2006年11月

朝日新聞の若宮啓文論説主幹が11月27日の同紙のコラムで「北方領土」というタイトルで書いた一文は北方領土4島のうち国後、択捉の両島はもう放棄すべきだという主張を明確に打ち出しています。しかもこの一年という期限を切って残りの二島だけの返還を求めようというのです。

二島返還論というのも一つの主張ではあるでしょう。しかし若宮氏のこの一文はその主張を表明するプロセスで日本側では二島返還論がいかにも一貫して本流の正論であったかのような虚像を描いている点が詐術に近いトリックを感じさせます。

若宮氏といえば、竹島を韓国に渡してしまおうと提唱したことで広く知られる人物です。その人がこんどは方領土も二島を放棄しようというのです。この「一貫性」にはなにか薄気味悪い感じさえ覚えてしまいます。

若宮氏はこのコラムをモスクワでの「日本ロシア・フォーラム」に参加しての見聞を基に書いています。そのなかでは1855年の日露和親条約にも触れて、「この条約で国境が決まり、北方四島が日本領と決められた」と書き、四島が本来は日本領であることは認めているようです。

周知のように日本の固有領土の歯舞、色丹、国後、択捉の四島は日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏の意を表明した1945年8月15日の第二次大戦終結のあと、
ソ連が軍隊を侵攻させ、不当に占拠して、いまにいたっています。不当な占拠であることが最も明白な日本の領土です。日本の歴代政権はみなその返還を当然ながら四島一括で求めてきました。二島だけの返還を求めた政権はありません。

しかし若宮氏は以下のように書くのです。

「あのとき(1956年10月の日ソ共同宣言調印による国交の回復のとき)ソ連は、歯舞、色丹の二島返還でけりをつけようとした。フルシチョフ氏の決断だったのだが、日本が応じなかったのは、米国が『二島で妥協したら沖縄を還さない』と強く圧力をかけたためだ。米ソ冷戦のもと、日ソの接近を警戒していた。
 もうひとつ、日ソ交渉に『四島』の枠をはめたのは、保守合同から間もない自民党内だった。鳩山氏に政権を奪われた吉田茂氏に連なる旧自由党系の議員らが米国に呼応して二島返還に猛反対していた」

以上の部分だけでも若宮氏の記述には詐術のような虚構があります。箇条書きで指摘しましょう。なおこの部分に関しては私は当時の状況を詳しく調査し、研究した専門家二人の見解をも聞きました。

①日本政府が当時、二島返還に応じなかった理由は『米国の圧力』だけだったように若宮氏は書くが、当時の日本政府は四島返還を自明のように考え、二島だけに傾く兆しはツユほどもなかった。若宮氏の主張に従えば、もし『米国の圧力』がなければ、日本政府は二島返還に応じたことになるが、日本側での当時の交渉につながる長いプロセスでも二島返還論は出ていなかった。
②「二島で妥協したら沖縄を還さない」という米国の圧力は,
もし事実ならば、日本の外交史を大きく書き換えるほどの大事件なのに、具体的な証拠も論拠も若宮氏は示していない。北方領土問題を研究してきた専門家たちも「そのような具体的な米国の圧力についてはまったく聞いたことがない」と述べている。事実なら大ニュースとして朝日新聞は報道すべきだろう。
③「日ソ交渉に『四島』の枠をはめた」という若宮氏の表現も事実をゆがめている。北方領土は終始一貫して、四島であり、四島こそが本来の自然の姿であり、それはなんの「枠」でもない。むしろ二島の方が人為的、政治的な「枠」をはめた産物なのだ。

このように若宮氏は日本側の北方領土返還はいかにも「二島」が主流の要求であり、「四島」はそれをゆがめた「枠」とか「米国の圧力」に屈した結果であるかのように書いているのです。コラムの終わりの部分でも、日本側ではあくまでいまも四島返還が公式の主流の要求である事実を無視して、二島返還あるいは四島以下の返還こそが多数派の、正しい意見であるかのような、ゆがんだ構図を描いています。

しかも若宮氏はプーチン大統領の任期が切れるあと一年余りの間にこの北方領土問題を二島(あるいは二島プラス)返還で解決することを提唱しています。
外交交渉でなにかを求める側が自ら交渉に期限をつけることほど愚かなアプローチはないでしょう。
しかも日本固有の領土を切り売りして、目先の解決を達しようというのです。これではロシアの主張そのもののようです。領土というのは主権国家の尊厳にかかわる基本の案件です。軽く半分だけを削って、手打ちにしようという性格の事柄ではありません。
ロシアの国内政情も、国際情勢もなおどう変わるか、わかりません。年月をかけ、国内の団結を保って、四島返還を粘り強く求めていくことこそ、わが日本にとっての正しい道でしょう。

 日本人として国外に長く暮らしていると、日本的価値観とか日本文化とか日本の思考が国際社会でどのように受けとめられるか、頻繁に考えます。日本の物事にどれほどの国際的な普遍性があるのか、つまり日本独特の価値が外国人にどれほどアピールし、理解されるのか、というようなことです。
 この点で、話はやや極端に飛びますが、日本で生まれて育ち、世界へと発展していった柔道はスポーツとしても、武道としても、他の国のきわめて広範な人々に受け入れられています。私自身が学生時代から社会人になってからも柔道の練習を重ね、アメリカやベトナムという外国でもかなり一生懸命、稽古や指導をした体験があるので、そんな考察をしてしまうわけです。
 そうした日本の柔道の外国人にとっての魅力に関連して、最近、あるケースを日本の「柔道新聞」に書いたので、紹介したいと思います。



柔道新聞十一月号掲載記事

 

「25年目の黒帯」

 

 アメリカの首都ワシントンにあるジョージタウン大学の「ワシントン柔道クラブ」のベテラン・メンバー、マーク・キャロル氏がこのほど柔道を始めてからなんと二十五年目、五十二歳で有段者となった。同氏は連邦検事を長年、務めた法律家だが、柔道への情熱は若々しい。だが四半世紀も黒帯を取らず、ただ稽古だけを続けるという同氏の生涯柔道にはアメリカ柔道のユニークさが目立つ。日本とは異なる柔道のあり方を紹介するためにも、このキャロル氏の軌跡を報告したい。

 ワシントン柔道クラブはアメリカ東海岸でも最古かつ最大の道場の一つとして活発な練習を週三回、続けている。ジョージタウン大学の柔道クラブをも兼ねるため、大学生の入門が絶えないのと同時に、首都の性格からか、欧州、旧ソ連、中南米など外国出身の選手も多い。技術の水準でも国際性でも米国有数といえるようだ。会員は約百人、ふだん稽古に参加するのは四、五十人である。

 私事となって恐縮だが、慶應大学柔道部員だった私は五年半前、五十代の終わりにこのクラブの練習に定期的に加わるようになった。産経新聞記者として北京での二年間の勤務を終え、ワシントンに戻ったときに、慶應での大先輩の宮崎剛氏に奨められたのだった。宮崎八段はかつての慶應柔道部の名選手でワシントン柔道クラブの師範の一人である。

 二〇〇一年春、私はそれまで十数年は柔道とは無縁だったので、恐る恐る稽古を再開した。その時期にまっさきに乱取りを挑んできた一人がキャロル氏だった。当時の彼は四十代後半だったのだが、もっと若くみえた。身長は一八三㌢、体重は九五㌔ほどの巨漢で、煮しめたように黒ずんだ茶帯を締めていた。アイルランド系の男っぽい、いかにもアメリカ人というタイプだった。

キャロル氏と組んでみると、荒削りだが、右の大外刈とか払い腰、帯をつかんでの隅返しなど、なかなかパワフルな技をかけてきた。とにかく稽古が大好きなようで、自分より強く大きい相手にも青年のように、どんどんぶつかっていく。ただ試合にはもう出ないようだった。

 キャロル氏は気性もさっぱりと明るく、話しやすいので会話もはずんだ。聞いてみると、首都ワシントン地区の連邦検事を務め、しかも担当は殺人事件なのだという。こちらも新聞記者としての好奇心から尋ねると、首都の凶悪犯罪について異なるギャング組織同士の抗争などをぽつりぽつりと話してくれた。それ以来、すっかり親しくなった。彼の柔道の水準は明らかに茶帯の域を超えていたから、なぜ有段者にならないのかと質問したこともあった。

 「黒帯になるにはかなり難しい形の試験を受けなければならないし、忙しくて。茶帯でも満足しているしーー」

 あまりはっきりしない答えが返ってきた。だがその後、また時間が流れ、この二〇〇六年夏、彼から報告を受けた。

 「やっと黒帯になりました。柔道を始めてからちょうど二十五年目です」

 彼がそれほど長く柔道をしてきたとは知らなかった。日本では成人男性がそんなに長い年数、稽古を続けて、初段にもならないということは考えられない。そこで彼の柔道経歴を少しくわしく聞いてみた。

 キャロル氏が柔道を本格的に始めたのはちょうど二十五年前、二十七歳のときだったという。

彼は大学卒業後、まずFBI(連邦捜査局)の捜査官となった。犯罪捜査の技術を学ぶなかで格闘技の訓練も課された。テコン道を選び、一生懸命に練習した。二,三年でテコン道では黒帯となった。

一九七八年、二十四歳のとき、ボルティモアのFBI支局に配属された。知能犯罪、組織犯罪、殺人などの捜査にあたる。八〇年にはニューヨークに移った。ときは東西冷戦のまっさなか、キャロル氏は反諜報活動にかかわり、国連内外で当時のソ連圏の人間を監視し、接近して、米側への情報提供をさせる工作にたずさわった。

 そんなころFBIの同僚数人とニューヨークのバーで飲む間、格闘技の話題となり、なかに柔道の選手がいて、テコン道と柔道とではどちらが強いかなどという話になった。議論は過熱し、結局、路上で戦ってみようということになった。

 「まあ、アルコールのせいもあって、おろかな行動でした。外に出て私がその柔道選手の同僚と対決したのです。その結果はこちらが回し蹴りを放つと、相手はふところに飛び込んできて、小内刈で背後に勢いよく投げられてしまった。勝負あった、です。そこで私も柔道を習おうという気になったのです」

 そしてキャロル氏は翌八一年、ニューヨークの名門スポーツクラブ「ニューヨーク・アスレティック・クラブ」の柔道クラブに入り、本格的な柔道修行を始めた。二十七歳のときだった。このときの師範が国士舘大学出身の松村洋一郎氏(現在七段)だった。キャロル氏は同時にFBI捜査官の活動を続けながら、地元のフォーダム大学の法律大学院に入り、八四年には弁護士資格を取った。

 このころの柔道は週三回ほど、稽古自体は必死でやったが、試合に出ることは少なかった。捜査活動には容疑者らを傷つけてしまう打撃系の格技よりも抑えつける柔道が最適でもあったという。

 その後、検事の資格を取ったキャロル氏はFBIを辞めて、一九八七年に首都ワシントンの連邦検事となる。殺人などの凶悪犯罪を捜査し、刑事訴追することが任務となった。柔道の稽古の場はワシントン柔道クラブへと移した。ここではジェームズ・タケモリ八段やタッド・ノルス五段の下で稽古に励むことになる。このころには激しい捜査、起訴の活動の合間だったが、柔道はキャロル氏の生活の欠かせない一部になっていたという。段位はまったく気にかけなかったものの、三級から二級へと上がっていった。

 ワシントンでの十数年間の同氏の練習ぶりについて尋ねてみると、日本では珍しい成人柔道の実態が浮かびあがる。レクリエーション柔道とか趣味の柔道と呼ぶには週3回の練習は激しすぎる。だが試合に出て勝つための柔道でもない。キャロル氏の場合、3年に一度ほど肩やヒジの負傷があり、何週間も練習を休むことも多かった。

 「検察官としての仕事は苛酷であり、心配や不安、不満に悩まされることも多かったが、そういうときに柔道は私にとって大いなる安堵感を与えてくれました。精神と肉体の両方を癒し、鍛えてくれたといえます」

 こう語るキャロル氏にとって血なまぐさい犯罪を追う仕事の合間の柔道は確かに慰めとなったのだろう。だが同氏は柔道にはもう一つの効用があったとも語る。

 「柔道の稽古は検察官として法廷に立ち、自分一人だけで刑事訴追の職務を果たすことと似ています。いざ裁判の場に出ると、まったくの孤独、だれにも頼れない。柔道と同じです。自立の精神が肉体を通して学べるのです」

 こうして検察の職務と柔道の稽古とを続けてきたキャロル氏は二〇〇四年十一月、検事を引退した。民間の刑事事件専門の弁護士となった。時間のゆとりが初めてできたのを機に、柔道へのエネルギーを増やして、黒帯を取ることに挑戦するようになった。その挑戦には夫人のジーンさんも、ケーガン、ケイティリンという二人の十代の娘さんたちも、大賛成で後方支援を惜しまなかったという。ちなみにジーンさんはペプシコーラ社の販売担当の役員待遇で、全米を駆け回るビジネスウーマンである。

 キャロル氏は二〇〇六年夏に本当に二十五年ぶりの黒帯を取った。

 あくまで試合主体、現役の若者が主役という日本の柔道では、こうしたキャロル氏のような気の長い、ある面ではのんびりした柔道はまずできないだろう。しかし少しはこのタイプの柔道練習があってもよいのではないか。

柔道はどんな形で、どんな世代で、どんな目的で、修行していくべきなのか。キャロル氏の実例は日本の柔道のこんごのあり方にも、なにか参考になる要因が含まれているような気がする。(終わり)

秋田国際教養大学のグレゴリー・クラーク副学長がJapan Times11月20日付に投稿文を載せ、このブログでのクラーク氏へのコメントや私自身への攻撃を書いています。

まあ中傷や誹謗が主体の駄文であり、正面から取り上げる価値もないと思いましたが、このブログへの反撃であることを考えて、一応、論評することにしました。あまりにデタラメが多いため、一つか二つずつ、個別に、こちらの手があいたときに、連載で書いていきたいと思います。

まずクラーク氏のこの投稿文の冒頭部分での私への攻撃で以下のような記述があります。古森の名をまず書いたうえでの記述です。

----severe cirticism by the well-known rightwing correspondent for the right-leaning Sankei Shimbun forced the Japanese Foreing Ministry to suspend publication of a magazine carrying an article slightly critical of Tokyo's fixation on visits to the Yasukuni Shrine.

「右翼寄りの産経新聞の有名な右翼記者(古森)による厳しい批判は日本外務省に、靖国神社への参拝への東京の執着を軽く批判した記事を載せた雑誌の刊行の停止を強制した」

こんな事実はありません。
クラークさん、こんな「雑誌」はどこに実在するのですか。私は知りません。日本語に堪能なクラーク氏なら実在しないことを知っているはずで、事実でないと知っていることを事実であるかのように書くことは「捏造」というしかありません。BSとかbogusとか、クラーク氏の好きな下品な言葉は私はあえて使いませんが、「ウソ」とぐらいは呼んでいいでしょう。

さあ、こんなウソから出発するクラーク氏の長文の駄文がいかにいい加減か、少しずつ紹介していきましょう。

ハノイでのAPEC首脳会議は無事に19日に終わりました。
安倍首相は多国間の国際舞台への初めての登場で、実質、イメージともに顕著な外交成果をあげたといえるでしょう。
APEC自体は最近、無力になっていることは産経新聞にも書きましたが、その場を利用しての各国首脳間の顔あわせ、あるいは本来のAPECの主題の貿易とは関係のない、北朝鮮の核兵器開発など安保や政治のテーマを国際的に協議するには都合のよい機会となっています。

安倍首相の活動のハイライトの一つは中国の胡錦濤主席との会談でした。
この会談で胡主席は「歴史」も「靖国」もまったく口にしなかかったというのです。この事実はニュースです。このところもう10年近くも、日中首脳会談では中国側は必ず、繰り返しますが、いつも必ず、日本の歴史認識、あるいは靖国問題を持ち出していたのです。
ところが胡氏はなにもいわなかった。

さて日中関係での「靖国」はたとえ瞬間的にせよ、消えたのか。
私はハノイでこのへんについて以下の記事を書きました。
すでにイザのニュースでも報じられていますが、改めて、ここに記載します。
  

靖国は消えたのか 

 【ハノイ古森義久】

 18日の日中首脳会談は「歴史」がまったく語られなかった点で皮肉にも近年の日中関係の歴史に残る会合となった。懸案のはずの靖国も中国側からの言及はなく、いわゆる靖国問題が中国側の政治加工による外交戦略カードとしての要素が強いことを期せずして立証したといえそうだ。

 ハノイで開かれた安倍晋三首相と胡錦濤国家主席による首脳会談はアジア太平洋経済協力会議(APEC)を利用し、しかも前回の会談からわずか6週間後という限定があったとはいえ、日中間の東シナ海問題、経済問題、核兵器問題から北朝鮮の核開発への対応まで広範なテーマを論じた。

だがこれまで日中関係を悪化させたと断じられた日本側の首相らの靖国神社参拝も、それと一体にされる日本側の歴史認識も、まったく論題とならなかった。

 日中首脳会談では少なくとも98年に当時の江沢民主席が来日して「歴史を鑑として未来に向かう」と日本側に訓示を垂れて以来、中国首脳は必ず「歴史」を語ってきた。もちろん日本側の歴史認識が不十分という批判である。以後も小泉政権の全期を通じて、日本側の親中派の「靖国のために日中首脳会談が開けず、日本は孤立している」というプロパガンダふう主張とは異なり、首脳会談は毎年、開かれてきた。  

胡主席になっても中国側は2005年までのすべての日中首脳会談で必ず「歴史」と「靖国」の両方を声高に告げてきた。

安倍首相がのぞんだ10月の会談でさえ例外ではない。

 ところが今回は両方とも消えたのだ。その間、日本側では安倍首相は靖国を曖昧にはしても、譲歩はみせていない。日本側の歴史認識も小泉政権時代と変わった証はない。となれば、中国側の自主的な判断で靖国や歴史を提起しないことにしたと考えるしかない。政治的な意図により対日折衝での靖国問題などは出すことも、引っ込めることも自由自在だという実態が裏づけられたといえよう。「13億の中国人民の感情が傷つけられたため」に中国政府としてはやむにやまれず、提起するほかない、という構図とはまったく異なるわけだ。

 もし日本の首相の靖国参拝で中国人民が傷つき、自国政府を動かすというのならば、水が泉のように自然にわき出して、日本側にもぶつけられるということだろう。ところが今回の会談は中国側が実は水道の蛇口をひねるように人為的に水を出したり、止めたり、水量を調節したり、という実態を期せずして証したといえそうだ。

 中国側はこんごも政治や外交の計算次第で靖国問題を持ち出してはくるだろう。だがその提起が自国にとってなんの得もなく損ばかりだと基本の判断を下せば、日中関係でのいわゆる靖国問題というのは終わるのである。靖国参拝は本来、日本の外交の一貫でも、中国側への意思表示でもないからだ。

     

数日前からベトナムの首都ハノイにきています。APEC(アジア太平洋経済協力会議)の取材のためです。

ベトナムは私にとって海外特派員としてのスタートの地なので、独特の思いがあります。その一端は以下に紹介する産経新聞の本日付コラム「緯度経度」の「ベトナム戦争の皮肉な結末」に書きました。

いまベトナムにきて感じることの一つは、あれだけ戦争や植民地支配の被害を受けた国がフランス、アメリカ、あるいは日本に対して、「過去の侵略を認めて、謝罪せよ」なんていう態度はおくびにも出さない現実です。

いまのベトナムは官民あげてアメリカ大歓迎、対米友好のムードに満ち満ちています。ベトナム戦争中は米軍機の爆撃をあれだけ受けたハノイでさえ、そうなのです。いまのベトナムの「アメリカ好き」は実に思いがけない旧知の人物からも聞きました。この人物は日本人でもおそらくベトナムを熟知するという点では最高レベルの専門家です。

ハノイに着き、日本のプレスが作業をする部屋に入ってしばらくすると、よく日焼けした紳士に「古森さん、お久しぶり」と声をかけられました。なんとベトナム戦争の終わりにサイゴンで行動をともにした赤旗記者の鈴木勝比古さんだったのです。鈴木さんはいままた数回目のハノイ駐在、赤旗ハノイ支局の特派員です。

鈴木さんとは1975年4月30日にサイゴン(もちろんいまのホーチミン市のことですが)が陥落した直後の混乱の中で会いました。ただし背景は大違いです。私は毎日新聞の記者として南ベトナムの首都サイゴンにずっと駐在していて、戦争の最後を迎えました。鈴木さんは北ベトナムの首都ハノイに駐在して、南を制圧した北軍とともに、5月上旬にサイゴンに乗り込んできたのです。
赤旗と毎日新聞と立場は違いますが、ともに報道記者として助けあうという何日かが続きました。ただしハノイの大学に留学し、勝利した北ベトナムの軍人や高官と行動をともにする鈴木さんと、崩壊した政権の側に駐在してい私とでは、私が彼の教えを請うことがずっと多かったのは当然です。

まあ複雑な経緯は省略し、31年ぶりでその鈴木さんとハノイで会ったのです。そして彼からいまのベトナムについていろいろ聞くうちに話題になったのがベトナムの対アメリカ観でした。鈴木さんは概略、次のように話してくれました。

 「ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を政策としており、ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から戦争中の枯葉剤などについても、あえて『民間団体』に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気をつかっている」
 「一般のベトナム人も経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にするべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している」
 「アメリカから戦争で受けた被害を問題にするという動きはまったくない。ベトナム人は前向きで、実利的で、過去にはとらわれない」

ちなみにベトナムはフランスの80年もの植民地支配に対しても謝罪や反省を求めたという話はありません。中国や韓国の日本に対する態度とはまったく異なるわけです。もっともフランスもアメリカもベトナムに対して謝罪をするという兆しはツユほどもみせませんから、それを求めても無理という意識がベトナム側のどこかにあるのかもしれません。 

以上がハノイで感じたことの一端です。

以下は私がハノイで書いた記事です。


「ベトナム戦争の皮肉な結末」
 
のどかな田園の風景を眺めながら、タイムマシーンの心境となった。ゆったりと広がる水田に農民が散らばり、水牛までがのっそりと動く光景は30年以上も前の南ベトナムを思わせたからだ。激しい戦争の中でも農村の作業や日常の営みはいつもゆったりとみえた、あのベトナム戦争の驚異の一つだった。

ハノイのノイバイ空港から市街までの40キロ近くの往路は工業や商業の発展を示す工場やビル、看板類も目立った。だがその合間に点在する農家のたたずまいは過去の映像と変わりなかった。ところどころに広がる水田はさらに過去を連想させたのだ。

ハノイの街に入って、「なんだ、サイゴンではないか」と感じた。サイゴンとはいうまでもなく、現在のホーチミン市、ベトナム戦争中は南ベトナムの首都だった。オートバイの洪水が勢いよく流れ、交わり、喧騒を生む光景はちょうど30数年前のサイゴンにあまりにそっくりなのだ。

私はベトナム戦争中、サイゴン駐在の特派員として三年半を過ごした。ちょうど三年目の1975年4月末、当時の北ベトナムの大部隊の総攻撃を受けて、サイゴンは陥落し、そこを首都としたベトナム共和国は崩壊した。その後の半年はハノイからきた新たな支配者たち下で厳しい検閲を受けながら報道を続けた。

その三年半は劇的な出来事に満ち、自分の青春の残りをすべて投入したような虚脱と満足とがあったから、その後もベトナムはずっと特別な意味を持つ地となった。ベトナムという語を聞くだけで、皮膚がぴりっとするような反射感覚がいつまでも残ってしまったのだ。

さて今回、ハノイを訪れたのは1998年以来である。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の取材のためだった。その前の来訪は89年である。

89年はベトナム軍がカンボジアからの撤退をついに宣言した年だった。ベトナムは79年にカンボジアに軍事侵攻し、大虐殺のポル・ポト政権を首都プノンペンから撃退はしたが、その後は泥沼のような戦いを続けて、国家として疲弊しきった。全世界でも最貧国の部類に落ちていた。そのときのハノイはまさに戦時の首都らしく、すべてを削ぎ落としたような貧しげでスパルタふうな街だった。

98年もベトナム社会主義共和国はドイモイ(刷新)の標語の下に市場経済をたぶんに導入はしていたものの、おりから東南アジアの金融危機の余波を受け、経済は停滞していた。ハノイの街路は依然、自転車ばかりで、オートバイは数えるほどだった。街の質素さも相変わらずで、色彩が少なかった。その前後に訪れたホーチミン市とではちょうどカラー映画と白黒映画の違いだと思った。

8年後のいまハノイはカラー映画の街となっていた。街路を走るのは自転車よりもオートバイが大多数となっていた。市民の服装も表情も明るくみえた。ちょうど昔のサイゴンに似た外観なのだ。そんな時間のズレも、いまのベトナムがなお貧しいことを考えれば、説明がつく。APEC加盟の29メンバーでも国民平均所得ではなお最下位なのである。

ベトナム共産党はそんな窮境を自由経済と外国投資の導入で脱しようとする。

中国と同様の「社会主義市場経済」という、わかったようでわからない標語の下で新経済政策である。だが自由経済も外国投資も経済学的には資本主義の権化だろう。共産主義のテーゼが反動思想として厳しく排除する対象である。サイゴンを占拠した当時の革命政権としての北ベトナムは外国と結びつく資本主義を闘争の標的とさえしてきた。

 そのベトナムが17日、米国のブッシュ大統領を国賓として迎えた。官民あげての歓迎の態勢を示す。ベトナム政府は国家転覆罪の疑いで一年以上も拘束してきた3人のベトナム系米国人を対米友好のあかしに、つい数日前に釈放した。米国民間の人権擁護団体から自国民の苛酷な人権弾圧を指摘されても、ベトナム当局は温和な対応をみせるだけだ。ベトナムは米国となんとしても緊密なきずなを築きたいのである。

 こうした米国への接近と融和、そして共産主義を離れての外資依存の資本主義経済の導入とは、いずれもベトナム共産党が「抗米救国」として戦った米国と米国に全面支援された南ベトナムの政府相手の戦争の大義にとって許しがたい背反となる。

 ハノイの明るく活気ある街頭をみて、なんだ昔のサイゴンそっくりだなどとつい感じた私は皮相で不遜と知りながらも、ついベトナム戦争の結末のそんな壮大な皮肉を思ったのだった。

(ハノイ 古森義久)

 

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