ベトナム戦争がどのように終わり、その結果、日米同盟にはどんな影響があったのか。
私の連載の紹介です。
【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(13)サイゴン陥落の余波
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1975年8月、ホワイトハウスで会談するフォード大統領と三木武夫首相(ロイター) |
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サイゴン陥落の日、北ベトナム軍に占拠された直後の大統領官邸。3階のバルコニーから前庭を見る=1975年4月30日(古森義久撮影) |
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■米国が日本防衛を強調
ベトナム戦争が終わった日、サイゴン(現ホーチミン市)は朝から小雨にけむっていた。
1975年4月30日だった。
午前10時すぎ、ラジオから重苦しい声が流れた。
「これ以上の血を流さないために…すべての戦闘行為を停止し…政府の実権を移譲するために革命政府側との会見を待つ-」
つい2日前にベトナム共和国(南ベトナム)の大統領に就任したズオン・バン・ミン将軍の声だった。
北ベトナム軍への降伏の声明である。
人口350万とされた首都サイゴンには北ベトナム正規軍計15個師団が5軍団に分かれて肉薄していた。
南ベトナム軍はそれでも5個師団ほどが首都圏の外郭で防衛を試みたが、むなしかった。
サイゴン市内は狂乱が続いていた。
北軍の大進撃に多くの市民たちはパニックに駆られ、荷物を抱えて走り回った。
米軍のヘリや輸送機、そして一般の船舶でなんとか国外に逃げようとしたのだ。
地をゆする戦闘の響きは市街にまで届いていた。
南ベトナムという国家、社会の断末魔だった。
私にとって3年余りも慣れ親しんだ社会が砕け散り、ごく普通の人たちが恐怖に襲われ逃げ回る光景は悲痛だった。
北ベトナム軍の総攻撃はそのわずか50日ほど前に始まった。
私たちがグエン・バン・チュー大統領に会見した5日後の3月10日、サイゴン北300キロの中部高原要衝の省都バンメトートに北軍大部隊が襲いかかった。
森林にひそんだ戦車隊を先頭に、守備隊の数倍もの兵力が猛攻をかけ、1日で省都を制圧した。
チュー大統領は反撃に出るかわりに中部高原全体からの自軍の撤退を命じた。
米国からの武器弾薬の援助の激減に加え、中部では南軍は2個師団ほどなのに、北軍はすでに5個師団が展開したため、首都サイゴン周辺の南部に兵力を集中して抗戦する意図だった。
だがこの戦略的撤退が大失敗となった。
撤退する南軍部隊は大量の難民に埋まり、北軍の疾風の追撃で撃破されていったのだ。
北ベトナムは南軍の中部高原からの大敗走を千載一遇の好機とみて、国の総力をあげて南ベトナム攻略へと踏み切った。
「ホーチミン作戦」と名づけた大攻勢の総指揮をとったバン・チエン・ズン人民軍参謀総長はただし最後の最後まで米軍の再介入を懸念していた。
米軍はその2年前に完全に撤退していた。
当時のニクソン大統領は南ベトナムでの政治解決をうたうパリ和平協定を北ベトナムが全面的に破り、軍事力を使うときは米軍が再介入することをチュー大統領に誓約していた。
だが米軍はもどらず、南ベトナムは滅びた。
北ベトナムが南に20個師団までも投入し、首都サイゴン制圧を目指す過程ではチュー大統領が辞任さえすれば停戦交渉に応じるという構えもみせた。
チュー氏は4月21日に辞任した。
だが北側は停戦の条件をさらにつり上げた。
後任のミン大統領の降伏声明も受け入れず、「共産主義に反対する勢力とは交渉しない」とまで言明して南ベトナムの政体を粉砕したのだった。
4月30日のサイゴンでは雨の上がった正午近く、北ベトナム正規軍の部隊が次から次へと入城してきた。
T54戦車、PT76装甲車、モロトフ・トラックなどソ連製の車両に乗る将兵が多かった。
南軍は抵抗を完全に止めていた。
私は車で、徒歩で、市内を走り、歴史的なサイゴン陥落の実態をみてまわった。
北軍が占拠したばかりの大統領官邸の内部にも入り、南ベトナム政府の最後の代表たちが軟禁されている場面をも目撃した。
戦後の南ベトナムでは南独自の革命勢力は登場してこなかった。
南側にあって反チューだった第三勢力も切って捨てられた。
共産主義を掲げる北ベトナムの労働党が一枚岩の支配を鉄のように固めていった。
サイゴン陥落は東西冷戦のなかでは結局、共産主義陣営の勢力圏の拡大を意味していた。
北ベトナムは南を併合後、ソ連にさらに接近したから、米国を中心とする民主主義陣営には大きな後退だった。
その結果、米国は安全保障政策での日本の重要性を一段と強調するようになった。
75年8月の三木武夫首相とジェラルド・フォード大統領の日米首脳会談では米国の日本防衛誓約が力説され、米国の核抑止力の日本の安全への寄与が首脳レベルで初めて明文化されたのだった。
(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)
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サイゴン陥落の日、北ベトナム軍に占拠された直後の大統領官邸。3階のバルコニーから前庭を見る=1975年4月30日(古森義久撮影) |
コメント
コメント一覧 (19)
僕はその頃、余り良く読めない英語の週刊誌の
ニューズウィークの写真を眺めていましたが、
何故サイゴン市民が狂乱状態なのか、良く理解できなかったが
古森様のこのブログで、良くわかりました。
今の民主党政権では、日本もこの様な状況が起きない、
とは、決して言えないのではないかと、
鳩山由紀夫ではないが、僕は妄想しますが・・・。
屈して南ベトナムは見放されたって感じですな┐(´д`)┌ ヤレヤレ
地政学的に米国が必要性を感じなかったのも原因かも
知れません。そこが韓国と南ベトナムとの違いかもと。
ホー・チ・ミンの南進は許したが金日成の南進は許さなかった。
もし日本が日米同盟を破棄し、しばらく経てば、南ベトナムよりは簡単に外国勢力の支配下に入ってしまうかもしれませんね。
アメリカにとっての国内世論と、戦略的利害と、両方が重なり合っての南ベトナム放棄だったといえそうですね。
横レスポンスで失礼します。
>☆平和といのち のブログ平和
平和といのち、という「公式」から引き出された「観念学」が
>政治生命を賭して持論を世論との整合のもと現実化していくのが政治家なのではなかったのでしょうか?
持論を世論との整合のもと現実化していく、という「観念」は、
政治的国際的現実を無視して、その「観念学」に準じて国が滅びても良いという事でしょうか?
単に憲法9条があるから大丈夫とか、日本には資源がないから大丈夫などと考える方が可笑しいと考えます。
安全保障とは保険のようなもので、武力を使わなければ1番良いのですが、まさかに備えなくてはなりません。
やはり日本も韓国のように強襲揚陸艦を備えるべきなんではないでしょうか?
数隻建造し、一隻は大規模災害の援助に使えば良いのではないかと考えています。
なぜいきなり、こんな事を書いたのかと言えば↑の反対意見だからです(笑)
相応の抵抗や報復が予想されれば、潜在的な敵も開戦を躊躇し、非武装派が求めて止まない平和が維持される確率が上がるのです。抵抗も報復もないと予想されれば「獲り得」だと攻めてくるでしょう。
南ベトナムという国家に最初に武力攻撃をかけた、つまり戦争を始めたのは北ベトナムです。南ベトナムやアメリカの軍事行動はそれに対する防衛でした。
今回の朝鮮半島の緊迫も、北朝鮮が軍事力を使って、韓国の軍艦を撃沈したことが契機です。
あなたの主張は戦争や軍事対立、軍事衝突の仕掛け人の側の行動は、なにもとがめず、それに対応する側の行動だけを「悪」とか「危険」というふうに決めつけていること、おわかりでしょうか。
とにかくアメリカと日本がいつも悪い、というスタンスがお好きですね。
朝鮮戦争の発端も、北朝鮮の大部隊が奇襲的に攻撃をかけてきたことで始まったという事実を認めていない「識者」が日本では多数、いましたね。
いまもまだいるようです。
貴コメントが国際常識路線です。
それこそまさに鳩山さんさえも認めた抑止力の原理です。
>政治生命を賭して持論を世論との整合のもと現実化していくのが政治家なのではなかったのでしょうか<
については私にも異論はありません。ただ、理想を現実化してゆくために、鎖国時代ならいざ知らず、国際的な関係も考えて現実化して行かなくてはなりません。国内世論だけを頼りに対米開戦に踏み切った「遠くない過去の一時期」を想起することも大事ではありませんか。
東西冷戦中にもソ連や中国の核兵器は平和のため、アメリカの核兵器は殺戮のため、だと、まじめに唱えていた人たちが日本にも多数いましたね。
その残党がまだいるということ、期せずして、この場でも証されたようです。
>きんちゃん さん
>
>その残党がまだいるということ、期せずして、この場でも証されたようです。
横レスポンスで失礼します。
先ほど、我が街を歩いていたら、
日本共産党の旗、を持った、二三人のお婆ちゃんが、
メモを見ながら、「日米同盟反対」と叫んでいました。
我が街の街頭放送にも、最近、「日本共産党を宜しく」という、
コマーシャールを流していて、僕はそれを聞いて驚いています。 長い間、人生を生きて来て、最後は日本滅亡の片棒を担いで、
一体全体、この人達の人生とは、何でしょうか?
多分、言っても分からないでしょうが、イヤハヤ。
これも、コミンテルンの工作が、ここまで浸透しているという事か。
一つの選択肢ではありますね
イランと交換に
多分、イスラム圏がもう少し堅固に結びついていたら
実行されたでしょうね
スンニとシーアの政治観が似ていたら
実現されたでしょうね
>当時のニクソン大統領は南ベトナムでの政治解決をうたうパリ和平協定を北ベトナムが全面的に破り、軍事力を使うときは米軍が再介入することをチュー大統領に誓約していた。
こういう誓約があったのですね。しかし、アメリカは戻らなかった。ニクソン、キッシンジャー訪中の頃からアメリカのベトナム離れは既定路線だったと思いますが、不渡りの証文を南ベトナムに渡していたとは。当時も政治の世界は残酷ですね。
> 後任のミン大統領の降伏声明も受け入れず、「共産主義に反対する勢力とは交渉しない」とまで言明して南ベトナムの政体を粉砕したのだった。
この辺りの感覚が日本人には分からないのですね。共産主義勢力は、民主主義とは全く相入れない独裁しかないようです。多様な意見、異なった意見を聞くという姿勢は全くない180度逆の体制です。
そして共産政権の中では、わずかな政治理念の違いによっても粛清殺害され、必死の権力闘争が巻き起こる訳です。その中では平和共存、自由な言論、批判は全く受け付けませんので恐怖政治あるのみです。
本当にこういった恐怖の結末に、西側の知識人達も騙され続けてきたのかということは、研究対象にもなり得るものでしょう。未熟な資本主義社会の苦しい現実が実際にあったとは言え、ここまで悲惨な独裁弾圧恐怖社会が出現するとはと予想外であったのか。
今の北朝鮮、中国共産党すべて全く同じ独裁弾圧原理で、経済以外では今でも一歩も外に踏み出せていません。
一方自由で民主主義の資本主義世界は、社会矛盾の縮小の方向に多様な意見を取り入れ、成果を上げてきました。共産主義に意味があったとすれば、それ以外の自由世界に反面教師として、問題の解決を急がせたということでしょうか。
いや、ニクソンはその米軍再介入の約束をしたときは、その気だったと思います。ただしその本人が大統領辞任に追い込まれてしまったのです。