2007年06月

日本憲法は1946年2月に当時、日本を占領していた米軍総司令部の幕僚たちにより起草されたことは周知のとおりです。その起草の責任者となったチャールズ・ケイディス大佐とのインタビュー詳報の紹介を続けます。

今回の分は、ケイディス氏が受け取っていた上部からの簡単な指令では、戦後の日本は自国の安全保障、つまり自国の防衛のためにも、「戦争を放棄」することをうたっていたのを、同氏の一存で、その部分を削除した、というのです。

戦後史ではすでに知られた事実ではありますが、当事者の口から語られるとその経緯はへんになまなましく響いてきます。要するに、日本の憲法はこんなふうに大ざっぱに作られたということなのです。              

 

 

古森 そういう事情だったのですか。さてここでまた話をひとつ新しい領域、「戦争の放棄」というテーマへと進めます。あなた方の憲法起草のガイドラインとなったSWNCC228には「戦争の放棄」に関する言及はなにもなかったわけですね。一連のJCS関係の指令書にも同様に戦争の放棄についての記述はまったくなかったのですね。

 

ケイディス そのとおりです。

 

古森 ではあなたは「戦争の放棄」という考えをどこから得たのですか。

 

ケイディス ホイットニー准将からです。ホイットニー将軍はそれをマッカーサー元帥から得た、と私に告げました。この点はあなたも多分、知っているように、そもそも戦争の放棄のアイディアがどこから、だれから考え出されてきたのかをめぐっては、いろいろ異論があるわけです。マッカーサー元帥は回顧録のなかで、それは幣原男爵(首相)が発案した、と述べている。幣原氏自身の回想録のようなものが、その点どう述べているか、私は定かではないが、学者など他の多くの人たちが、戦争放棄は幣原氏の思いつきではなかった、と私に告げました。私自身にはたしかなことはわからないのです。ただし私には自分自身のひとつの推測があります。もっともその推測にはほかのだれも同意してくれませんが。(笑い)

 

古森 そのあなたの推測とはどんなものですか。

 

ケイディス 私はそれ(戦争放棄のアイディア)が、幣原男爵と天皇との間の会話から出てきたのではないか、と思うのです。なぜなら天皇はすぐ直前に、みずからの神格を放棄し、そんな神格というのは伝説にすぎないと述べました。さらに天皇は日本が、こんご“完全な平和主義に徹する”ことによって、復興し、最繁栄するのだと述べています。天皇はこの“完全な平和主義”という表現で、一体、なにを意味しようとしたのでしょう。私が察するに、それは戦争とか軍国主義のタネとなりうるものをすべて取り除く、という意味だったと思うのです。もっともこれは私の完全な推測です。(笑い)

 

古森 幣原首相と憲法第九条については、ごく最近、幣原氏の子息(幣原道太郎元独協大学教授)が、日本の雑誌に寄稿して、憲法第九条を発案したのは父ではない、マッカーサー元帥こそがその発案者であり、幣原首相に発案者たることを強要した。当時の政治的理由により幣原首相はそれに調子を合わせてそういうふりをせざるえなかった――と激情あふれる筆致で書いています。これに対しあなたはどう答えますか。

 

ケイディス 私がただいえるのは、そういうこと(幣原道太郎氏が書いていること)も、十分ありえた、ということだけです。戦争放棄の考えの起源について私が確実に知っているのは、ホイットニー将軍が私に、ちょうどここにあるような一片の紙を手渡した、ということだけです。

 

古森 リーガル・サイズのペーパーですね。

 

ケイディス そうです。ちょうどここにあるのと同じようなものでした。ホイットニー将軍はそこに三つか四つのことを書いてよこしました。そのひとつが戦争の放棄に関するものでした。もうひとつは華族に対して、もうあらたに称号は与えないということ、他のひとつは日本の予算をイギリス・システムと同じパターンにする、ということでした。私はこのイギリス・システムの予算というのがどんなものか知らなかったので、財政にくわしいフランク・リゾーにその予算に関する仕事を頼みました。ホイットニー将軍は、“マッカーサー司令官は日本の憲法がこれらのことを含むよう望んでいるが、それ以外の部分については君たち(ケイディス氏ら)自身の判断でやるようにと言っている”と私に告げました。ホイットニー将軍から渡されたこの一片のノートが、一体どのような経緯でうまれたか、私は全然知らなかった。尋ねてみようともしなかった。その後、憲法起草が終わってからもずっと保管しておけばよかったが、それもしなかった。そもそもホイットニー将軍が私にくれたのだから、私がその後もとっておけばよかったのです。しかし私は日本を去る時に、その紙を歴史的文書だと考えたため、ホイットニー将軍にとっておきたいかどうか尋ねたのです。彼は「イエス」と言ったので、私はそれを同将軍に渡しました。そのままそのノートの行方がわからなくなってしまったんです。一体どうなったのか私はわかりません。いずれにせよ、その紙に書かれてあったのが、ホイットニー将軍の手書きか、それともマッカーサー元帥自身が書いたものか、私にはいまもって確実にはわかりません。なぜなら二人の筆致はとても似ていたからです。

 もしその紙が発見されて、書かれているのがマッカーサー元帥の筆跡とわかれば、戦争放棄その他の考えはマッカーサー元帥からでてきたと私は考えるでしょう・・・・・・しかしもしホイットニー将軍の筆跡であれば、マッカーサー元帥が憲法の中に含むべきと考えたことをホイットニー将軍に(口述して)書かせたのであって、その場合、マッカーサー元帥はそのすぐ前に、幣原男爵と会っているので(戦争放棄の)発案者は幣原氏ということになるのかも知れない・・・・・・私にはどうもはっきり推測もつかないのです。

 

古森 俗にマッカーサー・ノートと呼ばれているのが、その黄色い紙のことなのですね。そこには戦争の放棄のほかに天皇が国家元首としての地位を保つことなどが書かれていた、と聞きますが。

 

ケイディス そうです。

 

古森 それでその内容が実際にマッカーサー元帥みずからがペンをとって書いたか、それともホイットニー将軍が書いたかどうかも、あなたにはよくわからないというわけですね。

ケイディス マッカーサー元帥のやり方をよく知っていた人たちの大部分は、彼自身がホイットニー将軍に口述筆記させたのだ、と信じていました。なぜならマッカーサー元帥はそういう口述筆記を頻繁にやっていたからです。自分自身でなにかをかくということはほとんどしませんでした。“元帥のやり方をよく知っている人たち”とは、当時、彼の部下だった将校のことです。そのころ元帥はよく、“私が思うに、日本の憲法は--”という調子で述べ始め、それを部下の将校がよく筆記したものなのです。その問題の紙も、いま考えれば、本当に私がずっととっておけばよかったと思います。額に入れて飾っておけばよかったのです。(笑い)

 

古森 そうでしょうね。額に入れて飾る価値は十分あったですね。ところでケイディスさん、そのいわゆるマッカーサー・ノートですが、本来は日本が単に紛争解決の手段としての戦争を放棄することのみならず、自国の安全保持にも戦争を放棄するというのは、固有の自衛権をも否定してしまうに等しい、と多くの人がこれを解釈していますが。

 

ケイディス そうです。それだけでなく、(マッカーサー・ノートは)さらに一歩進んで“自国の防衛のためでさえも”、戦争を放棄する、と述べていたのではないですか。

 

古森 そうですか。私の持っている資料では、“自国の安全を維持するためにも”となっているのですが。もしそうなら、これは固有の自衛権の否定に近いのではないでしょうか。

 

ケイディス はい、もしそう書かれているならそのおとりですね。ただ私は原文は少し違ったふうに記憶しています。私の記憶では、“自国の防衛のためでさえも”戦争を放棄する、といった趣旨の記述があったようです。この点について私は、道理に合わないと思いました。すべての国は自己保存のための固有の自衛の権利を持っているからです。

 だから私が憲法の第九条の草案を書く時、その部分をあえて削除しました。だからあなたの持っている資料は、完全な原文ではないと思います。私自身がその自衛のための戦争をも否定、という部分をあえて落としたのを、はっきり覚えているからです。そのことについてホイットニー将軍から“君はその部分(自衛のための戦争をも放棄)を憲法原案に含めなかったじゃないか”と問いつめられました。私はそれに対し、“それが現実的ではなかったから削除したのです”と答え、“一国が外国から侵略を受けてもなお自国を防衛することができない、などといかにして主張することができるでしょうか”と説いたのです。ホイットニー将軍は私の言い分にさらに反論しました。しかし結局は憲法は(私の主張どおり)マッカーサー元帥によって承認されたのです。そして幣原首相らに送られたのです。あなたは(マッカーサー・ノートの)完全な本来の原案を持っていないのでしょう。

 

古森 そうですか。

 

ケイディス 問題の部分は、“自国の防衛のためでさえも”、あるいは“自国の保存のためでさえも”となっていたはずです。いや、“自国の安全保障のためにも”だったかも知れない。そうです。思い出しました。“自国の安全保障のためにも”です。この字句こそがまさに難点だったのですが、故意に削除されたわけです。

 

古森 で、その字句を故意に削除するということは、あなたがやったわけですね。

 

ケイディス そうです。私が削除しました。

 

古森 間違いなくあなたがやったのですね。あなた自身の考えにもとづいてやったのですか。

 

ケイディス はい。しかし削除した後、私はホイットニー将軍にその旨を説明しました。“この字句は削除しました。なぜなら自分自身を守らない、一国が自国自身を防衛しようとしないと考えるのは、現実的ではないからです”。と、私はこういう言葉を使ってホイットニー将軍に説明したのです。

 

古森 もし、あなたがそれを削除していなかったら、日本はいま安全保障や憲法の問題をめぐって、きっともっと多くの困難に直面していたかも知れませんね。

 

ケイディス 憲法起草後、もちろん芦田均氏(当時、衆議院憲法改正特別委員会委員長)が“芦田修正条項”を持ち出してくるわけです。もっとも芦田修正については、このインタビューの後の方できっとふれるのでしょうね。

(つづく)

李登輝氏が夫人の曾文恵さんとともに6月2日、念願の「奥の細道」行脚を始めました。ちなみに李氏は夫人を日本語の会話でよく「フミさん」と呼びます。

この日、夫妻に同行した人たちからお知らせを受けたので、
李登輝夫妻の仙台や松島での動向をここで報告します。

まず松島では李登輝夫妻は次のような俳句を詠んだそうです。

松島や 光と影の 眩しかり  (李登輝)

松島や ロマンささやく 夏の海  (曾文恵)

この日、まず新幹線で仙台駅に着いた李登輝夫妻は仙台市長の梅原克彦氏の出迎えを受けました。
仙台地域では多賀城址と塩竃神社を訪れたそうです。
塩竃神社では李登輝氏はクリスチャンであるせいか、お払いは受けず、頭を下げるだけのお参りでした。神社の急な石段もゆっくりではあったけれども、着実に登りました。

松島では李登輝夫妻は芭蕉の足跡に従い、端巌寺を訪れ、本堂にも入って、内部を丁寧に見学しました。住職に芭蕉がくぐったとされる玄関脇の小さな入り口を示され、李登輝さんは長身をかがめて、楽しそうに入っていったそうです。曾文恵夫人は明治天皇にかかわる史跡をとくに興味深げにみていたとのことでした。

この日、李登輝夫妻は各所で地元の人たちや全国から集まった「李登輝友の会」の人たちの熱烈な歓迎を受けました。仙台、松島の地域は晴天に恵まれ、青い空に暖かな陽光、そして微風はまさに「李登輝晴れ」だとの声も地元であったそうです。

さらにおもしろいのはマスコミの大々的な歓迎調の報道でした。仙台周辺の地元マスコミは従来、中国傾斜の左カーブもみうけられ、その中国が敵視する李登輝訪問にはネガティブな姿勢もあるかと予測されたのですが、当日は新聞もテレビも真正面から李登輝夫妻来訪をスピンなしで大々的に報じたとのことでした。

やはり李登輝さんの魅力のせいでしょうか。

しかし中国大使館からの脅しもありました。

李登輝夫妻来訪の前日の6月1日、東京の中国大使館の
「姉妹都市提携担当」だという孫美嬌参事官から仙台市役所の国際交流担当部門に電話があり、「梅原克彦仙台市長が李登輝と会うことはやめてほしい」と要求してきました。
「台湾独立を求める李登輝と日本の地方自治体の長が会うことは日中平和条約に違反する。その結果、仙台と中国の長春との姉妹都市関係を崩しかねない」という脅しでした。
しかし梅原市長は翌日、李登輝氏と会ったわけです。

なお梅原市長の尚子夫人は地元の歴史や文化に専門的な知識があるということもあってのせいか、6月2日は李登輝夫妻の全行程に同伴したそうです。

李登輝氏の「奥の細道」行脚は6月3日も続きます。

台湾の前総統の李登輝氏が日本にやってきました。
いつもながら中国政府に妨害されながらも、民主主義の価値を説く李氏は日本ではリラックスした表情をみせ、「奥の細道」の行脚を楽しみたい、などと語っています。
日本側でも中国におもねって李登輝氏訪日に反対する勢力もすっかり勢いを失い、歓迎の空気が濃いようです。

なお李登輝氏のアメリカでの活動については、以下のメディアで詳細に報じました。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/i/09/


李登輝氏「奥の細道」第一歩 心境を俳句に託す 

李登輝氏は私にとって、日本をみる目、世界をみる目を同時に大きく広げてくれた恩師のような存在です。
ちょうど10年前の1997年12月、現職の台湾総統だった李氏を記者としてインタビューしたのが、初めての顔合わせでした。
その年の6月から7月にかけて、私は産経新聞の報道陣の一員として香港返還を報道するため、1カ月以上を香港で過ごしました。この体験が報道対象としての中華圏への初めての接触でした。
香港では実に多数の人と会い、話を聞きました。その結果はもちろん日々、産経に報道したわけですが、全体を総括して「『日中友好』という幻想」という長い論文を総合雑誌の『VOICE』に書きました。
するとしばらくして、「台湾の李登輝総統があなたの論文を読んで、おもしろいと言っており、筆者と話をしてみたいともらしている」というメッセージが第三者を介して届きました。
台湾の総統との単独での会見とは願ってもないと、すぐにワシントンから台北に飛んで、産経新聞に報道するために、李総統にインタビューした、というわけです。

私がそれまで中華圏や台湾の実態に無知だったせいでしょう。李登輝氏との会見は魂が揺さぶられるような衝撃でした。

外国の事実上の国家元首である人物が自分よりも練達の日本語を話す。というよりも日本語を自分自身の言葉として使っている。しかも日本の精神や伝統や価値観をポジティブに語る。日本の台湾統治はよかったと明言する。

これまで想像もしなかったことばかりだったのです。
以後、「李登輝さんに一度、会ったら、もうダメだ」と私は友人らに反語の意味をこめて、話すようになりました。
自分が日本人である(地球人である前に)という意識を持ち、日本という国や社会について自己の帰属を前提としてまじめに考え、しかも民主主義という普遍的な価値観にも思いをはせる現代の日本人(平均的な日本人といえましょう)にとっては、李登輝氏という人物に一度でも会って、話をしたら、もうそのものすごい魅力の虜になってしまう。そして日本人であることを前向きに、誇りさえ含めて、感じさせられるようになる。忘れていた日本への意識が復活してくる。
そんな意味なのです。そんな効果をショッキングな形で感じさせられた、ということなのです。

彼の日本への意識は「私は22歳まで日本人でした」という言葉に集約されているように思えました。

とにかくこうして私は4時間も李登輝総統と話をしたのです。
これもシニカルに考えれば、政治家としての李登輝氏の日本の世論やマスコミへの対策という意味あいもあったことでしょう。
しかし個人としての私は久々に感動という思いを味わいました。

このときの一問一答の一部を以下に紹介します。

古森 総統は日本の教育を受け、京都大学農学部に学んで、学徒出陣までしたことは広く知られていますが、日本の教育のご自分への影響をどうみますか。

李総統 植民地支配そのものの悪は別としても、私は多くを学びました。日本人の生活の規律や礼儀から受けた影響は大きかった。日本の統治時代の台湾には汚職がなかった。法律があり、行政があり、秩序があった。この事実は否定できません。この点では尊敬しました。
       
        (中略)

古森 台湾にはまだまだ総統をはじめ日本語を話す世代、日本の文化や伝統を形こそ変えても捨てていない人たちが確実に存在する一方、その世代が少なくなっていくのをみると、現代の日本人としてはうれしいような、悲しいような、なんとも複雑な思いに襲われます。

李総統 台湾で日本精神といえば、いまでも約束を守り、礼節を重んじる、というような前向きの意味にとられることが多いですからね。日本のよいところが台湾に残っているのです。在米台湾人の呉念真という監督が作った『父さん』という映画は国際的な賞をとりましたが、この作品は台湾の中の日本の遺産をも描いており、ぜひ日本の方たちに伝えたい内容です。
          (以下、略)

李登輝氏が戦争中は日本軍の将校として高射砲部隊に配属され、来襲する米軍機を撃っていたことも、すでに知られている話でしょう。李氏の兄は日本海軍の将校としてマニラで戦死しています。李氏が靖国神社参拝を望む最大の理由は実兄の霊に弔意を表したいことだといいます。

もう一つ、李登輝氏と台湾、そして日本について私が書いた記事を以下に載せます。

こうした李登輝氏の日本来訪を改めて歓迎し、その滞在をゆっくりと楽しんでいただきたいと思います。


【緯度経度】台湾から 古森義久 日本への心情の答えは?
2004年03月28日 産経新聞 東京朝刊 国際面

 台湾にきていつも考えさせられることの一つは日本である。日米両国のアジア政策にとって重大な意味を持つ台湾の総統選挙の報道のためにワシントンから台北に着いての初日、地元の関係者ほんの数人と話しただけでも、この地が日本にとって全世界でも類例のない特別な意義を有することを改めて痛感する。

 台湾を知る人には何をいまさらと思われるだろうが、陳水扁政権の中枢につながる当事者たちであっても連絡を取れば、歯切れの良い日本語で答えが返ってくる。世界の他のどの国、どの地域でこんな現象があるだろうか。

 台湾には周知のように李登輝前総統に代表される日本語世代がなお健在である。かつて日本国民として日本の教育を受けた世代が高齢になったとはいえ、各界でまだ影響力を保っている。その人たちの日本への深く熱い思いは日本人としてうれしくも、ついとまどうほどである。

 総統選挙後の混乱が続くなかで昼食に招いてくれた台湾総合研究院の羅吉●理事長は政治情勢を説明しながらも、旧制山口高校(現山口大学)に学んだ自分の日本とのきずなにさりげなく触れた。日本の教育で自分の学識や精神の基礎が形成されたという趣旨を当然のように語りながら、台湾にとっては今後も日本との連帯が非常に重要だと強調するのだ。

 羅氏が山口高校の一年先輩だと紹介した蔡東華氏は台湾の映画製作の発展に大きく寄与した人物だという。「京都大学を出て勤めた日本の映画会社での経験が台湾で十二分に活用できました」と語る蔡氏は自分の人生が日本との関与なしには考えられなかったと述べる一方、「でも日本びいき過ぎると思われないように自分は親日ではなく知日なのだと自称しています」と笑う。

 しかし、いまや少なくなるこうした日本語世代だけと話して台湾社会の日本観を総括はできない。そう感じて民進党の国際部長の蕭美琴氏に会見したときも、日本について聞いてみた。蕭氏は三十二歳の女性立法委員(国会議員)で米国で高等教育を受けた国際派である。

 「私の父も祖父母もみな日本には特別の親近感を持っています。私も日本語をいま習っており、日本を訪れるのは大好きです。そういう個人レベルでの思いとは別に、台湾にとっては日本は安全保障の利害や民主主義の政治の価値観の共有という観点からもきわめて重要です。わが民進党のウェブサイトはおそらく世界中の政党でも唯一、日本語サイトを設けていますが、これも日本重視の表れです」

 蕭氏のこうした言葉は台湾の若い世代にも古い日本語世代とはまた異なる日本への温かい思いがあることを物語るといえよう。と同時に安全保障や外交の面でも、少なくとも与党の民進党には日本の支援や協力を重視する政策が顕著であることが明示される。陳水扁政権の総統府国策顧問として日本在住の長い黄昭堂氏や金美齢氏が登用されているのもそのへんの事情の反映だろう。

 今度の選挙では台湾の住民が自分たちを中国人ではなく台湾人とみなす「台湾意識」の高まりが印象づけられたが、その台湾意識は日本への親近感と多分に重なりあっている。日本の統治を経験した台湾本来の住民の間に日本への親しみが伝統的に強いからだろう。この種の親しみは政策面では「日本との安保上の協力」への期待となり、個人の次元では李登輝氏がよく説く「日本精神」への敬意となって、訪れる日本人に告げられる。

 だがそこでこちらが面はゆいようなうれしさを覚えながらもつい当惑してしまうのは、日本側がその期待に応えられるのかといぶかるからだ。

 安保面では日本本土の自衛以外には一切、実効ある防衛の措置には手をつけてはならないとする一国平和主義のタガが台湾との安保上の連携はもちろん協議さえも禁じてしまう。日本外務省のチャイナスクール主導の“媚中外交”が実際の政策をとにかく台湾を軽視し、無視する方向へと動かそうとする。

 そして、何よりも李登輝氏らが人間としての清く正しい言動の規範とする「日本精神」なるものが、いまの日本とどう重なるのか。そうした精神がいまの日本にそもそもあるのか。こういう形での台湾側の日本への心情はもはや切ない片思いではないのか。いやいや、そうであってはならない。

 台湾にくるといつも日本についてのこんな思いに激しく襲われるのである。



●=火へんに宣

朝日新聞はよく私に知的刺激を与えてくれます。
なにしろなにか出来事が起きて、自分がそれをこう考える、というときに、朝日新聞をみると、だいたいは正反対の考えが書いてあるので、反面教師のピリリとした刺激を味わえます。
しかしそれもたび重なると、こんどは食後のお茶のような効用になります。自分がこう考え、朝日はああ考え、やっぱり180度、異なる、ああ、よかった、という一種の安堵です。
たとえば卑近な例では防衛「庁」を「省」にすると、私は日本の防衛の機能がより正常かつ円滑になるだろうと考えますが、朝日はシベリア出兵を繰り返すような危険な事態が起きるだろう、と考えるようです。
私は自分の考えの正しさは朝日の考えとまったく異なるという一事をもってしても、証明されてしまうような気さえするのです。傲慢なことを書くと思われるでしょう。
しかし日本にとっての講和条約、日米安保条約に始まり、
ベトナム戦争の構図の認識、中国の文化大革命の位置づけ、ソ連の軍事体質の認識など、私は自分の認識が朝日新聞の認識よりもずっと正しかったと自負しています。このことは過去の報道や論評の記録を点検すれば、かなりの程度、立証できます。

さて前置きが長くなりました。

朝日新聞は松岡利勝氏が自殺し、たまたま安倍政権への世論の支持が落ちたという調査結果が出て、うれしくてしかたない、という感じです。
この感じが紙面の記事の文章にあらわに出ています。とにかく感情的、情緒的なのです。
実例をあげます。

松岡氏の死から二日後の5月30日朝刊一面のトップ記事のリードです。見出しは「動転国会」となっていました。

「国会の風景が一変した。与党、そして安倍首相が年金記録問題でつまずき、松岡利勝・前農林水産相の自殺で窮地に追い込まれた。あわてて救済策を「年金時効特例法案」と名付けて国会に出し、「政治とカネ」では民主党の小沢代表の不動産取得を狙い撃ちにするなど、29日になってなりふり構わぬダメージ回復に乗り出した」

さあ、以上の文章のなかに、明らかに情緒的、主観的にすぎると思われる言葉がいくつあるでしょう。
私があげれば、「つまずき」「窮地に追い込まれ」「あわてて」「狙い撃ち」「なりふり構わぬ」ーーなどでしょうね。
安倍首相が本当に、つまずき、窮地に追い込まれ、あわてて、狙い撃ちし、なりふり構わぬ、言動をとっているのでしょうか。

検証のために、あえて安倍政権側の立場に少し身を傾かせて、再考してみましょう。

年金記録問題は安倍政権だけのミスではないことは明白です。だから安倍首相の「つまずき」なのか。
松岡氏の死で安倍首相が「窮地に追い込まれ」たのか、もし自殺がなく、捜査が前進したほうがもっと窮地に追い込まれた、かもしれません。
年金法案のネーミングは「あわてて」だったのか。事前になにも準備はなかったのか。人間の言動を「あわてて」か、「あわてて」ではないか、決める基準とはなんでしょうか。
安倍首相は小沢氏の不動産取得を本当に「狙い撃ち」しているのか。少なくとも、その日の国会での党首討論ではそのテーマはまったく「狙い撃ち」されませんでした。

そして真打ちの「なりふり構わぬ」という表現です。
「なりふり」とは、服装と態度のことです。安倍首相は本当に自分の服装も態度も気にしないつもりで一連の言動をとっているのしょうか。そもそも「なりふり」を構っているか、いないか、を区分する客観的な基準はあるのでしょうか。

ことほど、一方的、断定的、感情的、主観的、情緒的な言葉の羅列なのです。「客観報道」とか「公正」「中立」というようなジャーナリズムの標語からは、およそかけ離れた表現
のようです。

つい「なりふりを構わない」のは朝日新聞の安倍叩きキャンペーンではないか、ともいぶかってしまいます。

朝日新聞のこの同じ5月30日朝刊の第30面に次のような記事が小さく小さく載っていました。

「8億3300万円 本社申告漏れ」「追徴3億5000万円」
「朝日新聞社は29日、東京国税局から05年度までの3
年間で、法人所得に約8億3300万円の申告漏れを指摘され、約3億5600万円の追徴課税(更正決定)の通知を受けた。(残り略)」

この記事はその後に朝日新聞側の言い分の説明や広報部の話などを載せています。

この朝日新聞の税金問題での対応を万が一にも、朝日に悪意を抱く側が「つまずき」「窮地に追い込まれ」「あわてて」「なりふり構わぬ」などという表現で描写したとしたら、それはあまりに下賤ということになるでしょうね。

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