ヘッダー情報終了【朝刊 国際】

記事情報開始サイゴン陥落34年 ベトナムを逃れた300万人 「敗者」たち、米国での成功

 

なおオバマ政権の対中政策について以下のサイトにかなり長文のレポートを書きました。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090428/149803/


photo start

1975年4月30日、サイゴン陥落の日、南ベトナムの大統領官邸に突入した北ベトナム軍戦車と兵士

photo endphoto start

1975年5月、サイゴン市内を行進する北ベトナム軍装甲車群と将兵

photo endphoto start

アン・ガオ氏

photo end

 

 
 

 

       ベトナム戦争は1975年4月30日に終結した。

 南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)に北ベトナム軍の大部隊が突入し、大統領官邸を占拠した瞬間、世界を30年も揺るがせた戦争が幕を閉じた。
 このサイゴン陥落は米国の戦争だけでなく、ベトナム人同士の激しい戦争の終わりだった。
 サイゴン陥落から34年、敗者となったベトナム人側に光をあててみた。(ワシントン 古森義久)

 

 サイゴン陥落で終わったベトナム戦争は二重の意味で二重の構造だった。

 

 第一には米国とベトナム革命勢力との戦争と、ベトナム人同士の戦争とが重複していた。

 

 だが73年3月には米国は軍事介入をやめ、米軍部隊をすべて引き揚げた。

 

 以来75年4月末まで南ベトナム(ベトナム共和国)と北ベトナム(ベトナム民主共和国)との戦争となった。

 

 第二にはベトナム戦争は民族独立の闘争であると同時に共産主義の革命でもあった。

 

 闘争を挑む側は共産主義に基づく民族の独立だけが真の「解放」だとみなした。

 

 だからサイゴン陥落後は共産党独裁を支持する勢力だけが統一ベトナムを支配した。

 

 「民族和解」のスローガンは空疎のまま、他のベトナム人は新社会の中心から排され、過酷な革命が断行された。

 

 サイゴン陥落前後から南ベトナムでは北の共産主義統治に反対した人や戦後の革命で排された人たちが大量に国外に脱出した。

 

 大海に小舟で逃げ出すボートピープルはなんとその後20年も続いた。

 

 95年までに国外に逃れたベトナム人は海上で命を失った人たちを含めれば300万近いとされ、南ベトナムの戦時の総人口の8分の1にも達した。

 

 現在の在外定住ベトナム人は米国164万、フランス25万、オーストラリア、カナダともに16万など総計300万以上となった。

 

 米国ではベトナム系市民は教育、所得の両水準で全米平均を上回り、アン・ガオ氏が連邦下院議員に選ばれたほかブッシュ政権の司法次官補ビエト・ディン氏の活躍など新難民の成功物語が多い。

 

                   ◇

 ■ベトナム系初の米議員ガオ氏「正義の戦い…自由を」

 

 ベトナム系米人で初の米国連邦議員となったアン・ガオ氏の国政の場へのデビューは、ベトナム戦争終結で米国への難民や亡命者として定住したベトナム人たちの34年間の労苦の成果だといえる。

 

 陥落直前のサイゴンを8歳で脱出し、両親と離れて米国で生きてきたガオ氏自身の軌跡もベトナム戦争のひとつの真実を物語るようだ。

 

 「北ベトナム軍が迫るサイゴンの空港から叔父に連れられ、米軍の輸送機で避難しました。空港一帯は国外へ逃げようとする人たちで埋まっていた。父は南ベトナム軍の大尉としてまだ戦闘中であり、母は空港へ見送りにきたが、父のために残りました。その後16年間、両親には再会できませんでした」

 

 下院議員事務所で会ったガオ氏は42歳の年齢よりはずっと若くみえる小柄な人物だった。

 

 ベトナムなまりがなお残るとはいえ、完璧(かんぺき)な英語で明快に語った。

 

 昨年12月のルイジアナ州2区(ニューオーリンズ市)の特別下院議員選挙で共和党のガオ候補は9期在任の民主党現職を破った。

 

 その当選は全米でニュースとなった。

 

 現職の黒人議員が汚職で起訴されていたとはいえ、民主党支持者、黒人住民がいずれも7割という選挙区で、共和党初のベトナム系議員が誕生したからだ。

 

                 □ ■ □

 米国に着いたガオ少年はまずインディアナ州に住み、レストランで働く叔父や米人篤志家に育てられた。

 

 自分も新聞配達をした。

 

 英語はまったくわからなかったが、最初から普通の公立小学校に送られた。

 

 やがて叔父とともにテキサスに移り、大学で物理を学ぶ。

 

 だが卒業後、一家がみなカトリック教徒だったこともあり、カトリック聖職者への道を目指して、大学院で哲学を専攻する。

 

 しかし香港やメキシコでの布教活動で恵まれない人々の救済には政治や法律も欠かせないと考え、ニューオーリンズのロヨラ大学院で法律を学んで弁護士となった。

 

 90年代にはなおベトナムから海路、脱出してくるボートピープルの救済組織の法律顧問となる。

 

 この難民救済がベトナム人社会のための政治活動への契機となったというが、自身の当選の意味についてガオ議員は語る。

 

 「私の当選は米国のベトナム人社会の前進を雄弁に物語ると思います。約160万の在米ベトナム人の共同の勝利でしょう。ベトナム系社会はまだ政治的な活動や意識は高くないが、連邦レベルに代表を送り出すことで米国内だけでなく国際的な影響力も行使できることに気づき始めました」

 

                 □ ■ □

 

 1月の下院議員の就任式にはガオ氏の妻と2人の娘はみなベトナムの民族衣装アオザイを着て参加した。

 

 高齢の両親も同席した。

 

 ベトナムの革命新政権の収容所に7年も拘束された父はその後、出国を許されたが、健康を害し、式でも車イスだった。

 

 ではガオ氏は米国の政治家として現在のベトナムをどうみるのか。

 

 「米国としてはベトナム政府の人権抑圧、宗教や言論の自由の抑圧を重要な問題としてとらえ、抗議をしていかねばならない。一方、ベトナムとの貿易など経済関係も重要です。しかし貿易のきずなを強めるなかでベトナム国民の人権や自由の抑圧という問題をも提起し続けるべきです」

 

 ではベトナム戦争自体はどう位置づけるのか。

 

 「一つの戦争が正しいかどうかはそこに自衛の要因があるか否かでしょう。南ベトナムは当時、北ベトナムの共産主義政権から武力での侵攻を受け、自衛の戦いを続けていた。米国はその自衛の戦いを支援した。だからそれは正義の戦争だったと信じます」

 

 そして続けた。

 

 「だが米国民の十分な支持が得られず、その支援もうまくいかなかった。ただし南ベトナム国民の大多数は米国のその支援を支持し、米軍将兵に感謝していました。米国のベトナム戦争を不当な戦争とか非道の戦争とする批判には私は同意しません」

 

                 □ ■ □

 

 サイゴン陥落の記念日にガオ氏はなにを思うのか。

 

 「下院本会議で30日にベトナムの『黒い4月』を悼む演説をする予定です。私がこの日に思うのはやはりあの戦争で戦い、亡くなった人たちです。米国人5万4000、ベトナム人300万という犠牲者への熱い思いです。私がもしあのままベトナムに残ったらどうだったかも考えます。徴兵されたか、あるいは街頭の屋台でいまごろ牛肉ソバを売っていたか-」

 

 ガオ氏は5月末には下院議員団の一員としてベトナムを初めて再訪する予定だという。

 

 生まれ故郷にもどったらまずなにをしたいかと問うと、彼はためらわずに答えた。

 

 「宗教の自由、人権の尊重を訴えたい。私のような同胞が自由の国の政治家として帰ってきたことを示し、ベトナムの人たちに希望を与えたいです」