日米同盟を自分自身の体験を基に改めて考えるという趣旨の連載記事をいま書いています。

 

「体験的日米同盟考」というタイトルのシリーズです。

 

今回は前回に引き続き、ベトナム戦争報道の体験からアメリカの軍事行動や同盟国とのきずなについて考えるレポートを書きました。

 

日本側に当時あったベトナム戦争への誤解の指摘をも含めています。

 

【朝刊 国際】
【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(9)北ベトナム爆撃での議論

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1972年4月、ドンハ北のソンミュージアン川にかかる国道1号線の橋は、米軍機の爆撃で炎上した(AP)

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筆者(古森)の乗艦から27年余りの歳月を経た1999年7月、米空母コンステレーションは米軍横須賀基地に入港し、一般に公開された。その4年後、同艦は42年間におよんだ任務を終え退役した

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 ■米軍空母は日本からきた

 眼下の大海原のはるか遠くに白く砕ける航跡がちらつき、その先に小さな黒い板のような艦影がみえた。

 

 米国海軍の最大空母コンステレーションだった。

 

 南ベトナム首都のタンソンニュット空港から米海軍の小型双発機で北へ3時間、熱帯の青空を飛んだ私たちはトンキン湾に出動中の空母の取材を認められたのだった。

 

 ガアーンという衝撃とともに鋼鉄の甲板に着艦した。

 

 8万トン以上の航空母艦は海上の巨大な城だった。

 

 この艦上からA6、A7という艦載攻撃機群が100キロほど離れた北ベトナムへの爆撃へと飛び立っていた。

 

 当時、日本でも非難のわいた米軍の北爆だった。

 

 1972年5月18日だった。

 

 米国のニクソン大統領は北ベトナム軍の南ベトナムへの大規模な攻撃に対抗して北の沿岸を機雷封鎖し、要衝のハノイやハイフォンへの空爆を実行していた。

 

 私はその北爆にあたる空母の取材を申し込み認められたのだ。

 

 米英仏の大手メディアの記者に私を加えた6人が招かれていた。

 

 広大な飛行甲板から何層もの艦内を案内され、最上層の艦橋では艦長のワード大佐から海図を使っての作戦全体の説明を受けた。

 

 目前の無線受信スピーカーからはソ連の情報収集艦が密着していることや、その日の米軍飛行中隊司令官機がベトナム側の対空砲火で撃墜され、海上に脱出したパイロットがヘリで救助されたことが伝えられるのにびっくりした。

 

 やがて遠方の空に黒い粒のような機影が見え、ぐんぐんと接近してきた。

 

 爆撃任務を終えた編隊の帰投だった。

 

 合計20機ほどが甲板を激しくたたくように次々と着艦した。

 

 帰ったばかりのパイロットたちに直接、話を聞けることとなった。

 

 まだ汗ぐっしょりの飛行服のままインタビューに応じた3人のパイロットはみな20代後半にみえる精悍(せいかん)な青年たちだった。

 

 ジャンカー、ガレス、ポール各海軍大尉だと自己紹介した。

 

 ジャンカー大尉がまず笑顔で語った。

 

 「私たちの爆撃が非難の的となっていることはよく知っています。だからこそ世界各国のジャーナリストに自分らの意見を聞いてもらえるのはありがたいです」

 

 当時、北爆には米国内でも、国際的にも反対の声が強かった。

 

 超大国がアジアの小国に大量の爆弾を落とすことの正当化は難しかった。

 

 だが米軍の北爆任務はみな志願制だった。

 

 記者側からは当然、なぜ志願したかという問いが出る。

 

 ジャンカー大尉がすぐに答えた。

 

 「北ベトナムの侵略から南を救うことは道義的にも正しいと信じるからです。北爆をしなければ、南ベトナムの敗北は必至です」

 

 ガレス大尉が言葉を継ぐ。

 

 「北ベトナム軍の攻撃で無残に破壊された南の村落をみて、その攻撃を持続するために南下する北ベトナムの軍隊をみて、この流れを断つために北爆は意義があると感じました」

 

 ポール大尉も語った。

 

「人を殺し、物を破壊するのはいやなことです。だがわれわれの爆撃は軍事関連目標にはっきり限定されています」

 

 記者団の先鋒(せんぽう)はニューヨーク・タイムズのシドニー・シャンバーグ記者だった。

 

 後にカンボジアのポル・ポト派の大虐殺を「キリング・フィールド」として詳しく報じた人物である。

 

 彼が米国のベトナム介入反対の立場から遠慮のない質問を浴びせていった。

 

 南ベトナム政権は米国人が命をかけてまで守る価値があるのか。

 

 そもそも北爆の軍事的効果は確かなのか。

 

 ジャンカー大尉がすぐに反論した。

 

 「米国民の多くはマスコミのためにベトナムの実態を誤解しています。マスコミは反戦運動で40人の学生が大学の建物を占拠しても大きく報じるが、北軍の砲撃で5千人の南ベトナム住民が殺傷されても無視することが多いのです」

 

 私はこのとき米国のシステムの開放ぶりを実感した。

 

 命をかけた任務から帰った米国軍人に同じ米国の民間人が「あなたのしてきたことは間違いだ」と断じ、そこから自由な議論が始まるのである。

 

 米国の軍事行動はこのような民間からの意見に動かされうるという基本だった。

 

 この点はその後、日米同盟を考えるうえでも大きな指針となった。

 

 そしてこの空母コンステレーションは日本の横須賀から5日をかけ、トンキン湾へとやってきたことを知らされた。

 

(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

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[etoki]1972年4月、ドンハ北のソンミュージアン川にかかる国道1号線の橋は、米軍機の爆撃で炎上した(AP)[etoki]

 

[etoki]筆者(古森)の乗艦から27年余りの歳月を経た1999年7月、米空母コンステレーションは米軍横須賀基地に入港し、一般に公開された。その4年後、同艦は42年間におよんだ任務を終え退役した[etoki]