北京五輪では周知のように柔道の100キロ級で期待された鈴木桂治が一回戦と、敗者復活戦と、いずれもあっさりと敗北しました。
この二回の敗北に共通するのは「足取り」です。そうです。鈴木は二試合とも相手に足を取られて、つまりタックルされて、投げられたのです。
一回戦の相手はモンゴル選手、正面から鈴木の足元に飛び込んできた相手は鈴木の両足を抱えて、引きつけ、鈴木があわてて、両足を後ろに最大限に伸ばし、上半身を前方に倒して、持ち上げられるのを避けようとしました。
、
しかし相手はそれよりも早く、強く押し込んできて、場外に向けて、みごとに鈴木の両足を抱え込み、すくって、鈴木の体全体を背後に落としました。一本でした。
双手刈りと呼ばれますが、要するに足取りなのです。タックルと同じです。
敗者復活戦の相手はドイツ選手です。こちらはモンゴル選手より柔道らしい組み方をしてきましたが、鈴木の隙をついて、足取りにきます。
鈴木の斜め前方から足を一本だけつかみ、もう一方の手で、鈴木の他の足のズボンを握って引きつけます。そして最初にすくった足を勢いよさらに刈り取るように引きつけ、鈴木の体をみごとに倒しました。
これまた横落としなどと呼ばれるけれども、要するに足取りでした。
つまりわが日本の誇る前回の五輪の金メダリストの鈴木選手は二度、続けて、あっというまに外国選手に足を取られて、負けたのです。
日本の柔道の弱点を突かれたといえましょう。
ただしタックルが柔道の主要な技と認知されたままでよいのかどうか。
ここでまた年来の疑問が復活してきます。
足取りは柔道の技ではないという意見もあるのです。柔道の試合で二人の選手が足取りだけを繰り返したらどうなるか。柔道の本来の姿の否定につながりかねません。
その一方、足取りも柔道の立派な技だという考え方もあります。いまの国際柔道の主流でしょう。日本の古来の柔道にも双手刈りという技が存在します。だからたとえ事実上は単なるタックルであっても、立派な柔道の投げ技だという見解も成り立っています。
さあ、タックルを柔道の不可欠な一部として認め、それを自分たちも採り入れ、仕掛け、
その一方、タックルの防御法を徹底して身につけるか。
それともタックル自体を試合で制約し、一定以上は禁止するという方向へ動くのか。
さあ、日本の柔道界はこんな難題を突きつけられたわけです。
この二回の敗北に共通するのは「足取り」です。そうです。鈴木は二試合とも相手に足を取られて、つまりタックルされて、投げられたのです。
一回戦の相手はモンゴル選手、正面から鈴木の足元に飛び込んできた相手は鈴木の両足を抱えて、引きつけ、鈴木があわてて、両足を後ろに最大限に伸ばし、上半身を前方に倒して、持ち上げられるのを避けようとしました。
、
しかし相手はそれよりも早く、強く押し込んできて、場外に向けて、みごとに鈴木の両足を抱え込み、すくって、鈴木の体全体を背後に落としました。一本でした。
双手刈りと呼ばれますが、要するに足取りなのです。タックルと同じです。
敗者復活戦の相手はドイツ選手です。こちらはモンゴル選手より柔道らしい組み方をしてきましたが、鈴木の隙をついて、足取りにきます。
鈴木の斜め前方から足を一本だけつかみ、もう一方の手で、鈴木の他の足のズボンを握って引きつけます。そして最初にすくった足を勢いよさらに刈り取るように引きつけ、鈴木の体をみごとに倒しました。
これまた横落としなどと呼ばれるけれども、要するに足取りでした。
つまりわが日本の誇る前回の五輪の金メダリストの鈴木選手は二度、続けて、あっというまに外国選手に足を取られて、負けたのです。
日本の柔道の弱点を突かれたといえましょう。
ただしタックルが柔道の主要な技と認知されたままでよいのかどうか。
ここでまた年来の疑問が復活してきます。
足取りは柔道の技ではないという意見もあるのです。柔道の試合で二人の選手が足取りだけを繰り返したらどうなるか。柔道の本来の姿の否定につながりかねません。
その一方、足取りも柔道の立派な技だという考え方もあります。いまの国際柔道の主流でしょう。日本の古来の柔道にも双手刈りという技が存在します。だからたとえ事実上は単なるタックルであっても、立派な柔道の投げ技だという見解も成り立っています。
さあ、タックルを柔道の不可欠な一部として認め、それを自分たちも採り入れ、仕掛け、
その一方、タックルの防御法を徹底して身につけるか。
それともタックル自体を試合で制約し、一定以上は禁止するという方向へ動くのか。
さあ、日本の柔道界はこんな難題を突きつけられたわけです。
コメント
コメント一覧 (22)
こういう議論を見聞きすると、なんだか、元寇が押し寄せた時の鎌倉武将の戦い方を連想させますね。
「や~やぁ、我こそは」と名乗っている内に弓矢で殺された、って話をつい思ってしまうのです。
本来、柔道にも多彩な技が有るのですから、その変形技で負けたらやっぱり負けだと思います。
第一、こういう技を外国選手が多用するのはずっと前から分かっていたことで、それに対応できなかった日本勢がそもそも何をやっていたのかってことでは?
それをせずルールで縛るのは、柔道を窮屈なものにしてしまいかねません。
組み合わないのは論外かも知れませんが、こういうタックルまで認めないというなら、柔道は格闘技ではないと言うことになりませんか?
柔道は格闘技とは違う、というなら別にどうとも言いませんけど。
いっそ、「クラシカル柔道」と「フリー柔道」で分けたら良いのではないでしょうか?
レスリングにもグレコローマンスタイルとフリースタイルが有るように。
私は総合格闘技をよく見るのですが、タックルだけの選手はやはり対策を立てられると不利なようです。
なので、タックル狙いだけの試合ばかりになると言うことは無いと思うのですよね。
要は、どんな技にも対応できる戦い方を研究することこそ、柔道の更なる進化だと思うのですが。
素人の暴論でしょうけどね。
その通りだと思います。 真の柔道は格闘技ではないのです。 映画の「姿三四郎」は格闘技のプロレスラーに勝ったし、精神の堕落した柔術家に勝ったのだ、これは柔道は、精神の清さと技が大事だという事だ。 しかし、オリンピックは格闘技かもしれない、これは日本精神とオリンピック精神の違いかもしれない。 然し、オリンピックはオリンピックなのだから、さて
>タックルを柔道の不可欠な一部として認め、
これを認めるか、または、
>タックル自体を試合で制約し、一定以上は禁止するという方向へ動くのか。
タックルを禁止するのか、これは、大いに議論すべき問題だと思います。 今までだって、日本の独創的な勝利に対して、オリンピックのルール変更があって日本は苦渋をなめて来たのですから、日本も大いに文句を言っても良いと思います。
正に、
>日本の柔道界はこんな難題を突きつけられたわけです。
本当に、嘉納治五郎の「講道館柔道」は難題を突きつけられたと、思います。
『帯をぎゅ!っとね』というマンガご承知でしょうか?このマンガは一地方公立高校に入学した5人が入学した高校に柔道部がないので柔道部をつくって、インターハイ・嘉納杯等々を狙い、国債強化選手を目指しオリンピックを…ってな話なのですが、中でも「レスリング対策」とか「選手の強化方法」とかへの話もありました…久しぶりに読み直してみようかな…作家さんが柔道の経験者らしいことだけあって、中々面白かったです。
確かに懸念はあるのでしょうが、おそらく競技フェンシングも、ヨーロッパで親しまれたモノとは変質してきたのではないでしょうか。
日本の柔道も、この波に飲み込まれず、進んでいかなければいけないのではないかと思いますが…これは経験の無さが言わせているのかもしれません。
ご無沙汰しておりました。
私も昨日、日本のチャンピオンが「足取り」という姑息技に負けて、柔道美学が陥ちた姿を目の当たりにしました。
柔道は「道」であるのか「スポーツ」か?
ニッポンが負けると必ずそのような議論が起こりますが、半分は正当で、半分は負け惜しみです。正当な「一本」柔道が姑息技に負けるとはケシカラン、柔道をスポーツに堕することはケシカラン! と。
古森様は仰います
>日本の柔道界はこんな難題を突きつけられたわけです。
また、thinking さん は仰います。
>本当に、嘉納治五郎の「講道館柔道」は難題を突きつけられたと、思います。
しかし、突きつけられたのは今に始まったことではありません。1964年東京オリンピックで「ニッポン柔道」がオランダのヘーシングに負けたときから、それ以来、「負けたときには必ずでてくる」常套句でしたよ。
つまりこれは、
★「スポーツ化」「国際化」しない純粋な柔道の「道」だったら、日本人は負ける筈がない
という負け惜しみを含意しています。
私は、冷静に2つのことを考えていただきたいと思っています。
1、「スポーツ化」「国際化」を悔み嘉納治五郎の講道館柔道を守りたいなら、柔道をオリンピックの種目にしなければいい。それに反して東京オリンピックで種目に採用したのは他ならぬニッポンの柔道界であることをお忘れなく。
2、不思議なことに、北京オリンピックで金メダルを獲得したのは、みな女子でしかも「一本型柔道」を信じて戦った選手であったこと。「一本型柔道では勝てませんよ」という指導を受けた男子選手は、ことごとく一回戦、二回戦で敗退したこと。足取りで2回連続して負けた男子選手が、どちらの「主」で練習をしていたかは興味深い。
まあ、柔道床屋(銭湯?)談義も、21世紀のこの頃、ステロタイプはやめませう。柔道談義を竹島談義のようにそこの浅い問題にせぬように。
ふと思うのですが、
古来、柔道や相撲や剣道とは、勝つこともさることながら、人間形成、人間修養の手段であって、その理念は、礼に始まり礼に終わる。あるいは正々堂々真っ向勝負が基本なのではないでしょうか。
日本の武道をスポーツにしたときから、古森さんご指摘のジレンマが生まれたのかもしれません。
武術としての柔道が、スポーツとしてのJUUDOUに変化し、武術としての相撲道が、スポーツとしてのSUMOUに変化するとき、組み手がなくなり、四つ相撲がなくなってし舞いました。
おそらく、勝つためには、組むよりも奇襲?のほうが手っ取り早く勝ちやすいのでしょう。
これらは、柔道や相撲のレスリング化ですが、勝つという意味においては、勝つことだけを目的とした道のないレスリングに到達するのは自明の理かもしれません。
柔道が柔道着を脱ぎ捨て、相撲がまわしを外すとき、残る技はレスリングだとも言えます。
最近の格闘技ブームを見るとき、スポーツに垣根はなく、何が最強かだけが目的化するとき、勝つためのスポーツとはグロテスクなものだということがよくわかります。ただ、格闘技をショー化することによって、かろうじてその美しさを保っています。
剣道やフェンシングが美しいのは、剣の長さのおかげでレスリング技が使いにくいからですね。
あれは足取りなんでしょうか、そうではないんでしょうか?
あれが足取りだった場合、勝ったからいいんだ、というのではちょっと説得力がなくなってしまうのを危惧いたします。
おひさしぶりですね。
さて日本の柔道への課題ですが、東京五輪でオランダのヘイシングに神永選手らが完敗したときは、ヘイシングは日本式の格調高いスタイルの柔道でした。礼儀さえも日本側を圧していました(オランダの応援団が喜びのあまりマット上に跳びあがってこようとするのを彼が制止しました)
だからその際の日本側への課題は柔道の質とは無関係でした。
今回は異なるわけです。
柔道は単なるスポーツではなく、精神や礼儀のからむ「道」であり、武道であるという認識は日本以外のフランスなどでも意外なほど強いようです。
タックルをしてくる選手を輩出する国でも、同じ傾向があると思います。
ただし国際スポーツ競技となった以上、とにかく負けられない、勝たねばならない、となって、日本選手とまともに組めば必ず投げられるという意識があるために、それ以外の方法を必死で模索し、現在の状況に到達したという面が大きいのだと思います。
上野のあの技も足取りですね。
朽木倒し、なんて、かっこよい名前をつけてるけど、要するに相手の足を引っ張って、すくい倒すことです。
日本選手の場合、外国選手があまり頻繁にかけてくるので、ではたまにはこちらもという自衛措置的な意味もあるのでしょうが、いくら優勝でも、あの技自体はほめられるものではないでしょう。
この議論で、説得力がなくなるというのは、ご指摘のとおりです。
足取りを制約するならば、もちろんみんな一律に、です。
>ni0615 さん
>おひさしぶりですね。
古森さん レスありがとうございます。
>さて日本の柔道への課題ですが、東京五輪でオランダのヘイシングに神永選手らが完敗したときは、ヘイシングは日本式の格調高いスタイルの柔道でした。礼儀さえも日本側を圧していました(オランダの応援団が喜びのあまりマット上に跳びあがってこようとするのを彼が制止しました)
十代だった私も、テレビや市川昆監督の映画を観て、ヘーシングが日本式柔道の「礼」を重んじる人であり、「一本」の美学をもっている人であることは知っていました。仰るように、ヘーシングは決して「一本」の美学を破った人ではないのです。
>だからその際の日本側への課題は柔道の質とは無関係でした。
>今回は異なるわけです。
古森さん、
それは「だから」では繋がりませんよ。
ヘーシングに負けたということは、日本の庶民のレベルでは「お家芸が負けた」ということであり、日本の柔道界はその後「負けない柔道」をめざしてひた走りました。「一本」の美学を捨てたのはむしろ日本の柔道界ではなかったでしょうか。
それが「ヘーシング」ショックです。
今でもその傾向は見られますが、その後、日本選手権など国内の大会を見ますと、一本勝ちなど殆ど無く、「旗判定」「旗判定」のオンパレードとなりました。東京オリンピック後の日本柔道は「とてもつまらない」ものになってしまいました。
「一本」の美学はむしろ、判定でもめることをきらう国際大会だからこそ、辛うじて発揮できているともいえましょう。
とはいえ、今回の女子柔道選手の活躍はアッパレです。金メダルを取った諸嬢は皆、「一本」の美学を信じて邁進しただけでなく、完全アウェイの状況では万国人が例外なく「勝ち」を認めるのは「一本」である、という確固たるマキャベリズムも忽せにしなかったのです。
柔道は、スポーツ競技なのかそれとも敵を倒す技なのか。国際的なスポーツとして日本文化に馴染みの無い人たちにも分かりやすい形にするのか、日本文化としての精神性を大事にするのか。など、論点がいろいろと絡み合って難しいですね。
空手とテコンドーの違いにも通じるものがあるように思います。テコンドーは空手の下段蹴りを禁止してしまったため格闘技としての実用性を犠牲にして競技としての派手さ、面白さを追求した形になっていると。(間違っているかもしれません。)
柔道もスポーツとしての面白さを追求するのであればタックルは禁止してきれいな技をかけることを求めればよいし、格闘技としての実用性を考えるのであればタックルしてそのまま寝技で絞め殺せば良いのでは。。。(これは柔術ですかね?)両方あっていいと思いますが、個人的には見るのであれば前者、やるのであれば後者かな、と思います。
足すくいは相手と組まないという前提なので、どうしても柔道本来の投げ技とは相反する要素が大きくなるわけです。
この種の問題は規則の改正でほとんどの部分、抑えられるでしょう。
現に国際柔道連盟はそちらの方向へ動いているようです。
とくに最近は「普通の人が見て、おもしろい」という要素が柔道のテレビ放映権の代金などとからんで、急速に大きくなっています。
そこからもタックル問題は是正されるかも知れません。
日本の柔道界がヘイシングに負けたために、一本を取るべきという考え方を捨てた、あるいは薄めたという事実は私が知る限り、ありません。
もっとパワフルに、もっと体の大きな選手を、という意識改革はありましたが、一本取らなくてよいから、とにかく勝つ、という教えがそこから始まったという事実はないと思います。だから「だから」は成り立つと思いますよ。
高段者同士の立ち技は組み手で決まってしまいます
良い所を取られたら逃げられません
せいぜい肘を絞るか
首を逃がすか
最後の手段は掛け逃げです
掛け逃げの為には担ぎ技
その意味で掛け逃げ禁止は正当を持ちます
タックルや足取りも寝技に入る為の連続技と考えることも出来ます
オリンピックはスポーツの祭典の場です
柔道スポーツであるから
ルール先に有りきだと思います
武道であれば引き手と釣手の使い方は柔道と違ってくるはず
危険すぎて試合は出来ません
また的を射るご指摘ですね。
でも中国のご出身にしては日本の柔道に詳しいですね(おっと、これは蛇足です!)
一点、国際柔道連盟の会長はすでに韓国の朴氏からルーマニア出身オーストリア国籍のビゼール氏に替わっています。
柔道は単なるスポーツに留まらず、武道とか精神を鍛える一方法だとか、多様な側面がありますが、スポーツとしての国際柔道は、まずルールありき、というのはご指摘どおりです。
いまの変則もルールの改正で大方、是正できるはずです。
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ふしぎです。
柔道の話題なら差し障りないと思うのですが。
>でも中国のご出身にしては日本の柔道に詳しいですね(おっと、これは蛇足です!)
エアコンのタイマーが切れて、寝苦しいまま起きてベランダの窓を開けた時一陣の涼風が吹き抜ける、そんな感じですね。