■揺るがぬ日米両国民の選択
「言葉の機能というのは事実を伝えることだけではありません。ソ連の言葉は西側を脅すことを目的としているのです」
ハンス・タンデッキ将軍は整然と語った。1984年7月、当時の西ドイツの首都ボン、小高い丘の上の国防省内だった。軍政局長のタンデッキ氏は空軍少将で、西独国防省でも有数の戦略理論家とされていた。
同将軍はそのころ、米国主導の北大西洋条約機構(NATO)が西独国内に配備を始めた中距離核ミサイルのパーシングII型に対するソ連側の「モスクワを 直撃できる首狩り兵器だ」との主張がウソだ、と述べるのだった。ソ連のSS20に対抗する西側の中距離ミサイル配備には西欧各国の内部で激しい反対が起き た。だが西独連邦議会は83年11月に配備を可決し、まもなく実際の配備が始まった。
「配備開始まで反核派は『パーシングを今日、配備すれば、来週の火曜には核戦争が起きる』という調子で叫んでいたのに、配備が始まると、反核運動はぱたりと静まりました。そして核戦争も起きていません」
タンデッキ将軍はそんなことを皮肉まじりに話した。日本の反核運動を思いだし、ついうなずかされた。
私は西独のほかスウェーデン、オランダ、イギリス、フランスという欧州各国を1カ月ほど回り、安全保障の専門家たちに見解を聞いていた。日米同盟を欧州 から眺めるためだった。とくに日米両国が最大の懸念の対象とするソ連という存在を西欧各国がどうみるのか、その脅威に対しどのような国防政策をとるのか、 というような点を合計30人ほどの官民の専門家に尋ねた。日本では西欧の防衛が報道されることがまずなかったので、きわめて有益な体験となった。
スウェーデンを含めてどの国もソ連の軍事力と政治価値観を自分たちの国家や国民への重大な脅威と認めていた。そのための防衛には米国の巨大な核抑止力ま でを取り込み、抑止と均衡を基本としていた。どの国も防衛の究極の目標は「自由と独立をともなった平和の保持」としていた。自由や独立が奪われそうになれ ば、当面は平和を犠牲にしても戦うという基本姿勢がその基盤にあった。
欧州の目指す平和は日本のいわゆる平和勢力が唱えた無条件の平和とは異なっていた。ソ連を脅威とみてはならないとする政治勢力の規模も西欧と日本とではまるで違っていた。
たとえば西独では徴兵制があり、防衛費は日本の2倍、GNP(国民総生産)比だと3・5%、国民1人当たりの防衛費負担は日本の4倍となる。西独軍は非 核だが、米国の核兵器は国内に多数、配備されていた。なにしろ東西ドイツが対(たいじ)する欧州中部ではソ連・東欧側が陸軍師団で95対35、戦車2万5 千対7千と、圧倒的に優位だった。日本も一翼を担う東西冷戦の主舞台はあくまで欧州だったのである。
西独ではベルリンの壁の検問所チェックポイント・チャーリーで厳重な検査を経て、東ベルリンにも入り、ソ連軍将校団が市内を威風を払って行進する光景をも見た。
だがそれ以後の欧州大陸で起きたことはまず夢にも予想されない歴史的な大激変だった。ソ連の共産主義体制が崩れていったのである。ソ連は85年にはそれまでボイコットしていた米国との核軍縮交渉に応じた。米側の断固たる核配備のための明らかな軟化だった。
ミサイル攻撃を無効にする企図の米国のミサイル防衛SDI(戦略防衛構想)がソ連内部に大きなひずみを生んでいた。ソ連のエドアルド・シェワルナゼ元外 相の回想記でも、このSDIがソ連側に最大の不安と動揺を与えたという。アフガニスタンの軍事侵攻でもソ連は米国の裏からの敵支援により苦戦を続けた。や がて89年には撤退していく。
私は90年10月、ベルリンでチェックポイント・チャーリーが完全に壊されるのを見た。東西ドイツの統一の日である。ソ連の共産党体制が崩れ、東欧支配が終わり、東ドイツという国家が消滅したときだった。東西冷戦が米国側の勝利に終わったときでもあった。
日米同盟もこのソ連の崩壊で日米安保改定以来30年間の最大の目的を果たしたといえる。ドラマにたとえるならば成功物語であろう。それ以後の20年、同 盟は微妙なブレやきしみを経ながらも、なお屋台骨は揺らいではいない。その現状は日米両国民の選択の結果でもあるのだ。(ワシントン駐在編集特別委員)= おわり
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コメント
コメント一覧 (9)
中国へのODAは事業仕分けでゼロにしてほしいですね。
先ず①の部分は歴史的な事実とも言えるものです。②の部分は現在進行中のことでもあるのですが、極端に言えば、今の政権はその内実は極左ともいえるのですがこの政権がこの日米同盟関係の屋台骨を壊そうしても却って自らが倒れてしまうのがその実相だろうと思います。つまり国民の8割近くが日米安保体制を是認している事実があるからです。
又あの沖縄で鳩山何某がやりたい放題のことした下で仲井真知事はその鳩山何某がもたらした荷物を背負いながら再選されました。知事は一見矛盾したようなことを述べておられますがこれはその経緯からしてやむを得ない面があり問題の本質はよく理解されておられると思います。
沖縄の地元ジャーナリズム界には依然として左翼勢力が跋扈している面があるようですが、我々日本人は過去に沖縄に過重な負担をかけたことにも思いを致すとともに真の同胞としての振る舞いをしていくべきだと思っています。沖縄県人はあの夏の高校野球の姿を見るまでもなく素晴らしい根性をもっているのです。
今後の日米同盟の在り方については無法国家ともいうべき共産国家中国の台頭が著しいだけにその必要性は増しこそすれ減退することはなく、このためには、先ずは日本自身の在り方を点検した上で真の日米同盟を再構築する時機にきていると思います。それには口先だけではない本当に日本国民からも米国からも信頼される政治家・人物の出現が待たれますし日本国民はこのような人を輩出しなければならないと思うこと切です。
ベルリンの壁の東に住んでいた人が西に出てきて、ソ連共産主義政権と東欧のその傀儡政権について述べたことはレーガン大統領が最初から述べていたこととぴたりと合致、いや東の住民たちの「悪の帝国」評のほうがもっと厳しいことを知って、私自身も自分のソ連観が間違ってなかったことを実感したことを覚えています。
日本にとって国際情勢の激動があればあるほど、アメリカとの同盟のきずなが重要になるわけですね。情報収集も含めて。
総括の評をありがとうございます。
確かに鳩山政権は日米同盟の屋台骨にヘンにいじって、自分が倒れてしまったといえますね。
生々しい体験に基づく現代史をありがとうございました。
ベルリンの壁崩壊、そしてソ連の解体により、冷戦の一部は終わりました。その後はもう一つの共産主義の大国中国が、ソ連の轍を踏むまいと、自由陣営側に協調するそぶりを見せながら、むしろ力を増大させてきました。ソ連と違うところは、巨大な人口と国土を武器に、門戸開放を実行し、西側の資本と技術を吸い寄せることに成功したことですね。
その辺りの実情と危険性は「日中再考」などで警鐘を鳴らして来られましたが、いよいよ日本は正面から向き合う時が来たようですね。
ベトナム戦争からソ連崩壊までを見ると、日本社会や言論状況も大きく変わってきました。70年代の左翼論調が支配的で進歩的とされた頃からは大きく針は振り戻され健全な考えが増えてきたこは喜ばしいことです。それは私自身の考え方の変遷でもありました。
共産側の崩壊の様子を見ていると、共産側は時代が経ても進歩もなく停滞しているのに対し、自由陣営側は、最初は問題があってもそれが徐々に改善されていったことが実感できます。
それはやはり基本的人権と基本的自由のある社会は一見ばらばらのようでも皆の英知が働くのでしょうね。一方共産独裁の全体主義では少数の独裁者に権力があることは最初は力があるように見えてもやがて腐敗し衰退するのだと思います。
また、ソ連は誕生から約70年で崩壊し、日本は戦後から60数年経て左翼思想の呪縛が解け始めました。一つの極端な思想や熱狂はどうも約6、70年の葛藤の中で淘汰されてくるのでしょうか。それは人間の世代からするとおよそ2世代ですね。
中国共産党政権は誕生してから今年で61年で、北朝鮮も3世代目にさしかかりました。普通ならもうそろそろ淘汰される時期が近いのかも知れませんね。
共産主義という教理自体は破綻しているといえますよね。
現実の国家への適用では、という意味ですが。
中国の「社会主義市場経済」とか「中国的社会主義」なんていうのがその例証です。
日本でもさすがに共産主義体制を礼賛する「知識人」や「文化人」はみあたりませんね。