日米同盟のあり方が問われていますが、日本国内にはそもそも同盟自体を否定する意見もありました。いまでは日米同盟に正面から反対するのは政党では日本共産党ぐらいとなり、民間の論者たちも、日米安保条約破棄を唱える人は皆無に近くなりました。

 

 しかしかつては日米同盟破棄という主張はかなり広範に存在しました。長年、最大の野党だった日本社会党の「非武装中立論」がその典型でしょう。

 

 そうした日米同盟否定論者たちがよく指摘したのが非同盟運動でした。その非同盟について報じた私の記事を連載の一部から紹介します。産経新聞の8月23日朝刊掲載の記事です。

 

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記事情報開始【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(22)非同盟運動の虚実

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1979年9月、キューバの首都ハバナで開かれた非同盟運動の第6回首脳会議の一場面。会議が定刻通り始まらず、議長役のカストロ首相(中央右)も腕時計に目をやった(AP)

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1979年8月、首脳会議に出席するためハバナに到着したユーゴスラビアのチトー大統領(左)とともに、儀仗(ぎじょう)兵を閲兵するカストロ首相(AP)

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 ■自国の利害と打算

 飛行機のタラップを降りたとたん、仰天した。フィデル・カストロ首相が目の前に立っていたのだ。手を伸ばせば届きそうな3、4メートルの至近距離だった。戦闘服に戦闘帽、おなじみの黒く長いアゴヒゲが目立つ。意外と小柄なのだが、上半身が不自然なほど大きくみえる。後で防弾チョッキのためだと知った。キューバのハバナ空港だった。

 1979年9月、私は非同盟運動の第6回首脳会議の報道のためにハバナを訪れた。メキシコ市からの飛行機では隣席にキューバで政治訓練を受けるというメキシコ共産党の若い女性党員がいて、中南米での革命の大義をたっぷりと聞かされた。

 飛行機には同首脳会議に出るアフリカ諸国代表らも乗っていて、会議の議長役のカストロ首相が空港まで出迎えたのだった。首相は機内から降りてくる乗客の群れにすたすたと歩み寄り、知った顔をみつけて握手をし、抱擁をする。ボディーガード数人が周囲にさりげなく立つ。

 非同盟とは文字どおり、東西冷戦のなか米国とソ連いずれの軍事同盟にも属さない諸国の集まりだった。61年にインドのネール首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、エジプトのナセル大統領ら第三世界の首脳が中心となり、旗揚げした。東西陣営の緊張緩和を説き、植民地解放を訴えた。米ソ対立で硬直化した世界に柔らかな新風を呼んだ。日本でも日米同盟に相対する非同盟の概念は当時の社会党などの非武装中立のスローガンにも合致し、それなりに人気を集めた。

 非同盟の首脳会議は3年に1度、創設から18年目のハバナでの会議は第6回だった。同会議には合計94カ国の代表が参加し、うち54人が国家元首クラスだった。だが会議の内容はどの軍事ブロックにも属さないという非同盟の精神からは遠く離れていた。

 「われわれ非同盟諸国はソ連との間に兄弟的なきずなを保っている。一方、ヤンキー帝国主義は非同盟主義の意義を傷つけてきた」

 カストロ首相は開会の場で1時間半も演説して、ソ連との連帯を訴え、米中両国を激しく非難した。ベトナム、ラオス、エチオピアなどの親ソ連諸国が同調した。

 なにしろカストロ首相はソ連からの巨額の援助と引き換えに「栄光あるソ連の要請とあれば、世界のどこにでもキューバ兵士を派遣する」と明言しているのだ。現実にキューバはアンゴラ、エチオピア、コンゴ、ニカラグア、ボリビアなどの諸国にまで軍隊を送り、ソ連の傭兵(ようへい)として共産側勢力のために戦っていた。

 私が駐在していたワシントンでも、米国政府はこの首脳会議前には非同盟のソ連密着への動きに警鐘を発していた。会議の場での親ソ派の政治工作は露骨だった。昼夜ぶっ通しで続く会議ではまず、カストロ首相が議長の特権を利用して親ソ国代表の演説を午後や夕方の正常な時間に集中させる。逆に中立や反ソ連、米国や中国に同情的な国の代表の演説は深夜や未明となる。

 キューバ当局はとくにソ連と対立し、親ソ派のベトナムに侵攻した中国には厳しかった。米中国交樹立でワシントンに初赴任し、この会議の取材にきた新華社通信の支局長に記者証をあえて出さないという子供じみた嫌がらせまでするのには驚いた。そして会議では中国に支援されたカンボジアのポル・ポト政権を非同盟から追放することに全力をあげた。

 ちなみにポル・ポト政権はこの会議に最高幹部のキュー・サムファン氏を送りこんでいた。同氏がハバナ市郊外の宿舎で開いた小規模の記者会見で、私が「ジェノサイド(大虐殺)」について質問すると、彼の頬(ほお)が一瞬、紅潮したのをよく覚えている。

 カストロ首相ら親ソ派は会議の最終宣言に「社会主義国との協力」を明記し、非同盟運動全体をソ連と結びつけようと試みた。この試みに正面から反対したのがユーゴのチトー大統領だった。

 87歳の巨躯(きょく)の同大統領はインド、インドネシア、エジプトなど多数の国家代表との協議を繰り返し、非同盟運動を本来の中立、穏健な立場に保つことを主張した。その結果、親ソ派の野望はほぼ抑えられた。

 だがこの会議全体を通じて明示されたのは、自国の利害や打算で動く「非同盟」諸国のぎらぎらした姿だった。非同盟の立場自体が同盟よりも道義的に高い位置にあるという日本の一部の議論も、神話にすぎないと感じさせられたのだった。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 

[etoki]1979年9月、キューバの首都ハバナで開かれた非同盟運動の第6回首脳会議の一場面。会議が定刻通り始まらず、議長役のカストロ首相(中央右)も腕時計に目をやった(AP)[etoki]

 

[etoki]1979年8月、首脳会議に出席するためハバナに到着したユーゴスラビアのチトー大統領(左)とともに、儀仗(ぎじょう)兵を閲兵するカストロ首相(AP)[etoki]

 

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