菅政権の特徴だった「市民派」という概念はもっともっと議論されてしかるべきです。いや批判されるべきです。とにかく市民は国家にこだわらない、というのですから。

 

このテーマについて先に論文を紹介した古田博司氏がさらにおもしろい一文を書いています。もう一カ月も前の論文なのですが、遅まきながら、いま紹介したいと思います。それほど興味をひかれた論文でした。

 

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【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 現れた国民派VS.市民派の対立
2011年08月26日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面

 大震災、津波でわが国の10分の1程度が機能不全に陥った。そして、それに続く原発事故からの立ち直りをめぐり、わが国全国紙は今、ふた手に分かれて、 その主張を繰り広げている。ひとつは国民派新聞(読売・日経・産経)であり、もうひとつは市民派新聞(朝日・毎日・東京)である。

≪原発全廃か稼働かで違い鮮明≫

前者は、国家経済の健全なる回復をめざすがゆえに、原発の再稼働を辞さない。後者は、市民社会の平和と安全を理想とするために、原発の全廃を唱えている。

市民派新聞で論陣を張るのは、市民派ジャーナリスト・市民運動家・人権派弁護士・市民派大学教授などである。彼らは国家より市民社会を優先させている。あ るいは市民社会は国家と対抗しつつその権力を弱める形で、理想を実現しつつあると考える。従って、市民社会は国家の枠の外にある。

一 方、国民派新聞は、あくまでも国家の中に市民社会があり、まずは国家経済を立て直すことが急務だと認識する。市民社会が国家権力に対抗して自己実現してい るなどとは思いもよらない。目に見える現実を信じているから理想は遠くにある。将来、原発に代わるエネルギーを選択することになるにしても、まずは再稼働 して電力を補わなければならない。さもなければ、安い電力を求めて企業も人材も海外へ行ってしまう。産業が空洞化し失業率は高まる。原発全廃などすれば、 わが国がこれまで蓄えてきた科学技術の多くを失いかねない。と、国民派ジャーナリスト・財界人・国民派論壇人・国民派大学教授らは憂慮する。

≪市民社会は国家の枠内か外か≫

市民派にとっては、そんなことは二の次である。市民社会は国境を超えることが大事であり、数の力で既得権益勢力と闘わねばならない。原発、原爆、戦争、資 本の搾取、植民地支配、ナショナリズムなど、市民がその非人道性を叫び、世界にメッセージを発信していくことこそ重要なのだ。

彼らに は、財界人が、原発再稼働と原発事業の海外展開を唱えれば唱えるほど、「神州不滅」「国体護持」を叫んだ旧帝国軍人に見えてくる。市民派が闘うべき今日の 国体は経済大国であり、その武装解除は市民社会の伸長につながると思うのである。従って、「10年前、いや20年前にもどれ」「低エネルギー社会の先進国 になろう」「日本は東洋のポルトガルでいいじゃないか」と、ことさらに国の弱体化を願うのである。

私は国民派の大学教授である。だから 市民派の読者がこの論考を読めば、市民派への偏見をもって書かれており、価値相対主義的ではない、客観的ではない、と判断されることだろう。だが、ここに 書いたことは、全て市民派新聞から抜粋したものであり、それらを羅列したにすぎない。そしてこうした事象から見えるのは、諸君がかつての冷戦時代の社会主 義者、社会民主主義者の子孫であり、社会主義体制の世界的な凋落(ちょうらく)から身を守り、先祖と変わり映えしない主張を市民派の外皮を纏(まと)って しているのだという事実である。

≪外皮纏った社会・社民主義者≫

欧米先進諸国では、社会民主主義は1990年代にす でに終わったと認識されている。グローバル化という新しい資本主義の攻勢と冷戦の勝者で当初独り勝ちだった米国の新自由主義に対し、欧州の左派たちは一斉 に反発した過去がある。社会民主主義者たちは、環境保護団体などの国境を超えた政治的連帯、あるいは複数の国家の多文化的な協力関係が必要だと主張し、自 分たちの国家にさまざまな修正を働きかけていった。

しかし、現実は彼らよりさらに先に進んだ。2008年に米国に端を発する金融大崩壊 が起き、米経済は一気に沈滞化し、世界は米一極に耐えられず無極化してしまう。欧州連合(EU)内でも破産国家が顕在化し始めた。そして、ノルウェーの 7・22テロ事件に見られるような、多文化主義に対する攻撃まで起きるに至った。

スロベニア生まれのスラヴォイ・ジジェクは08年の リーマン・ショックを経て、こう自己認識する。「じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可 能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。まるで近年の出来事はそれを実証するために仕組まれた賭で あったかのようだ。そうして壊滅的な危機においても、資本主義に代わる実効的なものはないということがわかったのである」(『ポストモダンの共産主義-は じめは悲劇として、二度めは笑劇として-』)

自らを「市民」とよぶ修正主義者は日本だけの特徴だが、日本ではこの市民派が現在、執権し ている。陣容は、市民運動家、人権派弁護士などで、市民運動家が闘うべき「既得権益層の子弟」もいる。労使協力の原発労組から後援を得ている議員もいる。 残念だが、欧州より遥(はる)かに古くさい日本型市民に社会改革ができるとは到底、思われないのである。(ふるた ひろし)