2006年10月


 「日本やイランが核を持てば、世界は安定する」
 「(日本という)核攻撃を受けた国が核を保有すれば、核についての本格論議が始まる」
 「核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたから」
 「核兵器は安全のための避難所。核を持てば軍事同盟から解放され、戦争に巻き込まれる恐れはなくなる」
 「(日本の核に関する)国民感情もわかるが、世界の現実も直視すべきです」
 「核を保有する(中国と日本という)大国が地域に二つもあれば、地域のすべての国に『核戦争は馬鹿らしい』と思わせられる」

 さあ、以上の発言は間違いなく日本の核武装論です。核武装を奨める強い発言です。百歩後退しても、日本の核武装に関する議論だといえます。
 最近、核武装関連発言で波紋を呼んだ中川昭一自民党政調会長でも、麻生太郎外相でも、こんな強いことは絶対に述べないでしょう。
 ところが以上の核武装議論はなんと朝日新聞10月30日の紙面に堂々と登場したのです。
 発言者はフランスの学者エマニュエル・トッド氏、対談記事なのですが、その相手は朝日新聞論説主幹の若宮啓文氏です。トッド、若宮両氏は日本の核武装について議論しているのです。
 
 この朝日新聞の一ページすべてを使った長い対談で、若宮氏は当然ながらトッド氏の日本核武装の奨めに対し、反対論を述べています。しかし一方が「日本は核武装すべきだ」と述べ、他方が「日本は核武装はすべきでない」という言葉のやりとりは、どうみても「日本核武装議論」ですね。

 しかし朝日新聞はその一方で10月20日の社説などで、中川昭一政調会長や麻生太郎外相の「核兵器の保有に関する議論」への激しい非難を浴びせています。「日本核武装議論」はしてはならない、つまり語っても、論じてもいけない、と主張しているのです。でも自分たちは論じ、語っているんですね

 この対談記事からみる限り、中川氏も、麻生氏も、朝日の若宮氏と立場はまったく同じであることが判明しました。日本の核武装についての議論は堂々とするけれど、日本の核武装には反対という点で、です。若宮氏は本当にこの対談で日本の核武装について堂々と議論をしているのです。

 しかし若宮氏と中川、麻生両氏とが異なる重要点は若宮氏がこの日本の核議論を「頭の体操」と総括していることです。トッド氏は広島や長崎の悲劇を繰り返さないためにも日本の核武装を、と説き、被爆の悲劇にも触れています。ところが広島、長崎も若宮氏は「頭の体操」の一部として片付けるのです。もし政治家が被爆をも含む核問題を「頭の体操」などと呼んだら、朝日は欣喜雀躍ふうでその政治家に紙面リンチを加えるでしょう。被爆の悲劇を除いても核議論は日本の安全保障という重大な課題そのものです。それを「頭の体操」だなんて、いいのですか、若宮さん。

 ということで、朝日新聞さん、「日本核武装議論」はむしろ奨励するということなんですか。もしそうだとすると、20日の社説や一連の中川叩き、麻生叩きの論評との整合性はどうなのでしょうか。結論は反対だとわかっていても、そこにいたる議論さえしてはダメだと、さんざん主張しているではないですか。まさか、同一テーマでも「政治家は議論してはいけないが、大新聞は議論してよいのだ」なんて、ヘンなこといわないでくださいね。

 でもこれだけ楽しませてくれる朝日新聞、だから私は年来の愛読者なのです。しかし愛読するのは朝日が朝日らしいからです。まさか核武装の議論は「頭の体操」だからよいのだ、なんて主張に豹変しないでくださいね。

 しかし私は長年の言論人としての体験を通じ、日本という国の進路の基本的選択の際は、朝日新聞が主張することと正反対の道を選べば、だいたい日本にとっての物事はうまくいくという考察を重ねてきました。
 対日講和条約しかり、日米安保条約しかり、日米ミサイル防衛しかり、有事立法しかり、ちょっと「基本」から外れて、中国の文化大革命の評価しかり、などなどです。
 今回の日本の核武装議論ですが、実は私は日本の核武装には否定的立場をはっきりさせてきました。だからとくにそのための議論もいま急いでする必要はないと思ってきたのです。ところが朝日新聞が「議論もしてはならない」と主張し始めると、これまでの多数の事例のように、その正反対の道を選ぶのが日本にとっての利益になるのかな、といま感じ始めました。
 上記はまったくのジョークではありません。
 この部分の私の考えの詳細は『朝日新聞の大研究』(扶桑社)という本に記しています。稲垣武氏、井沢元彦氏との共著です。

日本はアジアでは孤立などしておらず、安倍政権の登場はむしろ歓迎されていることを証する動きがありました。いずれも日本の大部分のマスコミは取り上げていない動きです。「日本はアジアで孤立している」と大上段からの虚報を伝えてきた新聞などは恥ずかしくて報じられない動きなのかもしれません。

第一はベトナムが日本との新たな「戦略的パートナー」となったことです。
ベトナムのグエン・タン・ズン首相が10月18日から22日まで日本を公式訪問しました。ズン首相は日本の国会で演説までしています。
ズン首相の訪日ではベトナムの世界貿易機関(WTO)加盟に日本が賛成することや、日本の対ベトナムの投資や貿易を拡大すること、さらには日本のベトナムへのODA(政府開発援助)を増額すること、などが合意されました。しかしそれよりも注目されたのは日本とベトナムが「戦略パートナー」となり、安全保障面でも新たな協力を始めることを合意した点です。
日本とベトナムは「アジアで平和と繁栄を築くための戦略的パートナーになることに合意した」というのです。この両国の結びつきは明らかに中国の軍拡を念頭に入れているといえるでしょう。アメリカのブッシュ政権も実はこの日本・ベトナムの安保面での急接近に注視しています。
しかし肝心の日本ではこのベトナム首相の訪日の動きはほとんど報道されませんでした。

第二はインドネシアの安倍政権の安保政策への歓迎表明です。
具体的にはインドネシアのユウオノ・スダルソノ国防相が10月上旬、ロイター通信のインタビューに答えて、安倍政権の登場に対して次のように語ったのです。

「東アジア安全保障での日本の力強く、果敢な役割を歓迎する。そうした日本の動きは中国などとの新たな、好ましい均衡を生み出すだろう」

「(安倍政権が憲法を改正し、従来の消極平和主義を捨てることについて)日本が『普通の国』になる希望の一環として
まず従来の防衛庁を止めて、防衛省を設置することを望む。日本が防衛面でアメリカとなおきずなを保ちながらも、アメリカの庇護を受けることは大幅に減らすことを期待する」

「いまわれわれがみているのは、中国、日本、インドなどが台頭することで出現してきた新しい東アジアの力の均衡だろう。アメリカの役割もなお最重要な存在として歓迎されている」

ベトナムもインドネシアも、安倍政権が自国と緊密な関係を結ぶことを強く求めているといえます。
ちなみにベトナムもインドネシアも、日本の首相の靖国参拝に対して公式の場でなにか述べたことはまったくありません。

アジアで日本は孤立していないのです。

私のこのブログを勝手に和文英訳サイトにリンクした人がいます。その結果、ここの日本語がまったく意味の不明な英語になって、どこかに出ているようです。その迷訳、珍訳、狂訳のひどさは想像を絶しています。よほど性能の悪いソフトなのでしょう。自動誤訳と評するのが適切かもしれません。

このブログに記載されたことを日本人以外の人、日本語が十分に読めない人、日本語がまったく読めない人などが読みたがっていることの表れなのでしょうか。

とにかくその自動和文英訳に頼る人はここのブログの記述の意味を正確にはつかむことができない、という点を前もってお知らせしておきます。

ではアメリカのNBRネット論壇のサイトに記載された興味あるコメントの紹介を続けます。
おもしろさとなると、どうしてもグレゴリー・クラーク国際教養大学副学長の言葉がまず目につきます。原文の英語を私が訳します。

クラーク氏は「日本人は中国人よりも生来、攻撃性、侵略性が強い」と10月はじめのサイトに記述しました。「生来」というのはinherently という英語を使っています。「生まれつき」「遺伝子的に」という意味もあり、この語をネガティブな形容詞につけると、人間の特徴の評としては人種偏見ぎりぎりまでいきかねません。
「日本人は遺伝子的に独創性がない」といえば、人種偏見とされるでしょうね。

クラーク氏のこの「日本人は中国人よりも攻撃性が強い」という断定に対し、NBRへの他の投稿者から「では中国のチベット占領はどうか、ベトナム侵攻はどうか、インドとの戦争はどうか」という疑問が呈されました。それに対してクラーク氏は以下のような記述を次々に書いています。

「世界、あるいはアジアにとって共産主義の中国は民族主義の日本よりもはるかに脅威ではない」

まずここから始まり、中国のチベットへの侵攻や占領についても以下のように擁護します。

「チベットは常に中国の領土だった。台湾の国民党に聞いてみればよい。1959年には中国はインドあるいはCIAに支援され、煽動されたチベット人の反乱に単に対応しただけだ。国民党は中国がもっと強く対応すべきだったと信じている」

つまりチベットは歴史的にも一貫して中国の自国の領土であり、そこで中国はなにも不当なことはしていない、というのです。では最近のチベット少年への銃撃事件はどういうことなのでしょうか。
ベトナムへの侵攻(1979年)についてはクラーク氏はさらにユニークなことを述べています。

「ベトナム(侵攻)は中国側が中国の生来の侵略性という神話を消すために、わざと熱をいれないで戦った国境紛争の戦争だったのだ」

へーえと思わず、声が出てしまう珍説です。
クラーク氏はさらに中国とインドとの戦いについて以下のように中国を弁護します。

「インドとの戦争はインド軍がインドの地図でも中国領と明示してある地域に侵入してきたことで始まった。中国軍はインド軍に反撃して、後退させ、インド側が領有を主張する地域にまではあえて入らず、捕獲したインド軍の武器を返還した」

そしてクラーク氏は次のような深遠な日中比較の考察を書いています。

「日本もさまざまな戦争でこのような穏健さをもって行動すればよかったのだが」

以上はクラーク語録の一部を日本語に翻訳しただけです。
クラークさん、また「右翼の卑劣な攻撃」とか「事実をゆがめた」といわないでください。

Japan Times10月26日のオピニオン面にイギリスの元駐日大使ヒュー・コータッツィ氏が「修正主義者は日本に被害を与える」という題で靖国参拝批判などを書いています。
いま83歳のコータッツィ氏は第二次大戦のイギリス軍人で、占領軍として日本にきた経歴もある人です。

この寄稿文は麻生太郎外相と渡部昇一氏を「歴史修正主義者」と呼び、そのついでに私にも言及しています。以下のような英文です。

”A  Washington correspondent for Sankei Shimbun, Yoshihisa Komori, who also denies the Nanjing Massacre and is renowned for his nationalist if not rightist views-----"

「産経新聞のワシントン特派員の古森義久はこれまた南京虐殺を否定し、右翼ではないにしてもナショナリストとしての見解でよく知られているーー」

こんなことをあっさりと書いているのですが、私は南京虐殺の否定はしたことがありません。
中国側の「日本軍は民間人30万人以上を殺した」という主張に根拠がないことは何度も書きましたが、中国人の死者数については東京裁判での判決での「10万以上」という判断、南京に当時、滞在していたドイツ人実業家ジョン・ラーベ氏の「5,6万」という報告、日本軍の南京攻略を現地から報道したニューヨーク・タイムズ記者のティルマン・ダーディン氏の「3,4万」という報告などを客観的に報道しているだけです。

コータッツィ氏がなにを書くのも自由ですが、具体的な個人の名をあげて、その人物がしてもいないことをしたと、あっさり書くのはやめてほしいですね。
この論文も日本人の戦争の歴史への態度を批判し、最近の日本の風潮は1930年代の軍国主義にもどりかねないと心配してくれているようですが、話題があちこちに飛びすぎて、混乱状態となっています。

それにしてもイギリスの方から過去の戦争とか侵略への態度についてお叱りを受けるというのは、おもしろいですね。
イギリスがインドを苛酷に植民地支配し、アヘン戦争では中国を侵略し、もっとさかのぼれば、いままだ問題を抱えたイラクやアフガニスタンもイギリスの支配が紛争の遠因となっていることなど、謝罪も反省もなくてよい、という模範なのでしょうか。

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