モラロジー研究所所報11月号に掲載された古森義久の講演録の最終部分を紹介します。
麗澤大学での講演でした。
今回の部分は平和を守る方法としての「抑止と均衡」の「均衡」という概念の効用についてが主体です。
そして最後に世界における日本とか日本人についての自分なりの考察を述べています。
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一方、「均衡」とはバランスを取っておくことです。
長く続いた冷戦において、ソ連とアメリカはおそらく相手を何度も滅ぼせるぐらいの核兵器を持って対決してきました。
しかし米ソ間の直接の軍事力の衝突はただの一回も起きませんでした。
これは「こちらが攻撃を仕掛ければ自分もやられてしまう」という、軍事力の均衡が保たれていたためです。
ですから、対立する一方がこの均衡を破って一方的に軍事力を大幅に減らす、あるいはなくしてしまうようなことがあると、平和が崩れ、戦争が起きやすい状態になります。
戦争は単に特定国家が兵器を大量に保有することで起きるよりも、対立する国家の間の軍事力のバランスが大きく崩れた際に起きやすい、というのが理性に基づいて機能する国家間の国際安全保障の実態です
。
私はベトナムとワシントンでの国際報道を経て日本に帰ってきたとき、こうしたことを「平和を守る方法」として毎日新聞で記事を書きました。
当時の毎日新聞としては私のような意見は超少数派でした。
米軍とはいっさい関わりを持たないほうがよいとか、平和は絶対的であるという論調が強かったのです。
しかし毎日新聞の読者からは私の意見に賛成する投書がたくさん届きました。
日本人は日本について論じるとき、どこかうつむいて恥ずかしげにしてきました。
戦後の呪縛とでもいうのでしょうか。
日本独自の価値観や思考は国際社会では相手にされないかのように自動的に自己否定をするような傾向だといえます。
安全保障についても自国を特別な悪者のように描く向きが日本側の内部で大手を振っていました。
例えば、自衛隊が海外へ行くと言えば、平和維持のためでも、こういう向きは「日本はまたやがて外国を侵略することになる」と主張し、自衛隊のいかなる海外での活動にも反対してきました。
自衛隊が海外での日本の国民の生命や財産を守るためであっても、日本列島から外には一切、出てはいけないのだ、というのでした。
しかしこの種の主張が空疎であることは、すでに判明しています。
日本の自衛隊がいまどの国を侵略する、というのでしょうか。
世界の現実をみれば、よくわかります。
その世界の現実のなかで日本がおかれた立場をみても、わかります。
安全保障が抑止と均衡を基盤とする現実をよくみつめたいものです。
日本としてもその世界の現実、国際的な規範に合わせて、安全保障の面でも、もう少し現実的な対応を取るべきです。
普通の安全保障の政策と思考を持つ、普通の民主主義国家になることが必要なのです。
日本には、外国と比べれば明らかにすばらしいものがたくさんあります。
つい先日も、アメリカのある大手雑誌に世界各国の主要なホテルの支配人に「どこの国の旅行客がいちばんよいですか」という調査をしたという記事が出ていました。
その調査の結果では、日本人が圧倒的にマナーがよいとされていることが判明しました。
また、日本人はみずからをきちんと律して、相手を思いやるということも、国際的に広く知れわたるようになってきています。
私自身も本来の日本人が持っている資質、日本の国、日本の社会が保ってきた伝統は、現代の国際基準からしても誇れる特徴なのだということを、外国で時間を過ごすほどに感じる今日このごろです。
(完)
(本稿は、七月二十六日に廣池千九郎記念講堂で行われた公開教養講話の要旨に加筆されたものです)
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コメント
コメント一覧 (18)
>普通の安全保障の政策と思考を持つ、普通の民主主義国家になることが必要なのです。
全くその通りなのですが、産経新聞や保守系雑誌を除くと、未だに日本のマスコミは「普通になることは悪いこと」の論調です。従って国民の多くもそのマスコミ病に犯されているのが悲しいかな現実です。
>日本人が圧倒的にマナーがよいとされていることが判明しました。
確か二年連続だったと思います。日本の誇るべきものですね。
そうなのです、「理性に基づいて機能する国家間」、が世界なのですが、戦後の日本国民の欠点は、感情に基づいているから、扇動的な左翼や、それに便乗した特亜三国の煽動に躍らされるのです。 戦前の日本の政治家や国民は戦後の人よりも理性に基づいた世界観、日本国家観を持っていたと思います。 それと日本が米英と戦争したという事は切り離して考えないと、それこそレトリックの罠に嵌まるのです。 大東亜戦争は、世界史的観点から研究すべきであって、その真実はまだ歴史家によって解明されていません、それを分った振りをして、軽薄な評論家やジャーナリストがテレビで喚いているから国民は混乱するのだと思います。
半分だけ水が入ったコップをみて、「半分はカラッポ」と評するか、
「半分、満ちている」というか。
前向きの部分をみて、その部分を広げることに努めたいですね。
そのためには、自分たちの意見正しさを強調することも大切ですが、左カーブの主張がいかに現実に沿わないか、相手の主張に踏み込んで、撃って出て、相手の非条理を証していくことが必要だと思います。
安全保障とか平和の維持とか、現実には起きてならないことを起きないようにする最善の策はなにか、という議論です。このためときにはきわめて抽象的になります。その抽象的な議論では自論の正当性を強調するだけでは、中立や無関心の層にはアピールが少ないと思います。反対論の欠陥や矛盾を指摘することこそ、効用があるように思えます。
その種の論争は実地の場でもう何度もされているとは思いますが。
その「軽薄な評論家」たちも最近は「日米安保条約破棄!」「自衛隊を解体せよ!」とは主張しませんね。
状況はかなりましになったとは思いませんか。
これは国家間に限らず、地域内の勢力バランスでも同じ事が言えると思います。
各国は独立した平等な存在であるというお題目と現実が違う以上、一つの勢力だけが大きくなると地域はその国に従属します。
アジアでは、中国と拮抗する日本の存在が、地域の平和と安全・選択の為にも必要だと思います。
全文掲載お疲れ様、そして、ありがとうございました。m(_ _)m
自己否定の呪縛が深層、内なるもの(例えば宗教観)にもあって、「日本独自の価値観や思考」を表層で外国ものに摩り替えようとしても無理ですね。
>私自身も本来の日本人が持っている資質、日本の国、日本の社会が保ってきた伝統は、現代の国際基準からしても誇れる特徴なのだということを、外国で時間を過ごすほどに感じる今日このごろです。
同感です。私も「外国で時間を過ごすほどに」強く強く感じています。自己否定の呪縛を解き、日本独自の価値観で外国の良いものは
吸収し、悪しきものは正す。現代の国際基準に合わすのではなく、高い資質を保ちたいものです。
当時書いたものをTBさせて頂きます。
非常に重いレス、本当にありがとうございました。
>半分だけ水が入ったコップをみて、「半分はカラッポ」と評するか、
>「半分、満ちている」というか。
物事の見方を言われているのだと思いますが、私はこのコメントをみて、せめて保守と左翼が半々なら良いなと連想してしまいました。
>左カーブの主張がいかに現実に沿わないか、相手の主張に踏み込んで、撃って出て、相手の非条理を証していくことが必要だと思います。
肝に命じます。
>安全保障とか平和の維持とか、現実には起きてならないことを起きないようにする最善の策はなにか、という議論です。
私は領土問題や拉致問題も安全保障の範疇にはいると考えてますが、こうした集会に出て当事者の悲痛な訴えを聞く度に、いいようのない情けなさと怒りを感じます。
拉致被害者家族に残された時間は限界に近づいてます。そろそろ自国民を大切に思う日本国民は、腹をくくって具体的な行動を政府に求めるべきだと考えている私は、一部の過激な思想の持ち主なんでしょうか?。
日本人が誇れること・・興味深く、また喜びを持って読ませて頂きました。そうなのです。この日本人として“喜び・悦び”をもって読める日本の記事が少なすぎたのです。
左思想が蔓延していた頃は殆ど全てのマスコミが右へ倣えで、世論もそのように傾いていきました。彼らが好きな中国報道もそうです。一部マスコミの中共エージェント化は憂うるものがありましたが、結果時流に乗って殆どのマスコミがエージェント化してしまいました。(例外は産経くらいなものです)そして結果が、様々な考え方はありましょうが、一般人の中にも中共が良し。日本自虐論とする思想が広まり、現代を形作っています。
そして中共が軍事侵攻するを易くする反戦思想・・・。
いや、しかしここまで書いて思ったのですが、国民が偏向マスコミによって“思想統制”された時代は終わりつつあります。情報を得る手段は変わりつつあるのですが、どの時代の国民も一番の関心は“経済”です。我が家の財布です。そのあたりをうまく国家観とリンクしてくれる政治家なり言論人が居ればいいのですけど。
取りとめの無い話ですいません。
一定地域内に利害の衝突する複数の国、基本的な思想の異なる複数の国家が競合の形で存在するとき、「均衡」はとくに重要になりますね。
最近、ワシントンに留学などでやってくる日本の若者たちのなかには、日本へのアイデンティティーを意外と強く持っている人たちがいるので、励まされています。
海外旅行や海外留学はそういう効用もあるようですね。
もちろん誰にとっても、いうわけではありませんが。
こういう日本の報道があったのですね。
落書きですか。
しかし日本人は外国への入国に際して、入国管理官が座っているブースの下部を体をかがめて、走り抜けるなんて、ことは絶対にしませんよね。
成田空港の到着ゲートのところには、そういう走りぬけの人をみたら通報してください、という注意書きがずいぶん長い期間、つい最近までありましたね。
拉致問題には関与すれば、するほど、そういう激しい熱情が高まってくるという実例を多々、みています。
かつて左傾マスコミが日米安保への反対を煽りたててきましたが、安保条約はいまも健在ですね。
非武装中立、自衛隊破棄を唱えた日本社会党(とくに左派)も消滅しました。
前よりはいいじゃないか、という議論は消極主義の恐れがありますが、まあ悪くはなっていないことは確実だと思いませんか。
ana5という方のコメントは、古森自身に対しての「感情的になるとよくない」という趣旨の皮肉っぽい批判の書き込みだと解釈しました。
その解釈は間違いなのですか。
<<やりたい事やりました、書き込みしばらく止めます>>
2008/11/21 19:59
と書いておいて、すぐに書込みをするような人は信用できません。
純真な貴方を傷つけましたか?
返事をコメントしようとしましたが
貴方はブログを開設されてません
私のブログの「くしゃみが止まらなかった」に書きました
よんでね~
お書きになってことはよくわかりました。
コメントを書く方が現実にどんな人物なのか、ネットの仮装世界では判定は難しいですが、妨害や荒らしの意図ははっきりしてきますよね。
その範疇ではないということで、半信半疑の対応をさせていただくということで、どうでしょうか。
もっともこのようなケースでは前回の経緯を私が忘れてしまう場合も意外と多いのです。