慰安婦というのは本当に日本軍の性的奴隷だったのか。
そんな糾弾とは正反対の実態を示す貴重な目撃証言がここにあります。

東京から南に6千キロ、ニューブリテン島のラバウルは第二次大戦中、南太平洋では最大の日本陸海軍の軍事拠点でした。終戦時にも約10万の将兵が駐留していました。

さてこのラバウルにも100人ほどの慰安婦たちがいたのですが、日本軍はなんと戦闘の危険が迫ると、その全員を他の女性たちとともに、日本内地向けの輸送船に乗せて、避難させていた、というのです。
しかしこの輸送船が米軍の潜水艦に撃沈されてしまいました。そのうち慰安婦の二人だけは泳いで、ラバウル近くの海岸にたどりついたそうです。1944年(昭和19年)1月でした。

その後、ラバウルの日本軍はこの慰安婦二人と他の女性一人をいっしょにして、特別の家屋を作り、そこに入れて、一般将兵に接触させないよう、常時12人の武装哨兵をつけて保護したというのです。

これが性的奴隷に対する扱いでしょうか。
明らかに人道主義の配慮を感じさせる待遇のように思われます。

以上の事実はこれまで紹介してきた『秘録 大東亜戦史』
の「マレイ・太平洋島嶼篇」に載った「ラバウル地獄戦記」という迫真のルポルタージュに書かれています。
筆者は現地にいて、こうしたすべての出来事を体験し、目撃した陸軍報道班員の山崎英佑氏です。
山崎氏は読売新聞記者から報道班員となり、戦後はまた読売新聞にもどって、この本が出た1953年(昭和28年)には読売新聞社会部の次長という肩書きでした。

日本軍は100人もの慰安婦の生命への危険を懸念して、遠い南太平洋の島から内地へ避難させようとしていたのです。アメリカ議会に出た「慰安婦決議案」の記述とはあまりに異なる実態だといえましょう。

では以下は山崎英佑氏の「ラバウル地底戦記」の当該部分の引用です。

三人の闖入者

 

 男十万のなかに、日本人女性が三人いた。アナタハン以上である。

 一人は、徴用された船長の女房、船に一家族ごと乗り込み、開戦初期に沿岸輸送の任に当っているうち船が撃沈され、夫は行方不明という存在。夫帰る日を待っているうち内地との連絡もと絶えて、そのまま居残ったという。

 他の二人は、いわゆる慰安婦と呼ばれる存在である。

 十九年の一月、ラバウルにいた全女性は最後の内地行輸送船で送り帰されたが不幸、ラバウル湾を出て間もなく敵潜水艦のために撃沈されてしまった

 百人ばかりの慰安婦はもちろん、船員も、便乗の、内地連絡の兵隊も、みんな溺れ死んでしまった。

 だが、この二女性だけは、泳いでラバウル近くの海岸にたどり着いたのである。

 「屈強の男でさえ溺れているのに、沖合い数浬をよくも泳いできたね」

 最初に救助した部隊の者が、不思議そうにきいたとき、二人の女は言った「死ねませんわ、こんな遠い名も知らぬ海では・・・・・・和歌山まで泳いで帰るつもりだったの」

 一人の女の出身地は、和歌山県で、漁師の娘であった。小学校の頃から、紀伊半島の浜辺で泳ぎまくっていたという猛者である。

「歩くよりも泳ぐ方が楽なんだもんね」

 救われて、気付け薬のブドウ酒を飲みながらこう言った彼女S子だった。

 S子の年は二十三才、下ぶくれの丸顔で、海女によく見かける均整美の女であった。

 いま一人M子は、沖繩の生れで、長くパラオ島で慰安婦をしていたという三十二歳の女であった。

「死にたくないわ、逢いたい人がいるのよ」

 浅黒い細おもての顔をふせて、M子はこう言った。

 さて、女という女をぜんぶ帰して、玉砕態勢をとったラバウルに、こうして闖入して来た三人の女性のために陸海軍とも頭を悩ました。

 背水の陣を布くには、これほど邪魔な、そして足手まといの存在はない。

 たった三人とはいえ、その顔や姿を見かける兵隊が、ふッと故郷を思い出したり、人間の性本能を抱いたりしたら、それは全部隊のマイナスとなる。

 三人の女のために、十二人の護衛がついた。

 田ノ浦と呼ばれる海岸にほど近い海軍司政官宿舎のそばに、三人の女のための壕が掘られニッパ椰子の家が作られた。

「絶対に、壕ならびに家屋以外には外出せざること」

 これが、三人の女に通達された命令である。

 着剣し、装弾した哨兵が、その宿舎の入り口に立った。

 だが、性に飢える兵隊の嗅覚は、猟犬よりも敏感であった。

 噂は噂を呼んで、深夜にひそかに訪れる兵隊は数限りなく、終戦までに、二名もの犠牲者を出していた。

 別に、女性をどうこうして、おのれが本能をみたそうというのではなかった。

 ただ、なんとなく来たものらしく、「女房を思い出そうとしたんです」

 と、歩哨に射たれて息を引きとった中年の兵隊はいったという。