核兵器についての論議がなお続く8月のこの時期、日本に投下された原爆について、もう少し考えてみたいと思います。
なお核廃絶の実現のために考えねばならない核抑止の現実について以下のサイトに詳しい報告を書きました。
さてアメリカでは現在にいたるまで、「日本への原爆投下は正しかった」という意見が多数派です。
アメリカ政府は公式にもその立場を崩していません。
8月5日に日本の新聞各紙でも報じられたアメリカの大学の研究所による世論調査でも、広島と長崎への原爆投下は「正しかった」と答えたのが全体の61%でした。
「まちがいだった」と答えた人は全体の22%という結果でした。
米側の論理としては、原爆投下は日本の降伏を早め、その結果、多数の人命が救われた、という趣旨です。
だが当然ながら、これはあくまで戦争の一方の当事者の考え方です。
日本側としては、あの大規模な無差別殺戮を「正しかった」とは絶対にいえないでしょう。
人道上や道義上の観点から、米国の原爆投下を判断のまちがいだとして糾弾すべきでしょう。
国際的にみても、原爆投下が少なくとも倫理的に正しかったという主張は簡単には出てきません。
しかし被害者である広島や長崎の側からは少なくとも例年8月の式典での宣言などを聞き、読む限り、アメリカの原爆投下自体への非難は明確には浮かんできません。
アメリカの核兵器使用への人道的や道義的な責任を追及する声が聞こえないのです。
広島市の秋葉忠利市長は毎年8月6日の「平和宣言」ではアメリカの近年の政権の核政策などを非難はしていますが、肝心の原爆投下自体への糾弾は述べていません。
秋葉市長自身とは異なりますが、ソ連や中国との連帯を土台に日本での反核運動を動かしてきた活動家たちの間では、むしろ「日本の軍国主義が悪いから原爆投下という事態を招いた」という見解が珍しくないようです。
広島市の原爆死没者慰霊碑の碑文も、原爆を投下したアメリカを責めずに、逆に日本側を非難する傾向をうかがわせます。
碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれています。
ごくふつうに読めば、「過ち」を犯したのは日本側だという意味にとれます。
つまり文章の主語は日本側だと受け取れます。
日本側が被爆者をも含めて、ひたすら「過ち」を謝罪しているように読めるでしょう。
アメリカへの非難はツユほども感じられません。
この碑文は慰霊碑が1952年8月に建立されて以来、何度も論議の的となってきました。
一般市民からも「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」とか「原爆を投下したのは米国側だから『過ちを繰り返させない』とすべきだ」というような批判が出ていました。
しかし碑文を書いた当時の雑賀忠義広島大教授や浜井信三広島市長は「過ちとは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味すると主張したそうです。
そして、「過ちは繰返しませぬ」という文章の主語は「人類全体」だとする解釈を打ち出したのです。
だがもし主語が人類ならば、なぜ人類と書かなかったのか、という疑問が残ります。
それになによりも、この日本語を日本人が普通に読めば、大多数が「過ち」を犯したのは日本側だという意味に受け取るという現実が残るといえます。
東京裁判で日本人被告の無罪を主張したインドのパル判事も建立後まもない慰霊碑を訪れた際、通訳を介して碑文の内容を聞いて「日本人が日本人に謝罪している」と述べたそうです。
そしてパル判事は「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」と語ったとのことです。
つまりパル判事は原爆投下の正当化論をも激しく非難したのでした。
だがその種の非難は日本側の被爆者サイドからはまず出てこないようです。
第二次大戦中の日本軍の残虐行為がいまもなお糾弾されるならば、米軍の民間人無差別大量殺戮である原爆投下もさらに厳しく糾弾されるべきでしょう。
とくに日本の内部にいる日本糾弾派には注意を向けてほしい歴史的事実がヒロシマとナガサキへの原爆投下です。
コメント
コメント一覧 (18)
また、戦後支那の核が日本に向けられ、ソ連の核が日本に向けられている中、日本の平和が守られたのは、日米安保条約と、アメリカの核の傘であったこと 北朝鮮の核は日本に向けられていること、という明白な事実を全く見ようとしないのも日本の反核運動団体です
事実を無視して意味のある行動はできません
では彼らは何をしているのか?
戦争や原爆をネタに反日、反米運動をしているだけです
だったら、支那、チョウセン、ロシアの核への非難が出てこなくて当然ですね
事実を冷厳に観察し、客観的に必要とあらば、敵とでも手を結ぶのが、外交、安全保障の基礎ですが、反核運動団体の面々は全てを自分達の感情だけで片付けて平然としているので、まともな安保論議は望むべくもありません
反核団体の面々は、あいつが悪い、何々が間違っていた、と自分は安全な場所に置いた上でキャンキャン言っているだけだから、何の説得力もありませんし
処置なしです
ところで、米国の核爆弾使用ですが、当時の日本は、古森さまが別のところでお書きのように軍事力は壊滅状態でした。自衛すらままならなかったわけです。また、日本は、終戦の年の初めから和平工作に動き、ソ連を仲介として選びました。
日本の和平を求める動きは、この年の7月17日~8月2日に開かれたポツダム会談で米英に伝達されましたが、ソ連米国英国から無視されたわけです。そして8月6日午前8時に広島に原爆が投下されます。8月9日の午前11時には長崎でした。
このような条件を考えると、原爆投下は、政治的、軍事的に容認できない、一般人に対する意味のない虐殺だと考えております。
アメリカ人は、本土に上陸したら多数の死傷者が出たと言いますが、そもそも上陸する必要もなく、当時放送していたアメリカの日本向け放送で話し合いを提案すれば、和平は実現していたかもしれません。少なくとも、やってみる価値はあったはずです。
問答無用で原爆を落として虐殺を繰り返し、しかもそのあとでナチスをユダヤ人虐殺で非難するとは、アメリカ人もたいがいです。
>中国新聞(1952年11月11日)によれば雑賀さんの考えはこうだ。
「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰り返さないと霊前に誓うーこれは全人類の過去、現在、未来に通じる広島市民の感情であり良心の叫びである。『広島市民が過ちを繰り返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰り返さぬではなく、繰り返させぬであり、広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場にたつときは、過ちを繰り返さぬことは不可能となり霊前にものをいう資格はない」<
という文章をみつけました。
雑賀忠義広島大教授ご自身が被爆者でありますので、その苦痛、無念はいかばかりかと想像致しますが、「世界市民」という言葉を読みますと、なにかイデオロギー的偏向を感じてます。 1952年もそれから57年経た現在も「世界市民」なる実在はおりません。 架空の、観念の世界の話です。
もし碑文が本当に「安らかに眠って下さい 【我々人類は】過ちは 繰返しませぬから」の意味だとすれば、はてさて、人類を代表して原爆犠牲者にこれを誓える人物とは、雑賀忠義広島大教授や浜井信三広島市長ではないことは確かでしょう?
世界市民がいるならそこは地球連邦、地球連邦の大統領のお言葉なら誰もが「納得」するのですが、、。
交通事故を起こした時などによくあるのですが、事故の原因について、自らを反省する人と、相手の落ち度を攻める人がいます。
最近では、法律上の技術に従って、自らに過失があったと思っても認めないほうが有利なのだそうです。
私が子供のころには、自らを反省することなく、相手を責め立てると、たしなめられたものです。
もっと言えば、相手に、より非があっても、自らは自らの非を認めることを潔しとしたものです。
そして、第三者が判定を下していました。
私は、そういう謙虚な日本人が好きです。
他人に対して、親切にしたり、良いことをするのは、日本人として当たり前のことであって、それをことさら、私はよいことをしたと言う日本人らしくない日本人は、私は好きではありません。
自らの権利だけを主張し、責任から逃れる態度は、戦後の日本人の悪いところだと私は勝手に思っています。
広島や長崎の人が、原爆投下の責任が米国にあると思っても、それを非難することなく、日本の戦争をひたすら反省する態度は、私の知る日本人としては当然ですね。
だからと言って、戦争責任にまで言及すれば、生臭い話になってしまいますから、二度と戦争を起こすまいという平和の誓いで十分でしょうが。
今更、米国を非難したり、謝罪を求めたりすることは、どこかの国と同じレベルですね。
オバマさんが、自らの意思で広島長崎を訪れることは除mzしいかもしれませんが、日本が訪問を要請したのでは、政治的訪問になってしまうとすれば、意味のないことだと私は思っています。
を問うべきでしょう。神は欺けない筈ですので┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
もし、キリスト教を信じているのでしたら、米国人は神に対して
許しを請うべきでしょう。原爆投下の非人道性は明らかで有り
これを正当化する事は神を欺く行為に他なりません。
従って日本人に謝罪する必要は必ずしも有りませんが
Jesusに対してどうなのかを私は問います。
tora3ご指摘のように、自分達のイデオロギー拡散の為に、ヒロシマとナガサキを利用してきた団体は、被爆経験を持たない日本人は「我々被爆者は・・」と言われた時点で思考停止してしまうのを良い事に、好き勝手に利用してきたのではないか?と最近思います。
昨年でしたか、京都に在住の被爆者2世の方が書かれた論文を拝見しました。「被爆者全ての意見を被爆者団体が代弁している訳では無く、静かに普通の生活をしている被爆者の中には、3発目の核爆弾を落とされない為には、日本の核武装も止むを得ないという意見を持つ方が少なからず存在するが、その声はイデオロギー運動に狂奔する輩に掻き消されている。」というような内容だったと思います。
私達は、被爆者という言葉を聞いた途端に「悲惨な、酷い目に会った可愛そうな人達」という意識が先に立ってしまい、そこを利用されてきたというように感じます。被爆者達の"本当の"声なき声に耳を傾け、我国の行く末を考えなければ、過ちはまた起こるのではないか、と感じています。
「戦争と平和という重い問題を考える際には、静かな心と冷静な判断が必要だと思う」。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090820/plc0908200744003-n1.htm
追記 鈴木茂さんとは思想信条が異なっているとつねづね感じていますが、今日の論考については全く同感です。
原爆投下で亡くなった方々はお気の毒であり、放射能の影響も考慮して、日本の国民全体が同情を保つべきではありますが、では東京大空襲で亡くなった方々の生命は原爆の被害者のそれより軽いのか。
当然、生じてくる疑問ですね。
私は、謝罪に関しては、いいか悪いかはむずかしいですが、日本人の特質がよく出ていると思います。済んでしまったことは運命と考え、じっと受け入れ耐え忍び、黙々と未来に前向きに取り組んでいくのですね。それは古来から台風、地震、火山など圧倒的な自然の力に晒され、それらと共存してきた日本人の特質のような気もします。
日本人は誰かを非難し責任をなすりつけるより、自身を省みる特質、他人に頼らない自尊心が世界でも際立って強いのではないでしょうか。
先の戦争では全国の大都市の大部分が灰燼に帰したという、恐らく人類史上でも稀な壊滅状況から立ち上がりました。アメリカからの援助などもありましたが、自力でこれほど早く蘇り、戦後20年で世界第2の経済大国にまで回復したことは世界史の奇跡以外の何物でもありません。
原爆被害についても、他国を頼らず、戦後被害者援護を日本独自で行い、外国人の被害まで日本が責任をもって対応してきました。
こういったことを諸外国と比べると本当に日本人は精神レベルが高いことを実感します。
そういうことで、原爆投下についても無差別爆撃にしても、日本人には感情的にアメリカを責めるのではなく、アメリカをして自然と悪かったと悟らせる方法がいいのでしょうね。アメリカは黒人差別の反省、最近ではネイティブアメリカンへの反省、日系人隔離政策への謝罪など率直で真摯な対応ができつつあるようです。それに期待できるかも知れません。
ただ、日本人は恨みがましく非難するのではなく、静かに理性的に批判を続けていくことは怠ってはならないと思います。世界では日本を陥れたいと思う国も多いですから。
できないものか、ということです。
単なる「核武装は反対」という中にはノイジーマイノリティーも
ノンポリもいっしょくたに含まれてしまい、結局は反対が過半数
→議論も不可!みたいな空気がそのままになっているんじゃないかと。
核武装の賛否だけでなく、原爆投下の責任の所在とか中国の核に
対する姿勢とか、地域性とかさまざまな選択肢でのクロス集計の
結果が見たいなあと。
感覚的には、考えたこともないけどなんとなく反対、悪いことだって
教わったから反対、という人が大多数じゃないかと思うんですが。
マ●ロミルあたりに頼めばちゃちゃっとやってくれますしね。
仰るようにヒロシマはアメリカの原爆投下を非難するべきだと思います。
しかも、「戦争犯罪人」としてです。
本来、戦争は戦闘員同士が戦争をするものだったはずです。
(いつから変わったのでしょうか)
日本の真珠湾攻撃でも、ハワイの一般市民を攻撃していません。
東京空襲も明らかに一般市民である非戦闘員を攻撃しています。
これは明らかに戦争犯罪だと思います。
敗戦国の日本人だけが戦争犯罪人として裁かれましたが、戦勝国のアメリカでも日本以上の戦争犯罪を犯しています。
私はアメリカ「核の笠」に守られている現在の「日本の方式」を支持していますが、アメリカが過去戦争犯罪を犯したという事だけは、はっきり主張するべきだと思います。
その上で改めて同盟関係を強めていく必要があると思います。
古森さんの著書に「主張せよ日本!」がありますが、この通りだと思います。
日本人独特の考え方は国際社会においては通用せず、主張すべきは堂々と主張しなければならない、ということを日本は学んだはずです。
東京裁判でブレークニー弁護人がとっくの昔に指摘しているではないですか。
「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか。」
この紹介の仕方は正しいのでしょうか?
「その結果、多数の人命が救われた」の「多数」とは「アメリカ人」のことだ、というのがアメリカの見解だと聞いています。
とすればこのアメリカ側の論理はかなり怪しいものに見えます。当時の日本にはもうたいした戦闘能力がなかったということをアメリカも十分認識していたと言われます。
「多数の日本人の命が救われた」というなら、実際ある程度正しいと言えましょう。
この辺を糞味噌にして議論をすのはひどくまずいです。
この主張は「米国の」を外しても成り立つし、その方が意味が大きいでしょう。
「原爆投下」も、「無差別大量破壊兵器の使用」に置き換えて主張しないと、いつまでも昔話です。
この主張はほとんど同意するのですが、前半に仮定的な条件(「…ならば」)を付けているのが弱いし、後半の「さらに激しく」も根拠不明です。「同様に」ぐらいの主張が妥当なところだと思います。
「日本軍の残虐行為が糾弾されないならば、原爆投下も糾弾される必要はない」というご主張ですね。論理的に考えると。
何が何でも「日本が悪」として金を日本国民から貪り取ろうとしたがっている共産主義者たちが、平和という言葉をいいように利用しようとしているとしか思えません。