あの大震災からちょうど一年です。
各種の総括や反省がなされています。
しかしあの大災害が日本人の信仰や宗教をどう変えたのか、という点については、問題の提起もなく、まして回答はみあたりません。
ところがアメリカでそんな疑問が提起されていることは、興味深いといえます。
日本での信仰といえば、まず神道であり、神社でしょう。被災地ではその神道や神社はどんな役割を果たしたのでしょうか。被災地の人たちの神社や神道に対する態度や心情は変わったのでしょうか。
以下のような記事を書きました。
【朝刊 国際】
■【外信コラム】ポトマック通信 神社と大震災
東日本大震災から1年が経過するのを前にワシントンでも種々の行事が催されているが、2月29日、ジョージタウン大学の宗教研究の「バークレー・センター」が「日本の2011年3月の大災害への神道の対応」という討論会を開いた。
同大学の東アジア研究部門のケビン・ドーク教授がまず日本の神道の概要を説明し、1年前に東北を襲った大地震や津波の被災者たちと神道や神社との関係に も大きな影響があったのではないか、という疑問を提起した。日本社会での神社や神道の浸透度からみれば、自然な疑問だろう。
これに対し、基調講演者の日本の「神道国際学会」ニューヨーク駐在代表で神職の中西正史氏が、被害を受けた神社や避難する被災者を受け入れた神社の数な どを報告した。神道組織が各地から東北へ救済のグループを送り込んだ実態や、被災地の神社が従来どおりの祭りを催して住民を励ました実例をも伝えた。
しかし参加者からの「震災は被災者と神社や神道との信仰面での関係を変えたか」という質問に中西氏も明確な答えが出せないことを率直に認めていた。
「日本ではマスコミも宗教や信仰をほとんど取り上げないので」という中西氏の補足の言葉が、この種の課題へのアプローチの日米の相違を映し出していた。(古森義久)
コメント
コメント一覧 (21)
慰霊のためにあるのだということが
天皇陛下のお言葉やこのたびの慰霊祭などでも
素直に心に染みてきたところです。
私にとって、この大震災は、神道という日本の風習を見直す契機となりました。
仏教関係の記事はよく見かけますが、たしかに神道関係の記事はほとんど見かけたことがありませんね。
しかし、お正月の初詣の参詣客の多さや各地の神社の例祭などのにぎわいをみても、日本人の深層心理から神々への敬虔な信仰心が薄れてしまったとは考えられません。
「震災は被災者と神社や神道との信仰面での関係を変えたか」という質問に中西氏が明確な答えが出せな買ったというのは、不可解です。
宗教は、かつての自衛隊と同じくマスコミにとってアンタッチャブルです。ところが、周りを見てもわかるように神社やお寺の数は数知れずというくらい無数にあります。お地蔵さんまで辻に立ってます。そういう具合に、日本人は信心深い人たちでした。
それが一変してしまったのは、戦後になって社会主義者がマスコミや教育を牛耳るようになってから、宗教は悪いことだと喧伝されるようになりました。非科学的だとか、戦争の元だとか。たぶん、そういう非難は、天皇陛下が神道そのものであり仏教と近しいことも関係があるのでしょう。なんとしても陛下をやっつけたい左翼の教宣だったと思います。
ここをご覧になってる方々も自分は無宗教だという人が多いと思います。しかし、世界的にみて信仰を持つ人々のほうが多数であることをみても実は宗教は人を助け、心のよりどころであるわけです。ですから、日本の信仰はどうなったと他国の人々の関心をよびおこすのでしょう。
無宗教であることを自慢する方々は、戦後の社会主義者に洗脳されてしまった方々で、自慢するようなことではないと思います。
神社の行事は、氏子総代が仕切っているのだから、今回のように、
津波で死者が出ている場合には、たちまち救助が出来たわけではないが、
祭りが出来るように、地域社会が再建できるようにね。
蘭学の影響もあるのかもしれないが江戸時代すでに合理的思考はあった。たとえば富永仲基。さらに日本人は明治以降西欧合理主義の洗礼を受けた。学徒特攻隊員の中には遺書で死後の霊魂など信じていないと言っている者もある。
しかし、それにしても山本七平のいう日本教というのは根強く延命しているのかもしれない。日本教は宣長のもののあわれとも関係するようだが、現在もののあわれは黄昏だという人もある。
美智子さんはカトリック系の学校出身で家庭はカトリック色濃厚だったようだ。皇室をとりまく人間達はキリスト教信者が多いらしい。小和田家もそうじゃなかったかな。
山本七平のいう日本教徒キリスト派なのかもしれない。
大震災が日本人の信仰(神道観)を変えたかという発想は、ヨブ記やイサクの燔祭などに「洗脳」された欧米人のものだろう。
神道とは日本人にとっては、宗教というよりは空気そのもののように思っています。というのは、元々多様性のある気候と風土で、自然の恵みも多いけれども、自然災害などの災いも非常に多いという世界では、どうしても自然に対しては謙虚にならざるを得ないと思います。ですから、山や川にも神が宿り、木や岩にも神の依り代を見ます。自然への感謝と畏敬という感覚は日本人には自然と感得されるものとなっていると思います。
さらに人為的な事柄にも自然に対するものと同じような感謝と畏敬の念を感じてきました。故郷の山には先祖がおり、そういう先祖や先人達への感謝を捧げると共に、一方不遇な生を終えた魂を慰めようとする心が働きます。こういう感覚は日本人に本然にあるものではないでしょうか。
一神教的宗教観からは自然崇拝をアニミズムとして低い宗教だと見る傾向もありますが、決してそうではなく、現在、生態学ではすべての生命の連続性や関係性が明らかになり、分子生物学でも遺伝子レベルでの連続性を示していることも、神道的な世界感が最先端の科学とも符合する点が多々あることが言えます。
日本にはさらに仏教という要素が加わり、神仏が習合する中で宗教的センスがさらに磨かれてきたように思われます。仏教の根本命題は、物事はすべてつながりがあるという縁起観(日本的にはおかげさま)と、すべてのものは常に移り変わるという無常観(日本的にはもののあわれ)だと思いますが、この考えは実に神道の世界観ともマッチングがすばらしく、相乗効果的に思想が深まり、また日本独特の宗教観が生まれたりしたと思います。
また神道には八百万の神々がいて、仏教にも多くの仏と菩薩が衆生救済のため日夜働いているとする感覚も非常に両者が近いものがあるようです。キリスト教やイスラム教のような一神教では、排他的な要素も強く、このようなベストマッチングにはなりにくいものと思われます。日本でキリスト教、イスラム教が広まらない一つの理由かも知れません。
東日本大震災で神道に対する見方が変わったかどうかというより、日本という国は恵みも多いけれども恐い災害も多いということを再確認させたことで、日本人が神道や仏教的世界観をより身近に感じるようになったと言えるのではないかと思います。
震災後の被災者達の行動が世界から賞賛されましたが、これは長い日本人の歴史や宗教観から本然と身についた謙虚さそのものではないでしょうか。自然への畏敬、諦観、そして長く育まれた村落共同体意識のなせる業だと思います。
そして神道の中心の主祭者は実に天皇陛下であり、共同体の中心として国民と国土の安寧を常に願っておられます。本日の大震災追悼式典でも陛下は必死の覚悟で臨席され、不幸に亡くなられた方の魂を鎮め、遺族や被災者を慰め、国民に復興への励ましを述べられました。見ていても全く私ごころのないお姿はありがたいと言う他ありません。政治が如何にひどくとも国民の安心感がゆらがない一つの理由ではないかと思います。
ですから神道は日本人の自然な世界観であると考えれば、戦前の国家神道はやや行き過ぎの感があります。如何に列強諸外国に対抗するために政治的にとられた緊急措置としても、仏教すら分離し、神道を唯一無二とした排他性はそもそも神道そのものではなかったでしょう。
神道とはそもそも幸いも災いもすべて受け入れ感謝するという大きな心ではないでしょうか。そういう意味では神道からは一神教も当然受け入れますから、一神教とのマッチングがよくないのはむしろ一神教側の問題とも思われます。日本人の本然の心が神道的であるから、神社に初詣し祭もし、仏教で葬式をし、クリスマスを祝うことも自然なことなのだと思います。
すでに江戸時代、石田梅岩らの心学は、すべての宗教を同等に見て、どの宗教にも専心し、世俗的な仕事に努力することが立派なことだと教えました。このようなことが日本的な資本主義の精神の現れでもあるでしょうし、日本人が超宗教的な感覚を持っている理由のような気がしてなりません。
なるほど、貴コメントのような反応が日本では必ずあるだろうと思っていたのですが、やはり、という一種の安堵を覚えます。
こんばんは。
いろいろ教示の多いコメントです。
なかでも<(大震災で)日本人が神道的世界観をより身近に感じるようになった>という点に共鳴を強く覚えます。
ご指摘の不可解とされる点、もしあなたが同じ質問をされたら、どのように答えますか。いやみの問いかけではありません。私の好奇心です。
確かに現代日本人の宗教観を戦後思想の影響から眺めると、わかりやすい部分がありますね。
東日本大震災の地震も
1つの「神」かもしれませんね。
日本人はそれが有ったことは余り議論せずに
その神から与えられた難題を
どの様にこなすかと言う感じはありますよね。
>weirdo31 さん
>
>ご指摘の不可解とされる点、もしあなたが同じ質問をされたら、どのように答えますか。いやみの問いかけではありません。私の好奇心です。
神道はもちろん、宗教について、とくに関心を持って勉強したわけではありませんので、普通の日本人の答になると思いますが、「お正月の神社への初詣の参詣客の多さや、各地の神社の例祭などの賑わいをみても、日本人の深層心理から神々への敬虔な信仰心が薄れてしまったとは考えられません」
「神戸にある神戸市民の崇敬を集める生田神社は、さきの阪神淡路大震災で全壊し、全焼するという災害に見舞われましたが、神戸市民のあつい思いでほどなく再建されました。さきの大戦で米軍の無差別都市爆撃で、同じように全焼しました。しかし、戦後ほどなく市民が資金を出し合って再建しました」
と答えます。
ひとこと、「先の大戦と神道は全く関係がありません。事が起これば、神々(複数です)に無事収まるよう祈るのは、日本人の伝統です」
と付け加えます。
わかりました。
私にとっても納得のできる答えです。
というか、うれしい答えですね。
和辻哲郎。
懐かしい思想家ですね。
でもその思考は今日への普遍性も有するのでしょうね。
神職の中西さんも避難場所を提供した神社の実例を多々あげていました。
いかにも? アメリカの大学らしいプラグマチックな関心で面白いですね。
ただ、関係の変化を、正確に計測するには、どう量るのが正解なんだろう。
アメリカですから、やはり無作為方式のアンケートなのかな。
宗教にも門外漢で、よく分からない世界なのですが、皆さんお書きのように
神道の底に流れるものは、ご利益ではなく、祈りなのではないでしょうか。
息子は信心深い面が在って、受験時の合格祈願を欠かしませんでしたが、
あいにく一度も、夢はかないませんでした。
進学後も、正月になると神社で駐車場整理のアルバイトしておりましたが、
「5万円で祈願したばかりなのに、駐車場で事故る人が結構いて
可哀そう」
とよく言っておりました。
それでも、家族を連れて今でも参詣を欠かさないのは床しく思えます。
京都の超高級クラブが名刹古刹の住職連 格好の待合になっているとは、
週刊誌の定番記事です。
カトリック神父の男色やプロテスタント牧師の童子愛も折々表面化します。
ヒンズー、イスラムの僧職も祈りに生涯を捧げるというよりは残忍な印象です。
神道を以てしても、地震や津波をなんら避けえなかったではないか、
したがって、日本人の神道に対する思いも当然変わっているだろうと
いう問題意識からの発議であれば、それはちょっと違うかもと思います。
要するに、物は考えよう、見方はいろいろある、ということでしょうか。通俗の総括になりますが。
もっとも、報道全般のファクトに対する扱いは宗教に限らないね。
当欄でご紹介いただいた御方を通じて支援をさせていただいて以来、私的な関係や、様々な機会を通じて支援を続けているが、南三陸を度々取り上げるNHKが、くだんの活動をドキュメント紹介したのを見たことがない。あの小さな町内で、だ。
ほんとうにくだらない、見下げ果てたやつらだと思う。
あろうことか台湾の巨額支援を中国の支援として紹介したり、こないだも
「社会システムを整備し、そこにお金を入れることが重要だ」
という内橋克人という提灯評論家の共産主義指向をくり返しバラ撒いてやがった。海外からの支援では、トモダチ作戦と台湾からの支援が最大最強であることは言うまでもない。ところがNHKがもっとも多く取り上げているのは上位五位にも入らない中国の支援や関係の話題である。
在日本の中華愛好メディアは一度滅んだ方がいいかも知れない。
(偏向はともかく、ファクトを報じない、キャスターが自分勝手なコメントを垂れ流す、という点では、統制の本家・中国より酷いと思う。とくにニュース9、ありゃ犯罪だね。欧米ならイッパツでクビレベルの恣意コメントだよ)
先日の慰霊祭で被災者の方が「神も仏も無いのかと思った」と述べられていましたが,震災当時、あの惨状を目撃した多くの日本人が同じことを思ったはずです。しかし、だからといって神社に参拝することを止めたという人はほとんどいないでしょう。
それは日本人の信仰がキリスト教的な「神との契約」ではなくて、自然発生的なアミニズムに基づいたものだからではないでしょうか。極論を言えば、津波にさえも神が宿るということになります。人間と神=自然との関わりは必然的で変えようがありません。
したがって、震災後であっても、アニズム的である神社や神道との関係も変わりようが無いということになると思います。