安倍首相は施政方針演説で、なぜ日本の「国」への国民の貢献を語ることを避けたのか。

 

   

日本ビジネスプレス「国際激流と日本」からです。

 

 原文へのリンクは以下です。

 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39796

国際激流と日本

大事な部分がなぜ抜かされたのか?
安倍首相が引用したケネディ大統領演

                        

                                  _________

  安倍演説はこの最重要な部分をすっぽりと抜かして、ケネディ大統領が自国民への訴えもせずに、いきなり世界の市民に呼びかけたかのようにも受け取れる引用の仕方をしているのだった。

 

 ケネディ大統領にとって、米国の国民に国家への責務や貢献をまず説くことが最重要だったように、安倍氏の年来の理念も、日本の国民に日本という国 家の重要性を改めて訴えることだった。その点こそが、安倍氏が年来、唱える「戦後レジームからの脱却」の本質部分でもあったはずだ。

 

 それが今回の安倍演説では、日米同盟の大切さを説くためとはいえ、日本人にとっての「国」の重要性が埋もれてしまった観なのである。

国家の一員ではない人は存在しない

 この膨大な施政方針演説を、安倍首相個人がすべて起草したはずはない。首相の思考をよく知る専門家が土台を書いたのだろう。だが、その草案からは 安倍理念の真髄を象徴するはずのケネディ大統領の言葉はあえて外された。あるいは、ずらされた、と言った方がいいかもしれない。

 

 「米国民が米国のために」というケネディ演説の核心を引用せずして、なんのための引用か、とさえ問いたくなる。安倍晋三という政治家の長年の政治理念を見聞してきた一員として残念に感じるのだった。

 

 今回の安倍演説はケネディ演説を使いながらも、ケネディ演説の心臓部にあえて背を向けて、2つのスピーチの間のギャップだけをケネディ演説をよく知っていた人たち、そして安倍理念の本質を知ってきた人たちの両方に見せつけた、というのはあまりに厳しい見方だろうか。

 

 戦後の日本では「国」という概念があまりにも極端に否定されてきた。米国の占領政策、日本国民の戦争被害、そして戦後の共産主義思想などがその原因だろう。

 「国」と言えば、「国家」となり、「国家権力」となって、「国民弾圧」さらには「暴力機構」という連想ゲームのように、国の基本理念にはいつも危 険なレッテルが張られてきた。国家は、いつも国民と対抗する、国民を抑圧し、支配し、被害を与えるメカニズムとも見なされてきた。

(つづく)