2007年09月

福田康夫氏がいよいよ首相となります。
福田氏が日本の政府の頂点に立つことへの懸念は多々あります。
その一端は福田氏の北朝鮮や中国に対するこれまでの言動です。
この点について拉致被害者たちの心情を表明した言明が「救う会全国協議会ニュース」として私のところにも送られてきました。
2002年9月17日の小泉訪朝で金正日が過去の日本人拉致を初めて認め、多くの被害者の「死亡」を発表した直後、官房長官だった福田康夫氏がどんな言動をとったかの詳しい報告です。
以下にその抜粋を紹介します。
福田首相を判断する材料です。


★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2002.9.19)

       外務省の安否確認発表に重大な疑義
                                 救う会全国協議会事務局長 荒木和博
                                                        (平成14年9月19日)
(略)
 ご家族は17日午後、外務省のチャーターしたバスで麻布の飯倉公館に赴き、1時間程ホールのようなところで待たされた後に一家族ずつ呼び出されて別室に行き「宣告」を受けました。佐藤勝巳全国協議会会長と私は市川さんのご家族以外のすべてのご家族に同席しましたが、最初に呼ばれた横田さんのご家族(滋さん、早紀江さん、弟の拓也さんと哲也さん)には植竹副大臣が「残念ですが娘さんは亡くなっておられます」と断言しました。「信じられません」というご家族に、副大臣は「確認のためにこれまでお待たせしました」と、絶対間違いないという説明をしたのです。

 家族が集合していたホールには大きなテレビが設置され、その前に観客席のようにイスが並べられていました。私たちはてっきりそこに拉致された人が出てくるものだと思っていました。ところがスイッチを入れて出てきたのはNHKのニュースでした。

 最初に横田さんが呼ばれた時点から別室にいた私たちは分かりませんでしたが、ホールで待っていたご家族のところにはニュースを通して「何人生存、何人死亡」といったようなニュースが伝えられていました。

そして、亡くなったとされるご家族は個別に呼ばれ、生存していると言われたご家族は4家族一緒に集められて植竹副大臣ないし福田官房長官から「宣告」を受けたのです。

このときの説明は植竹副大臣は「亡くなりました」、福田官房長官は「亡くなったという情報があります」という言い方でしたが、どちらも語調は極めて断定的で「北朝鮮側がこういう情報を伝えています」といったようなものではありませんでした。

  また、生存されていたとされるご家族は4家族が一同に集められ、福田長官から「だれだれは研究所につとめており、だれだれは専業主婦で…」と伝えられました。

このとき、ご立派だと思ったのですが、皆さんはまったく喜びの表情をみせず、それどころか、他の方が亡くなったとの知らせに号泣しました。蓮池さんのお母さんが叱責すると福田官房長官は「黙りなさい」といって、両手を広げて「皆さんのお子さんは生きているんですよ」と強調しました。おそらく、自分たちの子供が生きていると知って喜んで感謝すると思ったのでしょう。そのあてが外れたので動揺したように見えました。

 (中略)

 ここからは私(荒木和博氏)の推定です。

 北朝鮮金正日政権と日本外務省の一部及び福田官房長官は何がなんでも国交正常化交渉を始めたかった。
しかし、拉致問題があるのでそれは世論が納得しない。しかし北朝鮮は国際的にも国内的にも窮地に追い込まれており、後戻りはできない。
そこで「8件11人」を出して拉致を認め、認めたということで国交正常化交渉に入る。
ご家族は共同宣言調印のときにはマスコミから遮断して反応を見せないようにし、飯倉公館でご家族に伝えるときには豪華な部屋に呼んで重々しい雰囲気であえて断定的に話してあきらめさせる。
生存しているとされたご家族は一同に集めて説明し、喜ばせて家族会を分断する。死んだと言った人は落胆して行動する気持ちをなくし、せいぜい遺骨の収集や安否確認という話になる。
安否の確認を日朝国交交渉の中でやるということになれば国交交渉を止めるものは誰もいなくなる。
(以下略)

MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM
    特定失踪者問題調査会ニュース
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アメリカでの中国系米人犯罪者ノーマン・シュー被告による巨額の不正献金事件はその後も話題の輪を急速に広げています。

ニューヨーク地検は9月20日、シュー被告をさらにあらたに詐欺罪で起訴しました。6000万ドルにものぼる詐欺商法を働いていた、というのです。シュー被告はすでにカリフォルニア州の裁判所で15年前に窃盗と詐欺とで禁固3年の刑を受け、そのまま逃亡していた事実が判明しています。

このナゾの犯罪者がここ4年ほどの間に民主党の大統領候補や議員候補に総額200万ドルもの政治献金をしていました。その対象は40人にものぼります。
一体、この献金のそもそもの出所はどこなのか。民主党の政治家に集中して不正献金をするその目的はなんなのか。

これらのナゾに迫る大報道がニュ^ヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、ワシントン・ポストなどの大手紙で連日のように展開されています。

この重大な事件を朝日新聞は、私のみる限り、報道していません。小さなベタ記事はあったかも知れませんが、大きな記事としてはまったく扱っていません。
とくに朝日新聞が完全に無視するのは、例の慰安婦決議のマイク・ホンダ議員も、シュー被告から不正献金を受けていて、その事実が発覚するや、大あわてで返済した事実です。

慰安婦決議案を徹底してプッシュして、日本を糾弾したホンダ議員が実は中国系の犯罪者から不正な献金を受けていたーーー日本には当然、報じられるべきニュースです。ところが朝日新聞はこの事実をまったく報道しませんでした。

なぜなのでしょうか。

以下、この中国系のナゾのビジネスマン(といっても詐欺商法専門のビジネスマンだったことが判明していますが)をめぐる動きについての産経新聞の記事をいくつか紹介します。朝日新聞が無視するニュースです。


シュー氏を詐欺罪で起訴 米民主党献金疑惑
2007年09月22日 産経新聞 東京朝刊 国際面

 中国系実業家ノーマン・シュー氏による米民主党への献金工作問題で、ニューヨーク連邦地検は20日、6000万ドル(約70億円)の資金を投資家からだまし取った詐欺罪で同氏を起訴した。同氏が投資家を献金ネットワークに引き込むことで、民主党屈指の資金調達役にのし上がった手口が明るみに出た。また、他人名義での政治献金も判明し、検察当局は連邦選挙活動法違反でも同氏を起訴した。

 米司法当局がシュー氏の献金工作を刑事事件として立件したことで、巨額の違法献金を受けていた民主党の有力大統領候補、ヒラリー・クリントン上院議員らへの批判が高まることは避けられない。また、今後の公判では、シュー氏が献金工作を仕掛けた同機の解明や、背後関係の有無に関心が集まりそうだ。

 連邦地検の発表によると、シュー氏は2003年からの3年間、同氏の経営するコンポーネント社など2社を受け皿に、高利回りの投資話を投資ファンドなどに持ちかけて資金を獲得。新たな資金を得るたびに、古い投資家に「配当」を支払う手口で信用させ、手持ち資金を膨らませた。(ワシントン 山本秀也) 


米の中国系実業家 有力民主議員約40人に疑惑の献金 

  【ワシントン=古森義久】米国で犯罪事件の有罪宣告を受けたまま逃亡していた中国系実業家がここ4年ほどの間に民主党のヒラリー・クリントン、バラク・オバマ両上院議員ら大統領候補や連邦議会議員に合計200万ドル(約2億3000万円)以上の献金をしていたことが16日、伝えられた。この実業家が献金をした米国の民主党主要政治家は合計40人近くに上り、その資金の出所が改めて注目されている。

 米国でのナゾの中国系実業家による疑惑の献金はますます騒ぎの輪を広げ、16日はニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストの両紙が一面記事で詳しく報道した。

 この人物は香港出身、18歳で渡米して、その後、米国籍を取ったノーマン・シュー(徐)氏(56)で、1992年にカリフォルニアの裁判所で盗みや詐欺の罪で禁固3年の刑を言い渡されたが、収監されず、逃亡した。

 シュー氏は2003年末からニューヨークを拠点に米国民主党の政治家専門に大口の政治献金をする活動家として浮上した。16日までの米国マスコミの報道によると、シュー氏はこの4年近くの間に、自分の個人の献金と自分が募金取りまとめ役となる献金の両方を合わせて200万ドルを超える資金を実際に寄付していた。

 その寄付相手はシュー氏自身が直接に献金をした政治家だけでも、いま大統領選挙に立候補しているクリントン、オバマ両上院議員のほか、ジェイ・ロックフェラー、テッド・ケネディ、ジョー・バイデン、ダイアン・ファインシュタイン、トム・ハーキン、マリア・キャントウェル、マリー・ランドリュー、ジョン・ケリー各上院議員、マイク・ホンダ、ドリス・マツイ、パトリック・ケネディ、トム・アレン各下院議員など合計40人近くに上った。

 同報道によると、シュー氏は民主党筋ではすでに全米有数の献金者として知られるようになったにもかかわらず、献金への見返りの要求などは出さず、議員側に政策にからむ助言や情報を与えたこともない。こうした状況はきわめて異例であり、シュー氏が他の個人や組織を代弁してこれら巨額の献金をしていたのでは、という疑問を濃くしている。

 米国の法律は外国の機関や個人が米側の選挙にからんで寄付や献金をすることを禁じており、連邦捜査局(FBI)や連邦選挙委員会が中国の関連組織のかかわりの有無を中心に本格的な捜査をすでに開始した。


以下は私のブログへの以前のエントリーです。朝日新聞がとくに無視をする動きを報じたエントリーでした。

ホンダ議員にも中国系の不正献金

 慰安婦問題
で日本を糾弾する決議案を推進したアメリカ下院のマイク・ホンダ議員(民主党)が30日、盗みの罪で3年の懲役刑を受けながら、逃亡し、指名手配を受けていた中国系男性からや、その仲間の中国系人物たちからの政治献金を不当に受け取っていたことを認め、その寄金分3000ドルを放棄しました。
ホンダ議員と中国系とのカネの結びつきはここでも立証されました。しかも犯罪がらみのきわめて怪しい中国系人物たちからの献金なのです。
ホンダ議員が献金を受けていた時期も慰安婦決議案の審議の最中でした。

ホンダ議員が放棄した献金の内容は以下のとおりです。

2007年6月25日にウィリアム・ポー(鮑)から受け取った1000ドル

2007年6月25日にビビアン・ポー(鮑)から受け取った1000ドル

2007年6月25日にノーマン・シュー(徐)から受け取った1000ドル

シューという人物は中国系のビジネスマンとされていますが、1991年にカリフォルニアで盗みの罪で懲役3年の刑を受けました。しかし彼は姿を消し、指名手配中でした。その人物がニューヨークに現れ、ヒラリー・クリントン上院議員はじめ一連の民主党政治家に合計100万ドルにも及ぶ政治献金をしていた、というのです。

この献金騒ぎでの焦点はこの資金の真の出所はどこか、ということです。もし外国の機関や個人からの献金であれば、違法です。シュー、ポーという人たちはいまはアメリカ国籍のようですが、出身は中国です。しかもわりに最近のアメリカ移住です。

ホンダ議員もこのシューという人物、さらにシューとかかわりのあるポーという中国系一家からも献金を受けていました。ホンダ事務所は30日、この献金の3000ドル分を慈善事業に寄付した、と発表しました。本来、受け取ってはならない資金を受け取っていたことを認めたわけです。

今年の6月25日といえば、下院外交委員会で慰安婦決議案が採択される直前でした。下院議員選挙が近いわけでもないのに、そんな時期になぜ中国系からの献金がホンダ議員になされたのでしょうか。

以下にこの不正政治献金に関する産経新聞記事を紹介します。

慰安婦決議主導 ホンダ氏にも献金  


  【ワシントン=山本秀也】中国系実業家ノーマン・シュー氏による米民主党議員への献金問題で、慰安婦問題での対日非難決議を主導したマイク・ホンダ下院議員も同氏ら中国系の献金を受け取っていたことが分かった。シュー氏への批判を受けて、ホンダ氏は献金を辞退する意向を表明したが、同氏周辺に濃密な中国系人脈の影響が改めて裏付けられた形だ。 米紙ウォールストリート・ジャーナルが調べた献金リストによると、ホンダ氏はシュー氏から今年6月に1000ドルの献金を受けたほか、迂回(うかい)献金を請け負った疑惑の出ているポー家からも計2000ドルを受け取った。シュー氏は同月、ホンダ氏のレセプションで幹事役を務めていた。 

 30日付の地元紙サンノゼ・マーキュリーによると、ホンダ氏の広報担当グロリア・チャン氏は、献金を返すか、寄付する方針を表明した。ホンダ氏は、慰安婦決議の推進で在米の中国系反日組織「抗日戦争史実維護連合会」の支援を受けたほか、中国系の献金が多いことも確認されていた。

民主党代表の小沢一郎氏はとにかく国連への全面的な信奉が顕著です。
日本の安全保障も日本独自の努力よりも、日米同盟よりも、国連への依存が好ましい、とさえ信じているかのようです。

実際に戦後の日本の安全保障論議では国連は日米同盟への反対や日米安保条約の否定によく使われてきました。左翼反米勢力は戦後、日本に国連軍を常駐させ、日本を守ってもらおうという提案さえまじめに打ち上げていたのです。国連軍なんて、そもそも存在しえなかった時代に、です。

このへんの国連と日本に関する歴史も小沢氏には知ってもらいたいですね。
私はそうした実態を次の記事で伝えました。



「国連は日米安保への反対の武器だった」

2003年07月31日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面

 「日米安保条約も米軍基地も自衛隊も、すべて廃棄し、日本の安全の保障には中立的な諸国の部隊からなる国連警察軍の日本駐留を提案したい」

 「約二十六万に及ぶ日本の自衛隊を警察予備隊程度にまで大幅に縮小し、それを駐日国連警察軍の補助部隊として国連軍司令官の指揮下におき、一切の経費は日本国民が負担する」

 東大教授の坂本義和氏は一九五九年、こんな日本の防衛構想を発表した。東西冷戦の厳しい時代に日米安保に反対し、中立・非武装を説き、国連軍の日本常駐を求めたのだった。常駐軍隊を出す中立的な国としてはデンマーク、ユーゴスラビア、コロンビア、インドネシアなどをあげていた。

 この提案は日本が自国を守るのに自らは経費を出すだけで、国連に無期限で防衛のすべてを委ねるというのだから、革命的だった。

 日本社会党の書記長だった石橋政嗣氏も一九八〇年に発表した「非武装中立論」で日本の安全保障の国連への委任を主張していた。

 「(日本など)各国の安全保障はあげて国連の手に委ねることが最も望ましい。公正な国際紛争処理機関として国連に強力な警察機能を持たせるべきだ。国連は自らは非武装たることを宣言した日本国憲法にとっては本来、不可分の前提であるはずだ」

 一橋大学名誉教授の都留重人氏は九六年に刊行した「日米安保解消への道」という書で沖縄に国連本部を誘致することを提唱していた。

 「日米安保も米軍基地もない平和な沖縄をつくるための最適の具体的措置は国連本部を沖縄に誘致することだ。現在の沖縄こそが国連本部の所在地として、米軍基地も完全に撤去された『平和の拠点』となるにふさわしい」

 こうした表明はいずれも日本の防衛は日米同盟や自衛隊を排して、そのかわりに国連に依存すべきだ、という政策の提唱だった。日米同盟・自衛隊と国連とを二者択一とし、前者をなくして後者を採用すべきだという主張でもあった。

 主権国家の必須要件たる自衛という行為を最初からすべて国連に外注するというのは政策論としてはあまりにナイーブである。その主張を文字どおりに受け取れば、戦後の日本の果てしなき国連信仰だともいえよう。

 だがこの「信仰」は明らかにぎらりとした政治的主張とも一体になってきた。日本の安全保障政策で「国連」を強調することは多くの場合、「日米同盟・自衛隊」への反対を自動的に意味してきたからだ。日米同盟への反対の政治標語の一部として「国連」がよく使われてきた、といえよう。国連の効用さえあれば、日米同盟も自衛隊も必要ない、という主張が堂々と叫ばれてきたのである。

 だがそうした主張は日米同盟・自衛隊支持派からは辛辣(しんらつ)に批判される。拓殖大学教授の佐瀬昌盛氏が語る。

 「日本の安全保障や防衛を正面から考えたくない、取り組みたくないから国連を引き合いに出すというのは、国連にとっても日本国民にとっても不敬な話だ。他のどの国でもまず自国の安保を考えたうえで国連を考えている」

 「日本の安全保障は国連に」という趣旨の主張は「国連幻想」「国連神話」「国連信仰」といった言葉で表現される傾向によく帰されてきた。国連の現実を理解しない無知がその根源だとする見方だった。ところが物事はそれほど単純ではないとする指摘もある。杏林大学客員教授の田久保忠衛氏が評する。

 「日本の安全は対米同盟よりも国連のような多国間機構に頼るべきだと主張する側も、実際には国連が無力であることをよく知っているのだと思う。最初にまず日米同盟への反対という主張があり、その主張を効果的にするために国連を持ち出すのだ。国連の無力を知りながらも、日米同盟への反対の武器として利用するのだと思う」

 素朴にひびく国連礼賛の背後には実はどろどろした政治の思惑や狙いがひそんでいる、というわけだ。

 いずれにしても、国連はこのように日本の安全保障政策の基本とも複雑にからみあってきた。その政策論議では国連の演じる役割は大きかった。

 だが国連自体、発足からすでに五十八年を経ても、坂本義和氏が求めたような一国の防衛を丸ごと請け負う常駐警察軍や、その基盤となる集団安全保障は一向に機能していない。(ワシントン 古森義久) 

民主党代表の小沢一郎氏は日本の対外活動について、なにかと国連を持ち出します。国連が関与し、認知する活動ならば、無条件に賛成、アメリカが主導する活動には、これまた無条件で反対とも思われるほどの国連偏重です。
その国連全面信奉の態度は国連に無関係、あるいは批判的な事象にはなにがなんでも反対、それ以外の思考は頑迷に排除するという感じです。一神教の絶対信仰、国連信奉原理主義とでもいえましょうか。

しかし国際連合なる存在が小沢氏の唱えるように実効があるのでしょうか。

国連の軌跡はまったくの正反対の現実を明示しています。
国連が日本を守ってくれるのか。
国連が戦争を防止できるのか。
国連が正義を貫くのか。
そもそも国連自体にどんな力があるのか。

いま明らかな事実は国連がきわめて無力、独善、偏向の機関であり、日本の国家安全保障をそんな機関の手にゆだねることなど、危険このうえない、ということです。
だから小沢一郎氏の国連中心主義は危険なのです。なにしろ幻想に立脚する主張なのですから。

さあ、国連のそうした実態をこれから少しずつ報告していくことにします。
私が以前に産経新聞に書いた長期連載「国連再考」と、その連載を基礎として出した単行本「国連幻想」からの抜粋が主体ですが、新しい情報を必要に応じて入れていきます。

まずは国連は日本の拉致問題でなにをしてくれたか、の報告から始めます。
国連は日本国民の悲願である北朝鮮による日本人拉致問題の解決にさえ、反対の立場をぶつけてくるという面を持っているのです。



拉致事件で知る各国の独善

 国連への信奉という点ではわが日本は全世界でも最高位にランクされるだろう。現実主義者とされる小沢一郎氏のような政治家までが「国連警察軍」を常設し、自衛隊を提供する構想を説くことにも、戦後の日本の国連の理想への並はずれた期待があらわである。

  日本のこの態度は敗戦の苦痛な体験や戦後の特殊な国家観などを原因とするのだろうが、国連を国家エゴのにごりのない澄んだ水のような公正な存在とみるところから出発してきた点では純粋だといえよう。

 国連を重視し、尊重する国はもちろん他にも多い。だがほとんどの場合、国連を自国の利益の追求手段とみなし、その範囲で国連の現実を利用するという姿勢が明白にうかがえる。ところが日本は国連自体を汚れた世俗の世界での聖なる神殿とみなし、理想の推進役とする美化の傾きが強いようなのだ。

 しかしそんな日本の背中をどしんとたたくように、この傾きを正す効果をもたらした最近の実例が拉致事件がらみの国連人権委員会での事態だった。

 国連人権委員会は2003年4月、ジュネーブでの会議で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を審議した。決議案は日本人拉致事件の解決をもうたっていた。欧州連合(EU)の提案だった。北朝鮮の人権弾圧はあまりに明白であり、日本人拉致も北朝鮮首脳が認めている。国連の人権委員会が人権擁護という普遍的な立場からその北朝鮮を非難することは自明にみえた。

 ところが委員会加盟の五十三カ国のうち賛成したのは半分ほどの二十八カ国にすぎなかった。中国、ロシア、ベトナム、キューバ、マレーシアなど十カ国が反対票を投じていた。インド、パキスタン、タイなど十四カ国が棄権し、韓国の代表は投票のためのボタンを押さず、欠席とみなされた。日本国民の胸を刺す自国民の過酷な拉致という非人道行為を非難することにさえ賛成しない国が多数、存在する現実は年来の日本の国連信仰とはあまりにかけ離れていた。

 「人権抑圧を非難する決議類にはとにかくすべて反対する国が多いという国連の現実を改めて知らされ、怒りを感じた。中国やリビア、ベトナム、キューバなど人権抑圧が統治の不可欠要件となっている独裁諸国がこの国連人権委員会を仕切っているわけだ」

 拉致家族を支援して、国連人権委員会へのアピールでも先頭に立った「救う会」の島田洋一副会長(福井県立大学教授)が国連への失望を語る。事実、中国の代表は今回の審議でも「北朝鮮がすでに多数の諸国と対話を始めた」とか「決議の採択は朝鮮半島の緊迫を高める」という理由をあげ、反対の演説をとうとうとぶっていた。

 「救う会」の島田氏らは二年前に国連人権委員会の強制的失踪(しっそう)作業部会に拉致事件の窮状(きゅうじょう)を申し立てたが、拒まれた。北朝鮮がなにも対応を示さないため、という理不尽な理由からだった。同じ人権委員会はその一方で九〇年代には日本の戦争中のいわゆる「慰安婦問題」を再三にわたって取り上げ、スリランカ代表が作成した「報告書」など極端に選別的なアプローチで日本を糾弾し続けているのだ。

 国連でのこの種の関係各国の政治的な駆け引きは日本側のODA(政府開発援助)依存外交をあざ笑うのかと思えるほどみごとに、日本の期待や願望を踏みにじり、裏切っている。

 国連人権委員会のいまの議長国はカダフィ大佐の独裁で悪名高いリビアである。自国内で人権を弾圧する国であればあるほど、この人権委員会に入り込み、内部から国連による自国への非難を阻む、という実態は周知となった。だからこの委員会では中国に関してチベットや新疆での少数民族の弾圧や気功集団「法輪功」、民主活動家の弾圧への非難の動きなど、芽のうちに摘まれてしまう。

 国連では人間の基本権利の擁護という最も普遍的かつ人道的であるはずの領域でも、日本国民の大多数が描く崇高なイメージとは対照的に、加盟各国の独善の政治思惑がぎらぎらと発光する。個々の国家の利益や計算の追求が生むなまぐさい空気が公正であるはずの論議の場をおおい尽くす。

 日本人拉致事件をめぐる国連人権委員会での日本の体験は国連のこんなしたたかな現実をいやというほど明示したのだった。(ワシントン 古森義久) 

安倍晋三氏がなぜ首相を辞任したのか。
いま日本のマスコミでは「これが真相だ」という虚実とりどりの情報が洪水のように出てきました。
それと同時に噴出しているのが「安倍政権はなにからなにまでダメだった」という式のこきおろしです。
しかし安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を唱え、一年ほどの短い期間に教育改革、憲法改正、公務員制度改革などを目指しての大胆な法的措置をとったことは、たとえその内容に反対する側にとっても、歴史的な大きなステップだといえるでしょう。
防衛庁を防衛省にしたことも、同様です。何十年もの間、話だけが出て、実行されることがなかった「国家の防衛」の行政上の正常化がこの「庁から省への昇格」です。
国民投票法の成立も、同じように戦後の日本にとっては歴史的な意義を持つ動きです。憲法改正への具体的な手続きを初めて立法的にとったわけだからです。
しかし日本のマスコミの多くは安倍政権のこの種の実績を「閣僚の絆創膏」の矮小化し、バッシングを続けました。
安倍首相が果たした国家の根幹にかかわる改革の実績をあえて無視して、表面に出た閣僚スキャンダルだけを拡大する、という反応でした。日本の政治という全体の観点からすれば、まさに「木を見て、森を見ず」でしょう。

しかし安倍政権のこうした軌跡をきわめて前向きに、しかも全体像として評価する意見がアメリカ側で表明されました。
そもそもアメリカ側の安倍政権への評価は全体として高かったのです。この実態は日本側でなかなか伝えられませんでしたが、ブッシュ政権が安倍政権の安全保障上の政策には一貫して、歓迎や賛同の意を表明していたことも、その一例です。
アメリカ側のこのへんの安倍政権評価、安倍晋三評価を日本近代史研究の専門家ケビン・ドーク教授(ジョージタウン大学東アジア言語文化学部長)が総括しました。

以下はドーク教授の見解を報じた私の産経新聞記事です。


認知度、評価高かった安倍首相 「短期間に多くの業績残す」
2007年09月16日 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面

 ■ジョージタウン大学東アジア言語文化学部長 ケビン・ドーク教授

 【ワシントン=古森義久】日本の民主主義やナショナリズムの研究を専門とする米国ジョージタウン大学東アジア言語文化学部長のケビン・ドーク教授は14日の産経新聞とのインタビューで、安倍晋三首相の辞任表明に関連して、安倍氏が米国では日本の歴代首相のうちでも「明確なビジョン」を持った指導者としての認知度がきわめて高く、米国の対テロ闘争への堅固な協力誓約で知られていた、とする評価を述べた。

 ドーク教授はまず安倍首相の約1年に及ぶ在任の総括として「安倍氏は比較的、短い在任期間に日本の他の多くの首相よりもずっと多くの業績を残したが、その点がほとんど評価されないのは公正を欠く」と述べ、その業績として(1)教育基本法の改正(2)改憲をにらんでの国民投票法成立(3)防衛庁の省への昇格-の3点をあげた。

 同教授は米国の安倍氏への見方について「米国では安倍首相への認知が肯定、否定の両方を含めてきわめて高かった。たとえば、森喜朗氏、鈴木善幸氏ら日本の他の首相の多くとは比較にならないほど強い印象を米側に残した。慰安婦問題で当初、強く反発したこともその一因だが、日本の今後のあり方について明確なビジョンを示したダイナミックな指導者として歴史に残るだろう。安倍氏が米国の対国際テロ闘争に対し堅固な協力を誓約したことへの米国民の認識も高い」と語った。

 ドーク教授は安倍氏の閣僚任命のミスなど管理責任の失態を指摘しながらも、「戦後生まれの初の首相として日本の国民主義と呼べる新しい戦後ナショナリズムを主唱して、国民主権の重要性を強調し、対外的には国際関与を深める道を選んだ。安倍氏が『美しい国へ』という著書で日本の長期の展望を明示したことは、今後消えない軌跡となるだろう」とも述べた。

 同教授はさらに「逆説的ではあるが、安倍氏の辞任表明の時期や方法も、それ自体が業績となりうると思う。健康上の理由、政治上の理由、さらには唐突な辞任表明での責任の問題もあるだろう。だが安倍氏が国民投票法など本来、まずしたいと思ったことを達成し、さっと辞任するという動き自体が今後の政治指導者の模範例となりうる」と語った。

 同教授はまた「現在の日本での安倍氏への評価は戦後の旧来の産業社会の文化や規範を基準としており、情報社会の文化基準を適用していないために、『戦後レジームからの脱却』などがあまりよく理解されず、支持されないのだろう」と説明した。

                   ◇

 【プロフィル】ケビン・ドーク

 1982年、米国クインシー大卒、シカゴ大で日本研究により修士号と博士号を取得、ウェークフォレスト大、イリノイ大での各助教授を経て、2002年にジョージタウン大に移り、東アジア言語文化学部の教授、学部長となる。日本での留学や研究は合計4回にわたり、京大、東大、立教大、甲南大、東海大などで学び、教えた。著書は「日本ロマン派と近代性の危機」「近代日本のナショナリズムの歴史」など。 

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