古森義久の産経新聞連載の紹介です。

 

ヘッダー情報終了【朝刊 国際】
記事情報開始【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(23)ソ連のアフガン侵攻

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1980年1月、アフガニスタンの首都カブール市内で、列をなすソ連軍機動部隊の車両(AP)

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1980年1月4日、ホワイトハウスの大統領執務室からテレビとラジオを通じ、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、ソ連への穀物輸出の部分的な禁輸措置などを発表するカーター大統領(AP)

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 ■急変した対日安保政策

 日米同盟の長い歴史でもカーター政権の最後の年、1980年は画期的な曲がり角となった。米国の対日安保政策が大きく変わったのである。直接の原因はソ連のアフガニスタン侵攻だった。その背景にはカーター大統領の対ソ連政策の誤りがあった。

 カーター大統領が79年6月に私たち日本人記者団と会見したときは、同盟国としての日本の防衛のあり方にはっきりと満足を表明していた。

 「私は防衛費をGNP(国民総生産)1%以内に留めるという日本の政策は賢明だと思います。1%の枠内でも増額はできます。日本の防衛にはそれで十分でしょう」

 カーター大統領が「Wise」(賢明)という言葉を南部なまりで母音を引き伸ばして発音したことまで、私はよく覚えていた。ところがそのわずか半年余り後、カーター政権は大統領をはじめとして、正面から日本の防衛費の大幅な増額を迫るようになったのだ。

 同政権のブラウン国防長官は80年1月14日の東京での大平正芳首相との会談で、日本の「防衛努力の拡大」を求めた。翌月には国務省が一方的に「米国政府は日本が今後、着実かつ顕著に防衛費を増額することを期待する」という声明を発表した。日本の防衛政策の現状への明らかな不満の表明である。安保政策の劇的な変化でもあった。

 79年12月27日、ソ連は電撃的に戦車を含む大部隊を空輸までして、アフガニスタンの首都カブールに攻めこんだ。アフガニスタンのアミン大統領は「米国のスパイ」と断じられ、処刑された。ソ連は部隊を増強し、アフガン全土の制圧をめざした。完全な軍事侵略だった。

 長い東西冷戦でもソ連軍が東欧を飛び出して、非同盟の旗印を掲げるアフガニスタンのような国を軍事力で全面支配する例はなかった。ヤルタ体制の否定でもあった。米国は同盟諸国とともに軍事面での強固な対抗策を取ることを迫られたのだ。

 ちなみに日本の「防衛費はGNP1%以下」という政策は、76年の三木武夫内閣の閣議で決められた。普通の国家の防衛規模は安全保障の状況で決められるはずだが、まず対GNP比からという発想は憲法第9条に始まる戦後日本の異端な軍事忌避の産物だった。

 カーター政権は日本の防衛費の増額を迫るようになっても、公式にはGNPの何パーセントまでとは語らなかった。日本の主権を軽視するような要求となることを懸念したのだろう。だが私が接触していた国防総省や議会の対日安保政策関係者たちは、非公式ながら率直に1%以上の支出を求めていた。

 カーター大統領はソ連のアフガン侵攻に虚を突かれた形で、「私のソ連認識は根本から変わった」と告白した。それまでのソ連観がまちがっていたことの自認だった。

 米国がベトナム後遺症に病む期間に選ばれたカーター大統領は対外的なパワーの発揮を嫌った。在韓米地上軍の撤退案もその例証だった。就任後にはすぐ米国が長い年月、管理権を握ってきたパナマ運河を放棄する政策を「返還条約」として打ち出した。軍縮を推進し、自国の軍備も一方的に削減する姿勢をみせた。

 カーター大統領はとくに冷戦の相手のソ連に対しては、徹底して友好的で協調的な態度を示した。こちらが善意をみせれば、相手も善意で応じるだろうというリベラル融和外交の典型だった。

 中米のニカラグアで親米政権がソ連に支援された左翼の革命勢力に打倒されそうになっても、なにもしなかった。アフリカでもソ連がキューバ軍にエチオピアを支援させ、米国寄りのソマリアを攻撃させても、米国は動かなかった。アンゴラ、モザンビーク、スーダンという諸国が左翼政権に支配され、ソ連の勢力圏に吸収されていった。

 カーター善意外交は明らかにソ連を増長させた。ナイーブな友好姿勢が危険な拡張を招いていた。

 ソ連としてはアフガン全面侵攻という大ギャンブルに踏み切っても、米国はなにもしないと計算しての一大軍事行動だったといえよう。だがさすがのカーター政権も現実のグローバルな軍事脅威に目覚めたのだった。

 以後の日米同盟では日本の防衛費の「着実かつ顕著な増加」という言葉がキーワードとなっていった。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)