2007年12月

民主党代表の小沢一郎氏の中国訪問が話題を呼んでいます。

民主・小沢代表が胡錦涛主席と会談 
民主・小沢代表が胡錦涛主席と会談 
中国を訪問し胡錦濤・国家主席(右)と握手する民主党の小沢代表=7日午後、北京の人民大会堂(代表撮影・共同)
2007/12/07 20:45 



日本側でのさまざまな反応のなかでも圧巻は週刊新潮の特集記事「卑屈な小沢一郎」でしょうか。副題には「『胡錦濤皇帝』に拝謁を賜った」とあります。

国会の審議の最中に、民主党議員45人がぞろぞろ北京詣でという異常も、もっぱら小沢氏の主導です。週刊新潮の記事は小沢氏が胡主席に会ったときの様子を、明らかに目撃者の報告を基に以下のように報じていました。

「ちょこんと椅子に座った小沢氏は媚びたような笑いを浮かべ、『ただいま主席閣下自らですね、今回の参加者の団員のものと写真を撮っていただきましてーーーそしてまた、みんなと握手までしていただきましてーーー先例のないサービスをしていただいて、本当に感謝しております」

週刊新潮のこの記事は次のようなコメントをも載せていました。

「中国というのは、家来のような態度をとる者を優遇します。小沢氏はそれに嵌った。(中略) 小沢というのは、弱いものに対しては威張りますが、強いものにはダメ」(政治評論家の屋山太郎氏)

「小沢氏の訪中は銀座のホステスがお客さんの気を引くために皆で出張したのと何も変わりません」(在日中国人ジャーナリストの石平氏)

ここまで酷評されても仕方ないでしょう。
小沢氏は日本の政治指導者として中国へ出かけ、国家元首に会いながら、日中間で懸案の東シナ海のガス田紛争も、尖閣諸島の問題も、抗日記念施設などの反日教育や歴史の問題も、チベットやウイグルにからむ少数民族弾圧、人権抑圧の問題も、
まったく触れなかったそうだからです。
日本国民の懸念案件をまったく無視する日本の政治家というのは、なにやら不気味でさえあります。

しかも小沢氏の率いる民主党はこのブログでも取り上げたウイグル民族の人権活動家ラビア・カーディルさんを招いての研究会を突然、キャンセルしています。小沢訪中にからんで日本の中国大使館からの圧力に小沢・民主党があっさり屈した結果でした。

こうした状況をみれば、小沢一郎氏がいまや「媚中派」の頭領と評されても、仕方ないように思われてきます。むしろ客観的にも正確な表現かもしれません。

しかし小沢一郎氏はかつては中国に対してはこんな卑屈で、媚びた態度はとっていませんでした。いったいなにが彼を変身させたのか。

私が産経新聞の中国総局長として北京に在勤していた1999年の2月末、当時、自由党の党首だった小沢一郎氏が訪中してきて、中国共産党中央政治局常務委員の尉健行氏と会談しました。
このときの小沢氏の発言を実際にその場にいた人たちから聞きました。その内容は私の著書『「日中友好」のまぼろし』などで詳述しました。
ここでもう一度、その概略を紹介しますが、要するに小沢氏はそのときは、それまでの日本の政治家たちよりも強固かつ明確に日本側としての自己の主張を中国当局にぶつけていたのです。決して媚中ではなかったのです。

小沢氏はたとえば「歴史認識は反省の上に立ってきちんとすべきだが、それは中国のみなさんも同じことだ」と尉氏に対して述べました。「日中友好を阻害するようなことは慎むべきだという尉先生の言葉があったが、それはおたがいに慎むべきだ」とも発言しています。

小沢氏はさらに尉氏に対して「日中両国は率直に意見を交換できる関係ができなければだめだ」とも告げました。そして当時、中国側が反対していた日米防衛共同ガイドラインや、そこでうたわれた「周辺事態」が台湾に適用されるか否か、など、小沢氏は中国側の主張に堂々と反論さえしていました。

私は小沢氏のこの対中姿勢を立派だと感じ、その旨を率直に産経新聞やその他の雑誌などで「まっとうな外交」として報じたものでした。
しかしそれから8年余り、いまの小沢氏はまっとう外交どころか朝貢外交の主役のように変身していまいました。親米が反米に変わったのと、なにか表裏一体の印象があります。

一体なにが小沢一郎氏を変えたのか。
その理由や原因についての考察はまた場を改めましょう。

さて日本のナショナリズムの考察を続けます。
前々回のエントリーの続きです。
私がアメリカの日本研究学界の集いで発表した英文コメントの後半です。
タイトルは「日本のナショナリズム=神話と現実」でした。

この後半部分では私は日本での国旗や国歌に対する態度がアメリカはじめ他の諸国にくらべ、いかに異様であるかを説明するのに、森田健作監督の映画『I AM 日本人』を使いました。この映画は今年9月のエントリーでも紹介し、日本という国を再考する材料にさせていただきました。

下の写真はその映画の宣伝です。
写真の女性は主演女優です。



                                                     
森本クリスティーナ森本クリスティーナ
                                                                                    


さて私のスピーチの後半部分の抜粋を以下に書きます。

▽戦後の日本の最大特徴の一つはナショナリズム排除と国民意識、国家意識あるいは民族意識の希薄さだろう。この特徴は「日本の反ナショナリズム」とも呼べる。

▽その例証だが、日本ほど国民の数あたりの国旗掲揚の数が少ない国も珍しい。祭日、祝日でも国旗を掲げる一般家庭は少なく、公立学校でも長い年月、教員が率先して国旗のボイコットを生徒に奨励してきた。国歌についても同じことがいえる。

▽だからアメリカのように学校で生徒が国旗に忠誠を誓うという慣行は日本では想像もできない。私自身も22歳でアメリカに初めて留学して、国旗への忠誠の光景をみて、びっくり仰天したものだった。

▽この点での日米ギャップはその後も変わっていないことを最近、『I AM 日本人』という映画で知らされた。この映画では18歳の日系米人少女が日本の大学に留学して、日本人学生が国旗にも国歌にも敬意を表さないのをみて、驚き、怒るというストーリーだった。

▽もちろん国旗や国歌への態度だけで、一国のナショナリズムの状態を判定はできないが、日本では他の諸国で当然とされる「私は自国を愛する」「私は母国を誇りに思う」というような心情の表明でさえ、忌避される。そういう言葉を述べる人は場合によっては「右翼反動」などとレッテルを貼られる。

▽他の国でならごく自然の自国を愛する気持ちの表明も、日本では軍国主義のような反民主主義の価値観に結びつけられるが、アメリカなどでは民主主義の大前提の下で愛国主義、愛国心が堂々と表明される。

▽この日本でのナショナリズム欠落は昨年の教育基本法の内容をめぐる論議でも証明された。教育の目標や指針としての「愛国心」「国を愛する心」は排除され、「国と郷土を愛する態度」という記述が採用された。国を愛するのは「心」であってはならず、単なる表面の「態度」だけがよい、ということなのか。こんな国は他にないだろう。

▽日本では国家への忠誠という概念が存在しない。だから国家機密もない。ここでも「日本のナショナリズムは危険」だとする断定の虚構が証明されている。主権国家のメンバーの間でなら自然、当然の愛国心さえ、ほとんど否定されているのだ。

▽この日本の異様な反ナショナリズムの風潮と、それに基づく制度を変え、日本を正常な国にしようと努める政治家もたまには存在する。安倍晋三氏はその一例だ。だがその努力は往々にして「タカ派的」「軍国主義的」「ナショナリスティック」という不当なレッテルを貼られて、逆に攻撃される。

▽反ナショナリズムを排し、国家としての要件をきちんと制度化するという作業は、近代的主権国家の指導部にとっての自明の責務である。そうした作業はすでにアメリカだけでなくイギリス、フランス、中国、そして新生イラクでさえ、実行されてきた。日本だけは、それをしてはならない、というのだ。

▽日本は戦後の長い年月、民主主義の道を歩んできた。民主主義的な価値観を保ってきた。だから外部からたとえいかに「ナショナリズム的」とみえる措置でも、基本的には民主主義の範疇である。だがそれでも危険だというのは、日本に対する偏見や独特のゆがんだ認識のせいだろう。

以上です。

以下はそのスピーチの英文の後半です。


WASHINGTON AND SOUTHEAST JAPAN SEMINAR 

FALL MEETING

December 8, 2007

 

Japan’s Nationalism:  Myth and Reality

Comments of Yoshihisa Komori

 

 

(continued from the Dec.10 entry)

 

 

One of the most distinct features of post-war Japan is its rejection of nationalism and dilution of national identity.  We might call this “Japan’s anti-nationalism.”  Let us first look at the tangibles. 

 

Japan is the country where one sees perhaps the smallest number of national flags per capita hoisted in public.  The vast majority of contemporary Japanese still avoid its display at home, even on celebratory occasions.  School teachers, many of whom are members of certain public school teachers unions, still resist raising the flag at commencement and entrance ceremonies.  Instead, they actively teach students not to show respect for this national symbol.

 

Many Japanese show the same attitude toward their national anthem. Again post-war public school teachers traditionally refuse to sing the anthem and discourage their students from singing it too. I, for one, belonging to the first batch of the post-war generation of Japanese, was taught in elementary school not to show respect for either the flag or the national anthem.  

 

The American ritual of pledging allegiance to the national flag would have been totally inconceivable in Japan in those days, as it still is in contemporary Japan Again speaking from personal experience, I will never forget my own feeling of great shock when I first saw American school children pledge allegiance to the Stars and Stripes.  That was upon my first visit to the United States, when at the age of 22 I went to Seattle to study at the University of Washington

 

My shock at the American-Japanese gap in this regard some decades ago recently was echoed by an 18 year old Japanese-American girl.  Actually, this girl is a character in a Japanese movie titled “I am 日本人” that was released last year.  The film is interesting because, while it is fictitious, it seems to be based on a mosaic of actual experiences and observations by real people.  The movie was produced by popular actor-turned-politician Kensaku Morita.  Mr. Morita was elected to the Lower House of the Diet and appointed Deputy Minister of Education.  I happened to watch it on a trans-Pacific flight a few months ago and found it unexpectedly illuminating.

 

By sheer coincidence, the girl in this story was born and raised in Seattle.  She goes to a Japanese university and finds her Japanese classmates completely disrespectful of the Japanese flag and national anthem. She was astounded, shocked, intrigued, and mad, shouting at them, Why? Why? Why?  The message of the movie is to show the significant absence of “National consciousness” among Japanese youth from an American perspective. 

 

Of course, you cannot judge the extent of the prevalence of nationalism in one country simply by looking at how the people face up to their national flag and anthem, but they are indicators at least of the general trend. In this case, polls, studies and other evidence showing a broad absence of “national awareness” or “national identity” abound in Japan.

 

On less tangible matters, what would be considered a mere expression of one’s inherent feelings of appreciation toward his or her nation in most countries around the world, such as “I love America” or “I am proud of my country,” is almost unheard of in Japan. If a public figure like a member of the national Diet says that “I love my country.” he would very likely be labeled a “rightwing reactionary.”  And he would be running a risk of having his statement misinterpreted as praising pre-war undemocratic values.  Yet in the United States and most other countries, these words are heard in public and private statements and even in songs and are taken positively as a matter of course.

 

Many contemporary Japanese still have an aversion to the word “patriotism.”  This was demonstrated, for example, in the debate last year on adoption of the new “Basic Education Law.”  The word “patriotism” as an objective of teaching was proposed by some members of the ruling Liberal Democratic Party, but opposed by other colleagues of their own party as well as opposition members.  Opponents asserted that use of this word in the law could lead to revival of a prewar-like autocratic imposition of values on individuals.   

 

As a compromise, some suggested the phrase “kuni wo aisuru kokoro,” the sense of mind for love of country, only to be told by opponents that it would be still too strong.  Then others put forth another phrase, “kuni to kyoudo wo aisuru taido,” the attitude to love the country and the homeland.  And after a long heated debate not just in the Diet but in the press and many other public fora, the Diet adopted this last phrase “the attitude to love the country and the homeland.”  Perhaps difference between “taido” (attitude) and “kokoro” (sense of mind) in Japanese is that the former could be just a façade and the latter real conviction. They opted after all for the emotionally shallower word. 

 

Japan is still a country that does not recognize the concept of allegiance to the state.  As a result, there is no such thing as treason, nor are there “national secrets” in Japan. Internationally, as well, post-war Japan’s propensity has been to go against the norm by putting the wishes of the United States above its own interests.

 

The bottom line is that last year’s turn of events in the Diet clearly underscores Japan’s aversion at the national level to the word and concept of “patriotism,” and, going back to the lesser meanings of the dictionary definition, Japanese collective rejection of any “exaltation of [Japan] above all other [nations], and an emphasis on loyalty to and the promotion of the culture and interests of one nation [Japan] as opposed to other nations and supranational groups.” 

 

Some Japanese political leaders in the past, most recently including Prime Minister Abe but also some of his predecessors, tried to make institutional changes that would help reduce the climate of anti-nationalism.  They successfully promoted measures in the areas of education, are continuing to consider constitutional revision and failed to enact measures that would protect national secrets.  These measures were generally encouraged by the U.S. government although, in return, the Japanese leaders were labeled by some Japanese and western observers as “hawkish” ”militaristic” “nationalists”.  

 

The measures they promoted, however, are considered self-evident responsibilities of any other modern sovereign nation, rights exercised by good friends and allies like the United StatesBritain, and France, as well as by other countries like China and even Iraq.  It has raised the question in many Japanese minds as to whether there isn’t another kind of bias or possibly patronizing habit at play and why we never hear about a “Nationalist” Hu Jintao or a “Nationalist” George Bush.

 

Japan is a democracy that has matured over sixty years of post-war experience with democratic values that have become an inseparable part of the national landscape.  So whatever Japanese do that observers may like to label as “nationalistic” measures, they all fall within the framework of a contemporary democracy that thrives under the rule of law.  

 

These are some of the thoughts evoked when I see the phrase “Japan’s nationalism.” 

 

END

アメリカ上院に日本側で拉致問題の解決に動く側が切望していた決議案が出されました。12月10日のことです。産経新聞の朝刊ですでに報じられていますが、ここでも日本側の最近の訪米団の活動とからめて、紹介しましょう。

まず決議案の内容です。
骨子はアメリカ政府が北朝鮮をテロ支援国家の指定リストから外すには、日本人の拉致問題の解決や進展をも含む多数の前提条件を北朝鮮が満たしてからでなければならない、と求めています。

決議案はその前半ではその条件の一部として、「人権状況の改善、拉致被害者の状況説明と解放、家族再会、強制労働収容所の改善」などを明記しています。
さらに後半ではもっと具体的に日本人拉致に触れています。
「北朝鮮政府が米国政府、韓国政府が満足する形で日本の警察庁よって北朝鮮に拉致された日本国民として認定されている15人を解放する、あるいは消息の発表をする」ことがない限り、北朝鮮をテロ支援国家の指定から解除してはならない、という記述があります。

以上は日本からの拉致問題での「家族会」「救う会」そして「拉致議連」の各代表による合同訪米団がブラウンバック上院議員に面会した際に要請した主眼なわけです。

同上院議員はこの決議案で、北朝鮮のイランやシリア、そしてテロ組織のヒズボラへの大量破壊兵器拡散を指摘し、その種の活動が最近、あった限り、あるいはその活動が停止したことの証拠がない限り、北朝鮮をテロ支援国家リストから外してはならない、ともうたっています。しかし「日本人の拉致問題解決」もはっきりと、前提条件として明記されました。

この点こそ平沼赳夫議員や中井洽議員、古屋圭司議員、松原仁議員らがブラウンバック議員に直接、求めたところでした。その意味では平沼議員らの訪米は大きな成果をあげたといえるでしょう。

中井洽議員
中井洽の訴え 

古屋圭司議員


なおこの決議案には上院の大物議員たちが共同提案者として名を連ねました。
民主党の元副大統領候補だったジョー・リーバーマン上院議員、そして共和党側では
いずれも影響力の大きなカイル上院議員、グラスリー上院議員です。

さあ、この上院での動きはブッシュ政権の国務省への新たな抑制のカードです。
クリス・ヒル次官補を先頭に、とにかく北朝鮮との和解を急ぎ、テロ支援国家指定のリストから北朝鮮を外そうとする動きにアメリカ連邦議会の上院が反対を正面から表明したわけです。なお下院にはすでに同趣旨の決議案が出ています。

いまや12月12日、2007年も残り少なくなりました。
「ブッシュ政権は12月中に北朝鮮をテロ支援国家リストから外すことを決めており、日本側がなにを主張してもムダだ」という「観測」が日本側ではありましたね。
さてこの「観測」がどうなるのか、現実の事態の展開を見守りたいところです。

同時に日本側の切望をアメリカ側に伝え、ブラウンバック上院議員自身にも明確に要望した合同訪米団の平沼赳夫団長や飯塚繁雄氏、増元照明氏、島田洋一氏、そして、馬渡龍治議員、鷲尾英一郎議員らの活動の成果を改めて強調したい次第です。

鷲尾英一郎議員
鷲尾英一郎

馬渡龍治議員


西村眞悟議員
西村真悟

重要な付記ですが、この合同訪米団の拉致議連の一員として先遣隊の役割を果たしたのは西村眞悟議員でした。西村議員は金正日が日本人拉致を認める以前から被害者家族らを全面的に支援してきました。また今回の合同訪米団のワシントン訪問でも、
議員団の本隊より早く現地に入って、米側の当局者、関係者との会合などにあたりました。

こんご日本の国会議員たちの訪米はこの種の目的や使命をもって、実施することを期待したいとも思います。 

上記の議員たちの写真をあえて掲げるのは、この人たちが党派を越えて、拉致問題の解決という大義のために、実際の行動をとっていることへの認知からです。

政党が政党としての一貫した政策を持たない日本のいまの政治では個々の議員の言動を点検して、支持や不支持を決めることが有権者の賢明な態度とも思えます。


アメリカの日本研究学者の集まりで、「日本のナショナリズム」というテーマについて、自分の意見を発表しました。
12月8日、「ワシントン・(米国)南東地域・日本セミナー秋季会合」で、でした。場所はワシントン市内のジョージタウン大学です。
厳密には私の立場は脇役で、主役はワシントンの日本大使館の北野充公使でした。
北野氏が「日本のナショナリズム」について30分ほど講演したのに対し、私が論評を加えるという趣旨でしたが、私の持ち時間も20分以上ということで、主催者側から自分自身の見解も表明してほしいとのことでしたので、日ごろからの意見も多々、述べました。
そのあと30分以上、参加者全員と北野公使、私との質疑応答と討論がなかなか活発に展開されました。

その私の冒頭の意見発表の英文をここで紹介します。
その内容の主要点を以下に日本語で記します。ごく大ざっぱなまとめです。

▽ナショナリズムという言葉にはいろいろな意味があり、自分の国や民族への帰属意識や愛着という、ごく普通の中立の意味もあるが、他方、閉鎖的、排他的、優越意識などをにおわすネガティブな民族主義という意味もある。

▽日本ではそのナショナリズムのポジティブ、ネガティブ両方において、その種の意識が全世界でも最も希薄だろう。ただし米国などで、「日本のナショナリズム」という場合はいつもネガティブな文脈やニュアンスとなる。

▽日本では国旗、国歌への反発、国家意識の欠如などが顕著であり、アメリカ、イギリス、中国など他の諸国にくらべれば、ナショナリズム的傾向は極端に少ない。日本は全世界でも最もナショナリズム的ではない国だといえる。

▽他の諸国では国家への忠誠、愛国心の奨励、その国民や民族であることへの誇りなどが、ごく普通のこととして表明されるが、日本では「右翼」とは「反動」として非難される。その意味では日本ではナショナリズムよりも反ナショナリズムが盛んだといえる。

▽ナショナリズムと似た意味の言葉として愛国主義、愛国心という言葉があり、米国などではポジティブな意味の用語として使われる。政治指導者もpatriotと呼ばれることを好む。他方、日本では愛国心という用語は教育基本法でも排された。

▽日本で反ナショナリズムの空気や制度を批判し、正常な国家をつくろうとする動きは
日本の一部勢力からも、米国側からも「危険なナショナリズムの動き」とか「戦前の軍国主義の復活」として非難されることが多い。この非難は現実をみていない。きわめて政治的な非難だろう。米国でのその種の非難は日本を見下す態度だといえる。



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FALL MEETING

December 8, 2007

 

Japan’s Nationalism:  Myth and Reality

Comments of Yoshihisa Komori

 

 

Nationalism can be many things, as Mr. Kitano has illustrated convincingly in a somewhat anatomical way.  

 

The word “nationalism” itself is in some ways ambiguous.  Using the word without considering its definition is likely one source of misunderstanding and feelings of derision among people of the country to which the term is often directed.  Interestingly, another word that has a similar meaning is “patriotism” except that we never see the phrase “Japanese Patriotism” used as a title for American academic studies of Japan.  It occurs to me that juxtaposing the words ”nationalism” with “patriotism” and applying them both as criteria for examination of Japanese mind-set might be an interesting undertaking.

 

Nationalism, on an individual level, is the sense of identifying oneself with his nation, fellow citizens, culture or traditions.  It’s most common official meaning according to Merriam-Webster’s Unabridged Dictionary of the English Language, is simply “loyalty and devotion to a nation” by people of the country.  On a more collective or institutional level, “nationalism” includes sense of unity, duty, devotion, and sacrifice for the nation.  These attributes are considered self-evident, normal and positive in most, if not all, countries in the world, including the United States – except Japan.  

 

To be fair, the dictionary definition of “nationalism” also goes on to include lesser meanings, the last of which reads, “an exaltation of one nation above all others, and an emphasis on loyalty to and the promotion of the culture and interests of one nation as opposed to other nations and supranational groups.”  It is conceivable that this latter option is the one preferred by scribes wishing to evoke a recollection of the Western assessment of pre-war Japan.  There are many countries this definition might be applied to in the post-war years but, objectively, Japan would be among the last it fits.

 

“Patriotism” is defined in the same Webster’s dictionary as “love for or devotion to country.”   This word is highly charged in a positive way in the American usage so politicians of all political persuasions as well as other Americans strive to have themselves identified with the qualities evoked by this word.  Yet, it is extremely rare to find the word “patriotism” used when referring to Japan – you would be more likely to find the counterpoint phrase, “America’s Nationalism.”

 

Overall, it seems curious that while the defined components of both words are decidedly positive, the word “nationalism” when used in reference to Japan is so frequently intended to connote a negative nuance.  

 

Searching for negative applications of nationalism to explain the imbalance, it is possible to say that phenomena such as a sense of exclusiveness or superiority sometimes referred to as “ethnic nationalism” fits this definition.  Also, the concept of “nationalism” is sometimes utilized politically to inflate public sentiment in the strategy of projecting power or expanding influence of the country externally.  It has been used to divert popular attention from domestic troubles.  It can be manufactured to promote internal unity and allegiance to a political regime.  You might call these applications “political nationalism” or “politically condensed nationalism.”  Mr. Kitano shed light on these types of the somewhat negative function of “nationalism” as well.   

 

Yet, overall, most of the factors that constitute modern nationalism are generally accepted and positively regarded worldwide.  Take, for example, the expression of love for your own country and pride in being a citizen of it.  In most nations of the world, such expressions are widely accepted and even encouraged.  But, not in Japan
(to be continued)

 12月5日の衆議院拉致特別委員会で「米国のテロ支援国家指定解除に反対する決議」が賛成多数で採択されました。
 賛成は自民、民主各党などほぼ全党派で、反対したのは日本共産党だけでした。

 この決議は日本国民の悲願である拉致問題解決のために、アメリカに対し、北朝鮮を「テロ支援国家」の指定リストから外さないことを強く求めています。指定解除の動きがあることを指摘して、もし解除となれば、日本側の反発により、日米同盟に重大な影響を及ぶことの懸念を表明し、改めて解除しないよう警告しています。解除への動きに抗議を述べている箇所もあります。

 こういう決議の内容をみると、平沼赳夫議員が拉致議連の会長としてt他の超党派の議員たちとともに、11月中旬にワシントンを訪れ、アメリカ側の政府や議会の当事者たちと会談して、申し入れた趣旨とまったく同じであることがわかります。

 「家族会」「救う会」そして「拉致議連」のそれぞれの代表からなる合同訪米団は、日米関係の長い歴史でも初めて、超党派の議員たちが一つの特定の課題にしぼって、日本側の主張を伝え、懸念を知らせ、抗議や要望をぶつけたという点で異例でした。

 その異例の訪問の活動総括を平沼議員がワシントンでの記者会見で発表しました。
その発表内容のほぼすべてがその通りの形で今回の決議に盛り込まれています。
ですからこの異例の議員対米外交の成果がまずこうした決議で最初の実を結んだといえましょう。

 しかし最大の目標はアメリカ政府が平沼議員らの要望を入れて、北朝鮮をテロ支援国家指定から解除しないという態度を示すことです。この点の展望はまだわかりません。だが、国務省主導の指定解除の動きが当初の感じより、ずっと遅れてきたとはいえます。

 なお下は平沼赳夫議員の写真です。公式サイトからコピーさせてもらいました。
                                                                                                                                                  
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 なお衆議院拉致特別委員会が可決した決議案も、まだ衆院本会議での審議が残っています。日本側でも妨害をしてくる勢力は存在します。

 この決議案を審議する衆院拉致特別委員会では、拉致議連の訪米団に加わり、ワシントンで活発に動いた民主党の松原仁議員、鷲尾英一郎議員、そして自民党の古屋圭司議員らも出席して、高村正彦外相に対して、日本の対米外交の問題点、とくに対米議会対策の弱点などを指摘する鋭い質問を多々、放ったそうです。
以下は松原仁議員の写真です。




 では以上、説明してきた決議の全文を以下に紹介します。


  
 米国の「北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除」の動きに反対する決議

「北朝鮮は、わが国の国民をはじめとする複数の国から無辜の民を拉致し続けている。
 
 拉致は、国家主権及び国民の生命と安全に係わる重大な問題であり、わが国は、全ての被害者の安全確保及び即時帰国、真相究明並びに拉致実行犯の引き渡しを強く要求している。
 
 一方、北朝鮮は2002年、長年否定していた日本人の拉致をはじめて認め、その後5人の被害者が帰国を果たしたが、残る多くの被害者に関しては誠意ある説明をせず『拉致問題は解決済み』を主張するばかりである。
 
 米国は、1988年に北朝鮮をテロ支援国家として指定し、2004年にはその指定理由の一つとして新たに国務省国際テロ報告書に外国人拉致問題を書き込んだ。
 
 それは、拉致解決を北朝鮮に迫る強い圧力となり、わが国民を勇気づけ、拉致問題に毅然たる態度で臨むわが国外交を後押しするものとなっているが、米国は一部の核施設の『無能力化』などの見返りとして指定解除を行うのではないかと伝えられている。

 拉致はテロであり、拉致被害者が抑留され続けている以上、テロは今も続いている。本年4月の国務省国際テロ報告書も引き続き拉致問題を明記した。

 抑留されている被害者が帰ってきていないのに指定解除がなされることは、多くの日本国民を落胆させ、日米同盟に重大な影響を及ぼすことを懸念するものである。

 米国内でも安易なテロ支援国家指定解除への危惧が高まり、下院で拉致被害者の帰国などを条件とする法案がすでに提出されており、上院でも同様の動きが出ているところである。

 拉致被害者全員を一刻も早く救出するために、特に、日米関係の重大さに鑑み、日本政府は米国が『北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除』をしないよう、最大限の外交努力を尽くすべきである。

 また、米国におかれても、かかる観点から『北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除』をしない方針を堅持されるべきである。
 
 右、決議する。」

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