朝日新聞はよく私に知的刺激を与えてくれます。
なにしろなにか出来事が起きて、自分がそれをこう考える、というときに、朝日新聞をみると、だいたいは正反対の考えが書いてあるので、反面教師のピリリとした刺激を味わえます。
しかしそれもたび重なると、こんどは食後のお茶のような効用になります。自分がこう考え、朝日はああ考え、やっぱり180度、異なる、ああ、よかった、という一種の安堵です。
たとえば卑近な例では防衛「庁」を「省」にすると、私は日本の防衛の機能がより正常かつ円滑になるだろうと考えますが、朝日はシベリア出兵を繰り返すような危険な事態が起きるだろう、と考えるようです。
私は自分の考えの正しさは朝日の考えとまったく異なるという一事をもってしても、証明されてしまうような気さえするのです。傲慢なことを書くと思われるでしょう。
しかし日本にとっての講和条約、日米安保条約に始まり、
ベトナム戦争の構図の認識、中国の文化大革命の位置づけ、ソ連の軍事体質の認識など、私は自分の認識が朝日新聞の認識よりもずっと正しかったと自負しています。このことは過去の報道や論評の記録を点検すれば、かなりの程度、立証できます。

さて前置きが長くなりました。

朝日新聞は松岡利勝氏が自殺し、たまたま安倍政権への世論の支持が落ちたという調査結果が出て、うれしくてしかたない、という感じです。
この感じが紙面の記事の文章にあらわに出ています。とにかく感情的、情緒的なのです。
実例をあげます。

松岡氏の死から二日後の5月30日朝刊一面のトップ記事のリードです。見出しは「動転国会」となっていました。

「国会の風景が一変した。与党、そして安倍首相が年金記録問題でつまずき、松岡利勝・前農林水産相の自殺で窮地に追い込まれた。あわてて救済策を「年金時効特例法案」と名付けて国会に出し、「政治とカネ」では民主党の小沢代表の不動産取得を狙い撃ちにするなど、29日になってなりふり構わぬダメージ回復に乗り出した」

さあ、以上の文章のなかに、明らかに情緒的、主観的にすぎると思われる言葉がいくつあるでしょう。
私があげれば、「つまずき」「窮地に追い込まれ」「あわてて」「狙い撃ち」「なりふり構わぬ」ーーなどでしょうね。
安倍首相が本当に、つまずき、窮地に追い込まれ、あわてて、狙い撃ちし、なりふり構わぬ、言動をとっているのでしょうか。

検証のために、あえて安倍政権側の立場に少し身を傾かせて、再考してみましょう。

年金記録問題は安倍政権だけのミスではないことは明白です。だから安倍首相の「つまずき」なのか。
松岡氏の死で安倍首相が「窮地に追い込まれ」たのか、もし自殺がなく、捜査が前進したほうがもっと窮地に追い込まれた、かもしれません。
年金法案のネーミングは「あわてて」だったのか。事前になにも準備はなかったのか。人間の言動を「あわてて」か、「あわてて」ではないか、決める基準とはなんでしょうか。
安倍首相は小沢氏の不動産取得を本当に「狙い撃ち」しているのか。少なくとも、その日の国会での党首討論ではそのテーマはまったく「狙い撃ち」されませんでした。

そして真打ちの「なりふり構わぬ」という表現です。
「なりふり」とは、服装と態度のことです。安倍首相は本当に自分の服装も態度も気にしないつもりで一連の言動をとっているのしょうか。そもそも「なりふり」を構っているか、いないか、を区分する客観的な基準はあるのでしょうか。

ことほど、一方的、断定的、感情的、主観的、情緒的な言葉の羅列なのです。「客観報道」とか「公正」「中立」というようなジャーナリズムの標語からは、およそかけ離れた表現
のようです。

つい「なりふりを構わない」のは朝日新聞の安倍叩きキャンペーンではないか、ともいぶかってしまいます。

朝日新聞のこの同じ5月30日朝刊の第30面に次のような記事が小さく小さく載っていました。

「8億3300万円 本社申告漏れ」「追徴3億5000万円」
「朝日新聞社は29日、東京国税局から05年度までの3
年間で、法人所得に約8億3300万円の申告漏れを指摘され、約3億5600万円の追徴課税(更正決定)の通知を受けた。(残り略)」

この記事はその後に朝日新聞側の言い分の説明や広報部の話などを載せています。

この朝日新聞の税金問題での対応を万が一にも、朝日に悪意を抱く側が「つまずき」「窮地に追い込まれ」「あわてて」「なりふり構わぬ」などという表現で描写したとしたら、それはあまりに下賤ということになるでしょうね。