2007年04月

毎年、4月30日にはベトナム戦争について考えてしまいます。この日がベトナム戦争最後の日であり、その日の体験は私の永年の国際報道でもおそらく最も強烈な思い出だからです。
なにをいまさら古い話を、と思われる方も多いでしょう。
しかし自由な感想や思考を書けるこの記者ブログでも一度、ベトナム戦争の体験について書いてみたいと思っていました。

1975年4月30日だから、もう32年も前のことです。20世紀後半の世界を揺さぶったベトナム戦争は北ベトナムの革命勢力が南ベトナムという国家を滅ぼす形で終わりました。
この日、中国製やソ連製の戦車部隊を先頭にした北ベトナム人民軍の大部隊は南ベトナム(ベトナム共和国)の首都だったサイゴン(いまのホーチミン市)に四方八方からなだれこみ、南ベトナム側の残存部隊を蹴散らして、敵の首都を制圧しました。

北ベトナム軍の先頭部隊の戦車はサイゴン市内中央にある南ベトナム大統領官邸の鉄のゲートをぶち破り、戦車や装甲車から飛び降りた革命軍の精鋭将兵が官邸の建物内に飛び込んでいきました。そして南ベトナム政権の最後の大統領や閣僚を拘束し、建物の屋上まで駆けあがって、革命旗を高々と掲げたのです。永年のベトナム戦争はこの一瞬に終結を迎えました。

サイゴン市内は革命側を恐れて逃げ回る市民たちでいっぱいでした。すでに何万もの市民が船や航空機で国外に脱出していました。ちなみにアメリカ軍はこのサイゴン陥落の2年前に完全に撤退していました。この2年間は北と南の闘いだったのです。

私はこの日のこうしたサイゴンの状況を見届けて、報道しました。当時は毎日新聞の記者でした。サイゴンにはこの時点ですでに3年、滞在しており、サイゴン陥落後も半年ほど残留しました。このベトナム体験をのちに「ベトナム報道1300日ーーある社会の終焉」(筑摩書房、講談社文庫)という本にまとめて書きました。
その本の「まえがき」を以下に紹介します。


  まえがき

 いまはもう存在しない南ベトナムという国で、私は新聞記者として3年半の歳月を過ごした。日本人のベトナム特派員では最長の滞在だった。

 この間に戦火が燃え、和平協定が成立し、アメリカ軍が去った。そして平和とも戦争ともつかない安穏がしばらく続いた後、北ベトナム軍の大攻勢が突如、始まって、ベトナム共和国(南ベトナム)はまたたく間に崩れ去った。永年の戦争がそれで完全に終わり、こんどは旧社会を根本から変えてしまう大手術のような革命が始まった。この本は私自身が報道という仕事を通じて見たその3年半の南ベトナム興亡の記録である。

 

 ベトナムで私がとくに強い関心をもっていつも見つめていたのは人間の生き方だった。戦争とか革命の中で人間は一体どのように生きるのか、どんな言動をとるのかを、至近距離から魅せられたように熟視していた。そして生と死の極限下で人間がみせる醜悪と崇高、脆弱と強靱の底深さを、したたかに思い知らされた。

 ベトナムから東京の空港に帰り着いた時の自分が急に年老いてしまったような、あの虚脱感を私はいまも忘れることができない。平穏で取り澄ました社会でなら一生かかっても経験できるかどうかわからない、人間のむき出しの争いをわずか数年の内に圧縮して見せられてしまったような実感だった。私自身が時にはそうした葛藤の当事者でもあった。

 ベトナムで何を学んだかと問われれば、ためらいなく「人間について」と答える。人間が持つもろくてたくましい、醜くて美しい無限の万華鏡を目前に突きつけられて、「人生」とか「社会」に対する私のそれまでの思考や観念が少しずつ昇華していった。 

 しかしベトナムの人を知れば知るほど痛切に感じたのは彼等も基本的には我々と同じ感性を持つ、同種の人間であるという、ごく平凡な認識だった。我々とあきれるほど似かよった喜怒哀楽を示し、同じような幸福を求めるアジアの人間なのである。だからベトナム人を自分たちとまったくの異次元において眺め、あれこれ論評する二重基準の適用は私にはできない。たとえば西洋の事物に顔を向けたり、辺地よりも都市に住みたいと願うことは日本人にとっては当然であっても、ベトナム人にとっては堕落とみなす。体制を批判する自由を主張するのも日本人なら自明でも、ベトナム人がそうすれば反動だと断ずる。こういう基準や論理の使い分けはベトナム社会で暮らすうちに私はいつしかできなくなっていた。

 

 いわゆるベトナム問題は、日本ではファンファーレとともにすでに完結してしまった物語のようである。永く険しい民族解放闘争が幸せな大団円で幕を閉じたという解釈だからだろう。

 ベトナムに平和がやっと訪れてよかった、と私も心から思っている。そもそもフランスの植民地支配が悪だった。アメリカの介入ももちろん誤りであり、悲劇だった。永年の殺し合いに終止符を打つには、革命勢力がああいう形で完全勝利する以外に方途はなかったであろう。

 しかしその一方、南ベトナムの多くの人たちが戦争のそういう形での終結をめでたしめでたしの「解放」としては決して受けとめていない、という事実に私は目をつぶってしまうこともできない。戦争終結からすでに2年半以上もたったいまなお、毎月1000人もの人たちが祖国を捨て、命を賭して逃げ出してくる「ベトナム難民」の現状が、その一つの例証である。

 日本でのベトナム問題の認識は永い間、白か黒かの二元論だった。一方に民族解放をめざす正義の闘士たちがいて、他方にアメリカに従属する腐敗集団が存在する。一般民衆もみなこの正義の闘士たちの側だ、という色分けである。ところが現実には、この白と黒の間に広大な灰色の領域があった。アメリカの介入にも腐敗集団による政権にも反対だが、かといって革命の闘士たちにも決して同調できないという人たちが存在したのである。実際には南ベトナム国民の大多数がこの灰色の世界に属していた。私自身が接触したのもほとんどがこの範疇に生きる人たちだった。だからこの人たちのたどった運命は自然と、とくに注目して跡を追った。

 

 ベトナム戦争は民族独立の闘争であると同時に、壮大なイデオロギー革命でもあった。革命というのはいわば削ぎ落としの作業である。削ぎ落とす側と削ぎ落とされる側と、そのどちらに光を当てるか、視点をどこに据えるか、によって革命のドラマは希望と歓喜の物語にも、絶望と悲嘆の物語にもなりうる。

 私の滞在のうち3年間は革命をされた側の旧政権下だった。残りの半年間は革命をする側の新政権下で過ごした。この年月の長さの単純比からみても、私の視点が主として削ぎ落とされた側におかれていたのは明らかである。だからこの本に書いたのは敗者の側の記録だともいえよう。この点、「客観性」とか「中立」とかいうスローガンを掲げる気は最初からない。

                (中略)

 最後に、人間のすべてについてを私に教えてくれた南ベトナムの人たちに心からの感謝を述べ、その多幸を祈りたい。実際、ベトナムの友人や知人に対する私の感慨は万言を費やしても尽きない。親交のあった人たちの多くはいまなお不遇な境遇にある。そういう薄幸な友人、知人の身の上に思いをはせる時、いま自分だけがこの何の不自由もない環境にいることが後めたくさえ感じられる。胸の奥にトゲが刺さったような痛みをずっと意識しながら私はこの本を書き終えた。

                 1977年12月 ワシントンで

                           古森義久






ワシントンを4月23日から訪問している拉致問題の「家族会・救う会」代表の増元照明氏、斎藤文代氏、島田洋一氏、3人の活動はちょうど26日からの安倍首相の来訪と重なったため、日本のマスコミではあまり報道されていません。
しかし大きな成果があったといえそうです。
それはアメリカ政府から「日本人の拉致問題の解決なしには北朝鮮をテロ支援国家指定リストから外さない」という言質をとったことです。

周知のようにアメリカ政府の国務省は毎年、世界各国のうち国家としてテロを支援している国を「テロ支援国家」として指定しています。この指定があると、アメリカが最大の出資国である世界銀行や国際通貨基金など国際経済援助機関
からの金融支援を受けられません。このため北朝鮮側はその指定の解除を必死で求めています。

ブッシュ政権は北朝鮮の指定を解除する条件に「日本人拉致問題の解決」をも含むと言明してきたのですが、ここにきて2月の六カ国協議での合意のあと、どうもその条件を棚上げしたまま、北朝鮮の求めに応じて、解除をしてしまいそうな気配が漂い始めました。

増元氏らはこの点をもっとも懸念して、ブッシュ政権の国防総省、国家安全保障会議(NSC),国務省などの担当官との会談で、そうした解除はしなよう強く申しいれてきました。その結果、NSCのデニス・ワイルダー・アジア担当上級部長から「日本人拉致の解決なしに北朝鮮をテロ支援国家指定のリストから外すことはない」という旨の言明を取り付けました。
ブッシュ大統領もその後の27日の安倍首相との共同記者会見で、北朝鮮をリストから解除することはないという趣旨を語りました。しかしその方針の確認を得たのは「家族会・救う会」代表団の方が先だったわけです。

この一点だけでも、代表団のワシントン訪問の意義は大きかったといえそうです。

「家族会・救う会」代表としてワシントンを訪れた増元照明氏、斎藤文代氏、島田洋一氏の3人はアメリカ政府の国防総省の日本部、国家安全保障会議のアジア部などの代表と会談したり、議会の朝鮮問題関係者と意見交換をしたり、
活発な活動を続けています。

4月25日には3人はアメリカ議会下院の人権議員連盟が主催した北朝鮮の人権弾圧に関する報告会に出席しました。ここで3人は北朝鮮から脱出してきた人たちの体験談に耳を傾けました。いわゆる脱北者とその支援者の計4人が証言しましたが、聞いていて、最も迫力があったのは現在、日本在住の千葉優美子さんの報告でした。

黒いスーツを着て、きりりとした千葉さんは朝鮮語で証言しました。内容はすぐ英語に訳されました。証言は要点をうまくまとめ、秩序立てて述べられましたが、その内容は自分自身の辛酸をきわめた体験を語り、聞く人の胸をうちました。
千葉さんは在日の北朝鮮系の家族に生まれ、幼児に両親に連れられ、北朝鮮に渡り、そのままエリートに近い家庭環境でピョンヤンで育てられたとのことです。朝鮮名は高政美さん、で、国籍はいまは韓国となったそうです。

千葉さんは北朝鮮の体育大学の学生から教員となり、北朝鮮の規準では恵まれた生活を送っていたそうですが、1995年に北朝鮮北部から中部にきて死んだ餓死者多数の死体を埋葬する仕事に動員されてから、北朝鮮の独裁体制への疑問を感じるようになったそうです。
千葉さんの証言の要旨を以下に書きます。

▽95年には政府から動員され、35日間にわたり餓死者数百人の死体の処理をさせられた。この期間に北朝鮮の体制への疑問を感じるようになるとともに、死体処理の重労働が原因で体をこわし、入院した。
▽96年、北朝鮮の経済はさらに悪化し、多くの人が日本へ出稼ぎに行こうとした。そういう一人の知人の出国をひそかに助けていたら、当局にみつかり、懲罰として地方の農場に送られ、強制労働を課せられた。
▽北朝鮮の体制に怒りを感じ、日本に戻ろうと決意し、2000年12月には小さな舟で国外に脱出した。だが中国の山東省に漂着して、乗っていた100人ほどはみな中国当局に捕まり、北朝鮮へ強制送還された。
▽北朝鮮では中国から強制送還された他の100人ほどとともに刑務所に入れられ、連日、虐待され、拷問を受けた。足は殴打されたところが化膿し、ウミが垂れ流しとなり、顔面への拷問で舌が飛び出したまま、口内にもどらなくなった。肛門を大きく開いたままとなった。
▽同房の老女は韓国にいる自分の娘に会いたいと、一日百回以上も絶叫するようになった。するとまもなく房から連れ去られ、帰ってこなかった。同房の100人ほどのうち40人近くが数ヶ月で死ぬか、連行され、消えてしまった。
▽9歳の少年が房内で高熱を出し、その母親が看守たちに治療を請い願ったが、聞き入れられず、連れ去られた。少年も別個に連行されて、消えた。
▽その後、一年半ほどで解放されたが、北朝鮮で生きることには希望を失い、再度の出国を図って、成功した。韓国経由で日本にもどり、いまは大阪に住んでいる。
▽北朝鮮などにくらべれば、日本はすばらしい聖地だ。このすばらしい日本国内にいて北朝鮮の金正日への忠誠やその体制への支援を表明するグループがいることは許しがたい。北朝鮮政府を支持するなら、北朝鮮に行って、その支援活動を続けるべきだ。
▽私はこれから日本国内にいるそうした北朝鮮支援勢力を糾弾し、戦うことを自分の使命としていきたい。

こうした証言をする間、千葉さんは後半で涙を流し、その涙を静かにぬぐいながら、証言を続けました。

証言後に私が近づいて、日本語で話しかけると、千葉さんは丁重に応じてくれました。

この千葉さんらの証言がなされた議会の報告会について産経新聞の記事があるので、それを以下に紹介します。


日本の親北団体“告発” 大阪の脱北者、米下院で証言



4月25日16時1分配信 産経新聞

                                        
            
            
 【ワシントン=有元隆志】北朝鮮を脱出した脱北者で、大阪在住の千葉優美子さん(46)=韓国名・高政美=が24日、米下院人権議員連盟で証言し、餓死した人々を埋める作業を強制されたことなど、北朝鮮での悲惨な生活を涙ながらに訴えた。そのうえで、「日本で活動する親北朝鮮の団体を告発したい。彼らは北朝鮮の独裁体制を支援すべきではない」と強調した。
                        
                         千葉さんは3歳のときに両親とともに日本から北朝鮮に渡り、大学の教員をしていた。1995年に北朝鮮を襲った飢饉(ききん)の際、餓死者を人々に見つからないよう埋める作業を強制的にさせられた。千葉さんは「胸が張り裂ける思いがした」と話した。
                        
                         千葉さんは2000年に中国に逃れたものの、数年して再び北朝鮮に送還された。北朝鮮では収容所で拷問を受け続けたという。
                        
                         まわりには、同じように中国から北朝鮮に送り返されてきた人たちが収容されていた。「ある老婦人は、韓国にいる娘に会いたいと訴え続けていた。あるとき彼女は看守から番号で呼ばれて監房を出たまま、戻ってこなかった」と千葉さんは時折、言葉に詰まりながら、収容所の悲惨な状況を語った。
                        
                         収容所を出た後、再び中国に渡り、05年7月に日本に戻り、大阪で暮らしている。このほど韓国籍を取得したという。 
                        


「家族会・救う会」代表として、「家族会」の増元照明事務局長、拉致被害者の松木薫さんの姉の斎藤文代さん、「救う会」の副会長の島田洋一氏の計3人が4月23日、ワシントン入りしました。30日まで滞在して、広範な活動を繰り広げる予定となっています。
その活動については産経新聞はじめ日本の一般マスコミで報じられるでしょうが、ここでもその一端を伝えていきたいと思います。
訪問の目的の一つはアメリカ政府が北朝鮮を「テロ支援国家指定」から解除しない旨、要請することです。アメリカ議会でもその趣旨に賛成して、行政府に要望する動きがあります。日本にとっては頼りになる動きです。その点についての「救う会」からの発表を以下に背景説明として、転載します。
なお元大本営参謀の証言は別個に継続します。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆ (2007.04.18)米国議会議員20人が署名し
た北朝鮮のテロ支援国指定解除に反対する書簡


■米国議会議員20人が署名した北朝鮮のテロ支援国指定解除に反対する書簡

 米国政府は6者協議の2月13日合意で「北朝鮮のテロ支援国指定を解除する
作業を開始する」と約束した。テロ支援国家指定は米国が北朝鮮に対して実施し
ている経済制裁の根拠となっている。指定が解けない限り、人道支援以外の経済
支援はできないし、世界銀行やアジア開発銀行など米国が出資している国際金融
機関が北朝鮮に支援しようとしても米国政府が反対するので事実上不可能になっ
ている。だから北朝鮮は執拗に解除を迫ってきた。

 家族会・救う会はブッシュ政権に「拉致はテロであり、北朝鮮がめぐみさんた
ちを帰還させない以上、テロは現在進行形でいまも続いている、北朝鮮はテロ支
援国家どころか、テロ国家だ」と訴え続けた。その訴えを受け2003年2月、
当時のアーミテージ国務副長官が下院公聴会で「拉致は憎むべきテロ」と断定し
同年3月訪米した家族会・救う会代表にその認識を再確認し、2004年4月以
降、国務省が毎年出している「国際テロリズム年次報告書2003年版」の北朝
鮮に関する記述に日本人拉致がはっきりと書き込まれつづけている。

 救う会は拉致問題が解決するまでテロ国家指定を解除すべきでないとする米国
議会議員20人連名の書簡を入手しているので、それをここに示しておく。外務
省はこの書簡も活用し、指定解除作業が進むことなく、むしろ4月末に発表され
る米国国務省の「世界テロリズム年次報告書」の北朝鮮に対する記述がより厳し
くなるように努めていただきたい。

 イリノイ州選出の超党派連邦議員団二〇人が連名で、北朝鮮の朴吉淵国連大使
宛に出した二〇〇五年一月二八日付書簡である。

 共和党のデニス・ハスタート下院議長、ヘンリー・ハイド下院国際関係委員長
(肩書はいずれも当時。ハイド議員はその後引退)、民主党 のリチャード・ダー
ビン現・上院院内幹事(院内総務に次ぐナンバー2)、ラーム・エマニュエル下
院議員(現・民主党 選挙対策委員長)、二〇〇八年大統領選出馬で注目を浴び
る黒人のバラク・オバマ上院議員などベテラン、若手の有力者が含まれている。
以下、書簡の内容を紹介しておく。

朴大使殿
 この書簡は、イリノイ州議員団のメンバーたる下記署名者らが覚えているある
心痛について、あなたおよびあなたの政府に伝えようとするものです。その心痛
とは、韓国国民でかつ米国の永住権保持者であるキム・ドンシク師が、二〇〇年
一月、中国 東北部において、あなたの政府の工作員によって拉致され、北朝鮮 
に強制連行されたという事実認定を、二〇〇四年一二月一四日に、ソウル地検か
ら、通知を受けたことに起因します。あなたの政府は、遺憾なことに、自ら認め
たとおり、多くの日本人の拉致、またそれ以上に多くの韓国人の拉致に関わって
きました。

 御承知と思いますが、キム・ドンシク師は、イリノイ州シカゴの住民たるキム
・ヨンファ夫人の夫であり、アメリカ  国民である子どもたち(うち一人は、イ
リノイ州スコーキーに現住)の父に当たります。(中略)

 地下ネットワークを通じて第三国に逃れる難民を助けようとした無私の努力に
おいて、キム師はわれわれに、アメリカで高い尊敬を集める二人の偉大な英雄を
思い出させます。

 一人は、ハリエット・タブマン夫人です。彼女は、リンカーン大統領が奴隷解
放宣言を出す以前、拘束されていた人々を奴隷状態から解放するための「地下鉄
道」を作り上げました。二人目は、スウェーデンの外交官ラウル・ウォレンバー
グです。彼は、第二次大戦中、ファシズムに対する世界的闘争の暗い日々におい
て、ハンガリーで動きが取れなくなったユダヤ人難民たちを救出しました。われ
われは、キム・ドンシク師もまた、力のない忘れられた人々の脱出を助けた英雄
であると見ています。

 われわれはそれゆえ、朝鮮民主主義人民共和国の政府に以下のことを伝えたい
と思います。われわれは、とりわけ、五年前北朝鮮に拉致されて以降のキム・ド
ンシク師の運命に関し、完全な説明がキム一家になされない限り、あなたの政府
が国務省のテロ支援国リストからはずされることを支持することはありません
(原文では傍点でなく大文字で強調)。敬具。


 英語原文
January 28, 2005

His Excellency Pak Gil Yon
Ambassador
Permanent Representative of the Democratic People’s Republic of Korea
to the
United Nations
515 East 72nd Street, 38-F
New York, NY 10021
Dear Ambassador Pak:

This letter is to inform you and your government of the distress with
which the undersigned Members of the Illinois Congressional Delegation
received the finding from the Seoul Central District Prosecutor’s
Office on December 14, 2004 that South Korean citizen and U.S. permanent
resident Reverend Kim Dong-Shik had been abducted by agents of your
government in northeast China in January 2000 and taken forcibly into
North Korea.  Your government, regrettably, has, by its own admission,
been involved in the abductions of a number of Japanese citizens, as
well as an even greater number of South Korean citizens.

Reverend Kim Dong-Shik, as you may be aware, is the spouse of Mrs. Young
Hwa Kim of Chicago, Illinois, and is the parent of U.S. citizens, one of
whom is currently residing in Skokie, Illinois.  Citizens from a
Korean-American church in the Chicago area have also raised this matter
as an issue of grave concern and have requested Congressional assistance
in ascertaining the facts behind the disappearance and current
whereabouts of Reverend Kim.  In pursuit of these issues, Mrs. Kim and a
delegation from Illinois will be visiting Capitol Hill in the near
future.

The successful resolution of this case, therefore, is of critical
importance to us, both because of the constituent interests involved as
well as because it is a case involving the most fundamental of human
rights.  Reverend Kim, in his selfless efforts to assist refugees
escaping in an underground network to third countries, brings to mind
two great heroes held in high esteem in the United States.  The first is
Ms. Harriet Tubman, who established an underground railroad allowing for
the escape from slavery of those held in bondage before President
Lincoln issued the Emancipation Proclamation; the second is the Swedish
diplomat Raoul Wallenberg who, during the dark days of the world
conflict against fascism in the Second World War, rescued Jewish
refugees trapped in Hungary.  We view Reverend Kim Dong-Shik as also
being a hero who assisted with the escape of the powerless and forgotten.

We, therefore, wish to inform the Government of the Democratic People’s
Republic of Korea (DPRK) that we will NOT support the removal of your government
from the State Department list of State Sponsors of Terrorism until such
time, among other reasons, as a full accounting is provided to the Kim
family regarding the fate of the Reverend Kim Dong-Shik following his
abduction into North Korea five years ago.
Sincerely,
J. DENNIS HASTERT
HENRY J. HYDE
RICHARD J. DURBIN
BARACK OBAMA 
LANE EVANS
JERRY F. COSTELLO
LUIS V. GUTIERREZ
DONALD A. MANZULLO
BOBBY L. RUSH
JESSE L. JACKSON
RAY LAHOOD
JERRY WELLER
DANNY DAVIS
JOHN SHIMKUS
JUDY BIGGERT
JAN D. SCHAKOWSKY
TIMOTHY JOHNSON 
RAHM EMANUEL
MELISSA L. BEAN
DANIEL LIPINSKI



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●安倍首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
下記をクリックして、ご意見を送ってください。
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安倍晋三殿

●救う会全国協議会ニュース

発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784  http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp) 
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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元大本営参謀で戦後は明治薬科大学の理事長などを務めた高橋正二氏の報告を続けます。高橋氏は終戦直後に米軍と直接、接触する「有末機関」の一員だった貴重な体験を経ています。
その有末機関時代に米軍は日本側に売春宿の開設や日本女性の売春婦としての徴用を命じた経緯が証言されています。
軍隊とセックスというのは、なにも日本軍だけが例外だったわけではないことの証明といえましょう。

以下は高橋氏の報告からの引用です

「米軍も女性の強制徴用を求めていた」

「日本が降伏して間もなく、マニラにいた連合軍最高司令官らから命令があった。『進駐軍の着陸を神奈川県厚木飛行場と定め、その進駐受け入れのため、政府、陸・海軍部を代表する将官を差し出すべし』という命令でした。大本営はこの将官に有末精三中将を指名した。私(高橋正二)もこの有末中将を首班とするいわゆる有末機関の一員として厚木に行くことになったわけです。

ちなみに最初から有末機関員として行動した大本営参謀は現在(平成8年9月)、浦茂氏(陸士40期元航空幕僚長)と私、高橋正二(陸士48期)の二人のみとなり、生き証人として寂しい限りです。

昭和20年8月24日、厚木飛行場に参りましたが、それはひどい有様でした。

先遣隊(隊長テンチ大佐)約150名は28日、マッカーサー司令官は30日、到着し、ただちに横浜へ、私どもは神奈川県庁の一部に陣取り、9月20日、ミズーリ艦上降伏文書調印式における代表団一行の出迎えなどに忙殺されていました。

これら期間を通じて、頭を悩まし続けたのが、進駐軍兵士により暴行、強姦などが毎日毎日、被害の訴えがあることでした。

『進駐軍兵士により治安騒乱のうち、最もてこずったのは日本婦人に対する暴行、強姦などの風紀上の問題であった。最初の訴えに対し、第八軍司令官アイケルバーガー中将は「若い学生がジャングルから飛び出して、広々として校庭に出たようなもの、しばらく我慢してくれ、我々の方でも十分、気をつけるから」との話であったが、来る日も、来る日も、この種の訴えは一向に減る様子もなく、そのたびごとに報告者の悲憤慷慨は想像に絶する激越なものであった』(有末精三著『有末機関長の手記』)

当時、進駐軍軍人、ことに黒人の児を宿して生まれた混血児は3000人ともいわれ、澤田廉三元大使、および美喜夫人の経営するエリザベスサンダーホーム(大磯における孤児院)をはじめ、各種の施設や社会事業などのこれら悲劇の対策は講ぜられたものの、わが国、社会に残した傷跡はまことに残念なことでありました」

  

  進駐軍の初仕事とはなんであったのか

 「一、厚木飛行場に先遣隊が進駐してきた日の翌日の8月29日、米軍連絡将校が東京の警視庁に現れ、『娼家の施設をみせろ』と言ってきた(売春施設問題が初仕事ではないか)

  二、同年9月28日、東京都衛生局が初めて受けた命令は『女』の問題。都衛生課員の与謝野光博士がGHQ(連合軍総司令部)公衆衛生局長サムス大佐のもとで交渉を開始、都内に残っていた花柳街五箇所および特飲街十七箇所(うち一箇所『千住』のみ日本人用)を接取された。

  三、売春施設だけでは満足しない米兵は街の一般婦女子にも手を出し、パンパンガールとして自ら乗り出した日本婦人も現れた。

  四、昭和28年2月27日、第十五回国会参議院本会議で、社会党の藤原道子議員の質問演説にも左のとおり触れている(当時の女性議員協議の結果)。

  『アメリカ当局には軍紀の励行を望みたい。どうしてもそれができないならば、日本の女性をこれ以上、蹂躙することなく、この際、本国から対象となるべき必要数の女性を呼び寄せて、自国の女性によって性の解決をされるように要望したいのであります。(拍手)』

 

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