ODAでは中国の事例で懲りたはずの日本政府がまた形を変えて、ODA増額を試み始めたようです。
金額を増やす前に日本のODA制度には大規模な改革が必要なのです。
そんな趣旨を書きました。
7月29日の産経新聞朝刊掲載です。
【あめりかノート】ワシントン駐在編集特別委員・古森義久
■ODAに必要な「法の統治」記事情報終了フッター情報開始アフリカ南部ジンバブエのロバート・ムガベ大統領といえば、いまの世界では悪評の最も高い独裁者の一人だろう。
そのムガベ大統領にひどい目に遭った日本の政治家がいる。
1997年7月、橋本龍太郎首相の下で厚生大臣だった小泉純一郎氏である。
厚相としてジンバブエの首都ハラレを公式訪問した小泉氏は7月18日午前、ムガベ大統領と会見する約束だった。
橋本首相の親書も携えていた。だがこの日本政府代表と公式会談の予定を決めていたムガベ大統領は約束の場に約束の時間が過ぎても、現れなかった。
小泉氏が待てど暮らせど、相手はまったく姿をみせなかった。
遠路はるばるにもかかわらず、完全にすっぽかされたのだ。小泉氏は当然ながら怒りをあらわにして「援助されて当然という考えは改めるべきだ」などと語った。
その背景には日本政府がジンバブエに対しその年までに合計800億円ものODA(政府開発援助)を与えてきた経緯があった。
アフリカ南部でも重点援助国としてのジンバブエは、当時の自国のGDP(国内総生産)の6%もの援助を日本から得ていたのだ。
だから日本側にはこれだけ恩恵を得た相手なら当然、日本の重要閣僚を鳴り物入りで歓迎するだろうという期待があった。
だが日本のODAというのはそんなふうには機能しないのである。
3兆円にのぼった中国へのODAも日本政府が公式の目的とした「友好」や「民主主義」の促進にはなんの寄与もしなかったことは、手痛い教訓だといえよう。
福田康夫首相はそれでもアフリカ向け「ODA倍増」計画を発表し、実行に移し始めた。現在は年間1000億円ほどの対アフリカODAを2012年に2000億円にまで増やすというのだ。
「倍増」という言葉は国民の所得など入ってくる資金の目標に使うのが自然であり、国民の貴重な資金の消費を2倍にする案は、一体なんのために、と問わざるをえない。
町村信孝官房長官はこの倍増の理由として「日本の国連安保理常任理事国入りへの連携」と「資源の獲得」をあげた。
05年から翌年にかけ日本の外務省が総力を投入した常任理事国入りの運動がアフリカ諸国の反対でとどめを刺された事実を踏まえての主張かもしれないが、当時でもアフリカの重点諸国には日本のODAは豊富に供されていた。
そもそもODAを与えれば、相手は日本の要求に応じてくれるという発想が幻想である。
そのへんの冷徹な現実はムガベ大統領がいみじくも身をもって実証してくれたといえよう。
経済効用でもアフリカ向けODAは疑問が多い。
米国の複数のシンクタンクの調査では、アフリカにはODAを大幅増額しても経済が逆に後退し、国民1人当たりの所得が減ったという国が多い。
日本が1990年代にアフリカ援助の最重点としたケニアはまさにその実例だった。
政府から政府への援助に限られる日本のODAは独裁政権への支援に終わり、市場経済拡大を阻む危険さえ高いのだ。いまの日本のODA政策に必要なのは支出額の倍増よりも、対外援助の構造の根本からの再編である。
現行の欠陥や矛盾はあまりに多く、これだけの巨大な国家事業の施行を規制する法律一つさえ存在しない。
まず求められるのは支出額さえ増やせば効果があがるとする虚構を捨てて、国民の財の巨額な使用には不可欠の「法の統治」を導入し、「ODA基本法」の制定を考えることだろう。(こもり よしひさ)
コメント
コメント一覧 (18)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008072701000320.html
発展途上国とは言いながらも、なんだかんだで中国へ向かうのではないでしょうか?
アフリカ支援のODAも中国への環流があるそうなので、結局色んな方法で中国へお金と回すための方策なのかな、と思えてなりません。
「常任理事国入り」にしてもお題目だけで、実はODAを死守したいための言い訳だったのではとも思えてしまいます。
一方で財政赤字を言いながら、ODAだけは増やすと言うのは変ですよね。
増やすならその費用対効果をちゃんと説明できるようにしないとダメでしょう。
まぁ、あまりガラス張りにすると困る政治家もいるのでしょうが。
10数年もの以前からODAに巣食う役人OBを糾弾し続けてきたが、法律がないために、検察も公取も看過、半ば堂々と意味の薄い援助は繰り返されてきた。
だが今回のPCIの関係では、取り締まる法律の有無に関わらず、日本の国益を考えて当局が動いた。やればできるのである。日本国が軽蔑の対象になるような官僚商売をいつまでも続けさせていてはいけない。
コメントをまじめに読ませていただきましたが、意味が不明なところが多々あり、答えることに自信がありません。
もう少し、主張したいことを少なくして、焦点をしぼったらいかがでしょうか。
そうです。
官僚機構の常として、ODAを実行するための機構をつくると、もうその機構の維持が最大の目的となり、その目的のためにODAを実施して、あとから理屈づけ、という逆転現象が起きるわけです。
アジア開発銀行など、その典型でしょう。
この国際機構がなくなっても、現実の支障はまったくないのに、その存続のために、後付で対中援助などのが実施されるのです。
PCIによるベトナムでのODA贈賄、ものすごいですね。
日本の警察はよくやったと思います。どうしても放置できないほどの大規模悪質贈収賄事件だったということかも知れません。
この不正事件こそまさに日本のODA制度での「法の統治」欠落の象徴ということですね。
アジア開発銀行の中国援助の奇怪さは私も産経新聞で詳しく報道しました。
ひどい動きです。
お金はどの部分を使っても同じですから、日本の対中援助で浮いた分の資金が中国からアフリカへの援助に使われる、というのは、まさにそのとおりです。
>それで、ODAの3兆円の責任は、ご理解を頂けますか。
>ヤクザ相手にさえ税金を与えてしまう官僚が悪いだけのことです。
中国が有効につかって(軍事費とかに回さず、地震で崩れない
校舎をつくるとかね)くれて、しかも感謝してくれれば(いつまでも
反日とか騒がないでね)、別に勿体ない金じゃないし、
3兆円払ったことについて責任なんてだれも言いはしませんよ。
もらって使うほうのモラルがしっかりしてれば問題ない話
じゃないですか?
こっちは官僚にだまされたかなんかしらないけど、
「日中友好」って40年以上も信じて金払ってきてるわけですよ。
それを、踏みにじって(スポーツに政治持ち込んで選手がピッチで
日本人選手に飛び蹴りくらわすような教育してきて)、
日本の官僚が悪いとか少なくとも中国人に言われたくないですね。
>黙っていてももらえるあぶく銭に感謝するバカはいません。
戦前、日韓併合の時代は、膨大な金を投じて朝鮮に建物や道路などのインフラに、日本の国家予算を費やしたののだが。
戦後の日本敗戦、日本軍撤退のドサクサに、日本と韓国は戦争をした分けではないのに、韓国は調子に乗って竹島まで、日本から奪ってしまった。 それなのに戦後は何かに付けて日本の悪口を言う。
>むしろ止められたときに恨む気持ちが湧いてくるのが人情でしょう。
これに恐れて、中韓が直ぐ文句を言うのに、気圧(けお)された日本の官僚が、直ぐ御金をだすのは、戦後教育によって、日本人に胆力や度胸が無くなっているのだ、武士道的気概が喪失されたのだ。 男は度胸と言うが・・・。
ピンポイントで興味の中心に炸裂するお題です
現状分析に同意し立法の必要性に同意します
ODAの位置づけの問題が有ります
ODAを短期の国益に結びつけることに反対です
角栄氏のアジア歴訪時の反対デモを思い出すと、現在隔世の感を感じます
ODAは効果があったと思います。
アフリカに対するODAは非資源国に力点を置くべきです
富の分配が簡単、日本の影響力を行使しやすい
(工業製品を輸出、優遇税制で農水産物で資金を回収)
小国でも一票は1票
井戸を与えるのか、井戸の掘り方を教えるのか。与えられるものと、自らの力で得たもの、同じ金貨1枚であってもその意味と価値はまったく違うはずです。
こちらの記事、産経紙面にても拝見させていただきました。
ODAやら形を変えた海外援助というのは国の強みでもありますが、それを生かしきれてない日本政府には歯がゆく、悔しい思いばかり。日本人はもうそろそろ寝惚け眼から脱却すべきです。“自分は誰なんだ?何人か?”と云う観点も大いに必要でしょうし、それを喚起する世論も必要と考えます。(世論喚起のマスコミの力が大です)それが自国の為の法改正にも繋がるでしょうし、自国の力になると思います。ただ残念ながら、我が国にはあまり縁がなく経済的理由や何かの目的の為に帰化された方も多く、一朝にはいかないのが現状です。これからの時代、残念ながら移民国家アメリカの経験も聞く必要が出てきそうです。
>こんばんは 古森様
>
>ただ残念ながら、我が国にはあまり縁がなく経済的理由や何かの目的の為に帰化された方も多く、一朝にはいかないのが現状です。
そうなんですよね、左翼とか、自分が生活出来れば日本の体制が、どうなろうと構わないという無責任な人々が、真正の日本の改革の前進の足を引っ張って、旧態依然に留まるのです。 売国奴政治家の跳梁跋扈を容認する訳です。
いつも感じる事ですが、日本人というのは相手のために何かをしてあげるのは得意なようですが、見返りとしてきちんとした対価を受け取るのが苦手なような気がします。
お歳暮やお中元を例に取るまでもなく、相手から何かを頂いたら、それ相応のお返しをするという関係こそが、他人との人間関係の要諦なのであって、中身は大して重要ではありません。
相手に援助したら相手は俺たちに感謝するだろう、と期待するのは、ある意味傲慢な態度でありますね。人間というのは相手に何かしてもらったら、何かを返さないと居心地が悪くなるのが、自然な感情なんだろうと思います。しかし、自分にお返しをする能力がない、または相手がそれを受け取ってくれないと、一方的な負債感を抱いてしまいます。そして負債感に押しつぶされそうになると、それは相手への憎しみに転化しがちです。
これは対等な人間関係を構築するうえで、障害になります。
韓国人が大昔の日本への文化伝播を強調したり、日帝の搾取を過大に取り上げるのも、近代化・産業国化の過程で日本から受けた各種技術・資金援助という恩を押し付けられたくないという、心のバランスシートを健全化する試みであるともいえます。
中国がアフリカ大陸でそれなりの成功を収めているとすれば、彼らが徹底的に援助の対価を相手に要求しているからでしょう。そこには慈善=憐憫の入り込む余地はありません。アフリカ人からしたら腹が立つ油断ならない相手でしょうけど、日本人やヨーロッパ人よりは、中国人から心理的に対等な扱いを受けていると感じているのではないでしょうか。
日本のアフリカ政策も、暖かい援助よりは冷徹なビジネス。
そう割り切ってこそ、アフリカ人の信頼を勝ち得る事ができるのではないかと思います。
まだまだアフリカ投資を躊躇する企業も多いですしね。
長々と稚拙な文章、失礼しました。
>小生は、貧しい子供時代から、中国の外国への援助を感じました。
>その無理の援助は、国民の生活まで影響を及ぼした。
>それは、感謝されるという贅沢な期待より、仲間が無い時、見方を
>買う感じます。
それは毛沢東時代でしょうか? そうならば、キューバなど、社会主義同盟諸国への支援という意味だったのではありませんか? 中国が感謝されるというより、社会主義圏の結束を強固にするねらいがあったように思います。