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波のしぶきをかぶるほどの超低空で飛ぶP38編隊の前方にブーゲンビル島が姿をみせてきた。
ランフィアの視野にまず入ったのは島の南端だった。
南岸のカヒリから西へ五十六㌔という最終の目的地点も近い。
「各機とも機首をぐんと上げました。水面すれすれから上昇して、山本機待ち伏せの所定の高度につくためです。私は急上昇を開始しながらダッシュボードの時計をちらっと見ました。午前九時三十三分だったのをよく覚えています。離陸してから二時間二十三分が過ぎていたわけです」
P38編隊はとにかく予定の空域に予定の時間にほぼたどり着いたのだ。
だが山本機は本当に現われるのだろうか。
ラバウルからもガダルカナルからもこんなに遠く離れた洋上の、針で突いたような一点にぴたりと飛んでくるのだろうか。
「無限に広大な空の一点で本当に敵機をつかまえられるのか、私はなお心配でした。ひょっとすると、見逃してしまうのかもしれない。いや、だいじょうぶだろう。そんな自問自答を繰り返しながらラバウルの位置する西北の方角に目をこらしていました。重苦しい時間が十秒、二十秒と流れました。と、三十秒ほど過ぎたころラジオ交信での声が沈黙を破ったのです」
「敵機! 十時方向」
興奮を抑えつけた意外と静かな声だった。
ミッチェル麾下援護部隊の一員ダグ・キャニングからの報告だった。
彼が山本機の第一発見者となったわけだ。
米軍の作戦では山本長官はピーコック(クジャク)という略称で呼ばれていた。
標的はピーコック、南太平洋の彼方から飛んでくるクジャクを針の先で刺すような作戦だったのだ。
クジャクはまさに予定どおり午前九時三十四分、予定どおりの空域に到着したのだった。
山本自身の日ごろの時間厳守の習慣の結果だったといえよう。
ランフィアがさらに語る。
「私は補助タンクを機体から切り離しました。もちろん空中戦で思いのまま飛べるよう身を軽くしたわけです。宣戦の布告でもあります。他のパイロットたちもみなそうしていました。だが私は僚機のバーバーの位置を確かめる必要はなかった。いつの戦闘の時でも、バーバーは密着したペアを組んで敵機に立ち向かってきたからです。私は機首を少し右に向け、日本機編隊の進んでくるコースと平行になるようにしてから急上昇を始めました。エンジン全開です」
日米両軍の編隊は高度に差こそあれ、向かいあう形で平行に飛んでいた。
距離は数キロ、日本機は目的地バラレの方向をぴたりと目ざし、より内陸部側を飛んでいた。
その高度は千五百㍍ほど、P38編隊よりも千㍍以上も高かった。
「これはまずい、と思いました。状況はわが編隊がずっと不利だったのです。一瞬、恐怖さえ感じました。本来ならこちらがさきに三千㍍ほどの高度に達して、日本機を待ち受けるはずだったのです。高い上空から、かがやく朝の太陽を背にして舞い降りて、一気に日本側を襲うという計画でした。ところが逆にいまは日本機よりもずっと低く位置している。しかも敵のほぼ真正面を飛んでいるからすぐに発見されてしまう。そのうえこちらの攻撃部隊はわずか四機、相手は計八機だったのです。あせりました」
米軍編隊の援護部隊も急上昇を始めた。
ミッチェル少佐に率いられる十二機は高度六千㍍にまで舞いあがる計画となっていた。
日本側の護衛の零戦群、さらには増援として近くの基地から飛んでくる編隊とたたかうためである。
不安に駆られるランフィアにとってさらに予想外のことが起きた。
「私の指揮下の攻撃隊のメンバー、ホルムス中尉機が補助タンクを切り離せない、と合図してきたのです。両翼の下に着いた二つのタンクは、空中戦では重しとなる。だから捨てなければならないのだが、切り離しの装置がうまく作動しないのだというのです。このクライマックスにそんなトラブルが起きたのです。ホルムス中尉は編隊を離れてタンクをなんとか投げ捨てようと急降下や急旋回を繰り返し始めました。彼の僚機のハイン中尉もホルムス機に従うため私の機から離れていきました。どんな場合でも二機がペアになって行動するよう密着するのが僚機の任務だったのです」
ランフィア指揮下の攻撃隊四機のうち二機が、たとえ一時にせよ戦線を離脱してしまったわけだ。
しかも、まさにこれから山本機を襲うという時点で、だった。
ランフィアはバーバーとの二機だけで日本機編隊へと戦いを挑む形となった。
ミッチェルら援護部隊も急上昇したため、この時、ランフィアの視界からは消えていた。
日本軍編隊はP38の姿にまだ気づいていない。
この領域はまだ一応、日本軍の制空権、制海権の下にある。
アメリカ軍のどの基地からも遠く離れた距離だった。
だから日本側には、まさかここまでアメリカ軍機の編隊が出てきて、狙いを定めての待ち伏せをするとは思ってはいなかったのだろう。
ランフィアとバーバーのP38二機は、日本の編隊へとさらに突き進んだ。
日本の編隊とほぼ同じ高度に達した。
しかし距離は日本編隊からまだ三㌔も離れていた。
その時点で零戦が補助タンクを落とし始めた。
日本側も敵に気がついたのだ。
米軍側が相手を発見してから二分ほど後だった。
と、先頭の一番機の陸攻が荒々しく、ぐいっと機首を左にひねった。
島の内陸部方向へと向かったのだ。
つづく二番機はランフィアとバーバーの機の方向へ接近してきた。
一番機には山本司令官が、二番機には宇垣参謀長が、それぞれの幕僚とともに乗っていた。
歴史雑誌『歴史通』に載った古森義久のレポートの紹介を続けます。
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同時に護衛の零戦のうちの三機がランフィア機を襲う態勢をとった。
それからの山本機銃撃までの短い時間の出来事をランフィアは熱を一段とこめて語った。
「私がジャングル方向へ急降下した陸攻を追おうと降下を始めると、零戦が銃撃してきました。私もあわてて機関銃のボタンを押した。このときも対空砲を使うことを忘れていました。また急上昇し反転して、あたりをみると、バーバー機が零戦と交戦中なのがわかった。他の零戦が私にまた迫ってきた。眼下では一番機の陸攻がジャングルの上を飛んでいました。そこを狙って私は降下し、機関銃の連射を始めました。銃撃がうまくいかなければ、体当たりもやむをえないと思っていた。零戦も私の攻撃を阻むように迫ってきました。しかし私の方が一番機に近い地点に先に着いて、そこから銃撃したのです。一番機の右エンジンと右翼が火を噴き、すぐに右翼がちぎれていきました。機はそのままジャングルに落ちていったのです」
ランフィアのP38はやがて高度をあげ、速度を増し、零戦を少しずつ振り切っていった。
彼のP38は機体に二発大きな被弾を受けていたことが帰投してからわかった。
撃墜された一番機に乗っていた山本長官は第三種軍装と呼ばれる草色の簡素な軍服を着ていた。
ふだんはずっと白服だったのだが、この日は最前線の将兵を視察するとあって、戦場によりふさわしい服装としたわけだった。
その草色の軍服のまま生涯を終えたのだった。
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コメント
コメント一覧 (14)
あまり信用できない。
(後に国会議員となりインドシナで行方不明になったT参謀や
一連のパラオ戦記物の印税でビルを建てたF坂軍曹とかw)
一方、アメリカ人の書く戦記物は自らを誇ることは少なく、
戦った敵日本を過大に書くことによって、
その敵に打ち勝った自分たちアメリカの功績を析出させる
という点で巧妙である。
嗚呼! 巨星堕つ!
>体当たりもやむをえないと思っていた。零戦も私の攻撃を阻むように迫ってきました。
体当たりは、嗚呼!日本の「神風特別攻撃隊」が遺憾無く、祖国の為に、大勢の日本の若者が殉じてくれた。
今の日本は「神風特別攻撃隊」が日本を死守してくれた御陰で、アメリカが日本に、一目も二目も置いて、戦後の日本が守られたのに。
嗚呼! 日本の民主党は、アメリカを、ないがしろにして、中国や朝鮮に有利になる様に、「外国人参政権」なる悪法を画策しているとは!?
山本長官は即死はしなかったという情報はアメリカ側ではほとんど出ていないようです。
巧妙なのか、謙虚なのか、客観的なのか、というところですね。
ランフィアー氏は零戦がなぜ自分の機に体当たりをしてまで山本機を守らなかったのか、といぶかっていました。
この報告はまだ完結していませんが、本稿で私が印象的なのは①アメリカ軍はその戦いにおいて体当たりという発想は日本人にはあっても、アメリカ人には全くないというということが言われてきましたがいざという場合にはその選択肢がランフィア大尉にあったということ、②日本軍とアメリカ軍との間にはレーダー探知技術の大きな差などがあったことに伴う不利は致し方のないことであるにしろ、一応の制空権、制海権という弱体な状況下においてのまさか敵が出没する地域ではないとの思い込みがあり、人間の目の視界の勝負になる領域でもアメリカ軍に2分位その発見が遅れた事実、これはあらゆる状況の出現の可能性を考えていないことを表しているものであること、③この当時のアメリカ軍の戦闘機と零戦との性能差は分かりませんが、アメリカ軍にも航空機の運用上少なくないトラブルがあった事実、これらのことを学びました。
つまり、日本人は日米の戦力差のせいにして本当に人間としての全身全霊を尽くしたかのどうかが問われる場面がここには見られるのではないかということです。勿論、先の太平洋戦争には全体として日米の軍事力などにかなりの差があったのは間違いない事実にしても。
本エントリーも、
それから産経で月曜に連載されている60・70年代の回顧も
非常に興味深く読ませて頂いています。
でも読んでいるうちにだんだんと
ランフィアに感情移入してきている自分に気づきます。
ランフィアがそうなのか、古森さんの文章がそうだからなのか、
理知的で好感のもてる人物に感じてしまいます。
敵にしてはいけない国を敵にしてしまったのだろうな、
とも感じてしまいますね。
ご指摘の諸点にうなずいていますが、さらに大きなポイントは米軍が日本軍の暗号をすべて解読していたという基本の事実です。しかも日本軍はその事実をツユほどにも知らなかった。先人たちへの悲しい思いを禁じえません。
第二次大戦で将校として戦ったアメリカ人たちは当時の最気鋭のエリートが
多かったということもあるようです。ランフィア氏も名門のスタンフォード大学の卒業、他の山本攻撃ミッションのパイロットたちもみな四年制大学の卒業生です。学歴が人間の水準を決めるわけではないでしょうが、一つの当時の大きな基準でしょう。
ランフィア氏が戦時も、戦後もアメリカでは平均以上の知性の人物だったことは否定できないと思います。それに日本の古いことわざの「勝ってカブトの緒を締める」という意識もあったのでしょう。
いずれにしても敵にしてはならない国を敵にした、というのは日本の戦争での破壊しつくされた戦禍が示していますね。
体当たりで防げればそうしたでしょうが、無理です。
P-38は、最高速度660km/h程度 一撃離脱型の機体
零戦は、格闘戦向きの設計で560km/h程度
まあ、形式によって速度が違いますので、大雑把な数字ですが100km/hの差
相手がドッグファイトに応じてくれるなら何とかなりますが、高速で擦れ違いざまの攻撃は防ぐのは困難です。
正面からの体当たりに応じてくれるような理由が有りませんから、正面から突っ込んでも避けられて終わり。
会敵した時点で勝負は見えていました。
そういう特性があったからこそ、P-38は第2次世界大戦終戦まで第一戦で戦えたのです。
零戦側がとにかく絶対に体当たりをすると決意していても、無理だったのでしょうか。
また、こういう話がありまして大戦後期のの日本の戦闘機乗りが、味方の爆撃隊を敵戦闘機から守るためにどうするか考えた。撃墜してやろうとしても相手が応じない(爆撃機や特攻機潰す方が優先されるから)追い払おうとしても高速で振り切られる。そして考えぬいた末の結論
自機の一部を盾にして爆撃機を守る。
それしかないと結論が出て、司令官に具申したら「馬鹿者」って怒られたそうですが、後日それしか方法が無いのならということで許可されたそうです。具申したパイロットも不愉快だったようですが当然ですね。敵機を撃墜するために戦闘機があり、それに搭乗しているのに、敵機を撃墜することを放棄して自機にわざと被弾させる。割の合わない話です。
大戦の初期は、P-38が格闘戦に応じてくれたので「ペロ八」つまり簡単にペロッと食えると評されていたのですが、後半になって一撃離脱に徹するように成られるととても厄介な相手になりました。そういう前半期の思考が護衛機にあったせいかもしれません。
結論ですが、鈍重な爆撃機ならともかく、自機の2割増しの速度で飛ぶ自機と交戦する意志のない敵戦闘機には体当たりすら無理、出来るのは盾になって撃たれるぐらいだったでしょう。そして盾になって守る戦法は、山本機撃墜以後考えられた方法です。
学研出版の「歴史群像」という雑誌に掲載された当時の戦闘機搭乗員の話を総合するとそういう結論になります。
6人のうち終戦の時点まで生き残ったただ一人の零戦パイロットは確か、柳谷(やなぎや)さんという方でしたね。いまもまだ健在と聞きました。