それにしても中嶋嶺雄氏のご不幸は悼まれます。

 

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

 

よりよき日本のため、よりよき日本の高等教育のため、よりよき日本の対中政策のために、まだまだ活躍をしていただきたかった貴重なリーダーでした。

 

その中嶋氏への想いを田久保忠衛氏が書いています。

 

                         =====

【追悼】中嶋嶺雄さん 杏林大学名誉教授・田久保忠衛
2013年02月28日 産経新聞 東京朝刊 生活・文化面

 ■日台の絆強めた義憤と侠気

自分と同年輩の人の死亡記事が気になるのは年齢のせいだが、ある人を偲(しの)ぶ会から帰り、家に一歩足を踏み入れた途端に中嶋嶺雄先生が亡くなったとの知らせには茫然(ぼうぜん)とした。

別段そのために意見を交換したわけではないが、日中国交正常化の過程、「平和的台頭」をするはずの中国が「危険な台頭」に転じたこと、ピボット(軸足)を アジアに移すと公言した米国が抱える国民の内向き志向と国防費を大幅に削減しなければならない事情などで、中嶋先生と私はほぼ同じ見方をしていた。だか ら、尊敬する同志を突如失った悲しみだ。いや、静かに考えてみると、日本は激変する国際情勢の中で重要な一人の舵(かじ)取りを失ってしまったのかもしれ ない。

1971年7月15日、ニクソン訪中発表で日本が「ニクソン・ショック」を受けた日に私はワシントンにいて世界の秩序を一夜にし て変えてしまうこの大発表を聴いていた。このあと日本に生まれた「バスに乗り遅れるな」の大合唱は政財官界を包み、マスコミが音頭を取った感があった。田 中角栄首相は翌年に日中間で国交を樹立してしまうが、米国はカーター政権が8年後の79年1月1日に米中間で国交樹立を果たす。中国をめぐって日米間の呼 吸は以来必ずしも合わなくなった歴史的事件だと思う。

79年から80年にかけて私はワシントンのウッドロー・ウィルソン国際学術研究所 でこの問題を研究していた。最大の助言者になってくれたのは米国の中国問題研究者のハリー・ハーディング氏だった。ハーディング氏と旧知の仲だった中嶋先 生はこのころワシントンを訪問され、米国の対中関係に関する広範な調査を手掛けられ、わが家を訪れてくださった。当方の勝手な思い込みかもしれないが、私 は同憂の士を得たと考えてきた。

名著『北京烈烈』以降の中嶋先生の業績に少なからぬ関心を抱いた人物は台湾の李登輝氏であった。李氏は副総統時代に中南米諸国訪問の帰途東京に立ち寄り、中嶋先生と意見を交換している。

国際法上も道義上も理不尽な道をたどってきた台湾に対する深い同情と言っていいだろう。20年にわたって中嶋先生は日本と台湾の間で知識人間の率直な意見 交換の場「アジア・オープン・フォーラム」を続けた。両国間の有形無形の紐帯(ちゅうたい)がどれだけ強まったか。中嶋先生ご夫妻は外務省の陰湿としか言 いようのない妨害を打ち破って2007(平成19)年には李登輝夫妻の訪日を実現した。

戦前に日本の民間人の中にはアジア独立の志士を匿(かくま)い、支援した人がいた。私は、当時北京へと草木もなびく風潮の中で日台関係の重要性を説き、具体策を実行した中嶋先生に日本人の義憤と侠気(きょうき)を見ている。

東京外国語大学長、文部科学省中央教育審議会委員としての知識を秋田の国際教養大学に生かし、大成功を収めつつあるときに逝った先生に悔いはないと思う。



国際教養大学長の中嶋嶺雄さんは14日、肺炎のため死去した。76歳。



【プロフィル】田久保忠衛

たくぼ・ただえ 昭和8年、千葉県生まれ。早稲田大法学部卒。博士(法学)。時事通信社外信部長、編集局次長を経て、杏林大学社会科学部教授。専門はアメリカ外交、国際関係論。平成8年、正論大賞受賞。著書に『戦略家ニクソン』『激流世界を生きて』など。