このブログでも何回か紹介してきたベン・キャンベル元上院議員の柔道人生についてのおもしろいレポートがあるので転載します。

 

これを書いたのは国際交流基金ロサンゼルス所長の伊藤実佐子さんです。

伊藤さんはそのすぐ前はワシントンの在米日本大使館の勤務でした。

 

  

(No. 57) もし柔道に出会わなかったら…Add Star

 「もし柔道に出会わなかったら……つまらないチンピラになって、トラブルに巻き込まれて早死にしていただろう」。ワシントンDCのおすし屋さんでランチを食べながら、そんな言葉を聞いて、わたしは驚きました。ちょうど今から1年ほど前のことです。

目の前でそうつぶやいたのは、2005年に連邦上院議員コロラド州共和党)を引退した、ベン・ナイトホース・キャンベル議員です。白髪のポニーテールに、トルコ石と銀細工のループタイといういでたちがよく似合う、北部シャイアン族の血を引く紳士です。

ポルトガル系白人だったお母さんは、結核のために病院暮らし、北部シャイアン族でもプエブロやアパッチの混血でもあるお父さんは、アルコール依存症のため施設暮らしで、幼いキャンベルさんは孤児院で育ったそうです。当時、ネイティブインディアンに対する差別がまだ大きかったころ、思春期を迎えたキャンベルさんは、お決まりのように不良の仲間入り。そんなある日、近所の日系アメリカ人の友人に、その頑強な身体つきから柔道の町道場に誘われたのだそうです。「町道場」と言うときのキャンベル議員の発音は、まるで日本人と区別がつきません。

柔道の魅力にすっかりはまったキャンベル議員は、本場で修業をすべく、1960年明治大学に留学しました。特別研究生として4年間柔道を勉強し、そして1964年東京オリンピックでは、米国柔道チームを率いるキャプテンとして大活躍をしました。準々決勝で怪我をしなければ、あのアントン・ヘーシンクと対戦していたかもしれないのです。

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東京オリンピックに出場した米国チーム、右端がキャンベル議員

帰国後は、カリフォルニアで柔道連盟を立ち上げ、後進の育成に従事しました。同時に、金属と石を結合させる日本の象嵌の技術を活用して、やはりインディアン・ジュエリーの作り手だったお父さんから習った技術を活かし、ジュエリー・デザイナーとしてもその活動の範囲を広げたのでした。その後、コロラド州議員、連邦下院議員、そして上院議員と上り詰めた議員は、クリントン大統領の就任パレードでは、シャイアンの首長の装束に身を包み、白馬にまたがってペンシルバニア大通りをパレードしました。その後、スミソニアン博物館群のひとつ、アメリカン・インディアン美術館の創設メンバーになったり、また子ども向けのアメリカの英雄シリーズの本に取り上げられるなど、広く知られる存在となりました。現在、地元のコロラドで奥さんのリンダさんの実家が営んでいた牧場経営と、ジュエリーデザインで悠々自適の生活です。

そんな議員に、このたび日本政府から旭日中綬章が授与されました。その叙勲伝達式が先日ワシントンDCの日本大使公邸にて厳かに執り行われ、わたしも出席してきました。英語でこの旭日賞は、Order of the Rising Sun。藤崎大使がまず日本語で読み上げる「勲記」には、天皇陛下から宮中において、アメリカ合衆国市民に授けられた勲章であることが明らかにされ、わたしも静かな感動を覚えました。

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旭日賞をつけたキャンベル議員と

さて、冒頭のおすし屋での一幕に戻ります。その日、刺身定食に白いご飯が大好きとおっしゃって、ご飯を3杯もお替わりして健啖振りを発揮したキャンベル議員から、さらに意外なことを聞かされました。明治大学に留学していた60年代初頭は、日本のテレビ時代の幕開けでした。その後、仁侠映画が量産されるようになりましたが、テレビでもさまざまなギャングもののドラマが大量生産されていたようです。

今よりずっと為替はドルに有利だったとしても、奨学金暮らしのキャンベルさん、そういったドラマにアルバイトでよく出演してたそうです。たいてい悪役の「ガイジン・ギャング」だったそうですが。「アメリカでチンピラにならないように柔道をならって日本に行ったのに、東京では何度も殺されちゃったんだよ」。

茶目っ気たっぷりウィンクしてみせる素顔には、連邦上院議員時代にスタッフを震え上がらせていたと聞く厳しさは、まるっきりありませんでした。


●キャンベル議員の生い立ちやアメリカン・インディアン美術館開館祝賀式のときの様子が動画で見られます