2007年05月

アメリカではこのところダルフール虐殺で中国政府を非難する声が高くなりました。連邦議会の共和、民主両党の議員たちがいっせいに、ダルフール虐殺を事実上、あおるスーダン政府と、そのスーダン政府に軍事、経済、政治の各面で強力な支援を与える中国政府を糾弾し始めたのです。

民間でも有名な映画女優のミア・ファローさんらが声を大にして中国を非難しています。

これら中国を非難する人権派陣営は2008年の北京オリンピクのボイコットまでを提唱しています。「中国政府がこのままダルフールの虐殺を止める措置をとらないならば、世界各国は北京オリンピックをもボイコットすべきだ!」というのです。

ブッシュ大統領もこうした声に押された形で5月29日、スーダンに対する一連の禁輸措置を抗議の意味をこめて、発表しました。

さて次は中国にどう対応するか。

関連の記事を以下に載せます。


「中国はダルフール虐殺を支援」 米下院108人、五輪ボイコット警告

.

米ホワイトハウスの前で先月29日、ダルフール虐殺に抗議し演説する女優のミア・ファローさん(AP)

米ホワイトハウスの前で先月29日、ダルフール虐殺に抗議し演説する女優のミア・ファローさん(AP)

 【ワシントン=古森義久】米国議会下院の議員108人が9日、中国の胡錦濤主席あてに書簡を送り、スーダンのダルフールでの虐殺を続ける勢力への支援の停止を求め、中国側が十分な対応をしない場合には2008年の北京五輪のボイコットにもつながると警告した。同下院では有力議員が8日にも本会議で同じ理由により北京五輪ボイコットに同調する演説をしており、米議会での対中非難が高まってきた。

 胡主席あての書簡は下院外交委員長のトム・ラントス議員らによって署名され、「ダルフールではスーダン政府と同政府に支援された民兵組織により民間人数十万が虐殺されているが、中国はスーダン政府に巨額の援助を与え、武器を売却し、虐殺を阻止するための措置をとっていない」と述べ、中国政府が事態を放置する場合は北京五輪に重大な支障が起きて、その催しが「ジェノサイド(大量虐殺)五輪」になってしまうとして、北京五輪のボイコット呼びかけの可能性をも示唆した。

 ダルフール虐殺に関しては下院の8日の本会議でも共和党の有力議員アラン・ウルフ氏が中国政府の「共犯」を非難して、北京五輪ボイコット運動への同調を表明する演説をした。ウルフ議員は有名女優のミア・ファローさんの北京五輪阻止論を紹介し、「中国は『一つの世界、一つの夢』というスローガンの下に北京五輪開催の準備を進めているが、ダルフール大量虐殺という『一つの悪夢』が存在するのだ」と述べた。

 同議員が紹介したのはファローさんが現地の視察を下に3月28日付ウォールストリート・ジャーナルに「ジェノサイド五輪」と題して発表した論文。同論文は「ダルフールではすでに40万人が殺され、250万が居住区から駆逐されたが、中国政府はその実行者であるスーダン政府を全面支持してきた」と中国を非難し、その詳細として(1)中国政府は国有の中国石油を通じてスーダンの石油の大部分を買い、スーダンの石油生産企業集団2つの最大株主となっている(2)スーダン政府は中国との石油取引からの収入の80%以上を虐殺を実行するアラブ人の民兵組織「ジャンジャウィード」用の兵器購入にあてている(3)同民兵組織やスーダン政府軍が使う爆撃機、攻撃用ヘリ、装甲車、小火器などの兵器はほとんどが中国製(4)中国は米英両国が推進する国連平和維持軍のダルフール派遣に一貫して反対してきた-と報告した。

 ファローさんは同論文の中でとくに「中国政府は人権弾圧で国際的非難を浴びることには平然としているかもしれないが、北京五輪の開催だけは最重視するので、そのボイコットの動きには最も敏感となるだろう」と論じた。ウルフ議員もこうした趣旨を紹介し、自分自身の北京五輪開催への反対論を明確に打ち出した。

(2007/05/11 07:18)

米大統領、スーダンへの制裁強化 .

 【ワシントン=有元隆志】ブッシュ米大統領は29日、スーダン西部ダルフール地方の紛争について、「大虐殺」と非難し、スーダンへの新たな制裁措置を発表した。ダルフール地方でのスーダン政府の軍事活動を阻止するため、同政府への武器禁輸やスーダン国営企業など31社に対する金融制裁、暴力行為に責任があるスーダン政府高官らへの制裁、国連での新制裁決議案提起を盛り込んだ。

 大統領はホワイトハウスでの声明発表のなかで、「ダルフールの人々はスーダン政府が加担した爆撃、殺人などのせいで、あまりに長い期間苦しめられている」と指摘。「国際社会はこれを終わらせる責務がある」と強調した。

 米政府はこれまでもスーダンの企業に制裁を加えてきたが、スーダン経済を支える石油関連の投資などを行っている企業の多くを制裁対象に含めることでスーダン側に打撃を与える狙いがある。

 国連安全保障理事会での新決議案では、英国など同盟国と協力し、スーダン政府への武器禁輸の強化などを求めていく。

 中国はスーダンの石油輸出の約4分の3を輸入するなど最大の貿易相手国。米下院外交委員会は中国政府に影響力を行使するよう求める決議を採択。ラントス下院外交委員長らは中国の胡錦濤国家主席に書簡を送り、中国が十分な対応をしない場合、2008年の北京五輪のボイコットにもつながると警告している。

(2007/05/29 21:34)

 

 

 

日本国憲法の起草者チャールズ・ケイディス氏のインタビュー記録の紹介を続けます。

今回の部分ではケイディス氏は憲法第1条にある「天皇は日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」という重要部分も、「実はその起草の段階でふっと考えついて、つくり出したものなのです」などと、あっさり語っています。

日本の憲法は占領軍により、こんなふうに書かれたということなのです。



元GHQ民政局次長チャールズ・ケイディス大佐の会見記録の(3)です。


古森 では最終的に、民政局が(憲法起草を)やるという決定は、どのように下されたのですか。

ケイディス マッカーサー元帥が決めたのです。

古森 もとの質問にまたもどりますが、憲法の起草を実際に始めるに際して、米軍統合参謀本部の指令書などのほかに、その憲法づくりのガイドラインというか、基礎というか土台となるものはなにかあったのですか。ほかに一体なにを参考にしたのですか。

ケイディス 当時、私たちのところで働いていた二十一、二歳の若い女性で、ベアテ・シロタという人がいました。その後、彼女は民政局にいたゴードン中尉と結婚して、ゴードンという姓になりましたが、当時、日本に十五年ほど住んでいました。彼女はオーストリア系で、父親がピアニストだったのです。そのシロタという女性が日本語を熟知していて、なおかつ東京の地理に詳しかったので、東京都内の各大学の図書館に出かけて行って、各国の憲法の内容を集めたのです

古森 ほかの外国の憲法の条文ですか。

ケイディス そうです。諸外国の憲法を集めて民政局に持ってきてもらいました。起草にとりかかる各委員会はそれぞれそうした諸外国の憲法内容を読んで、自分たちの担当領域に役立つ部分があるかどうかを調べたのです。

古森 あなた自身はどうしたのですか。

ケイディス 私自身はそういう種類の参考資料はなにも持っていませんでした。外国の憲法集の書類も、私は実際には読みませんでした。シロタという女性がそれを集めて、持ってきていたことは、よく覚えているのです。

古森 憲法草案を実際に書き始めるという作業は、あなたがやったのですか。

ケイディス いいえ。憲法草案の各章ごとに委員会をひとつずつ任命して、その委員会がその章を受け持ったのです。たとえば、「国民の権利および義務」、これはたしか第三章だったと思いますが、それを担当する委員会があって、その委員会が国民の各種自由の権利や義務について、憲法の草案を書いたのです。

古森 いくつそういう委員会があったわけですか。

ケイディス 憲法にある章の数(十一章)と同じです。ただし、「戦争の放棄」に関する第二章は例外でした。

古森 憲法第九条、これがつまり第二章に相当するわけですね。

ケイディス そうです。原則として一章につき一委員会ということです。各章が最終的にどういう順番で並べられるのか、当時、私たちはまだわかりませんでした。

 私とラウエルとハッシーの三人が憲法前文をつくりました。それから戦争放棄についての章、これは後に第二章となるわけですが、これは「私がやる」ということを自分から宣言しました。それから財政についての章は、当時われわれの間では財政問題について最もくわしかったフランク・リゾーにまかせました

古森 実際の憲法起草が始まってからのプロセスでは、アメリカ本国の政府からどんな指示がありましたか。ワシントンはその過程でなにか命令をあたえたのでしょうか。

ケイディス いいえ、全然ありませんでした。

古森 まったくなんの指示もなかったのですか。

ケイディス そのとおりです。草案書きが進行している間、なんの指示もなかったのです。起草が終ってからも統合参謀本部からは新しい指令、訓令はなにもありませんでした。しかし極東委員会からは指令というか、提案というか、申し入れがありました。ただし憲法案が衆議院を通過してからだいぶ後です。たとえば内閣のメンバーはすべて文民でなければならないなどというのは、極東委員会の提案でした。これはGHQの草案にも、日本側の草案にも本来なかったのです。極東委員会がこうして提案した点が三つか四つありました。私が文民についての提案を覚えている理由は、“CIVILIAN”に相当する適当な言葉が日本語にはなく、高柳氏が“文民”という語をあらたにつくり出さねばならなかったいきさつがあったことによります。

古森 ところでベアテ・シロタという女性ですが、その後どうしたのでしょうか。

ケイディス いまニューヨークにいますよ。ベアテ・ゴードンという名で、ジャパン・ソサエティで働いています。日本に頻繁に行き、舞踊グループとかオーケストラなどをこちらに招いて、日米の文化交流を活発に進めています。

古森 さてまた本題にもどりますが、当時の統合参謀本部の一連の指令の中には、天皇制廃止とか、天皇の廃位を求めるような提案、指導はまったくなかったわけですね。

ケイディス 天皇の身柄あるいは天皇の在位に関する限り、そうした提案はまったくありませんでした。ただ天皇が国家や政府の大権を行使しないようにするという点は、明白にされていたと思います。

古森 ということは天皇をどう扱うかについては、統合参謀本部の指令が初めて天皇制に言及した時から、あなた方が憲法草案を実際に書き終えるまで、アメリカ側の方針には重要な変化はなにもなかった、といえるわけですか。

ケイディス さあ、その質問にはどう答えたらよいか・・・・・・というのはSWNCC228に書かれていた天皇についての方針は、極めて一般的なものだったため、それが実際、具体的になにを意味するのかは、私たちが推測しなければならなかったからです。たとえば天皇は政治的権限を行使することができないのなら、一体どんな存在となるのか。“国の象徴”とか“国民統合の象徴”といった表現は、実は私たちがその起草の段階でふっと考えついて、つくり出したものなのです。さらに私の記憶では、天皇はほかに種々の儀礼的な機能を果たすとか、外国からの賓客に面接するということになっていますが、これらも私たちがその段階で思いついて考え出したのです。憲法づくりの土台となるべき統合参謀本部(JCS)の指令書には、天皇がなにをするべきか、どんな機能を果たすべきか、ということは、一切、なにも書かれていませんでした。それから指令書は天皇がしてはいけないこと--政治上の権限は一切持たない、などということー-だけを定めてあったのです。だから起草グループの私たちが、天皇のすることを考え出さねばならなかったのです。


(つづく)

慰安婦というのは本当に日本軍の性的奴隷だったのか。
そんな糾弾とは正反対の実態を示す貴重な目撃証言がここにあります。

東京から南に6千キロ、ニューブリテン島のラバウルは第二次大戦中、南太平洋では最大の日本陸海軍の軍事拠点でした。終戦時にも約10万の将兵が駐留していました。

さてこのラバウルにも100人ほどの慰安婦たちがいたのですが、日本軍はなんと戦闘の危険が迫ると、その全員を他の女性たちとともに、日本内地向けの輸送船に乗せて、避難させていた、というのです。
しかしこの輸送船が米軍の潜水艦に撃沈されてしまいました。そのうち慰安婦の二人だけは泳いで、ラバウル近くの海岸にたどりついたそうです。1944年(昭和19年)1月でした。

その後、ラバウルの日本軍はこの慰安婦二人と他の女性一人をいっしょにして、特別の家屋を作り、そこに入れて、一般将兵に接触させないよう、常時12人の武装哨兵をつけて保護したというのです。

これが性的奴隷に対する扱いでしょうか。
明らかに人道主義の配慮を感じさせる待遇のように思われます。

以上の事実はこれまで紹介してきた『秘録 大東亜戦史』
の「マレイ・太平洋島嶼篇」に載った「ラバウル地獄戦記」という迫真のルポルタージュに書かれています。
筆者は現地にいて、こうしたすべての出来事を体験し、目撃した陸軍報道班員の山崎英佑氏です。
山崎氏は読売新聞記者から報道班員となり、戦後はまた読売新聞にもどって、この本が出た1953年(昭和28年)には読売新聞社会部の次長という肩書きでした。

日本軍は100人もの慰安婦の生命への危険を懸念して、遠い南太平洋の島から内地へ避難させようとしていたのです。アメリカ議会に出た「慰安婦決議案」の記述とはあまりに異なる実態だといえましょう。

では以下は山崎英佑氏の「ラバウル地底戦記」の当該部分の引用です。

三人の闖入者

 

 男十万のなかに、日本人女性が三人いた。アナタハン以上である。

 一人は、徴用された船長の女房、船に一家族ごと乗り込み、開戦初期に沿岸輸送の任に当っているうち船が撃沈され、夫は行方不明という存在。夫帰る日を待っているうち内地との連絡もと絶えて、そのまま居残ったという。

 他の二人は、いわゆる慰安婦と呼ばれる存在である。

 十九年の一月、ラバウルにいた全女性は最後の内地行輸送船で送り帰されたが不幸、ラバウル湾を出て間もなく敵潜水艦のために撃沈されてしまった

 百人ばかりの慰安婦はもちろん、船員も、便乗の、内地連絡の兵隊も、みんな溺れ死んでしまった。

 だが、この二女性だけは、泳いでラバウル近くの海岸にたどり着いたのである。

 「屈強の男でさえ溺れているのに、沖合い数浬をよくも泳いできたね」

 最初に救助した部隊の者が、不思議そうにきいたとき、二人の女は言った「死ねませんわ、こんな遠い名も知らぬ海では・・・・・・和歌山まで泳いで帰るつもりだったの」

 一人の女の出身地は、和歌山県で、漁師の娘であった。小学校の頃から、紀伊半島の浜辺で泳ぎまくっていたという猛者である。

「歩くよりも泳ぐ方が楽なんだもんね」

 救われて、気付け薬のブドウ酒を飲みながらこう言った彼女S子だった。

 S子の年は二十三才、下ぶくれの丸顔で、海女によく見かける均整美の女であった。

 いま一人M子は、沖繩の生れで、長くパラオ島で慰安婦をしていたという三十二歳の女であった。

「死にたくないわ、逢いたい人がいるのよ」

 浅黒い細おもての顔をふせて、M子はこう言った。

 さて、女という女をぜんぶ帰して、玉砕態勢をとったラバウルに、こうして闖入して来た三人の女性のために陸海軍とも頭を悩ました。

 背水の陣を布くには、これほど邪魔な、そして足手まといの存在はない。

 たった三人とはいえ、その顔や姿を見かける兵隊が、ふッと故郷を思い出したり、人間の性本能を抱いたりしたら、それは全部隊のマイナスとなる。

 三人の女のために、十二人の護衛がついた。

 田ノ浦と呼ばれる海岸にほど近い海軍司政官宿舎のそばに、三人の女のための壕が掘られニッパ椰子の家が作られた。

「絶対に、壕ならびに家屋以外には外出せざること」

 これが、三人の女に通達された命令である。

 着剣し、装弾した哨兵が、その宿舎の入り口に立った。

 だが、性に飢える兵隊の嗅覚は、猟犬よりも敏感であった。

 噂は噂を呼んで、深夜にひそかに訪れる兵隊は数限りなく、終戦までに、二名もの犠牲者を出していた。

 別に、女性をどうこうして、おのれが本能をみたそうというのではなかった。

 ただ、なんとなく来たものらしく、「女房を思い出そうとしたんです」

 と、歩哨に射たれて息を引きとった中年の兵隊はいったという。

 

日本国憲法を書いたアメリカの占領軍司令部GHQの民政局次長チャールズ・ケイディス大佐のインタビュー記録の紹介を続けます。

日本の降伏から半年後の1946年2月、GHQによる憲法起草が始まるに際して、マッカーサー元帥は日本側にまず書かせるべきだと考えていた、というのです。しかしその他の方面から異なる意見がいろいろ表明されてきた、とケイディス氏は語るのでした。

なおアメリカがその後、日本の憲法をどうみてきたのか、現在はどうみているのか、は別のコラムで報告をしているので、関連記事として紹介しておきます。以下のサイトです。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/i/49/


さて以下は日本憲法を起草したケイディス氏の発言です。

1981年4月9日、ニューヨークでの古森義久によるケイディス氏のインタビューでした。その記録の第二です。

 

古森 ケイディスさん、あなたが日本憲法の起草作業斑の実際上の長だった、と考えてよいわけですね。

ケイディス 厳密に言えばホイットニー将軍です。私はホイットニー将軍に次ぐ次席だったのです。彼が民政局長で、私がその次長というわけです。

古森 しかし現実にはホイットニー将軍自身は、憲法の草案づくりそのものにはたずさわらなかったわけでしょう。

ケイディス それはそのとおりです。彼は私にその仕事をゆだねました。私たちは憲法草案のうち、天皇に関する部分についてひとつの委員会、国会についての一委員会、司法について一委員会というふうに各テーマごとに委員会をつくりました。そしてそれらをまとめる調整組織としての「運営委員会」を設けました。この「運営委員会」を構成するメンバーが、マイロ・E・ラウエル陸軍中佐、アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐、それに私だったのです。陸軍大佐の私が最上位の階級だったので、運営委員会の委員長となりました。

古森 この運営委員会にはルース・エラマンという女性も、秘書とか補佐官という形で加わっていたわけですね。彼女がなにか重要な役割をはたしたというようなことがあるのですか。

ケイディス 彼女はGHQの民間従業員でした。そう、もともとはハッシー中佐のアシスタントだったのです。運営委員会では彼女は秘書、書記官として働きました。

古森 憲法の草案づくりそのものに話をもどしますが、アメリカ政府として日本の憲法改正についてはじめて公式に述べた文書が、一九四五年十月十六日付の、バーンズ国務長官から、日本の米占領軍最高司令部のジョージ・アチソン政治顧問にあてに送られた書簡なわけですね。そしてその書簡にもとづいて、例の「SWNCC228号指令」というのが出てくるわけですね。

ケイディス バーンズ国務長官からのその書簡については私は知りません。私はそれを見たことがありません。しかしSWNCC228については、確かに知っています。国務省、陸軍省、海軍省の調整委員会であるSWNCCは、当時、“スウィンク”とか“スワンク”とわれわれは呼んだものです。私自身はスワンクと呼んでいましたが。

古森 私がSWNCC228の文書の翻訳をざっと読んだところでは、「天皇制は廃止されるよう奨励されるか、あるいは民主的なラインに変革されるべきだか・・・・・・」という趣旨が記述されています。この点は、後に実際に制定された憲法とは全然、違うわけですが、この辺の事情をよく記憶していますか。

ケイディス よくは覚えていませんが、SWNCCで「天皇制の廃止」と言っているのはあくまで天皇制のシステムであり、天皇という地位、存在をなくしてしまおうということでは決してなかった、と思います。当時、統合参謀本部(JCS)はマッカーサー元帥に対し、ワシントンからのあらたな命令が行くまでは、天皇に関して一切なにもしないように、という指令をすでに出していたのです。

古森 当時のアメリカの方針は天皇制をあくまで存続させる、保持する、ということだったわけですか。

ケイディス 天皇制の政治システムは保持しないが、天皇そのものは保持する、ということでした。しかし古森さん、いまあなたが読んだSWNCC文書の部分、私はその記述について記憶がないのですが、そこでいわれている“天皇制の廃止”の“天皇制”というのは、われわれが当時、“帝国主義的な制度”と呼んでいたものをさすのではないでしょうか。“民主主義的な制度”に対しての“帝国主義的な制度”という意味で、それは廃止されねばならない。しかし天皇そのものをどうこうするということではなかったのです。とくに天皇自身の身柄についてどうこうするという考えは、まったくなかった。天皇の地位でさえ、それが政府の権限を含まない限り、アメリカ側としては、廃止などということは現実には考えていなかったと思います。

古森 あなた自身に関する限り、憲法起草はゼロの状態から始めたといえるわけですね。憲法起草のグループ全体も、ほとんど無からスタートしたと考えてよいようですが、実際の草案づくりを進めるプロセスで、あなた方が参考とした主要指針、基盤はなんだったのでしょうか。

ケイディス その前にちょっと聞きたいのですが、あなたはSWNCC228の公式な日付けを知っていますか。

古森 はい。

ケイディス それはわれわれが憲法起草を始める前ですか、後ですか。

古森 前です。

ケイディス それなら私の記憶どおりで話が合う。というのは憲法草案を書いている最中に、私はSWNCCの骨子をたびたびチェックして私たちの草案がそれに合致しているかどうかを確かめた、と記憶しているのです。ところが日本の占領について本を書いたウィリアムス博士から、私がその時点でSWNCC228指令を入手していたはずはない、と言われたことがあるのです。ジャスティン・ウィリアムス博士です。同博士によれば私が参照していたのは同228そのものではなく、なにかほかの文書だろうというのです。そういわれれば確かにSWNCC228の最終公式文書ではなかったかも知れない。最終文書は当時、論議のマトとなり、もめていたから、まだできていなかったかも知れない。どうもこの点、さだかではありません。私がチェックしていたものがもし228の最終文書でなかったならば、それはきっと228の土台となった統合参謀本部の文書か、あるいは228の草案だったのでしょう。私自身、228の最終文書そのものの実物を見たことはないのです。最終文書だったら白い紙だったはずですが、私が憲法起草の過程でチェックしていた文書は緑色の紙だったのです。だから228文書の原案だったのでしょう。

古森 SWNCC228文書が四六年一月十一日ごろすでに、極東委員会の一部のメンバー国に配布されていた、という情報があります。さらにあなた自身が、そのころに幣原内閣の楢橋渡書記官長に“極東委員会のソ連その他、数カ国のメンバーが日本に共和制憲法を制定させることをマッカーサーあてに勧告する計画がある”とひそかに伝えた、とも一部で伝えられていますが、いかがでしょう。

ケイディス 私が楢橋氏にそんなことを言ったとつたえられているのですか。

古森 はい。そういう情報を楢橋氏に流したというのです。確認されているような話ではありませんが。

ケイディス そんなこと言った記憶はありません。しかしはっきり覚えているのは、四六年一月、極東委員会から憲法についてなにをやっているのか、あるいはやっていないのか、-と質問されて、私が答えたことです。私は憲法に関する作業はまだかなり先の目標であると解している、と答えたのです。私は極東委員会の細かな数多くの質問に対し、「われわれはまだ占領の初期にあり、ほかにやるべきことがたくさんある」と証言したのですが、とくに「憲法づくりはもしかするとあなた方、極東委員会のやるべき仕事であり、われわれGHQの任務ではない、と思う」とまで述べたのを、はっきりと記憶しています。

 私がこの極東委員会の聴聞会でこういう証言をした後、ホイットニー将軍から私が同委員会でどんな質問を受け、どのように答えたかと尋ねられました。私は質問と答えをすべて文書にして、同将軍に渡し、同将軍はそれをマッカーサー元帥に提出しました。元帥はそれに対し、われわれ占領軍司令部が日本の憲法の草案をつくる権限があるのかどうかを尋ねてきました。極東委員会がわれわれに対し、やるべき仕事をやっていないと批判していたからです。私は極東委員会に対し、いまは日本の選挙など緊急にやらねばならないことがたくさんあるから、憲法についてはもう少し待てないか、と言ったわけです。マッカーサー元帥がわれわれに憲法づくりの権限があるかどうかを質したのに対して、私はラウエルとハッシーの応援を得て、メモランダム(覚書)を作りました。

 覚書の草案を私が書いて、ホイットニー将軍の了承とサインを得て、マッカーサー元帥に提出したわけですが、その覚書の中で、私たちは日本の憲法づくりをわれわれがもしやろうと欲すれば、その権限はあるのだ、という結論を出したのです。

 しかしまだその時点までは、日本側が憲法起草をすべきだというのが、マッカーサー元帥の考えでした。それに対しわれわれGHQがやるべきだ、というのが明らかに極東委員会の考えだったのです。私はさらに、極東委員会こそそれをやるべきだ、と議論していたわけです。ところがそこで毎日新聞の例の記事が出た。その結果、松本氏がA案とB案をGHQに示したが、それにより日本側からは満足できるような憲法改正草案は得られないことを、われわれは思い知らされたのです。極東委員会か、GHQのいずれかがやらねばならないことを認識させられたのです。

 だが私はその時、GHQが憲法起草をやるにしても、それが民政局の仕事となるのか、それともジョージ・アチソンを長とする外交局がやることになるのか、あるいは特別の組織をつくってやるのか、わかりませんでした。   (つづく)

                         

中国が近年、軍事力の大幅増強を続けていることは、すでに周知の事実です。なかでも核兵器を量、質ともに強化していることは、非核を標榜する日本にとって、とくに気がかりな動きです。

アメリカも中国の軍拡に懸念を表明しています。
このところ米中関係でもこの中国の軍事力増強が影を広げ、アメリカ側は抗議を強めるようになりました。
そのへんの実態は私も改めて、日経BPのインターネットコラムなどで報告しています。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/i/45/

アメリカの国防総省は毎年、「中国の軍事力」という報告書を議会に送り、そのなかで中国の陸、海、空の三軍から戦略核戦力、さらには宇宙兵器まで、広範かつ詳細にその軍拡の実態を報告しています。今年はこの5月25日に発表されました。そのなかでは核兵器や弾道ミサイルの増強、潜水艦や宇宙兵器の開発などがとくに顕著な動きだとされています。

私はたまたま同じ日に、中国の核戦力の大増強を伝えるアメリカ陸軍大学の戦略研究所の報告書について、産経新聞で報道しました。

中国の核兵器の増強について、私はいつもふしぎに思うことがあります。それは日本の反核運動活動家たちがなぜこの隣国の危険な核兵器増強に反対を表明しないのか、という点です。

日本の反核運動家のみなさん、どうか中国の核兵器増強に反対してください。
広島市の秋葉忠利市長も毎年の広島での原爆投下記念日の厳粛な挨拶で、中国の核の危険にもぜひとも抗議してください。

というお願いをこめながら、以下に中国の核戦力増強についての記事を紹介します。産経新聞5月26日付掲載です。


[
ワシントン=古森義久]

米国陸軍大学の戦略研究所は24日までに「中国の核戦力」と題する研究報告を公表した。同報告は中国軍が最近、核兵器に関する戦略を大幅に変え、①日本を射程内にとらえる弾道ミサイルに核と通常の両方の弾頭を混在させるようになった ②米海軍の機動部隊に核と通常両方の弾頭装備の弾道ミサイルを使う新作戦を立て始めた ③年来の「核先制不使用」の方針を変える兆しをみせてきたーことなどを指摘し、米軍側への新たな対応を提案した。

   

 同報告は同戦略研究所の元所長で現在は米国議会の超党派政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」の委員を務める中国軍研究の権威ラリー・ウォーツェル氏により作成された。同研究所の支援で書かれた同報告は42ページから成り、「中国の核戦力=行動・訓練・ドクトリン・指揮・管制・作戦計画」と題されている。

 同報告は中国人民解放軍国防大学の最新の戦略教典「戦役理論学習指南」など一連の文書に米国当局の情報などを加えた資料を基礎としている。


 同報告はまず中国が米国の軍事能力とアジアでの安保政策のために米国を最大の潜在脅威とみなし、戦略ミサイル部隊の「第2砲兵」を中心に米軍との核戦争をも想定し、ことに最近、核と通常の戦力の相互関係を主に弾道ミサイルの機能にしぼって再考し始めたーと分析している。

 同報告は中国が最近、年来の「核先制不使用」(軍事衝突でも核兵器は先には使わないという言明)の方針を変え始めたと述べ、その理由として米軍が通常兵器の性能を高め、非核の第一撃で中国側の核戦力を破壊し尽くす能力を高めたため、中国側では自国の核が報復力を失い、抑止効果を発揮できないという見方を強めてきた、ことをあげた。

 
 同報告はさらに中国軍が米海軍の空母を中心とする機動部隊に対し核、非核両方の弾頭を装備した弾道ミサイルで攻撃をかけるという新戦術を実行する能力をほぼ保持するにいたった、と伝えている。

中国軍は弾道ミサイルによる米機動部隊の制圧、あるいは撃滅の能力開発を長年の目標とし、そのためには弾道ミサイル用の個別誘導複数目標弾頭(МIRV)技術をも開発中だという。

 
 同報告はまた中国の核戦略の危険な側面として「核弾頭と非核の通常弾頭とを同じクラスの弾道ミサイルに装備し、たがいに近くに配備して混在させる傾向がさらに強くなった」点を指摘した。

その危険性とは米側が中国側から発射されたミサイルが核か非核か判定できない確率が高まり、事故のような核戦争を起す可能性が強まることだという。

米軍の場合、核弾頭装備のミサイルと非核弾頭装備のミサイルとはクラスをあえて別個にしている。

 
 同報告は中国軍が核と非核の弾頭を混在させている比率が最も高いのは中距離ミサイルのDF(東風)21=別称CSS5=だと述べ、射程1800キロの同ミサイルはとくに日本の要衝や沖縄の米軍基地に照準を合わせて配備されているとしている。

中国軍の保有するDF21は合計50基以上だとされるが、同報告は「中国軍はこの機動性のある中距離ミサイルを日本や沖縄の米軍基地への脅威として現在よりも多く必要としており、日米側はその増強に注意し、対応策を考えねばならない」という警告を発した。

  

 

 

↑このページのトップヘ