の米国民にとっての)はご指摘の通りだと思います。
ただし作戦の内容はまるで異なります。ベトナム戦争が中国やソ連が背後に控え、無限の軍事支援を続け、しかも北ベトナムという南ベトナムに隣接した国家が総力をあげて、南での軍事闘争を続けるという全体図は、イラクとはまるで異なります。
イラク内部でもいまのイラク政府に対抗する「臨時革命政府」はありません。またイラク国軍を強化して、治安を回復し、民主主義政治体制を確立しようという、アメリカ及び、連合各国(国連の決議案を考えれば、国連もそこに含められるでしょう)の努力が成功する可能性はまだ抹殺はできません。
中国の軍事費関連の情報をありがとうございます。
読んでみましたが、李常務委員の発言はこれまでの中国当局の軍事費増額への「公式説明」の範疇を出ていないように思えます。
問題点は中国が台湾攻略に必要と思われる軍事能力を超えて、軍拡を進めていることでしょう。
横から入る感じのコメントですが、私のベトナム戦争での教訓は、サイゴンの南ベトナム政府が土地改革をきちんと進め、腐敗をなくしていたとしても、ベトナム共産党が北ベトナムという国家の基本的意思として、その南の政体を軍事的手段によってでも、抹殺することを最初から最後まで決めていた、という点です。
この決意に対し、「ここまで妥協すれば、平和共存できるだろう」と思ったことが、いかに危険な幻想だったか、ということです。
いまの慰安婦問題などにも、日本側の一部には、その「幻想」を感じさせられるのです。
9551を落としてしまい、すみませんでした。
ベトナム戦争は子供のころの出来事でした。結局、ベトナムは民主化するわけですが、この2007年現在、ベトナム戦争をどう総括してよいのやら私にはよくわかりません。米国に勝ったすごい国という漠然とした印象だけはいまだに不変ですが。
古森さんが先日出演された報道2001で古森さんが姜尚中氏が韓国籍であることを番組で指摘されたのはたいへん痛快でした。本人はおそらくテレビでは一度も触れてきませんでしたので。
その姜尚中氏が確か番組の後半、韓国のライタイハン問題に触れ、今後問題が顕在化するだろうといってました。
韓国がいまだにこの問題を黙殺しながら、慰安婦問題を騒ぎ続けることに強い嫌悪感を覚えます。
私の拙文に対し、高坂氏の著作の紹介を交えたコメントを頂き、ありがとうございます。高坂氏とはリアルタイムでその主張に接する機会はありませんでしたが、以前より関心は持っていましたので、ご指摘の著書も含め一読してみたいと思います。
歴史の後知恵かも知れませんが、イラクでの主要戦闘が終結した直後に、サダムフセインばりの圧倒的軍事力を背景とし、かつサダムフセインにつながる旧勢力も適宜活用しながら、民主主義よりも安定を優先した占領統治を行っていたら今日の悲劇は避けられたかも思うことがあります。
実際は、非バース党化、国軍解体など極端な政策を進める一方、アメリカばりのタウンミーティングや党員集会(コーカス)を導入して直ぐにもイラク人に権力を渡して自分達はさっさと引き揚げようと真面目に考えていたのですから、その無邪気さには驚きます。そこには自らの負担軽減という実利目的もあったでしょうが、民主主義を生真面目に考え過ぎた面もあったと思います。そこが正にアメリカらしいといえばアメリカらしいのですが、結果としてそれが、アメリカ人とイラク人をはじめとするより多くの人々の流血につながっているわけですから、悲劇以外のなにものでもないと思います。
イラク戦争後のアメリカの対外政策がどうなるかは未だよく分りませんが、長期にわたり巨大兵力の海外展開が米国社会にかける負荷は相当のものがあると予想されます。そうした米国社会への中長期的な影響が大統領選や議会選挙などの政治過程を通じて対外政策に如何なる影響を与えるのか、注視したいと思っています。
>
>ただし作戦の内容はまるで異なります。ベトナム戦争が中国やソ連が背後に控え、無限の軍事支援を続け、しかも北ベトナムという南ベトナムに隣接した国家が総力をあげて、南での軍事闘争を続けるという全体図は、イラクとはまるで異なります。
>イラク内部でもいまのイラク政府に対抗する「臨時革命政府」はありません。またイラク国軍を強化して、治安を回復し、民主主義政治体制を確立しようという、アメリカ及び、連合各国(国連の決議案を考えれば、国連もそこに含められるでしょう)の努力が成功する可能性はまだ抹殺はできません。
ご指摘の点はまさに、私が敵対勢力における統率者の有無ということで、両戦争の相違点として指摘をしたつもりの点です。ベトナム戦争の頃は、北ベトナムであれ、中国・ソ連であれ、それぞれ独自の国家理性と国家戦略を有する存在だったと思います。だからといって与しやすいというわけではなかったのでしょうが、アメリカ軍が撤退して彼らにとっての共通の敵がいなくなった後は互いにいがみ合いをはじめ、アメリカが最もおそれた共産主義の伝播は国境を越えるところまではいきませんでした。
この点、私自身はベトナム戦争のリアルタイムでの記憶がないので、イラク戦争と比較して無意識に過小評価している面もあるかも知れません。
現在のイラクの情勢は宗教、民族といった、国境を容易に超えるもっととらえどころのない要因が大きな役割を果たしているように思われます。ご指摘のようにもちろん国際社会の意思は累次の国連決議でも表明されているわけですが、現実政治における各国の対応はまた別問題だと思います。ベトナムのときの中ソのように面と向かってアメリカに対峙する国はないものの、イラク復興支援の複雑さ、人的コストのリスクから多くの国が「総論賛成、各論躊躇」に傾いている点は否めないでしょう。大統領選といった時間ファクターもある中で、アメリカが進める増派・反転攻勢が悪循環を断ち切れるか、正念場だと思います。
>所謂「反戦平和運動」「反核運動」のほとんどはKGBなどからお金をもらった人達(社会党そのものを含む)が仕切っていました。
>彼らは極悪ではありますが目的がはっきりしており対処のし様もあったのですが、時間が経つ内に、「反米、反日本権力=平和」と本気で思い込む人達が出てきてしまいました。そして逆に、「反米、反日本権力=平和」に反対さえすれば保守、愛国者だと勘違いする人も出て来ました。もちろんこちらにもCIA一派(自民党、ヤクザ、統一協会など)の協力がありました。
>そして、これを言うと問題があるかもしれませんが、両側とも多くは日本人では在りません。
>冷戦時代の汚物をそろそろ掃除しましょう。
(伊勢)生活の拠点をアメリカに置いているとよく考える問題ですね。小生は1967年に渡米しましたから、強制送還も覚悟で反戦運動に参加しました。
現在でも、冷戦構造やその影響はまだあるのですね。去年のクリスマスにベルリンへ行ったときに、感じましたよ。元東ドイツの市民で社会主義が戻ってくることを願う人がいます。この人たちの言い分は「全ての問題はアメリカが悪いからだ」だった。ドイツ在住17年の日本人女性の教授さんが、「地続きのヨーロッパの怖さが、島国の日本人には分からないのよ」と言っていました。ANOMALYさんの洞察に脱帽します。 平次郎 ルイジアナ
サイゴン陥落後のベトナムは南北が共産主義政権に下に統一され、旧南ベトナム政権にかかわった人間への大抑圧が永い永い歳月、断行されました。
ベトナムがいまも一党独裁体制下にあり、政府や支配党(共産党)を批判することは一切、許されていません。1980年代に打ち出された「ドイモイ」(刷新)は一党独裁の枠内での改革です。だから普通の意味での「民主化」という言葉はどうみてもあてはまらないと思います。
姜尚中氏の件、実は私もずいぶんの回数、彼の主張を本や雑誌、テレビなどでみて、とくに彼の主張の「日本はこうすべきだ」「日本政府はああすべきだ」という議論を聞き、この人はどこの国の人間として、発言しているのかな、と、いぶかっていました。
慰安婦問題にしても、たとえ本質は国家の別に関係のない普遍的な人道主義の問題だとしても、アメリカ議会に出た決議案は日本という国家に向かって放たれた矢だから、受ける側は日本国の一員として、答えるのか、それともどこの国にもとらわれない普遍的な立場で答えるのか、あるいは日本以外の他の国家の一員として答えるのか、によって、対応の方法は異なってくる、という意味の発言を4月8日のフジテレビの「報道2001」でも、したつもりでした。
そうしたら彼は「私は韓国籍だから」と明言しましたね。私はその言葉を彼の口から聞き、これで彼の立脚する土台がどこにあるかは明確にできたと、実は心の中では快哉を叫んでいました。だって東大教授というだけで、どこの国の一員かわからない人が、やたらと日本にあれこれ政策論を突きつけるのですから。
この点の意味をわかってくれた人がいたということは、私にとって、きわめて大きい意義があります。
ご指摘の諸点、とくに以下の部分に強くうなづきました。
<<ベトナムののときの中ソのように面と向かってアメリカに対峙する国はないものの、イラク復興支援の複雑さ、人的コストのリスクから多くの国が「総論賛成、各論躊躇」に傾いている点は否めないでしょう>>
因みに、侵略が戦争犯罪(平和に対する罪)として定立されたのは「極東国際軍事裁判所条例」辺りが最初でしょうが、ベトナム戦争が終結した1975年4月30日以前に、如何なる行為が侵略に該当するかは「3314(XXIX) 侵略の定義」(2319回国連総会議決議 1974年12月14日)で定立していたのだから、権力関係で司法当局が実際に訴追することはできないなら、ジャーナリズムの世界だけでも、せめて日本のジャーナリストだけでも、ベトナム戦争中の戦争犯罪者を訴追するべきで、それが、いわゆる「A級戦犯」の供養であり、それをせずに靖国神社に合祀して参拝するのはかえって霊を冒涜することになるのではないでしょうかね…。
大衆通信を職業とするジャーナリストが、権力に支配される側または権力で支配する側の、何れの側に視点をおいても、其々生ゴミになるかまたはゴキブリになるかの違いだけで、何れにしても、ねまり者になる危険はあるということでしょうね…。
ベトナム戦争と似たケースに、朝鮮戦争があります。 1950年の国連安保理において、北朝鮮は韓国に対する侵略者と認定されました。 第2次大戦の連合国≒国連だったことを思えば、東京裁判で日本を侵略者として裁いたのにほぼ等しいでしょう。
にもかかわらず、北朝鮮はいまだに侵略の罪を反省せず、侵略戦争を計画・実行した金日成は今でも北朝鮮においては戦犯どころか、神としてあがめられています。
それをアメリカは許し、「レジームチェンジは求めない」と公言して北の核開発にまでご褒美を差し出そうとしています。 アメリカの正義はどこに行ったのでしょうか? 日本の戦犯は、何のために死んだのでしょうか?
日本は戦前から法治主義や議会政治を実行していた文明国であり、朝日新聞が言うように平和憲法のおかげで戦後やっと自由な民主主義国になったわけではありません。 野蛮なスターリン主義を食い止めていたのは戦前の日本であり、その日本を打ち倒した以上、アメリカがその責務を担う羽目になったのは自らの選択であり、責任です。 日本が戦後、指導者を裁かれ処刑され、戦犯国の汚名を着る屈辱に耐えてきたのも、アメリカが日本を守ってくれるという信頼があればこそです。
アメリカが今になってアメリカが北の核保有を容認して日本を危険にさらし、日本人拉致被害者救出にも協力しないのなら、アメリカは自らの正義を否定することになります。 日本人も戦犯国の汚名に甘んじる屈辱をこれ以上我慢する必要はなくなりますね。 アメリカ人はそうした自己矛盾に気づいているのでしょうか?
ロサンゼルス講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日まで、朝鮮半島は国際法上日本国の領土であり、また、「3314(XXIX) 侵略の定義」は1974年12月14日の2319回国連総会議決議により定立されたものですから、1950年の朝鮮戦争は、国際法上は、北のならず者が南を攻めてきた国内戦争に過ぎないのではないでしょうか? その時の安保理決議にどのような表現がされているか知りませんが、朝鮮戦争の戦犯が訴追されていないから「侵略行為」は未だ確定した分けではないですね。
更に言うと、イラク戦争を「3314(XXIX) 侵略の定義」に照らせば、先に武力攻撃を仕掛けたアメリカのブッシュ政権の「侵略戦争」であり、ブッシュ大統領など戦争遂行の謀議に参加した者や戦争の遂行を指揮した者は「戦争犯罪人」の嫌疑が濃厚だと私は思います。
尚、「日本が戦後、指導者を裁かれ処刑され、戦犯国の汚名を着る屈辱に耐えてきたのも、…」と仰いますが、日本は「敗戦国」ではありますが「戦犯国」ではないことは法学の原理原則をにてらせば明白であり、また、いわゆる「A級戦犯」は、逆縁ではありますが、戦争観を改革した功労者であり、何時までも屈辱に感ずることはなく、そもそも、日本国民全体が戦争犯罪人であろうわけはないと私は認識しており、「慰安婦問題」についても然りです、勿論、個々の国民が日本に生まれた宿業としての業罪に対して「贖罪」する態度を示す必要はありますが…。
因みに、刑法または刑罰規則に違反する国家的な犯罪に対して、国または国の機関の構成員のうち、その犯罪に関与した個人を刑事訴追することはできるは、その犯罪に関係した国または国の機関を訴追することはできないという法学の基本事項は、一昨年頃、東京地方検察局から教えていただきましたが、「極東国際軍事裁判所憲章(条例)」にもそのことが明確に規定してありますね。