日本は自国について対外的にもっと発言すべきだ、というのが主眼です。
国際社会からの謂われなき汚名をそそぐ――というテーマでもあります。
慰安婦非難決議、「反日」宣伝映画、竹島問題、「偏狭なナショナリズム」というレッテル貼り・・・・・・・・・
【朝刊 1面】 記事情報開始■【北京五輪 百年の夢のあと】(下)民主化に背向けた祭典
過去7年、全世界に屈折した波紋を広げ続けた北京五輪もついに幕を下ろした。 |
北京五輪で浮上した「中国と日の丸の旗を振ること」の意味について、コラム記事を書きました。
この「北京奥運考」というコラムもこれが最終です。
ヘッダー情報終了【朝刊 国際】 記事情報開始■【古森義久の北京奥運考】当局が抑えた「反日」
女子柔道の78キロ超級の決勝戦で日本の塚田真希と中国の●文が対決したとき、観客席からは日中両方の勢いのよい声援が交互にわきあがった。記事情報終了フッター情報開始 |
日本オリンピック委員会の竹田恒和会長や中国駐在の宮本雄二大使らが主催する大レセプションが17日午後、開かれた。
日本の選手たちの活躍を祝い、ねぎらうことが主目的で、北島康介、石井慧らメダル獲得の選手たちもずらりと顔をそろえた。各国のコーチや選手も姿をみせ、多彩な食べ物も出て、ものすごいにぎわいとなった。
男女ともきちんとした服装が多いなかで、トレーニングウエアの男性が2人、ぽつんと立っていた。2人ともしばらくの間、だれとも話をしていないので、声をかけてみた。
■期待のテコンドー
「アフガニスタンのチームの世話をしています」
年長の壮年の男性が答えた。
すぐに渡してくれた名刺には「アフガン全国オリンピック委員会副会長 マムード・ジアダチ」と記されていた。
ジアダチ氏は隣に立つ背の高い青年を「テコンドーの選手です」と紹介した。アフガンのテコンドーといえば、首都カブールでの厳寒での練習見学をいやでも思いだした。
タリバン政権が首都から追放されて間もない2002年2月だった。
現地情勢を報じるために苦労してやっとたどり着くと、戦火で破壊しつくされた街で若者たちがタリバン時代に禁じられていたレスリング、柔道、テコンドーを再開したことを知らされた。
アフガンは元来、尚武の国であり、格闘技が盛んだったのだ。私が興味を示すと、各競技の指導者たちに熱心に招かれ、テコンドーのけいこを荒れ果てたコンクリートの倉庫で1時間以上、見学することとなった。
30人ほどの青少年の熱気と、自分の体を凍らせる寒風の対照はいまも忘れられない。
その経験をジアダチ氏らにざっと話すと、身を乗り出して聞いてくれた。
■戦争を乗り越えて
なにしろアフガンは1979年末にソ連軍に全面侵攻され、翌年のモスクワ五輪のボイコットの原因となった国である。
その後の10年余はソ連軍との血みどろの戦い、そして骨肉相はむ内戦、さらに96年にはイスラム原理主義のタリバンに首都を占拠され、オリンピック参加どころかスポーツもできない過酷な時代が続いてきた。だから今回の北京五輪へのアフガン選手団は総勢わずか4人である。
2002年まではタリバン政権が女子のスポーツを禁じたため国際オリンピック委員会から五輪への参加を禁止されていた。
なにしろ現在もカブールにはスポーツ施設は皆無に近く、五輪候補たちはタリバンが姦通(かんつう)や窃盗で捕まえた男女を公開処刑していた旧競技場で練習してきたというのだ。今回も当初のメンバーだった19歳の女子陸上選手が北京へ向かう途中、練習先の欧州で姿を消してしまった。
国内のイスラム守旧派から「女が五輪出場など、とんでもない」と脅されたのを苦に亡命したらしい。
そのあとを埋めた女子選手が百メートル競走で14秒余という五輪でも珍しい低記録だったことはすでに広く報じられた。
参加すること自体が称賛されるべきなのだ。「戦争であれほど破壊された国からの出場というのは驚くべき偉業です」と、素直な感想を告げると、2人のアフガン代表は痛くなるほど私の手を握りしめて、離さなかった。
これまたオリンピックならではの場面だと思った。ちなみにアフガンが最初に参加した五輪は1936年のベルリンだったが、メダルはこれまで1つも取っていない。
今回は昨年のテコンドー世界選手権男子72キロ級で2位となったアハマド・バハウィ選手がメダルなしの記録を破ることも期待される。
テコンドーの試合は20日から始まった。(編集特別委員)
平成20年 (2008) 8月21日[木] 先負
北京五輪もいよいよ後半となりました。 いまのところ、すべてがほぼ予定どおりに、順調に進んでいるようです。 中国の政府にとっても、国民にとっても、歓迎すべき事態でしょう。 しかし水面下ではこのオリンピックに対する外部からの苦情や不満というのも絶えません。とくに他のオリンピックをずっと考察してきた、いわばプロの五輪ウォッチャーの見方を聞いてみました。 記事情報開始■【古森義久の北京奥運考】五輪観察…「やっぱり異質」
ラリー・マルーニさんと北京のホテルで昼食をともにして、「ああ、オリンピックはこういう人たちに支えられているのだな」と実感した。 |