中国の対日政策の分析を試みた私の本が出ました。文春文庫の『中国「反日」の虚妄』です。

その中ではいまの慰安婦問題にからんで、アメリカ国内での中国系、韓国系などの「日本叩き」組織の実態にも光をあてています。とくに「注視すべきアメリカ国内の反日集団」という章では、例の中国系の「抗日連合会」の活動をも詳述しました。

内容の概略を紹介するカバーの文章をいくつか紹介します。

「なぜ靖国参拝を攻撃するのか?」
「日本を叩くことで、中国政府は自国を操っている」

「日本はいつまで中国に謝り続けなければならないのか。首相が靖国参拝をやめたら糾弾はしないのか。中国の歴史認識が正しいと言えるのか。反日の真の目的は何か。日中友好のお題目に囚われない著者が、ご都合主義の中国の歴史教育や、アメリカでの謀略策動、恐るべき軍事力拡大を指摘しつつ、国際社会の中の日中関係を見直す」

この文庫は2年前に同タイトルでPHP研究所から出版された単行本の文庫化です。しかし2年が過ぎても、内容とテーマの今日性は新鮮だと自負しています。
その点を文庫版の「あとがき」で以下のように書きました。


文庫版あとがき  

古森義久

 

日中関係の表面の状態は水道の蛇口のようなものである。外に出す水の勢いを激しくするのも、穏やかにするのも、ノブのひねり次第なのだ。自分の好むところ、水量を自由自在に調整すればよい。ただしノブをひねる実権は中国側の手中にある――

日中関係のここ二年ほどの実際の変遷をみて、ついそんなことを改めて感じさせられた。

 

この文庫の元となる単行本の「序にかえて」を書いたのがちょうどまる二年前の二〇〇五年五月だった。中国各地では激しい反日のデモや集会が挙行されている時期だった。日本の大使館や領事館、そして日本系の商店やレストランまでが攻撃され、破壊された。

中国側は官民一体の形で日本の国連安保理常任理事国入りに猛反対していた。この反日の示威の最大の理由は、日本を安保理の常任理事国にさせてはならない、という中国側の決意のようにみえた。当時の小泉純一郎首相の靖国神社参拝への反対など、この決意の陰の小さな要因のようだった。

しかし日本側では親中派を主体に「日中関係の悪化は首相の靖国参拝が原因」と批判する向きが多かった。中国側はそんな日本側の傾向にシンクロナイズするように、現職の首相も、将来の首相も、靖国には参拝しないと言明するまでは、日本との首脳会談には応じないと公言していた。

そもそも近年の日中関係では中国側は靖国をはじめとする「歴史問題」で日本を責めたててきた。一九九八年秋の江沢民国家主席の訪日以来、中国側は日中首脳会談では必ず「歴史」を声高に語ってきた。「歴史を鑑(かがみ)として未来に向かう」という教示は、いつも中国側から日本側に対してのみ伝えられた。もちろん日本側の歴史認識が不十分だという批判である。その象徴が首相の靖国参拝だということになる。

中国は二〇〇三年春からの胡錦濤国家主席の時代となっても、すべての日中首脳会談で必ず「歴史」と「靖国」の両方を取り上げて、日本を叱責してきた。二〇〇六年秋に安倍晋三氏が首相になってすぐ訪中しての首脳会談でも、なおこの課題は中国側から言及された。

周知のように、安倍首相は靖国参拝を曖昧にしたが、参拝しないとは一言も述べなかった。中国側の従来の言明に従えば、だから日中首脳会談も開かれないことになる。だが現実は異なっていた。

そして日中関係の歴史でも特筆される、おもしろい現象が起きたのだった。

二〇〇六年十一月、ハノイで開かれた第二回の安倍・胡錦濤会談では、唐突に「歴史」も「靖国」も消えてしまったのだ。胡主席がそれらのテーマをまったく口にしなかったのである。

日本側の歴史認識が小泉政権から安倍政権になって急に激変したという兆しはない。靖国参拝についても安倍首相は譲歩をみせていない。だとすれば、中国側はみずからの判断で「歴史」や「靖国」を少なくとも当面、もう提起しない、と決めたとしか思えない。

中国政府は日本に対して、よく「十三億の中国人民の感情が傷つけられたため」という理由で「歴史」や「靖国」を持ち出し、非難してきた。だが日本と中国の「歴史」や「靖国」にかかわる現実が変わってはいないのに、その恒例のテーマをすっぱりと削ってしまったのだ。

この事実は中国当局にとってこの種の課題を持ち出すことも、引っ込めることも、そのときの政治的計算で自由自在なのだという実態を指し示していた。「歴史」も「靖国」も中国側は、まさに水道のノブを自由にひねって、水を出したり、止めたり、水量を調節したり、蛇口から出る水の勢いは好き勝手にできる、ということである。

中国側はこれ以上、日本側を硬化させてはならない、日中関係を悪化させてはならない、と判断すれば、十三億の人民をみな憤慨させているはずの日本側の「靖国参拝」も「歴史認識」も非難の標的からはあっさりと取り除いてしまうのである。

そして二〇〇七年四月、中国の温家宝首相が訪日した。とげとげしい日本非難はいっさいなく、ソフトでマイルドな微笑外交を展開した。日本側も歓迎した。日中の双方で温首相の来訪は「日中関係の氷を溶かす旅」とも評された。

中国側は明らかにいまは日本とは融和の時期だと判断したのだろう。二〇〇五年春の反日デモのあと、日本の中国への投資が減る気配をみせていた。中国のグローバルなパワーの膨張にアメリカが警戒を深めてきた。いずれも日本との関係を険悪にしたままでは損だと計算したのだろう。水道の蛇口から出る水は少なくとも当面は穏やかに、円滑に、と決めたのだといえる。

 

しかし日中両国間では、かつての険悪な摩擦を引き起した対立案件は現実には決して解決されてはいない。靖国問題も安倍首相がまだ参拝するとも、しないとも、述べていない以上、年来の対立は水面下では変わっていない。中国が日本固有の領土である尖閣諸島の領有権を主張することでの日本との対立も変わっていない。東シナ海でのガス田開発にからむ排他的経済水域(EEZ)の線引きでの対立も解消されていない。

安全保障面をみても、中国のものすごい軍拡への日本側の懸念は深刻になるばかりである。逆に日本がミサイル防衛や東アジアでの米軍再編への協力によって日米同盟を強化していくことへの中国の苦情も消えていない。台湾海峡の平和と安全に日本が懸念を表明したことも、中国は不当な干渉だと非難する。

そしてなによりも中国共産党が無期限統治の正当性の根拠とする反日の教えも、これまた変わってはいない。

要するに日本と中国は自然のままであってもなお対立し、衝突する潜在要因が多々、あるのである。それをいかにもそんな要因はないかのごとくにふるまってきたのが日中関係の「日中友好」の長い時代だった。いまやもうそんな「ごっこ」の時代にもどることはできない。現実を現実と認めることが両国関係の健全な発展の第一歩となるのだ。

日中関係の現実とは、両国がそれぞれの国益や国民の利害に合わせて動けば、どこかである程度の対立や衝突をみることは避けられない、という実態のことである。その実態はそう簡単には変わらない。ただしその実態を覆う表面の様子は両国の意向でかなり大幅に変わりうる。表面の融和を装うことは、そう難しくはないわけである。

しかし日本と中国の根本的相違は中国が一党独裁であり、日本が独裁を完全に排した民主主義であることである。中国首脳部は国内の世論などを気にせずに、自分たちが正しいと信ずる政策を日本に向かっても大胆にとることができる。いまの時点での日本に対しての「微笑」も、その結果としての日中間の凪も、みなそうした政策操作の産物だろう。

この点、在アメリカの中国人の経済学者・ジャーナリストの何清漣氏は、中国では世論が政府を動かすのではなく、政府が「世論」をつくり、それを利用して一定の政策を実施するのだ、と説く。日本に対する政策や態度、そして反日ナショナリズムも、当局の操作によるという。「日中関係が近年の(悪い)状態となったのは、中国政府が国内政治の必要性から故意に『敵』をつくるために、メディアを操り、ナショナリズムを煽ってきた帰結だ」というのである。

だから現在の日中関係の表面の静けさも、その表面だけの景観にだまされてはならない。

 中国の対日政策や対日姿勢にはいつも虚妄の部分が存在するのである。この書はその虚妄の実態を構造的に説明することを主旨としている。

 

 なおこの文庫版づくりにあたっては文春文庫編集部の大口敦子氏に指導をいただいたことに謝意を述べたい。

 

二〇〇七年五月

            古森義久