核兵器についての論議がなお続く8月のこの時期、日本に投下された原爆について、もう少し考えてみたいと思います。

 

 なお核廃絶の実現のために考えねばならない核抑止の現実について以下のサイトに詳しい報告を書きました。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090818/174625/

 

 

さてアメリカでは現在にいたるまで、「日本への原爆投下は正しかった」という意見が多数派です。

 

アメリカ政府は公式にもその立場を崩していません。

 

8月5日に日本の新聞各紙でも報じられたアメリカの大学の研究所による世論調査でも、広島と長崎への原爆投下は「正しかった」と答えたのが全体の61%でした。

 

「まちがいだった」と答えた人は全体の22%という結果でした。

 

米側の論理としては、原爆投下は日本の降伏を早め、その結果、多数の人命が救われた、という趣旨です。

 

だが当然ながら、これはあくまで戦争の一方の当事者の考え方です。

 

日本側としては、あの大規模な無差別殺戮を「正しかった」とは絶対にいえないでしょう。

 

人道上や道義上の観点から、米国の原爆投下を判断のまちがいだとして糾弾すべきでしょう。

 

国際的にみても、原爆投下が少なくとも倫理的に正しかったという主張は簡単には出てきません。

 

 しかし被害者である広島や長崎の側からは少なくとも例年8月の式典での宣言などを聞き、読む限り、アメリカの原爆投下自体への非難は明確には浮かんできません。

 

 アメリカの核兵器使用への人道的や道義的な責任を追及する声が聞こえないのです。

 

 広島市の秋葉忠利市長は毎年8月6日の「平和宣言」ではアメリカの近年の政権の核政策などを非難はしていますが、肝心の原爆投下自体への糾弾は述べていません。

 

 秋葉市長自身とは異なりますが、ソ連や中国との連帯を土台に日本での反核運動を動かしてきた活動家たちの間では、むしろ「日本の軍国主義が悪いから原爆投下という事態を招いた」という見解が珍しくないようです。

 

広島市の原爆死没者慰霊碑の碑文も、原爆を投下したアメリカを責めずに、逆に日本側を非難する傾向をうかがわせます。

 

碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれています。

 

ごくふつうに読めば、「過ち」を犯したのは日本側だという意味にとれます。

 

つまり文章の主語は日本側だと受け取れます。

 

日本側が被爆者をも含めて、ひたすら「過ち」を謝罪しているように読めるでしょう。

 

アメリカへの非難はツユほども感じられません。

 

この碑文は慰霊碑が1952年8月に建立されて以来、何度も論議の的となってきました。

 

一般市民からも「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」とか「原爆を投下したのは米国側だから『過ちを繰り返させない』とすべきだ」というような批判が出ていました。

 

しかし碑文を書いた当時の雑賀忠義広島大教授や浜井信三広島市長は「過ちとは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味すると主張したそうです。

 

そして、「過ちは繰返しませぬ」という文章の主語は「人類全体」だとする解釈を打ち出したのです。

 

だがもし主語が人類ならば、なぜ人類と書かなかったのか、という疑問が残ります。

 

それになによりも、この日本語を日本人が普通に読めば、大多数が「過ち」を犯したのは日本側だという意味に受け取るという現実が残るといえます。

 

東京裁判で日本人被告の無罪を主張したインドのパル判事も建立後まもない慰霊碑を訪れた際、通訳を介して碑文の内容を聞いて「日本人が日本人に謝罪している」と述べたそうです。

 

そしてパル判事は「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」と語ったとのことです。

 

つまりパル判事は原爆投下の正当化論をも激しく非難したのでした

 

だがその種の非難は日本側の被爆者サイドからはまず出てこないようです。

 

第二次大戦中の日本軍の残虐行為がいまもなお糾弾されるならば、米軍の民間人無差別大量殺戮である原爆投下もさらに厳しく糾弾されるべきでしょう。

 

とくに日本の内部にいる日本糾弾派には注意を向けてほしい歴史的事実がヒロシマとナガサキへの原爆投下です。