その日本外交を支えるのは日本人外交官たちです。
日本の外交官たちには、どんな特徴があるのか。
日本の大使というのは、どう選ばれて、どう機能するのか。
加藤良三駐米大使が6年7カ月にわたる任期を終えて、ワシントンを離れたのを機会に考えて、記事を書きました。
日本の大使はふつうはその任期がきわめて短いのです。
加藤大使の6年7カ月というのは例外中の例外だったのです。
その日本外交官考察についてコラム記事を書きました。
5月31日付の産経新聞朝刊に載った記事です。
■【緯度経度】ワシントン・古森義久 日本外交官の短サイクル
5月26日に離任した加藤良三駐米大使はワシントン在勤6年7カ月と、日本の駐米大使としては戦後最長の勤務を記録した。この年月は他の諸国に駐在してきた日本大使たちとくらべても最長のようである。在勤の長さが大使職務にプラスとなったかと問われて、加藤氏はためらわずに首肯した。確かに多層な政治の回路が錯綜(さくそう)する超大国の首都での外交活動には、その舞台での経験や知識は多いほど効率がよいだろう。
しかも加藤氏は大使任務の以前にもワシントンに2度、在勤した。日本大使館の書記官と公使として各数年、務めたのだ。だから大使赴任の時点ですでに任地をよく知っていたことになる。そのせいか、大使としては在勤初期の米国側の9・11(米中枢同時テロ)やイラク攻撃という激変の中でも支障なく機能し、日米両国の、とくに安全保障面での関係を戦後でも最も緊密で安定した状態にすることに寄与したといえる。
確かに私も加藤氏の大使としての活動をかいまみて、どのボタンを押せば、どのベルが鳴って、どのドアが開くというワシントンの政治メカニズムの基本を熟知し、とにかく効率よく動いているように映った。
だが加藤氏のような人事の軌跡はいまの日本外交では例外中の例外である。そしてその点にこそ日本外交の欠陥があるのだといえる。駐米大使ポストも加藤氏の前までは外務事務次官を務めた人物がスゴロクのあがりのように最終勤務として自動的に就任するという慣行があった。適材適所の原則よりも官僚の年功序列が優先される人事だった。
だから駐米大使がワシントン勤務はもちろん、米国勤務も初めて、英語国に在勤したこともないという例も珍しくなかった。在勤も3年平均で、やっと慣れ始めたころに離任という繰り返しだった。米国政府関係者から「あの大使の英語は理解できない」と評され続けた日本大使もいた。
だがそれでもワシントンはましな方だといえる。大使の選任は一般に赴任国の言葉も知識もまったく無関係、外務省の入省年次が最大基準となってきた。「美味のパイ」をできるだけ多くの人間に満喫させるかのように、古い外務官僚にできるだけ多くの大使勤務を経験させるような人事が横行してきたからだ。
日本の大使たちの任期が極端に短いことは、すでに国際的な定評となっている。2年未満の駐在はざら。最短ではレバノン駐在の特命全権の日本大使が在勤1カ月だけという信じられないような実例があった。ベトナム大使の在勤正味わずか8カ月、その後は韓国やフランスの駐在大使を高スピードで三段跳びという例もあった。本人には楽しい体験かもしれないが、日本国代表にあっという間に去られてしまう相手国の心情はどうだろう。そして日本外交としての効率はどうか。
日本外交のシステムでは大使の下で働く公使や書記官たちの任期も短い。外務官僚ならば1回の在外勤務は平均2年間なのだ。海外に家族を連れて赴任し、見知らぬ土地に居を構え、新任務に取り組むという作業には2年がどれほど短く、非効率か、一般企業なら熟知しており、そんな人事はまずしないだろう。
だが日本外交ではたとえばワシントンの日本大使館で最も長期の蓄積が求められる米国議会担当の公使でも2年たらずで替わってしまうのだ。この官僚の1カ所勤務2年というサイクルは国内でも同様のようだが、根拠はなんなのか。ひょっとして日本人が50代で完全に衰えてしまった明治時代の寿命サイクルに合わせた遺物ではないのか。
こうした従来のパターンを破った加藤大使の人事も1つだけ旧習に従っていた。駐米大使ポストがスゴロクのあがりということである。ご本人が政府を離れ、長い年月、ワシントンでせっかく積み上げた経験も知識も日本国の外交に直接、生かされることはなくなってしまうようなのだ。
写真は加藤良三大使です。
帰国後はプロ野球のコミッショナーになる予定だそうです。
なお日本の外交の人事面の特異性については、私はかつて調べたことがあり、その結果が単行本となっています。
『亡国の日本大使館』(小学館)という書です。日本の外交官たちの実名を多数あげて、実際のケースを多々、紹介しています。
出世スゴロク人事、化石のような階級差別、邦人保護もできない総領事館、欺瞞だらめの改革論議ーーー