ベトナム戦争に学ぶ日米同盟の教訓です。

 

ベトナム戦争では南ベトナム(ベトナム共和国)はアメリカから防衛の誓約を受けながら、いざというときに見捨てられ、滅亡しました。

 

 現在の日米同盟の危うい状態をみると、そのベトナムの状況がまったくの他人事とも思えなくなります。

 

 

【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(12)米国の南ベトナム離脱


 ■一変した防衛誓約

 

 南ベトナムの大統領官邸にはさわやかな朝の風が吹いていた。

 

 

  グエン・バン・チュー大統領は熱をこめ、米国への批判を語った。

 

 「アメリカの歴代5人の大統領が南ベトナムが共産主義の侵略と戦い続ける限り、援助は必要なだけ与えることを誓ってきたのです。だがわが政府が今年度、16億ドルの軍事援助を求めたのに対しアメリカ議会は7億に削り、さらに3億にする構えなのです。まるで市場で野菜を値切るように減らしていく。援助にはかりにもベトナム共和国の存亡がかかっているのです」

 

 私の目の前に座った52歳の大統領は熱弁をふるった。

 

 1975年3月5日、大統領は日本人記者たちとの会見に応じたのだった。

 

 サイゴン(現ホーチミン市)駐在では最古参となっていた私が質問の口火を切った。

 

  農家の出身で軍人となり、いくつもの激戦や政変を生き抜いてきたチュー氏はその8年前に大統領の座についていた。

 

 小柄ながら屈強な体の彼はしっかりとした英語で話し続けた。

 

 独立宮殿と呼ばれた官邸の3階、白いグランドピアノがおかれ、剥製(はくせい)のヒョウがキバをむく接見室だった。

 

 大統領は北ベトナム軍との戦闘の状況や内政、経済などについて冷静に語ったが、こと論題が米国との関係となると、一段と身を乗り出し感情をみせて苦境を訴えるのだった。会見は2時間を超えた。

 

 私がベトナムに赴任してからすでに3年ほどの歳月が流れていた。

 

 この間、南ベトナムという国家は数奇な運命にもてあそばれた。

 

 赴任直後に体験した北ベトナムによる72年春季大攻勢は夏には戦闘が下火となってきた。

 

  同時にパリで米国と北ベトナムとの和平会談が始まった。

 

  ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官とレ・ドク・ト・ベトナム労働党政治局員との停戦の交渉だった。

 

 米国のニクソン大統領はベトナム離脱の基本はすでに決めていた。

 

  ただし同盟相手だった南ベトナムをいかに支えながら手を引くかがカギだった。

 

 米軍は究極的には完全撤退するが、南ベトナム領内に布陣する北ベトナム軍大部隊はどうするのか。

 

  米国の南ベトナムへの支援はどうするのか。

 

 73年1月27日にパリで調印された停戦と和平の協定はこうした諸点、北に有利、南に不利だった。

 

 米軍だけが去っていくことが決められた。

 

 そのかわり米軍捕虜は全員、解放される。

 

 北ベトナムは元来、南領内への出兵は認めていない。

 

 闘争はあくまで南の人民が決起しただけなのだという壮大なフィクションだった。

 

 この協定の調印前にはパリでの交渉のたびにキッシンジャー氏やその副官のアレクサンダー・ヘイグ氏がサイゴンに立ち寄った。

 

  協定への同意を渋る南ベトナム政府に圧力をかけるためだった。

 

  私たちはサイゴンの空港に出かけ、キッシンジャー氏らにしつこく協定の状況を質問した。

 

 後で判明したのだが、米側はこのプロセスで南ベトナム政権に協定に同意しなければ、援助をすべて打ち切るとまで脅していた。

 

  ニクソン政権としては国内世論をみても、議会の動向をみても、ベトナム離脱以外の道はもうなかったのだ。

 

 協定に基づき最後の米軍部隊が撤退したのは73年3月29日だった。

 

 私はサイゴンの空港で撤退の光景をみまもった。

 

 強い風が吹く滑走路ではすぐ隣に作家の開高健氏が立っていたのを覚えている。

 

 米軍司令部勤務の高級将校や古参下士官たちの最後の集団が粛々と輸送機に乗り込んでいった。

 

 立ち会いの北ベトナム軍の責任者ブイ・ティン中佐が満面に笑みを浮かべ、米軍の離脱を確認していた。

 

 その中佐が後年、フランスに亡命してしまうのだが、それはまた別の物語である。

 

 それからの2年、ベトナム戦争は南ベトナムと北ベトナムとが南の領土を舞台として、平和とも戦争とも断じられない闘争を続けたのだった。

 

  だが南ベトナムは米国からの軍事援助をどんどん削減されていった。

 

 北が停戦の協定を破って軍事攻撃を拡大する場合の米国による大幅支援を約束したニクソン大統領は74年8月にウオーターゲート事件へのかかわりで辞任に追い込まれていた。

 

 米国がいかに同盟の相手に防衛の支援を誓っていても、自国内の世論や自国の戦略利害の変化によっては、がらりと変わってしまう。

 

 南ベトナムの興亡はそんな真実を映し出していたといえる。

 

 (ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 

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