歴史雑誌『歴史通』7月号掲載の古森義久のレポートの紹介を続けます。

 

太平洋戦争中、日本海軍の連合艦隊の山本五十六司令長官が米軍機の待ち伏せでどう撃墜されたのか。

 

 

撃墜した側の米軍パイロットの回想です。

 

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ヘンダーソン基地での作戦会議では山本の日ごろの生活ぶりまでがパイロットたちに知らされた。

 

なかでもモリソン大尉は時間厳守が山本の生活での一種の癖のようだとも強調した。

 

攻撃する側にとっては貴重な情報だった。

 

結局はこの山本の「時間厳守」の習慣が彼の命を奪うことにもなったともいえる。

 

 出撃にはヘンダーソン基地にあるすべてのP38が動員された。

 

 遠隔地での至難な攻撃を果たし、日本機の追撃をかわして帰投しなければならない。

 

 そんな長く険しい飛行には各機とも往路は大きな補助燃料タンクをつけて飛ぶことが必要だった。

 

 増槽と呼ばれたタンクだ。

 

 基地ではその時、十八機のP38が出動可能だった。

 

 その全機が動員されることとなった。

 

 

 

 攻撃部隊の全指揮官には前述のジョン・ミッチェル少佐が選ばれた。

 

 ミッチェルもランフィアと同様、サンフランシスコ近くのハミルトン航空基地で猛訓練を受けた戦闘機乗りである。

 

 ミシシッピー州出身、コロンビア大学卒の学究タイプだったが、太平洋戦争ではすでにめざましい功績をあげ、戦闘機パイロットのエースのひとりに数えられていた。

 

 ガダルカナルの第三三九飛行隊ではランフィアのすぐの上官だった。統率力のすぐれた将校としても評判だった。

 

 だからミッチェル少佐の指揮官任命はだれからもごく当然として受けとめられた。

 

 だがこのミッションの最大の責任はトーマス・ランフィア大尉の肩にかけられた。

 

 出撃十八機のうち、ランフィアをはじめとする四機が山本長官機を直接、攻撃するグループと決まったのである。

 

 ランフィアのほかにレックス・バーバー中尉、ジョー・ムーア中尉、ジム・マクラナハン中尉がその攻撃グループだった。

 

 このグループは日ごろランフィアの指揮下にひとつの編隊として活動してきた。

 

 本来なら四月十八日から休暇に入る一団である。

 

 

 

 だがランフィアはじめこの一群の戦闘機乗りたちは南東太平洋でめざましい戦果を重ねてきたため、特別ミッションにはまっさきに選ばれたのである。

 

 たとえばこの作戦会議のすぐ前の四月七日、ヘンダーソン基地に日本軍の零戦十一機が襲来した。

 

 基地からはランフィアやバーバーら四機が迎撃に舞いあがった。

 

 山本長官の攻撃を命じられたのと同じ四人のパイロットである。

 

 この四機の編隊は零戦と空中戦を演じた末に、七機を撃墜した。そのうち三機まではランフィア自身が撃ち落としていた。この時も彼は銀星章を受けている。

 

 前年の四二年十二月二十六日にはランフィアはガダルカナルの東三百㌔ほどのニュージョージア島にある日本軍基地を空襲した。

 

 やはりバーバーを僚機パイロットとしていた。

 

 この時も地上の日本軍航空機を多数、撃破して、闇の豪雨の中を無事、ヘンダーソン基地へと帰還して、勲功メダルを受けている。

 

 ランフィアがあげた戦果はそのほかにも多く、太平洋戦線の戦闘機パイロットではすでにミッチェル少佐にも勝る評価を築いていた。

 

 当時、優秀なパイロットにとくに必要とされた資質は一体、なんだったのか、と私が尋ねると、ランフィアは「私の場合は遺伝なのです」とまじめな顔で答えた。

 

 「私の父、トーマス・ランフィア・シニアは第一次大戦の花形パイロットでした。米軍航空部隊の生みの親のひとりともされました。かがやかしい戦果に加え、アメリカ大陸横断や北極飛行の新記録を次々につくり、アメリカ中のヒーローだったといっても誇張ではありません。私はそんな父親に育てられ、十三才の時に早くも父と共に空を飛びました。父は当時、ミシガン州にあったアメリカで最大の航空隊の司令官でした。それ以来、飛行機の操縦を父から学び、飛行には慣れ親しんできました。だから陸軍の航空隊に入った時はすでにかなりの技量を持つパイロットだったのです。だから私の当時の実績からみれば山本攻撃の任務をはたすには最適格と判断されても、とくにふしぎではなかったのです」

 

 ランフィアはこんな経歴を決して自慢とは響かない淡々たる口調で語るのだった。

 

 そして自分の欠点をも率直に認めた。

 

「ただ私自身いくら実戦の経験を重ねてもすぐれたパイロットだという意識はなかったのです。出撃のたびにいつもかあっとなって、冷静さを失なってしまうからです。出撃の際は緊張からか恐怖からか、とにかく興奮して冷静さをなくしてしまう。そしてそんな自分に対して『これではお前ダメだぞ』といつも言いきかせるのです。たとえばP38戦闘機には機関銃と20ミリ砲がある。目標や状況に合わせて両方の火器を使いわけねばならないが、私はいざという時はかっと興奮してしまい、20ミリ砲のことをすっかり忘れてしまうのです。山本長官機を攻撃する時もそうだった。機関銃の発射ボタンからちょっと手を離して20ミリ砲のボタンを押せばよいのだけれど、それを思いつく余裕をなくし、機関銃ボタンだけをただ夢中で押しつづけてしまったのです」

 

 パイロットとして冷静沈着ではないと自認するのだ。

 

 よくいえば、勇猛果敢のタイプだったのだろう。

 

 たしかに打てば響くような積極性や闘志は、四十年後の私との会話でも、はっきりとうかがわれた。

 

 「そう、私はたしかに大胆な突撃タイプのパイロットで、時には無謀でさえあった。でもそれは戦闘機乗りとして成功する資質の一部だったとも思います。私自身の性格の反映でもあった。私は親しい友人に『どうもオレは跳び込み台から下のプールに水があるかどうかを確かめる前にダイブする癖がある』と打ち明けたことがある。と彼は『それはまさに適確な評価だな』と言うんです(笑)」

 

山本攻撃のミッションではランフィアらの四機を除く、残りの十四機が援護部隊となった。

 

待ち伏せ空域でランフィアらの攻撃部隊がうまく山本機を襲えるようカバーするわけだ。

 

日本軍の戦闘機を迎撃せねばならないのだ。

 

 カヒリの西五十六㌔の地点で攻撃部隊は高度約三千㍍で山本の一行を待つのに対し、援護部隊は高度六千㍍の上空まであがって待機し、攻撃部隊を阻止しようとする敵機を、上から舞い降りて叩く、という計画だった。

 

 援護部隊のパイロットの残り十三人はミッチェル少佐みずからが選んだ。

 

 有資格者四十人ほどからの選抜だった。

 

 ミッチェルは全部隊の指揮官ではあったが、彼自身はもちろん援護よりも、直接、山本の撃墜をめざす攻撃部隊の先頭に立つことを希望していただろう。

 

 ただそんな不満を彼は少しでも表わしはしなかった。

 

 だがランフィアは同じベテランの戦闘機操縦士としてミッチェルの気持が痛いほどよくわかった。

 

 作戦に参加するパイロットたちは四月十七日の夜、ミッチェル少佐からブリーフィングを受けた。

 

 「目標は日本の連合艦隊司令長官、パールハーバー攻撃の総責任者である」

 

 宿舎のテントから少し離れた野外の闇の中で、小さな灯りに照らし出されたミッチェルは、翌日の作戦計画を詳細に語り出した。

 

 パイロット以外に整備や情報収集の要員たちも、身じろぎもせず聞き入っていた。

 

 ただランフィアらパイロットたちは山本機撃墜の成算にはかなり懐疑的だった。

 

 千㌔以上も離れた二つの地点から別々に飛んでくる二つの編隊が、大海原の上空のどこかでぴたりとうまく遭遇する、などというのは奇跡にひとしいではないか、と考えていた。

 

 だが幸運であれば捕捉できるだろう。

 

 さて出撃の日となった。

 

 一九四三年四月十八日である。

 

 早朝の飛行場では十八機のP38がエンジンの轟音をあげ始めた。

 

 ミッチェル少佐の率いる援護部隊からまず離陸となった。

 

 スチール板を敷きつめた滑走路に乗って、次々と飛び立つ。

 

 そのたびに周辺のサンゴ質の砂がプロペラの風にあおられて薄赤い霧のように広がる。

 

 アメリカ側の時間で午前七時十分だった。

 

 ランフィアはパートナーとなる僚機のバーバーをすぐ横手に見ながら、滑走路を一気に進んだ。

 

「バーバー機をみると、彼がニヤリと笑い、手を振りました。彼の前歯が欠けているのがはっきりとみえました。つい最近、仲間の将校とつまらないことからけんかして殴られ、なくした歯だったのです。彼は私にとってすばらしいウィングマン(僚機パイロット)でした。空中戦でいつも私に劣らぬ手並みをみせていました。そしてなによりもチームワークの大切さを熟知していたとえいます。私にとってバーバーの支援がなければまず命を落としていただろうと思えるミッションが少なくとも二度はありました」

 

 ランフィア機が飛び立った後、同じ攻撃隊四機のうちのジム・マクラナハン中尉のP38が滑走路を疾走するうちに、車輪のタイヤを破裂させてしまった。落伍である。

 

 残るランフィア、バーバー、ムーアの三機が飛行場の上空でゆっくり輪を描いて編隊を組んだ。

 

 そしてミッチェル少佐の編隊に並んで、ガダルカナル島を離れ、青い海原の上空へと舞いあがった。

 

 補助タンクのずしりとした重さが上昇の速度にブレーキをかけていた。

 

 全機とも燃料使用を補助タンクへと切り換えた。

 

 と間もなく、ムーア中尉の機がランフィアの横に近づいてきた。

 

「ムーアは私にジェスチュアで信号を送ってきました。日本軍に発見されないため、無線の交信はすべて厳禁されていたのです。ムーアは補助タンクの燃料がスムーズにエンジンへと流れこまない、と合図していました。正規のタンクの燃料だけでは攻撃を終えて帰投はできません。ムーア機はヘンダーソン基地へともどらざるをえなかった。攻撃隊長の私はあっという間に四機のうち二機を失なってしまったのです。ムーアとマクラナハンの二人までが脱落したからです。私は自機を全編隊の総隊長であるミッチェル少佐機に近づけ、翼を振って信号を送りました。四機で編成した攻撃隊がわずか二機になったことを知らせたのです。ミッチェルは状況をすぐに理解して援護部隊十四機のうちから二機のP38をさいて、攻撃部隊に回してくれました。ベスビー・ホルムス、レイモンド・ハイン両中尉の機でした。私は両中尉と作戦行動を共にしたことはなかったが、二人ともミッチェル少佐の麾下にあって数々の戦果をあげた歴戦の戦闘機乗りであることは知っていました」

 

 この緊急の組み替えで山本長官機を直接、攻撃するのはランフィア以下、バーバー、ホルムス、ハインの四機となった。残る援護部隊は十二機となったわけだ。

 

 十六機のP38は青い海原をなめるように、超低空で飛んだ。

 

 ガダルカナルからカヒリまで日本軍には絶対に発見されてはならなかった。

 

 日本軍は途中のムンダ、レンドバ、ベララベル、ショートランドといった島々に基地を築いている。

 

 米軍機編隊はそのため陸地を離れた洋上へと回る必要があった。ゆるい弧形を描くコースである。

 

 この飛行ルートは片道六百九十㌔、ミッチェル少佐がそのチャートを慎重に決めていた。

 

 飛行スピードは時速三百三十㌔ほど、燃料を長持ちさせるために普段よりはややのろい速度が指示されていた。

 

 日本軍のレーダーを避けるために山本機発見までは一切の無線交信は禁止、しかも水面から十㍍、十七、八㍍といった低空飛行をつづけることとなっていた。

 

 ミッチェル機を先頭に編隊は飛びつづけた。熱帯の空はすっかり晴れ、灼熱の太陽がギラギラと照っていた。

 

 ミッチェル機が方角や高度をほんの少しでも変えるたびに後続の各機はぴたりとその動きに従った。

 

 ランフィアはサンルームのようにむし暑くなったコックピットで操縦桿をしっかりと握っていた。

 

「汗がじっとりと体をぬらしていくのです。水面すれすれの超低空をきっちりと編隊を組んで飛びつづけるにはものすごい集中力が要求されます。だが青一面の大海原と灼けつく陽光に、ともすれば注意が散慢となります。なにしろ視野に入る光景は海と空だけ、なんの変化もないのです。これほど重大な出撃でも飛行の単調さは眠気を誘うほどだった。うっかり居眠りをして水面に突っこまないよう、必死で眠気とたたかいました。いやあ、ふしぎなものです。決死の戦闘が迫っていても、単調で長いフライトは退屈きわまり、睡魔におそわれるのです。実際に体験しないとわからない感覚でしょう」

 

 ランフィアは自分にムチ打つように、これからの戦闘の状況の想定に努めた。

 

 だが山本長官機とばったりぶつかるシーンが現実としてすんなり浮かんでこない。

 

 考えられるのは近くの基地から飛び立ってくる零戦との遭遇ばかりだった。

 

 零戦に発見されずに、目的地までいかに到達するかを考えつづけた。

 

 三十分、一時間、一時間半……P38編隊は南太平洋上をひたすら飛んだ。

 

(つづく)

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