同時にその際に開かれた国際柔道連盟の総会で山下泰裕氏が教育・コーチング担当の理事の座から引きずり下ろされました。これまで同理事だったのを再選を求めたのですが、投票でアルジェリアの候補に大敗したのです。世界に知られた不敗のチャンピオンの山下氏が無名に等しい人物にあっさり破れてしまったのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。
山下氏はなぜ選挙で大敗したのか。
井上選手らはなぜ試合の不可解な判定で負けたのか。
先に山下氏の書簡をこのブログで全文、紹介したので、今回はその続報のつもりで二つの記事を掲げます。
柔道にみる日本の主張ーー産経新聞9月22日 緯度経度
古森義久
リオデジャネイロでの世界柔道選手権で日本選手への判定が論議を呼んだことを知って、日本にとって柔道も外交も同じだなと感じながら、かつて自分がワシントンからリオに飛び、柔道取材をした体験をつい想起した。1978年11月、たまたま今回と同じリオでの第5回世界学生柔道選手権だった。当時、毎日新聞のワシントン特派員だった私は学生時代に自分も柔道に励んだことから、とくにこの取材を志願した。
それまで政治や事件ばかりを担当してきたので、初めての柔道試合報道だった。
この大会にのぞんだ日本代表たちはすでに全日本チャンピオンだった山下泰裕選手を軸に無敵の大学生チームにみえた。だが団体戦では初の敗北を喫してしまった。対ソ連戦の一試合での審判の奇妙な判定が全体の勝敗を分けたのだった。日本の道場選手対ソ連のカボウリアニ選手の試合だった。
カボウリアニは立ったままの姿勢から強引な腕ひしぎ十字固めで道場のヒジを攻め、場外へともつれ出て、審判が「待て」を宣しても攻撃をやめなかった。その結果、道場はヒジを負傷して、試合を続けられなくなった。審判は道場の負けと判定した。だがカボウリアニは「待て」を無視して攻撃を続けたのだ。日本側は当然、カボウリアニの反則負け、最大限、譲っても引き分けだと主張した。日本柔道はもうこのころから不可解な判定に悩まされていたのである。
このときの日本の監督がかの有名な神永昭夫氏だった。神永監督は正面からこの判定に抗議し、撤回を求めた。運営側はその抗議を英文の書面ですぐ提出することを要求した。すると、神永監督はすたすたと記者席の私のところに歩いてきて、「いまから私の抗議の口述を英訳してください」と告げた。私の大学柔道歴や米国駐在を知っていての注文だった。柔道を経験していて神永氏の要請を断れる人間はいなかった。私は報道業務を一時中止して、必死で和文英訳に取り組んだ。
文書で出された日本の抗議も結局はいれられなかった。だが抗議の事実と内容ははっきりと記録に残った。曲がりなりにも日本の対外発信はここで公式に認知されたのである。
さてそれから29年、またも奇妙な判定が日本の柔道を激しく揺さぶった。井上康生、鈴木桂治両選手がそれぞれ相手を投げたのに、倒れた相手に引きずられ、振り回されて倒れ、負けを宣せられたようにみえた試合の判定である。
まず判定の適否をそれら試合を目前にみた専門家たちに国際電話で聞いてみた。全ブラジル柔道有段者会の関根隆範副会長(六段)は「両試合とも日本選手が勝っていた」とためらいなく答えた。日本の大学柔道出身とはいえ、ブラジルで長年、柔道を指導した関根氏は国際規則にも詳しいが、「審判員の能力に問題があり、技を最初に仕かけた側が相手を投げた動きと、相手の投げられた後の動きとをきちんと識別できなかったのだと思う」と述べる。
日本からリオに出かけた全日本学生柔道連盟の植村健次郎副会長(六段)も「井上、鈴木両選手とも最初に技をかけ、相手を倒したのに、畳に最後に背をつけた側が負けという判定だから、いくら返し技重視の国際傾向といっても、審判技術の稚拙さというほかない」と語り、日本側の勝ちだとの判断を強調した。
だがそれでも日本選手の敗北という判定結果は揺らがない。試合場では審判団はビデオまでみて、選手たちの動きを確認したという結論だった。
しかし井上、鈴木両選手とも判定は絶対に間違いだとして、試合場を去らずに抗議のジェスチャーをかなりの時間、続けた。日本選手の行動としては異例だった。それほど判定は認め難かったのだろう。だが日本選手団がコーチらを通じて正式に抗議をしたという形跡はない。この点、前述の関根氏は「日本として徹底的に正式の抗議をすべきだった」と述べる。植村氏も「抗議だけでなく審判員の質や能力、そして審判規則のあり方まで日本が日ごろ発言し、主張をぶつけておく必要がある」と訴える。
要するに日本の対外発信だろう。柔道が日本から世界へと広がる過程で日本は長い期間、指導的役割を果たしてきた。というよりも自然と模範になり、柔道のあり方自体についてなにかを求めたり、訴えたりする必要は少なくてすんできた。ところが近年は柔道本来のあり方が他の諸国によって侵食され始めた。黙々と正道を歩めば、他者もわかってついてくるという態度では通用しなくなったのだ。
だから個々の具体的部分だけでなく、全体の構造的な国際ルールづくりにまで発信や関与が欠かせなくなった、ということだろう。日本の柔道が抱えるこうした対外発信の課題は、日本の外交から国際社会へのかかわり方全体にまで共通している、と感じた次第だった。
(ワシントン・古森義久)
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湯浅博 世界はニッポン柔道に憧れる
あのとき、先生が教えてくれたのは「柔道は礼に始まり礼に終わる。正々堂々と戦え」ということである。少年たちが目指すは富田常雄原作の「姿三四郎」だった。
あのころ、柔道少年の憧(あこが)れは、総本山の講道館で三四郎の必殺技「山嵐」で試合をすることだった。右手で相手の襟をつかみ、左手は袖をつかむ。そこから技を繰り出す。背負い投げ、体落とし、内またの華麗な立ち技もある。
それが、最近の世界選手権やオリンピックで見る外国人選手の柔道はどうだ。奥襟をつかみ、腰を後ろに引いて技をかけさせない。テレビに向かって「正々堂々と戦え」と叫んでいる自分に気づく。
追い打ちをかけたのは、リオデジャネイロで開かれた国際柔道連盟の総会で、再選を目指した山下泰裕さん(50)が理事選挙でアルジェリアの候補に大敗したことだ。マリアス・ビゼール新会長(48)を中心とする欧州勢が対抗馬のメリジャ氏支持に回ったためだ。
「やっぱり柔道とジュードーは違う。柔道に政治を持ち込んだビゼール会長とは何者だ」
実は彼についてルーマニアの新聞英訳を繰ってみたが、過去に捜査当局が動いているなどと芳しくない話ばかりだった。
オーストリア在住のビゼール会長は、もともとはルーマニアの貧しい家庭に育った。軍学校に進んだものの、何らかの理由で除籍されている。柔道を8年間学び、やがてコーチになる。人生の転機は、彼がカジノ・ビジネスで成功を遂げたことだ。浮かんでくるのは、国際オリンピック委員会(IOC)の会長ポストまでも視野にいれた強烈な野心だった。教育文化としての柔道の普及に努めた山下さんに対して、腹心で固める露骨な多数派工作が渦巻いていた。
心にもやもやを抱いたまま、山下さんが帰国するのを待った。そして直撃インタビューを敢行する。背筋をしゃんと伸ばした体に、いつものチャーミングな顔がほころんでいた。
彼から聞いた柔道ポリティックスは懐柔、中傷、取引など多くの欺瞞(ぎまん)に満ちていた。山下さんは「しかし」といって、「彼らは全面的に排除はできなかった」と全日本柔道連盟の上村春樹専務理事が会長による指名理事になったことの重要性を強調した。
それにしても、「外国人選手の見苦しい試合はなんですか」と批判してみた。
「いや、彼らは日本人選手と試合するときだけ腰を引く。つかまれると投げられることを知っているからです。でも、受ける我々はそれを負けた言い訳にはしたくない」
柔道を目指す世界の人々には、やはり日本への憧れと尊敬があるという。海外で山下さんがサインをすると、大半が日本語で「お願いします」「ありがとうございます」と答える。できることなら、日本人選手のように立ち技で勝ちたいとの思いがあるらしい。
山下さんは外国人選手の変則的な構えにも寛容である。グルジアには柔道とよく似たチタオバという格闘技があるように、民族的な特徴があっていいという。
たとえばフランスの柔道人口は、登録ベースで55万人といわれる。その多くが柔道の魅力について、友情をはぐくみ、勇気を培うという教育的な側面に注目している。数字はあまり当てにならないようだが、日本は登録人口がわずか20万人にとどまる。
国際柔道連盟にビゼール新体制が誕生した以上、かつての青のカラー柔道着の導入のように性急な改革が起こるかもしれない。
だが山下さんは、日本柔道が大事にしなければならない3つの原則さえ、堅持していればびくともしないと語る。(1)あくまでも一本を取りに行く(2)柔道の祖国であるとの誇り(3)教育的な価値のあるスポーツである-。
別れ際に彼が語った一言が元柔道少年をうれしがらせた。
「あの姿三四郎が海外で翻訳され、彼に憧れて柔道を目指す子供が増えているんです」
ビゼールなにするものぞ。きっと「正々堂々と戦え」が最後には勝つのだと知った。(ゆあさ ひろし)