アメリカの大統領選予備選では元下院議長のニュート・ギングリッチ氏が不死鳥のように、またよみがえりました。
ギングリッチ氏はサウスカロライナ州の予備選で共和党候補の本命だったミット・ロムニー氏を破り、首位に立ったのです。
このギングリッチ氏とはそもそもどんな政治家なのか。
私は実は彼には1990年代はじめから注視してきました。保守主義の旗手、そして論客なのです。そのギングリッチ氏の政治軌跡の一環を私自身が以前に書いた記事から紹介します。
アメリカ大統領選挙の嵐ともいえる人物なのです。
【ワシントン3日=古森義久】米国の保守主義のヒーローとして脚光を浴びるニュート・ギングリッチ下 院議長の著書が二日、全米で発売され、話題の輪を大きく広げた。「アメリカ刷新」と題されたこの書は四百五十万ドルの前払い金が一時、決まった注目の作 品。内容は下院共和党が同議長の主導で米国政治のパラダイム(規範)を変えたとされる政策集大成「アメリカとの契約」の続編といえ、「米国の伝統の価値観 の復活」「小さな政府」「官僚政治の排除」などを打ち上げている。
「アメリカ刷新」は大手出版社のハーパーコリンズ社から刊行された。この書は共和党が四十年ぶりに多数を占めた下院でギングリッチ氏が議長となった直後のことし一月、話が出た。
歴史学の教授で、新奇なアイデアにあふれ、すでに挑戦的な著書のあった同氏が下院議長となってからの初の新著とあって、大手出版各社が版権の入手を競い、 膨大な額の執筆前払い金を提示した。なかでも最高額の四百五十万ドルを申し出たハーパーコリンズ社が結局、版権を得た。
だが、この金額のあまりの大きさに民主党などから激しい非難が起き、ギングリッチ氏も当初はゴア副大統領らも多額の前払い金をもらって本を書いたではないか、と取りあわなかった。だが、「この問題で共和党の改革に悪影響を及ぼしたくない」として、四百五十万ドルを辞退し、一ドルだけを受領し、残りは印税収入のみという契約へと変えた。
その「アメリカ刷新」は「米国にとっての六つの挑戦」として、
(1)いま衰退し、逸脱しつつある米国の文明を本来の伝統へと戻す(個人の責任や個人の自由 に基づく米国本来の価値観は一九六五年以来、一部エリートにより変えられてしまった)
(2)米国の国際的な技術革新の第三情報時代への参入を急ぐ
(3)世 界市場での新たな経済競争に備え、国内のシステムを変革する(経済競争の能力を抑える政府の規制、税制、社会福祉、教育、官僚政治などを大改革する)
(4)福祉国家を機会社会へと変える(政府の援助への依存を奨励する福祉制度を根本的に変えて、個人の努力が成果を生む機会均等の社会を築く)
(5)中央 集権の官僚機構を改革し、規制を大幅に撤廃する(米国は首都に座っている官僚の中央集権で統治するには多様性、自由の度合いがあまりに高すぎる)(6)連 邦政府予算の均衡を実現する(種々の社会福祉や救済への政府支出が多すぎるため、このままだと連邦財政は破産する)-ことを列記し、それぞれについて対策 を具体的に提唱している。
世界の中の米国については、この書は他国の領土に野心を抱かない成熟した民主主義国家の米国はいま唯一の軍事超大国であり、混迷する世界では特別なリーダーシップを保持する責務がある、と述べる。
そのためには、米国は一定以上に強い軍事力を保つ必要があるとして、民主党の唱える軍事力の大幅削減には反対し、ギングリッチ氏自身、「私は安全保障に関してはタカ派であり、タカ派的な防衛政策こそが平和を守るのだ」と強調している。
日本に関してはギングリッチ氏の新著は意外に好意的で、一九五〇年に米国人のエドワード・デミング氏が日本の生産性向上を指導したことを詳述し、日本が米国よりも生産性の向上に努力してきたことを称賛している。
しかしギングリッチ氏は「集団の権利と個人の権利」については、個人の権利や自由の絶対的重要性を力説し、日本ふうの「集団のために個人を犠牲にする」といった思考を激しく排除している。
コメント
コメント一覧 (22)
>「集団のために個人を犠牲にする」といった思考を激しく排除している。
おもしろい考えです。それなら家族と離れ、戦場で死んだ州兵たちに意見を聞いてみたらいいのかもしれません。
人間の社会には、常にそのために死ぬ人々がいます。例えば自動車事故で毎年数千人が死にますが、自動車をやめようという人はいません。戦争もそうです。2次大戦では、アジアやヨーロッパで米兵が死にました。
郷土愛まで含めた広闊な個人のアイデンティティと「集団のため」の峻別は、開拓者精神の表れだ。
共通の利害を基にする「仲間」と集団のための自己犠牲は、見た目に同様でも、明晰さの面で大いに異なる。
が、外人から明晰だからエライ、と言われると、小生はそうじゃないと言う。
日本の智恵だって、かっては活きてたんだから。
サウスカロライナ予備選の前のTV討論でのマスコミ批判はひょっとして選挙史上に残るかもしれないとみています。オバマに怒りをもつ人々についに火をつけたのだと期待しています。オバマを「フードスタンプ大統領」などと、どぎつい言い方をしますが、それがかえって自分たちの言いたいことを代弁してくれたと思う者も少なくないでしょう。マスコミがマイナス材料と考える過去の失敗や言動もかえって人間らしさを感じさせるのかもしれません。
それにしても、共和党員の多くや議会の元同僚は彼を嫌っているとか、無党派層は彼に入れないとか、本選挙でオバマに大敗するだろうなど、ネガティブな報道が相変わらず続くのはどうかと思います。
上のは分かりにくかったかなと思って補足。
人間社会では、社会的活動といっていいのか、その結果として人が死ぬのがふつうです。本人にしてみれば、事故のように意図せず死ぬこともあり、危険を承知でやって死ぬ場合もあります。社会というか大部分の人間が生き延び、少数が死んでいくのがふつうの姿です。ですから「集団のために個人を犠牲にする」のはふつうなのです。
日本の神風は特殊なように言われますが、城を枕に討ち死にした人たちは洋の東西を通じてどこにでもあり、負けると分かった戦いをやった人たちも数多いのです。自己犠牲はどこの社会にもあります。
古森さんがお書きになった記事末尾の「集団のために個人を犠牲にする」と云う部分は、政府などの集団による意志や命令で、個人の権利や自由が制限されてはならない、と云う意見だと理解します。これもアメリカでは極めて伝統的で健全な考え方です。
「犠牲」と云う言葉には「命を捨てる」みたいなイメージもありますが、そんな話はしていないと思います。ちなみにお国のために命を捧げるのは、アメリカでも美徳であり尊敬の対象ですよ。アメリカ人にとって神風は悪夢のような恐怖の対でしたが、国に命を捧げた特攻隊員の立派さは誰もが認めています。
小さな政府論ですか・・・
アメリカもデフレなんじゃないですか?
インフレ時に小さな政府、デフレ時に大きな政府と使い分けられるべきなんじゃないかと考えてます。
ティパーティもそうだけど、民間の支出が無いときに政府支出を絞ったらデフレ一直線の日本と同じ道を歩むことになります。
確かに国民の自立が必要ですが、今のタイミングで行うべきなのか考えてしまいます。
もう少し各候補の具体的な情報がありましたら、また教えてくださいね。
それなら個人は自分の才覚で、何をしても許されるのか。もちろん、民主主義社会といえどもおのずと限界があり、その限度を超えた活動は社会的に制裁されます。その限界にそれぞれの国家の成り立ちによってかなりの幅があることが、国家間や「集団」間に軋轢を生むのです。
いい例がEUです。おなじヨーロッパ人だといっても、大雑把に分類してゲルマン系、ケルト系、ラテン系、スラブ系とあり、地続きであることから民族的にみてそれぞれの境界は入り組んでいます。
アメリカとヨーロッパはキリスト教徒であるという点では共通ですが、同じキリスト教といってもカトリックとプロテスタントでは考え方が大分違います。ユーロの問題を見てもわかります。ユーロ問題の原因はもっと根深いところにあるのです。
アメリカの問題も、根はやはり、いわゆるアングロと非アングロ系のの集団の対立なのです。
それでは、日本ではどのように「集団のために個人を犠牲にする」しているのでしょうか?
私もギングリッチ氏が一貫して説いてきた保守主義の基本はきわめてまともだと思っています。
ギングリッチ氏に対するアメリカの大手メディアの敵意は異常ですね。アメリカの一般国民の多くがそういう意識を持つようになってきたことは救いです。
その種の変化は以下のことでも明白です。
私が最初にワシントンに赴任したころの一般やジャーナリスト自身のCBSの夕方ニュースへの信奉といえば、もうたいへんなものでした。
そのときのアンカーは確かウォルター・クロンカイトだったと思いますが、彼のコメントが金科玉条でした。
いまではCBSニュースを重視する人は私自身を含めて、消えてしまったような観があります。
>それでは、日本ではどのように「集団のために個人を犠牲にする」しているのでしょうか?
勝手な推測ですが、われわれ日本人の集団主義的なモノを指しているのではないでしょうか。自分の云いたいこと、やりたいことはじっと我慢して、互いに遠慮し合いながら、ひたすら集団への協調性を発揮するあたり、個を尊重するアメリカ社会から見ると、日本人が無理をして、社会の「犠牲」になっているように見えるでしょうね。日本人サラリーマンの過労死するほどの長時間労働なんて、異常な犠牲に見えても仕方ないです。ま、われわれ日本人、別に無理してないんですけどね(笑)
個人的な感想ですが、日本社会や組織内における人間関係って結構ぺったりと濃密じゃありませんか。歴史的、文化的、空間的な違いでしょうけど、アメリカ社会って互いの関係がさっぱりしてるのですよ。別に殺伐となんかしてませんよ。親子とか夫婦とか親友とかって、すごく仲いいです。でも社会全体と個人の関係を考えると違うのですよね。あまり個人が社会に寄りかかってないのかも知れませんね。社会のほうが個人を甘えさせないで、突き放しますし。
思うに、ギングリッチさんは、「生産性の向上など日本の立派な点を見習うべきだけど、だからと云って、日本のような集団主義的な社会にしようと云うんじゃありませんよ」と云いたかったのでしょう。だって、ヘンな誤解を招いたら、アメリカ国民の反感買いますものね。
古森様、勝手な意見をごちゃごちゃ書いてすみません。
>米国の文明を本来の伝統へと戻す(個人の責任や個人の自由 に基づく米国本来の価値観は一九六五年以来、一部エリートにより変えられてしまった)
個人の自由を尊重し、それに伴う個人の責任を果たすという考えは確かに新天地を求めてやってきたピューリタンの尊厳の証でしょう。アメリカの原点がそこにあることは立派なことです。
しかし、そのため「集団のために個人を犠牲にする」ことを非難し排除しすぎると、それは国民にバラバラで利己的な行動を奨励することにもつながりかねません。
日本のように数千年に亘り、隔離された島で、同じ民族が苦楽を共にしてきたところでは明らかに共同体としての一体感があります。特に地震、台風、大雨、旱魃、火山など自然災害も多いですから、一人で勝手に生きることは困難で互いに協力し合うのが伝統になってきたと思っています。それがある時には「集団のために個人を犠牲にする」ことを優先させることもありますが、それは共同体の紐帯の強さの証でもあるのでしょう。
アメリカにおいて、国としての一体感や共同体意識が本当にどれほどあるのでしょうか。それぞれの出自や人種が違う人々が共同体意識を持つことは並大抵のことではありません。その紐帯の元が自由と民主主義だけ(英語はヒスパニックの増大で簡単でもなさそうです。キリスト教の博愛精神もあるのでしょうか。)で本当に大丈夫かと思われます。
アメリカ全体が本当に世界が羨むほど豊かであれば問題はないのでしょうが、格差の拡大が大きくなりすぎるとバラバラにならないか本当に心配ですね。会社でも幹部と一般社員との給与格差が数百倍以上になると会社も共同体ではなくなるのではないでしょうか。
日本の企業では社長と一般社員の給料差はせいぜい10数倍程度ですね。社長や役員だけ偉くて社員は使われるだけというのではなく、社長は社長の役割があり社員は社員の役割があり、会社共同体として役割分担をしているという感覚が、厳しい現在でも基本にあると思われます。会社は一つの共同体であり、元々儲けだけを考え愛着もない株主のものという感覚も日本人には薄いですね。
ところが、日産にしてもソニーにしても外国人の社長になれば急に年俸が数億円になりさらに巨額な株の配当まであるというのは日本人にとって違和感が強いですね。経営者の経営責任は大きいと言ってもかつてのように無限責任を負わされているわけでもなく、実際の仕事をするのは各社員ですから自分だけ取るという感覚は強欲に見えます。かつての日本企業の社長は無限責任を負わされていたにも関わらず、社員の雇用や福利厚生まで気を配っておりそれほど格差のある給与を得ていなかったと思います。
こういう面にも日本社会の共同体意識が根付いていますが、アメリカのようになってくれば本当に社会の紐帯がどうか心配になってきますね。
ですから、個人の自立と自由を言うのは誠に素晴らしいことですが、それは社会や国の共同体意識や一体感があってこそのことと思わずにはいられません。99%格差デモの広がりに見るようにアメリカ社会の内部対立がどのように調整されていくのか見守りたいところですね。
突き詰めれば個人と集団との関係は、自利と利他の関係でもあるでしょう。人間は人の間と書くとおり、一人では生きられず、人々や社会のおかげで生きていることを考えれば、自利だけではだめで利他、時には自己犠牲も必要だと考えることが真っ当な社会だと思われます。
EUも規模的にはアメリカ的ですが、現在のように債務危機になってきた時には明らかに共同体としての要件が欠けているように見えます。ドイツ人にとって、ギリシャ人との共同体意識がどれほどあるのでしょうか。恐らく一体感より反発心の方が強いのではないでしょうか。
国が違うということは、文化も伝統も言語なども違うので別の国になっているということでしょう。元来隣同士の国は中が悪いものですが、順調な時はいいですが、問題が深刻になると対立心の方が強くなります。
ですからEUは今歴史的な大実験をしているということですね。同じヨーロッパキリスト教文明内でもこれですから、東アジア共同体などの無茶ぶりは想像を絶しますね。
> 日本のように数千年に亘り、隔離された島で、同じ民族が苦楽を共にしてきたところでは明らかに共同体としての一体感があります。
これは歴史的な事実からは、かなり離れているので、少し註釈しておくね。
総論においての論評じゃないのは申し訳ないんだけど
日本はかって独立前後のアメリカと似通ったような状況にあって、ただ、その後の歴史が比較的長い、という「ちょっとした」違いがある。歴史が長いと、理念も慣習化するよね。日本人は慣習化されきった結果として今がある。
日本とアメリカが多くの面で価値観を共有するのはこのためだし、違う面は、ほとんど慣習化された部分だ。
君が代の歌詞は、比較的忠実に、古き良き日本の理念を語っている。
色々な人々が、色々な形のままに、石灰質の紐帯を介して、互いに結合し、大きな巌となる(さざれ石化する)。
つまり、中身は混ざり合っていないんだよね。それでいて団結している。
ところが、その擬似コロニー/合衆国状態も数百年を経ると、少しづつ混ざり合い始め、価値の共有が進み、戦後の全体主義中央集権化では急速に一律化し始めた。
日本とアメリカが決定的な意味において相容れない「別物」であるかのようになってきたのは、じつは戦後の一極集中以降のことなんだよ。
なるほど。それなら氏の言う「犠牲」が我々には犠牲に見えないです。
アメリカ人は、保守主義に合った国民性だと思います。
日本人はどちらかというと社会主義に見えますが、個人の行う慈善と、行政のやる福祉とは別物なのに、日本は成功した社会主義などとトンチンカンを言う人もいます。日本は世界と比較すれば豊かな国で、そういう土地柄が生んだ国民性なのでしょう。
これはアメカ全国民の共通の確固たる信念だと思う。さらに「自己犠牲」の精神も崇高なものでアメカ全国民の共通の確固たる信念だと思う
しかし下記の文章を付け加える事で紛らわしく誤解を与える
>>日本ふうの「集団のために個人を犠牲にする」といった思考を激しく排除している
との質問が市民権取得のテストのテキストにあります。
We the Peopleです。
米憲法は絶対に守るものとの意識が米国民にはあります。
それは保守であろうがリベラルであろうが違いはありません。
the Peopleが議員を選出し政府を作るとの主権在民の考えには個人が政府の犠牲に成るとの考えは米国人には毛頭ありません。
しかしこれが規律を守ることを重視する国家機関となると、例えばペンタゴンとかCIAとかFBIとか、些か話が違ってきて所属機関に個人が忠誠を誓うことになりたとえ正しい警鐘を内部告発として鳴らしても違法とされるようです。
こうした個人をグラインドする行為は米国と言えどもあたかも存在の理論かの如く各機関のトップにはあるのだろうと思わせる行為の一端は米国民もしばしば目の当たりにしました。
北朝鮮による「拉致問題」は長年政府による日本国民に対する個人の犠牲を強いているように私には見えます。
放射線物質拡散情報を政府は米軍に与えたそうですが日本では公表されず馬場有浪江町長は「言葉は悪いが(町民に対し)国は殺人のようなものをした。」とさえ言ってます。
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?pagewanted=all
思うに「集団のために個人を犠牲にする。」最たるものが戦争だと思います。
戦争に行くのは国民でイラク戦争では何千にも戦士が亡くなり大きな悲しみを米国内のその家族や友達にもたらしました。
更には命をなくした米兵の数に数十倍するイラク国民が戦闘に巻き込まれて亡くなっているそうです。
時の為政者ですら「間違った戦争」を起こしたと認めているのがイラク戦争だったようです。
戦争を始めるには正義の戦争との理論があり間違った戦争はしてはいけないのです。
そして戦費との税金の乱用は米国とグローバルな不景気の遠因となったのですから「個人を犠牲にする」考えは個々を集めた集団すらも犠牲に陥れたと言えるのが昨今のグローバル経済のようです。
日本とアメリカは元々似ていたという論はなかなか面白いですね。一般的には思考様式から、言語まで対極にあり、ある意味で合わせ鏡のような関係にあるという意見もあります。
日本では聖徳太子の頃から「和を以て尊しとなす」と何でも話し合いで決めよとされてきました。明治維新でも「万機公論に決すべす」ですしね。
一方アメリカもデモクラシーと自由の中心と自認してもいます。メイフラワー号の頃からピューリタン信仰やロックらの人権思想、社会契約論などを以て、当初からデモクラシー的話し合いの社会を目指していました。
確かに似たところがありますね。ただ、日本がやや集団的な和を重視する民主主義であり、アメリカは個人主義的なデモクラシーであることが異なる点でしょうか。そして日本では同一民族としてのあうんの呼吸であるとか空気を読むとかの言語を越えた合意を求めるのに対し、アメリカは徹底的に言語的ディベートを基礎にしているという違いもあるのでしょうか。
彼にも可能性がでてきたんでしょうか。
左寄りのコメンテーターが「共和党の方が世界各地の軍備削減を考えてるので、沖縄から米軍撤退してくれるかもしれないから、いいのかも」とか申しておりました。....本末転倒の発言、日本ではこの程度の人がテレビに出てるんです。
これはまあ一般論としてはいいかもしれない。
たとえば難波 大助虎之門事件(1923年)。内閣辞職、衆議院議員の父親は即「自邸の門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくり、閉門蟄居して食を絶ち、半年後に餓死した。」(ウイキペディア)。事件当時の警備の警官から警視総監まで懲戒免職。郷里の全村あげて正月の祝いを廃して喪に入り、大助の出身小学校校長および担任も辞職。
もう一つは、おそらく大震災時、「御真影」を炎の中から取り出そうとして多くの校長が焼死。
丸山真男はこれを日本国体の無限責任と呼んでいる(『日本の思想』)が、ギングリッチの批判する「日本ふうの「集団のために個人を犠牲にする」といった思想」とはこういうもののことだろう。現在の日本でもこのような思想は基本的にあまり変わっていないのではないか。
和魂洋才(近代の超克)の課題は重い。