東日本大震災の救援に自衛隊が大活躍したのは周知のとおりです。
 
しかし自衛隊の本来の任務は災害救済ではありません。
あくまで国家と国民の外敵からの防衛です。
 
今回は自衛隊への依存が過剰だったのではないのか。
自衛隊をいつまでも災害救済にあてたままでよいのか。
 
こんな疑問も起きるでしょう。
 
同時に一般の日本国民が国難である大震災での惨禍に対しなんか行動をとるべきではないか、単に義援金を出し、救援物資を送るだけでなく、救済の作業にあたるべきなのではないのか。こんな疑問や提案を起きています。
 
そうした趣旨の提起を佐瀬昌盛氏が発表しています。
かなり大胆な問題提起であり、提案です。
 
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【正論】防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 日本新生のため「民役」の導入を
2011年05月26日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面


 

 『朝雲』という週刊紙がある。報道は防衛省、自衛隊に特化しているから、機関紙とみられがちだが、そうではない。言うならば準機関紙だ。大震災発生後、紙面の大半が東北3県での自衛隊の活動に割かれたのは当然だろう。が、一般紙の筆致とは大きく異なる。一般紙には被災地での自衛隊の活動、米軍の「トモダチ」作戦での日米提携への感動的驚嘆調が濃厚だったが、『朝雲』にはそれがない。事実の記述に徹している。

≪正気とは思えぬ自衛隊投入率≫

官邸の意向で陸海空の自衛隊は総定員約23万のうち10万6千を約2カ月間、救援活動に投入した。正気の沙汰とは思えぬ高い投入率だ。任務は減らないのに近年の自衛官定員の削減で仕事過剰気味の自衛隊にとり、やり繰りは困難を極めた。が、自衛隊のぼやきは『朝雲』紙面には全く登場しなかった。ただ、官邸と自衛隊の間に立つ北沢俊美防衛相が4月下旬以降、記者会見で他の「本来任務」との兼ね合いで災害派遣人員の「減勢」の必要を仄(ほの)めかした。

警察、消防、海上保安庁の動員ぶりにも見るべきものがあったが、程度と仕事内容において自衛隊は一頭地を抜いた。それにしても被災の性質と規模に照らせば、国と地方機関が持つこれら人的対応手段で十分でないことは明白だった。足りないマンパワーは、幾多のNPO(非営利組織)の呼び掛けに応じたボランティアにより、かなりの程度満たされた。実際、16年前の阪神・淡路大震災以後の国民各層に見られるボランティア関心の覚醒は注目に値する。それは高く評価されるべきだ。

≪ボランティア活用には限界≫

だが、問題もある。第1、ボランティアには集散むらが小さくない。第2、長期性の保証がない。第3、ボランティア投入の計画化も困難だ。現に大型連休後、ボランティアの不足を嘆く声があちこちで上がった。今回のような超大型で複合的な災害を経験すると、必要、適切かつ迅速な対策実行のマンパワーとして、国と地方が保有する公的手段とボランティアの合算だけでは不足することを社会は実感したと言うべきだろう。

日本は民間役務制の導入を真剣に考える必要がある。略して「民役」と呼ぼう。「民」とは「シビル」の意味だから、「兵役」(ミリタリー・サービス)ではない。国を存続させるため国民男子に「兵役」を課する国家は今でも少なくない。韓国、北朝鮮、中国、ロシアなど西方の諸隣国はいずれもそれだ。だが、近代国家として兵役制を当然視してきた欧州の先進民主主義諸国は今日、競うように志願兵制重視に傾斜、「兵役」「民役」併用制が多い。成年男子にいずれかを選択させるのだ。これは何を教えているか。

国は国民の安全に責任を持つが、打ち出の小槌(こづち)を持つわけではないから、国民の貢献なしではこの責任を果たせない。国民の貢献の象徴が「兵役」だったのだが、戦争形態の変化と兵器体系の高度化が徴兵制軍隊を時代遅れにした。必要なのはプロフェッショナル兵力なのだ。他面、国が国民の福祉に責任を問われる度合いが高まった。この責任を果たすにも国は国民の貢献を必要とする。税負担が国民の貢献の象徴だったが、社会の進展に連れ他種の貢献が必要となった。マンパワーとしての国民の貢献、つまり「民役」がそれだ。必要度の点で「兵役」は後退、「民役」は不可欠となった。

≪兵役沈んで民役浮かぶ欧州≫

多くの先進民主主義諸国で「民役」なしでは国は、社会は、もたないと考えられている。日本で最も知られているのは、邦訳もある冷戦期スイスの「民間防衛」(今日ではそれはかなり変貌)だが、教育立国のフィンランドの例はもっと徹底している。同国は現在、「兵役」「民役」選択制を採っているが、両役を拒否する成年を待ち受けているのは監獄である。

自衛隊は、兵器体系の高度化に対応できるプロフェッショナル兵力だ。時代適合的なこの兵制は堅持すべきである。だが、兵役制に絶縁した戦後日本で国は安全と福祉を求める国民に対し、その責任を果たすから国民もマンパワーとして、つまり「民役」をもって国に貢献してくれとの説得を断念してきた。欧州の先進民主主義国は「それで国がもつの?」と訝(いぶか)るだろう。今回、ボランティアは活躍したけれども、被災地救援の遅れともたつきが戦後日本の積年の手抜かりを、白日の下に曝した。

11年前、森喜朗政権期の教育改革国民会議で青少年の奉仕活動の義務化に関する曽野綾子提案が議論された。結局、それは実らなかった。私の考える民役制導入構想はこの提案に似ている。が、提案理由には差がある。曽野案はもっぱら初中等教育改革の見地に立っていた。この見地は重要だし、私はいまも賛同している。だが今日、教育改革の見地だけでは不十分である。当時は表面化していなかったこの国の社会工学上の欠陥が今回、露呈したからだ。

東日本大震災後の日本に必要なのは、復旧、復興よりも新生である。そのために民役制導入という新しい社会工学が必要なのだ。(させ まさもり)

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