民主党代表の小沢一郎氏が説く国連至上主義の虚構と危険に対しては、繰り返し警鐘を発する必要があります。
日本が小沢氏の主張するように、自国の安全や地域の安全を国連にゆだねて、主権国家としての自国の安保努力を怠れば、亡国の道があるのみです。

小沢氏の国連に対する認識が基本部分でまちがっています。同氏は日本の安全保障と国際協力に関する「基本原則」の文書で以下のように述べています。


「世界秩序を維持できる機能を有する機関は国連しかない」

国連は理論的にはそうした機能を有しているかも知れません。しかし現実には国連は誕生してから62年、いまだかつてそんな機能は有していません。
国連は戦争を防止もできません。紛争の抑止にも無力です。平和維持にもさんざん失敗しています。虐殺を防止できないだけでなく、目の前で座視した事例も多数あります。

小沢氏の国連至上主義の虚構のひとつは、「国連軍」への態度です。
小沢氏は「基本文書」で次のように述べています。

将来、国連が自ら指揮する『国連軍』を創設する時は、我が
国は率先してその一部と
して国連待機部隊提供し、紛争の解決や平和の回復のため全面的に協力す
る」

この記述は、いかにもこれから「国連軍」という部隊が創設されるように書いています。しかし現実には「国連軍」の構想はとっくに破綻しているのです。もうその創設をうたった国連憲章も死文化しているのです。その経緯と実態を国連の歴史をさかのぼって報告しておきましょう。小沢氏の国連論の虚構を説明するためです。


周知のように、国際連合は1945年4月からサンフランシスコで開かれた全連合国会議でその創設が決まり、同年6月のこの会議での50カ国による国連憲章への調印を得て、事実上のスタートを切りました。

憲章が決めた国連のメカニズムでは国連自体が歴史上、初めての国際機関として独自の軍隊を持ち、平和の維持や執行にあてることになっていました。
国連への加盟はすべての主権国家が大小を問わず、平等に、1国1票の権利を有することとなりました。組織の運営は総会と安全保障理事会が主軸となることになりました。

だが総会はあくまで「勧告」の権限しかないのに対し、安保理事会は「執行」の権限を与えられ、しかも平和と安全に関する案件はすべて安保理が優先し、独占してまず扱う権利をも託されました。そのうえに安保理では常任理事国5カ国それぞれが拒否権を有し、いかなる提案でも1国がノーといえば、葬り去られることとなっていた。
平等であって、平等ではない国連の最大特徴がここに存在するわけです。

しかしそれでも1945年10月24日、加盟国の半数以上の国連憲章批准が終わり、国連が正式に発足したとき、この新国際機関こそが以後の世界の平和を守る実効組織だとする高い期待が全世界に広まりました。同年8月には日本もついに降伏し、長く苦しい世界大戦もやっと終幕を迎えていたわけです。

そうした世界情勢の背景の下、国連は戦後の新時代の輝く平和の守護者としてあがめられました。しかしそんな希求も期待も長くは続きませんでした。きらきらした理想がどんよりとにごる現実にさえぎられるのに長い時間はかからなかったのです。
 
国連独自の軍隊という壮大な歴史的実験は、着手さえできないことが判明したからです。

「国連軍」の構想は国連憲章の第42条から47条あたりまでの規定できわめて具体的に決められていました。
国連の必要に応じて加盟各国が随時に出す平和維持軍とは異なり、国連指揮下の常設の平和と安全のための軍隊が「国連軍」だという構想だったのです。

この国連軍は軍事参謀委員会により結成され、運営されることになっていました。軍事参謀委員会は安保理常任メンバーの5大国の参謀総長により構成されるはずでした。5大国から空軍、陸軍、海軍それぞれどれほどの兵力と装備の部隊を募り、全体としてどんな国連軍を編成するかはこの委員会で決められることになっていたのです。
 
しかし国連の発足1年あまりでアメリカやソ連によるこの軍事参謀委員会の討議は完全に破綻してしまったのです。
 
以来60年、国連軍というのは、その創設が語られることもなく歴史は流れました。唯一、「国連軍」が結成されたのは1950年6月に起きた朝鮮戦争のときだけ1回でした。北朝鮮の侵略を国連が非難し、武力行動をとることが合意されたのですが、この動きは当時、ソ連が中国にからむ問題で国連安全保障理事会をボイコットしていたという特殊な理由からでした。例外中の例外というケースです。ましてその「国連軍」の実体は米軍であり、歴史上でも最も血なまぐさい戦闘の一つを展開したわけです。

小沢氏は上記の歴史を知ったうえで、国連を世界の最高至上の平和維持組織とあがめ、国連軍が来年にでも創設されるかのように語るのでしょうか。

国連軍というのは、まぼろしなのです。