サイゴン陥落で終わったベトナム戦争は二重の意味で二重の構造だった。
第一には米国とベトナム革命勢力との戦争と、ベトナム人同士の戦争とが重複していた。
だが73年3月には米国は軍事介入をやめ、米軍部隊をすべて引き揚げた。
以来75年4月末まで南ベトナム(ベトナム共和国)と北ベトナム(ベトナム民主共和国)との戦争となった。
第二にはベトナム戦争は民族独立の闘争であると同時に共産主義の革命でもあった。
闘争を挑む側は共産主義に基づく民族の独立だけが真の「解放」だとみなした。
だからサイゴン陥落後は共産党独裁を支持する勢力だけが統一ベトナムを支配した。
「民族和解」のスローガンは空疎のまま、他のベトナム人は新社会の中心から排され、過酷な革命が断行された。
サイゴン陥落前後から南ベトナムでは北の共産主義統治に反対した人や戦後の革命で排された人たちが大量に国外に脱出した。
大海に小舟で逃げ出すボートピープルはなんとその後20年も続いた。
95年までに国外に逃れたベトナム人は海上で命を失った人たちを含めれば300万近いとされ、南ベトナムの戦時の総人口の8分の1にも達した。
現在の在外定住ベトナム人は米国164万、フランス25万、オーストラリア、カナダともに16万など総計300万以上となった。
米国ではベトナム系市民は教育、所得の両水準で全米平均を上回り、アン・ガオ氏が連邦下院議員に選ばれたほかブッシュ政権の司法次官補ビエト・ディン氏の活躍など新難民の成功物語が多い。
◇
■ベトナム系初の米議員ガオ氏「正義の戦い…自由を」
ベトナム系米人で初の米国連邦議員となったアン・ガオ氏の国政の場へのデビューは、ベトナム戦争終結で米国への難民や亡命者として定住したベトナム人たちの34年間の労苦の成果だといえる。
陥落直前のサイゴンを8歳で脱出し、両親と離れて米国で生きてきたガオ氏自身の軌跡もベトナム戦争のひとつの真実を物語るようだ。
「北ベトナム軍が迫るサイゴンの空港から叔父に連れられ、米軍の輸送機で避難しました。空港一帯は国外へ逃げようとする人たちで埋まっていた。父は南ベトナム軍の大尉としてまだ戦闘中であり、母は空港へ見送りにきたが、父のために残りました。その後16年間、両親には再会できませんでした」
下院議員事務所で会ったガオ氏は42歳の年齢よりはずっと若くみえる小柄な人物だった。
ベトナムなまりがなお残るとはいえ、完璧(かんぺき)な英語で明快に語った。
昨年12月のルイジアナ州2区(ニューオーリンズ市)の特別下院議員選挙で共和党のガオ候補は9期在任の民主党現職を破った。
その当選は全米でニュースとなった。
現職の黒人議員が汚職で起訴されていたとはいえ、民主党支持者、黒人住民がいずれも7割という選挙区で、共和党初のベトナム系議員が誕生したからだ。
□ ■ □
米国に着いたガオ少年はまずインディアナ州に住み、レストランで働く叔父や米人篤志家に育てられた。
自分も新聞配達をした。
英語はまったくわからなかったが、最初から普通の公立小学校に送られた。
やがて叔父とともにテキサスに移り、大学で物理を学ぶ。
だが卒業後、一家がみなカトリック教徒だったこともあり、カトリック聖職者への道を目指して、大学院で哲学を専攻する。
しかし香港やメキシコでの布教活動で恵まれない人々の救済には政治や法律も欠かせないと考え、ニューオーリンズのロヨラ大学院で法律を学んで弁護士となった。
90年代にはなおベトナムから海路、脱出してくるボートピープルの救済組織の法律顧問となる。
この難民救済がベトナム人社会のための政治活動への契機となったというが、自身の当選の意味についてガオ議員は語る。
「私の当選は米国のベトナム人社会の前進を雄弁に物語ると思います。約160万の在米ベトナム人の共同の勝利でしょう。ベトナム系社会はまだ政治的な活動や意識は高くないが、連邦レベルに代表を送り出すことで米国内だけでなく国際的な影響力も行使できることに気づき始めました」
□ ■ □
1月の下院議員の就任式にはガオ氏の妻と2人の娘はみなベトナムの民族衣装アオザイを着て参加した。
高齢の両親も同席した。
ベトナムの革命新政権の収容所に7年も拘束された父はその後、出国を許されたが、健康を害し、式でも車イスだった。
ではガオ氏は米国の政治家として現在のベトナムをどうみるのか。
「米国としてはベトナム政府の人権抑圧、宗教や言論の自由の抑圧を重要な問題としてとらえ、抗議をしていかねばならない。一方、ベトナムとの貿易など経済関係も重要です。しかし貿易のきずなを強めるなかでベトナム国民の人権や自由の抑圧という問題をも提起し続けるべきです」
ではベトナム戦争自体はどう位置づけるのか。
「一つの戦争が正しいかどうかはそこに自衛の要因があるか否かでしょう。南ベトナムは当時、北ベトナムの共産主義政権から武力での侵攻を受け、自衛の戦いを続けていた。米国はその自衛の戦いを支援した。だからそれは正義の戦争だったと信じます」
そして続けた。
「だが米国民の十分な支持が得られず、その支援もうまくいかなかった。ただし南ベトナム国民の大多数は米国のその支援を支持し、米軍将兵に感謝していました。米国のベトナム戦争を不当な戦争とか非道の戦争とする批判には私は同意しません」
□ ■ □
サイゴン陥落の記念日にガオ氏はなにを思うのか。
「下院本会議で30日にベトナムの『黒い4月』を悼む演説をする予定です。私がこの日に思うのはやはりあの戦争で戦い、亡くなった人たちです。米国人5万4000、ベトナム人300万という犠牲者への熱い思いです。私がもしあのままベトナムに残ったらどうだったかも考えます。徴兵されたか、あるいは街頭の屋台でいまごろ牛肉ソバを売っていたか-」
ガオ氏は5月末には下院議員団の一員としてベトナムを初めて再訪する予定だという。
生まれ故郷にもどったらまずなにをしたいかと問うと、彼はためらわずに答えた。
「宗教の自由、人権の尊重を訴えたい。私のような同胞が自由の国の政治家として帰ってきたことを示し、ベトナムの人たちに希望を与えたいです」
コメント
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おはようございます。本日の朝刊八面で拝読しました。
>「宗教の自由、人権の尊重を訴えたい。私のような同胞が自由の国の政治家として帰ってきたことを示し、ベトナムの人たちに希望を与えたいです」
この部分、ベトナム政府はお咎めなしで自由に報道させますかね?。
いまでもチベット、東トルキスタン、南モンゴル、台湾の独立支持行動には南ベトナムの国旗が時々参加してますよ。
あと福島記者の太田誠一議員へのインタビューで、彼が古森さんの主張に共感すると語ってました(^^)。
ベトナムについては複雑な思いに捕われます。当時宿題でベトナム戦争の新聞切抜きをしていました。また、ご多分にもれず、その後は左翼思想にかぶれました。
当時、中国の文革の実態が分からず、相当な幻想を描いていました。しかし、カンボシアのポルポト事件でさすがに完全に目が覚めました。ポルポトは毛沢東手法を踏襲しただけですから中国も地獄と想像していました。
60年代から70年代前半は、日本でも世界的にも左翼思想への幻想が強い時期でした。
その時期にベトナム戦争がありました。共産側のホーチミンは誠実で親しみやすく清潔な人柄だとされ、南政権は、権力乱用と腐敗の塊のようなものでした。どちらに義があるかとなれば、共産側を応援したくなるのですね。
アメリカでも自由と民主主義と言いながら、人種差別、偏見もひどかったし、世界の貧困問題への解決策も持たず、腐敗独裁権力との結託というイメージが強かったのです。
ベトナム戦争は、共産主義と自由民主主義の分水点での戦いであったと思わざるを得ません。
戦争後、共産側はポルポト虐殺、中国やソ連の弾圧粛清、人権軽視の実態が明らかになりました。
自由民主主義側は、市民の力が大きくなり、人権意識が高まり、権力側の腐敗や横暴へもチェックが入ると言う自己変革がなされるようになりました。
結局、共産独裁は一時的な力は出る戦争に強い体制であるが、個人の自由と人権尊重に基礎を置いていないため、人々に対する抑圧体制と権力の濫用にしかならないということが分かってきたのです。
一方、自由と民主主義は、当初は腐敗や差別、富の偏りなどが起こるが、個人の人権を尊重するという基本原則に立ち返るのなら、やがて皆の英知で改善されていくという希望があるのですね。
途上国においては、未だ腐敗、差別、富の偏りなどが横行しており、先進諸国は少しでも改善を早める協力を惜しまないという姿勢が必要です。また、共産独裁、軍事独裁から議会制民主主義に変革しようとする国にも強く支援を行うべきです。
恐らく、それが麻生首相の「自由と繁栄の弧」の構想であろうと思いますので積極的に支持したいものです。
けていたにも係わらず、軍事的に北に敗北したのは、戦後の社会主義と共産党優位の風潮
あるいは北を民族自決の正統政権とする幻想、南ベトナム政権の腐敗に対する失望が、南
のエリート層に蔓延しており、政権の正当性に対する確信が軍部にすらなかったのが原因
であった様な気がします。現地でご覧になって如何だったでしょうか?
太田誠一議員が私の名をあげているとのご指摘で、そのインタビュー記事に目を通してみました。お知らせありがとうございます。
ただしこの記事の文責を追う福島記者が私の肩書きを「特別編集委員」と何度も誤記していること、残念に思いました。正しくは「編集特別委員」なのです。そのタイトルは産経紙上に何百回も出ています。
読者の方にすれば、編集特別も特別編集もまったく違いはないでしょう。
しかし仮にも産経内部でも、対外的にもすでに定着している自社の記者の肩書きを堂々と誤記する。しかも産経のインターネット上で、見出しにまで出す。私はこの事実にきわめて失望します。プロの記者とは思えないミスです。私自身は他人の名前の漢字や正式の肩書きこそ、誤記しないよう常に心がけてこれまで記者活動を続けてきました。この程度の注意の度合いで他の記事も書いているのか、とまでは思いませんが。
ベトナム戦争は、いまにして思えば、マスコミのとんでもない捏造報道でした。北をほめあげ、南をくさす。南の金権体質が悪いといっても、北でも同じだったようです。北の南の占領後に、フランスへ逃げた元ベトコン関係者の自伝にそうありました。母親に、おまえはなんてことしてくれたんだ、あんな奴らを(南へ)連れてきて、となじられたそうです。ホー・チ・ミン氏は神格化されてました。
私は北と南が1つの国家でなくてはならないという主張には疑問に思います。ベトナムは瓢箪のような形で、中国の影響の強い、貧しい北。南はおおらかな南国っぽいところと、真ん中で区切られていたといってもいいと思います。歴史的にみて同じ民族といえるのかどうか疑問だと思ってます。
ベ平連。開高健、小田実、吉岡忍、小中陽太郎
吉岡忍氏はいまではBPOの委員だそうで、こういう人物を選ぶとは、マスコミはいまでも危険に偏向してますね。日本ペンクラブ常務理事でもあるそうです。
>この程度の注意の度合いで他の記事も書いているのか、とまでは思いませんが。
彼女は北京時代は良かったのですが、東京に来てから何回か失敗をやらかしています。
>■ドンドンテポドン、テポドンドンと口ずさみながら帰宅準備開始。(了)
これは4月4日の「きょうはテポドン・リアルタイム更新終了1709」というエントリーの結びです。仮にも官邸ほか自衛隊の諸君が国防のために全力を傾注しいる最中に、云ってはいけない事だと感じました。
>ドンドンテポドン、テポドンドン
そ、それは!! あの時、2ちゃんで大受けしてましたね。
当時の南ベトナム政権は確かに汚職体質でしたね。
そのことが国民の団結を弱めていたこと、そしてアメリカの支援を弱くしたことも、事実でしょう。
しかしアメリカは米軍が全面撤退した73年春以降、南ベトナムへの援助を大幅に減らし続けました。兵器や弾薬までも供給を減らしました。一方、北ベトナムは共産主義の連帯の下、ソ連と中国の両方から豊富な軍事援助、経済援助を受け続けました。
こんな点にも敗因はあったようです。
日本のマスコミやいわゆる知識人がベトナム戦争の認識に関して意図的、無意識に冒したミスの数々、プロパガンダも含めて、その指摘を最も明確に、かつ最も集大成的にまとめたのは殿岡昭朗氏の著書だと思います。
私も『国の壊れる音を聴け』などの自書にずいぶんと書いてきました。
なるほど、なるほど、と、素直にうなずかされるコメントです。
とくに最後の部分は説得力ありますね。
ベトナム戦争は、アメリカ人に取ってもそれ以前の無邪気な世界観を見つめなおすことにつながったのではないでしょうかね?
①ジョージ・ケナンが言ったように、「アメリカは正義のつもりで日本を叩きのめした結果、日本が戦前担っていた共産主義を封じ込めるという責任を(アメリカはその責任を馬鹿にしていたのだが)、戦後は皮肉にもアメリカ自らが背負い込むことになった」という現実。 そのためアメリカは、朝鮮戦争やベトナム戦争を戦う羽目となり、今でもテポドンだ何だと、アジア安定の責任を果たし切れず汲々としている。
②アメリカは日本と戦ったことを正当化するため、南京その他日本の残虐行為を持ち出す。 しかし特に相手がゲリラ戦に出てきた場合、敵を民間人から区別するのは容易なことではない。 どうしても民間人にまきぞえ犠牲者が出る。 アメリカ人もベトナムやイラクで、それが身に染みたのではないか? ソンミ村虐殺事件は、南京より人道的だったのか?
アメリカが無邪気とは思いません。その時々にアメリカから見てベストと思える選択をしてきてるのだと思います。
当時のアメリカにもし「無邪気な世界観」があったとすれば、それはいままた戻ってくているようです。
お久しぶりですね。
というのを忘れました。
アメリカは民主主義国家であり、戦前からマスコミが発達し、庶民の意向が大きくその政策に反映されます。 米西戦争、蒋介石の妻・宋美麗の人気、蒋介石政権への肩入れなどなど、世論が政治を動かした事例も多くあります。(政権や特定勢力が、世論を操ったという見方もありますが)
そして庶民の意見、世論は無邪気なものです。 もちろん「ザ・ベスト・アンド・ブライテスト」の方々が、ご自分では賢いつもりで政策を立案なさったのでしょうが、やはり長い歴史を持つヨーロッパやアジアの人々の考え方と比べれば、単純というかナイーブというか、「策士、策におぼれる」愚かさが目立つように思います。
>当時のアメリカにもし「無邪気な世界観」があったとすれば、それはいままた戻ってくているようです。
「無邪気」というより、自信を失っているように見えますね。 サイゴン陥落時に逃げ出す米軍将校に向かい、南ベトナム軍将校が「私たちを見捨てるのか?」と問いかけたのに対し、米軍将校が「アメリカ人はもう外国に関心がないんだよ」と自嘲気味に答えた、という話を思い出します。(セリフが正確かどうか、うろ覚えですが)
アメリカは「外向き」と「内向き」の政策を周期的に繰り返すようですね。アメリカ人が自信をなくしたとき、「内向き」となり、国内のことだけに閉じこもってしまうのでしょうか? ベトナムで自信を失い、「砂漠の嵐作戦」やイラク戦争で自信を取り戻し、その後また金融危機によって自信を失ったのでしょうか?
>ただしこの記事の文責を追う福島記者が私の肩書きを「特別編集委員」と何度も誤記していること、残念に思いました。正しくは「編集特別委員」なのです。そのタイトルは産経紙上に何百回も出ています。
>
>読者の方にすれば、編集特別も特別編集もまったく違いはないでしょう。
>しかし仮にも産経内部でも、対外的にもすでに定着している自社の記者の肩書きを堂々と誤記する。しかも産経のインターネット上で、見出しにまで出す。私はこの事実にきわめて失望します。プロの記者とは思えないミスです。私自身は他人の名前の漢字や正式の肩書きこそ、誤記しないよう常に心がけてこれまで記者活動を続けてきました。この程度の注意の度合いで他の記事も書いているのか、とまでは思いませんが。
>
全く仰る通りで、同感です。
最近、産経の「見出しの大間違い」で癇癪を爆発させてしまいましたが、やはり基本が出来ないのなら、「記者」、「ジャーナリスト」は名乗っていただきたくありません。 少なくとも産経記者には強く望みますし、期待しています。
サイゴン陥落について、あなたのような見識がある方でも誤認されている部分があるように思われるのは残念です。
米軍部隊はサイゴン陥落の二年以上前に完全に撤退していました。
最後に残っていたアメリカの軍、政府の関係者は外交官や駐在武官要員ぐらいです。それと大使館警備の海兵隊委員(せいぜい数十人です)、
まっさきに逃げようとしたのは南ベトナムの政府高官や軍高官(の一部というべきでしょうが)でした。
だからよく「ベトナム革命勢力(共産勢力)はアメリカ軍に勝利した」という表現がありますが、その種の最終の勝敗を決めた戦闘というのはありません。米軍はベトナム戦争終結の二年前に完全撤退していたのです。
ただしアメリカの軍事政策が挫折した、とか目的を達成できなかった、ことは確かです。その点を大まかに形容すれば、負けたことにもなるのかもしれません。しかしアメリカ側では正面からの戦争、戦闘でアメリカがベトナムに敗北したという認識はありません。
ご関心あれば、私がベトナム戦争終結直後に書いた「ベトナム報道1300日」という書にそのへんの事実関係を詳述しています。
この際だから告白しますが、産経内部では、この種の誤記が多いので、心を痛めてきました。
古森を小森と書く。中国総局長だったのに、北京総局長とか北京支局長とか誤記する。以前にワシントン支局長だったときには、ワシントン総局長とか、アメリカ総局長とか書かれました。編集特別委員を特別編集委員というのも、福島記者に限らず、よくあるのです。
何度も書きますが、この種のミスは一般社会の生活の中では、なんの意味もなく、たいしたことではありません。しかし私が指摘するのは、悲しいことに産経新聞社の内部の人間同士の誤記なのです。文字や記述に生きる職業集団、しかも仲間同士の名前や肩書きの表記です。
> parkmount さん
>
>この際だから告白しますが、産経内部では、この種の誤記が多いので、心を痛めてきました。
>
>古森を小森と書く。中国総局長だったのに、北京総局長とか北京支局長とか誤記する。以前にワシントン支局長だったときには、ワシントン総局長とか、アメリカ総局長とか書かれました。編集特別委員を特別編集委員というのも、福島記者に限らず、よくあるのです。
>
>何度も書きますが、この種のミスは一般社会の生活の中では、なんの意味もなく、たいしたことではありません。しかし私が指摘するのは、悲しいことに産経新聞社の内部の人間同士の誤記なのです。文字や記述に生きる職業集団、しかも仲間同士の名前や肩書きの表記です。
古森さんのお気持ち本当によく分ります。 比較的短期間でありましたが、私が新入社員の時代を過ごした頃も、基本や基礎が出来ていないのに大きな事をしようなどとする尻の青いのは、先輩からどやされのがオチでした。 営業などで外回りをすれば、相手の名前や性格を覚える、相手に名前を覚えてもらう事からやるのが当然でした。
ところが、私の弟の娘などの事を私の母から聞くと、上司に注意されただけで、出勤しなくなって、上司からわざわざ電話がかかって来たなどという戯けた話まであったようです。 そう言えば、私が訪れてもまともに挨拶もしないなど、小さな子供でさえ出来る事ができないのです。それが今では日本の社会では、別に異常ではなくなっているというのです。
一方、私の姉の息子と娘は挨拶はもちろん一緒に世間話がちゃんと出来る常識ある社会人に育っているのですから、産経社内で古森さんが仰るようないい加減な若手社員がいても普通なんでしょうね。 私は北米社会で、日本人のperceptionは規律ある礼儀正しい民族であると云うのが昭和の時代に醸成され、今でもその遺産が強く残っていると思います。事実、こちらが日本人である事を知ると相手の態度が変わり、気さくな北米人でさえ襟を正す事が多く、敬意を表し一目置く事が感じられます。
私は古森さんが毎日新聞のサイゴン特派員時代からお名前は存じておりますし、新聞だけでなく、当時のラジオでもベトナム・ニュースが古森さんの名前でデスパッチされているのをよく聞いた物です。 ある意味、日本の先人、先輩を馬鹿にしているのは左翼だけでなく、国民全体が如何に先人の努力や日本に生まれたありがた味が分っていないのかを知り悲しい思いがします。
ご指摘の諸点、とてもためになります。
先輩が後輩の欠陥を十二分に知りながら、黙ってそれを認め、後輩におもねるという傾向もありますね。水に流されるというか。
ベトナム関連報道でも、水に流されないよう、いまでも自戒をしています。
ベトナム戦争の総括では「解放」されたはずの戦後ベトナムから国民の8人に1人ほどの多数の人がいわゆる庶民、大衆を含めて逃げてしまった事実、
そしてそれらの人々がアメリカ社会できわめてうまく同化して、活躍している事実、この実態は非常に重要であるにもかかわらず、日本のマスコミでは私が報じなければ、誰も報じないという実感もときどき覚えます。
venom さま:
南京大虐殺問題でした非難への教訓をベトナムに生かすなんて,アメリカ人に出来ているとは…思えません.
われわれも,イスラエルは虐殺をしているけしからんと感じる人は多くても,パレスチナ側が,女子供や民間人に紛れ込み,盾にするような戦術を取っている結果として,イスラエルの攻撃でそのような死者が出ているという状況を,言われるまで認識出来ないのではないですか?
アメリカ人もそれと同様と考えた方が宜しいかと.ついでにイスラエル人も.
以下のチャンネル桜の人に請われて参加した討論
http://www.docsthatinspire.com/?p=48
が参考になるかどうかは分かりませんが,上の前半で私がしたような論争をやりきれたら,普通のアメリカ人はあまりの事に絶句してしまいそうです.(要するに”弱くて可哀想な中国人やそれを助けている人間愛あふれる尊敬すべき宣教師”(引用ではない)を,パレスチナのテロリストや国際連帯運動(ISM)と同列に並べ立て,当時はナチスの同盟者は日本より蒋介石側だとし,その上,軍国日本より蒋介石国民党がファシストだという見方が学問的見解としてあるんだよと言った.)
P.S. Yahoo! Japan 掲示板 イスラエル/パレスチナ和平 トピに書き込まれたイスラエル関連の上の状況についての投稿
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1143582&tid=a5a4a59a5ia5a8a5ka1bfa5qa5la59a5aa5jobjbf&sid=1143582&mid=5087
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1143582&tid=a5a4a59a5ia5a8a5ka1bfa5qa5la59a5aa5jobjbf&sid=1143582&mid=5094
サイゴン陥落当時、私はまだ小学生だったので断片的な報道しか知らず、本式に勉強したわけでもないので、もちろん認識不足です。
>アメリカの軍事政策が挫折した、とか目的を達成できなかった、ことは確かです。その点を大まかに形容すれば、負けたことにもなるのかもしれません。
勝敗の基準をどこに置くかですが、クラウゼヴィッツの「戦争は政治の延長」という基準にもとづけば、膨大な血を流したにもかかわらず、戦争目的を達成できずに引き下がったことは、当然勝利とは呼べません。 朝鮮戦争休戦協定にサインしたクラーク司令官も、「米軍史上初めて、勝利なき終末を迎えた不名誉な将軍」と自嘲しましたね。
その基準に従えば太平洋戦争も、アメリカの戦争目的、「蒋介石の中国を助けるため日本を倒す」(表向き)あるいは「中国をアメリカの軍事的勢力範囲とし、その市場や資源を手に入れる」(実際に近い?)というものだったでしょうが、結局はアメリカもその目的を達成できず、毛沢東の中国支配を招いてしまったのだから勝利したとは言えず、引き分けですね。
むしろ、戦前に日本がになっていた、アジア安定という責任を自分たちが引き受ける羽目になったのだから、その後の歴代アメリカ政権はローズヴェルトのしたことを呪っているのではないでしょうか? 特にオバマ政権は、アジアに関心などないように見えます。