東京で12月13日から「TOKYO JOE」というドキュメンタリー映画が公開されました。

 

 小栗謙一監督の作品、製作は奥山和由氏です。

 

 トーキョー・ジョーとは1980年代にシカゴの本物のマフィアの大幹部としてその名を全米にとどろかせたケン・エトーのことです。

 

 日系二世のエトーの数奇な人生は私がかつて『遥かなニッポン』というノンフィクションで紹介しました。

 

 だから今回、公開された映画でも「原案・古森義久」となっています。

 

 映画の内容、ケン・エトーとはどんな人物だったのか。

 

 以下の産経新聞の記事で一端がわかると思います。

 

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アメリカ犯罪史上、最も悪名高き日本人。人は彼を“東京ジョー”と呼んだ。

 
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映画「TOKYO JOE」公開 マフィアを売った男の人生
2008年12月07日 産経新聞 東京朝刊 生活・文化面


 

 1985年4月22日。米大統領組織犯罪諮問委員会がシカゴで開いた公聴会に、黒装束で全身を覆ったマフィアの幹部が証人として登場した。
 
 謎に包まれたマフィアの世界が暴露されることを期待して、会場には多数の報道陣が詰めかけた。
 
 その中に刺客が潜入している可能性もあり、男は装束の下に防弾チョッキをつけていた。

 男の名はケン・エトー。1919(大正8)年、カリフォルニア州ストックトンの農場で生まれた。
 
 父は大分県出身の牧師。

 ケンが生まれた5年後の24年、日本からの移民を禁止する「排日移民法」が制定される。
 
 低賃金で勤勉に働く日本人移民が白人労働者に脅威を与えたこと、成功した日系人が土地を手に入れ始めたことなどから醸成された強い反日感情が背景にあった。

 ケンが13歳のとき、慣れぬ土地の暮らしに精神を病んだ母が日本へ帰される。
 
 そして14歳のとき、強権的な父に反抗して家を飛び出した。
 
 ケンは農場や缶詰工場などで働きながら、イカサマ博打(ばくち)に手を染めるようになる。
 
 41年、太平洋戦争が始まると、アイダホ州のミニドカ収容所に収容されるが、ここでも同胞相手に博打ざんまいの日々を送り、イカサマの腕を磨いた。

 「当時の日本人コミュニティーには博打場や売春宿が当たり前のように存在し、そういう場所は日本で渡世人をしていた連中が仕切っていました。彼らは客を待つだけではなく、収穫期になると日本人社会に行って賭場を開き、同胞からカネを巻き上げていた」

 そう解説するのは、カリフォルニア州の農場で働いた体験をもとに書いた「ストロベリー・ロード」で大宅賞を受賞した作家の石川好さんだ。

 「日系二世は米国生まれで市民権を持つにもかかわらず、米国の一般社会からは『英語を話す日本人』としか見られません。こうしたこともケンの人生に影を落としたのでは」と、ケンが博打で世を渡ることになった背景を分析する。

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 太平洋戦争後、収容所から出たケンは「モンタナ・ジョー」と名乗り、日系二世を中心としたファミリーを作ってカネを稼いで回る。
 
 そんなケンに目をつけたのがイタリアンマフィアだった。彼はシカゴに移り、組織の幹部にのし上がってゆく。
 
 そのころから「トウキョウ・ジョー」とも呼ばれるようになった。

 かねてからこの日系マフィアに目をつけていた連邦捜査局(FBI)はついに賭博開帳容疑でケンを検挙、83年1月19日にシカゴ連邦地裁は有罪判決を下す。
 
 量刑言い渡しの日まで保釈されていたケンは2月10日、大幹部に食事に誘われ、組織の回した車に乗った。

 車は人気のない場所に停車、その刹那(せつな)、ケンは後頭部に3発の銃弾を撃ち込まれる。
 
 秘密の漏洩(ろうえい)を恐れた組織が口封じを図ったのだ。
 
 奇跡的に一命を取りとめたケンは「沈黙の掟(おきて)」を守ろうとした自分を裏切った組織に報復すべく、FBIの協力者となり、2年後の公聴会に登場する-。

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 謎に包まれたケンの人生を関係者の証言と記録フィルムで描いたドキュメンタリー映画「TOKYO JOE マフィアを売った男」(小栗謙一監督)が13日から東京の渋谷シネ・アミューズと新宿バルト9で公開される。
 
 公聴会でケンが何を証言し、マフィアの組織はどうなったのか。
 
 その結果は映画で確認してほしい。