2008年08月

私の新しい本が刊行されました。

日本は自国について対外的にもっと発言すべきだ、というのが主眼です。

国際社会からの謂われなき汚名をそそぐ――というテーマでもあります。

慰安婦非難決議、「反日」宣伝映画、竹島問題、「偏狭なナショナリズム」というレッテル貼り・・・・・・・・・




北京オリンピックの自分なりの総括です。

【朝刊 1面】
記事情報開始【北京五輪 百年の夢のあと】(下)民主化に背向けた祭典

 

 過去7年、全世界に屈折した波紋を広げ続けた北京五輪もついに幕を下ろした。

 スポーツの祭典としては壮大、華麗、そして躍動を極めたこの催しは中国の国家としての質や国際社会での位置をどう変えていくのか。

 「スポーツを政治から切り離せるというのは酸素を空気から切り離せると宣言するに等しい」と述べたのは、東京五輪での米国選手団主将で後に上院議員となるビル・ブラッドレー氏だったが、北京五輪の政治的意味は深遠である。

 北京五輪の意味を前向きにとらえる識者たちは歴史の類似として1988年のソウル五輪を提起する。

 韓国は五輪以後に民主化を大きく進め、経済でも開発途上の域を脱して飛躍的な発展を示した。

 だからすでに経済発展の顕著な中国も五輪を機に民主化や開放の方向へ大きく進むと予測するわけだ。

 この種の見解では64年の東京五輪も同列に論じられる。

 日本も五輪以後、経済大国への道を躍進し、民主主義を成熟させていった、というのである。

 ■独裁権力を行使

 しかし北京五輪ほど主催する政権が民主主義に背を向け、独裁権力を行使しきることで祭典を盛り上げた先例もまずない。

 巨大施設の建設のための住民や労働者への強制処遇、事前のチベット、ウイグル族らの弾圧、そして政権への苦情を訴える一般住民や民主主義、宗教の活動家の除去などは、一般の民主国家なら絶対にできない措置だった。

 五輪を報じるために全世界から集まった報道陣への厳しい規制も民主主義とはおよそ異質だった。

 大会が幕を開けてからも子供を使ってまでの国威発揚の偽演出の数々、観衆のマナーを加工する「文明応援隊」の大動員、そして国家完全育成選手たちによる金メダル獲得の大活躍と、全体主義国家の威力がいかんなく発揮された。

 その結果の祭典の迫力は世界の新トレンドとしての「独裁主義の新時代の到来か」(英フィナンシャル・タイムズ紙の論評)という皮肉をこめた反応を生んだほどだった。

 しかし、北京五輪の大展開は中国の国民大多数に自国への誇りや自信を強めさせた。

 民族意識や国家意識の感情的な噴出につながりかねない高揚だといえよう。

 だが中国当局は競技の場での国民によるナショナリズムの情緒的な露出をもがっちりと抑えた。

 ■民族意識も管理 

 「ナショナリズムの表明をも管理した政府の成功こそ五輪主催が中国の政治力学を基本的に変形させる動因とはならないことの証明」だとする米国デンバー大学米中協力センターの趙穂生所長の見解は、中国共産党の独裁統治メカニズムの効率と威力を強調する。

 中国選手が金メダル争奪戦で世界を制覇したことも、期せずして中国の非民主的な全体主義の国家構造を強烈に印象づけた。

 すべての選手が一般社会のスポーツからは遊離した国家管理下のエリートだという共産主義のソ連型システムである。

 米国の元陸上競技代表選手でいまは学者として中国に滞在するスーザン・ブラウネルさんは「この国家管理制度がスポーツの大衆化を阻み、ひいては社会の改革を遅らせている」と論評した。

 それでも中国がこれほどの国際行事をこれほど盛大に成しとげたことは、中国選手の大活躍と合わせて国際社会での中国の存在感を間違いなく高めるだろう。

 だが、その存在の高まりは決して国際社会の多数派との均質性の広がりではない。

 その意味では北京五輪は旧ソ連がその後、勢いを強め、だがやがては孤立を深め、内部の分裂をも起こしていった80年のモスクワ五輪との歴史的類似をもつい連想させるのである。

 (編集特別委員 古森義久)

 

北京五輪で浮上した「中国と日の丸の旗を振ること」の意味について、コラム記事を書きました。
この「北京奥運考」というコラムもこれが最終です。

ヘッダー情報終了【朝刊 国際】
記事情報開始【古森義久の北京奥運考】当局が抑えた「反日」

 

 女子柔道の78キロ超級の決勝戦で日本の塚田真希と中国の●文が対決したとき、観客席からは日中両方の勢いのよい声援が交互にわきあがった。

 「ニッポン!」

 「チアヨウ(頑張れ)!」

 「ニッポン!」

 「チアヨウ!」

 中国語の声援はもちろん自国選手に向けてである。

 地元だからその声の方がずっと大きいが、日本側もかなりの人数が負けずに声を張り上げる。

 そのほとんどが日の丸の小旗を打ち振る。

 大きな布の日章旗を広げて掲げるグループも目立つ。

 顔に小さな日の丸マークを塗った若い女性群もいた。

 開会式の日本選手団とは異なり、日章旗とともに中国の国旗を握って振る人はまったく目につかなかった。

 もっともフランス、ロシア、韓国などの応援団も自国旗だけを打ち振り、中国の五星紅旗を同時に振る人は皆無である。

 ごく自然な現象だろう。

 中国人の観客たちが塚田の戦いにやじや、ののしりを浴びせることはなかった。

 いわゆるブーイングは日の丸を誇示する日本応援団に対してもぶつけられることはなかった。

 この夕、同じ試合場で男子100キロ超級の石井慧が優勝し、君が代が吹奏されたときも、中国人観客はみな起立して静かに聞き入った。

 この日は中国が日本に対する戦勝を記念する8月15日だったことも影響はなかった。

 その3日前、同じ会場で女子63キロ級の谷本歩実が優勝したときも、君が代には観客はみな起立した。

 谷本の応援には彼女の所属する日本企業関連の100人ほどの一団が文字どおり日の丸だらけで絶叫を続けたが、中国人観客は反発しなかった。

 北京五輪では全体を通じて従来のような反日ブーイングや暴力行為がなかったのが特徴だといえる。

 女子サッカーの日中戦で中国人が日本人の持つ日章旗を折ったという話を除いては平穏だった。

 サッカーなどで日本チームがののしられ、君が代がブーイングを招き、日本側サポーターが暴行まで受けるというここ数年の事態とは対照的だった。

 しかし、日本側では北京五輪でもその種の反日言動が起きることを恐れ、あえて開会式で入場行進する日本選手たちに日の丸と同時に五星紅旗を持たせた。

 日本オリンピック委員会が北京の日本大使館と協議してとった措置だった。

 主催国とはいえ他国の国旗を振って行進する大選手団は他にいなかった。

 ブーイング予防という選手への配慮だとしても、媚(こ)びとも映りかねない異端の光景が生まれた。

 開会式の選手用も含めて合計約400本の中国国旗を調達した日本大使館は女子マラソンでも日本側の応援者たちにそれを配り、日の丸とともに振ることを要請した。

 日の丸だけを振ってはならないという認識からである。

 中国では日本の国旗は振れないという主張はどうしても長野の聖火リレーで巨大な五星紅旗が多数、打ち振られた事実を想起させ、日中関係の悲しいゆがみを痛感させる。

 では今回の五輪ではなぜ観衆の反日言動が起きなかったのか。

 簡単にいえば中国当局が20万人もの「文明応援隊」を作り、観戦マナーを徹底させたことに加え、胡錦濤政権が国内の反日を政策的に少なくとも当面、一定限度内に抑えようと努めているからだろう。

 日本側が五星紅旗を振ったからではない。

 共産党直結の英字紙「チャイナ・デーリー」は日本の五輪チームの友好的大特集を組んだし、国営新華社通信系の新聞「国際先駆導報」も一面に「五輪で中日の民間の感情を緊密に」という長文記事を載せていた。

 だが政府当局による五輪でのマナー特訓や政治戦略からの反日抑制が一般中国人の心情をどこまで変えるのか。

 答えは当然ながら早急には出ないだろう。
                            (編集特別委員)

●=にんべんに冬

 

記事情報終了フッター情報開始
 

北京五輪ももうそろそろ終盤です。

アフガニスタンという戦乱の国からの参加者と顔を合わせ、話をする機会がありました。そのアフガンについて記事を書きました。

【古森義久の北京奥運考】初メダルの夢追うアフガン

 

 日本オリンピック委員会の竹田恒和会長や中国駐在の宮本雄二大使らが主催する大レセプションが17日午後、開かれた。

 日本の選手たちの活躍を祝い、ねぎらうことが主目的で、北島康介、石井慧らメダル獲得の選手たちもずらりと顔をそろえた。

 各国のコーチや選手も姿をみせ、多彩な食べ物も出て、ものすごいにぎわいとなった。

 男女ともきちんとした服装が多いなかで、トレーニングウエアの男性が2人、ぽつんと立っていた。2人ともしばらくの間、だれとも話をしていないので、声をかけてみた。 

 ■期待のテコンドー 

 「アフガニスタンのチームの世話をしています」

 年長の壮年の男性が答えた。

 すぐに渡してくれた名刺には「アフガン全国オリンピック委員会副会長 マムード・ジアダチ」と記されていた。

 ジアダチ氏は隣に立つ背の高い青年を「テコンドーの選手です」と紹介した。

 アフガンのテコンドーといえば、首都カブールでの厳寒での練習見学をいやでも思いだした。

 タリバン政権が首都から追放されて間もない2002年2月だった。

 現地情勢を報じるために苦労してやっとたどり着くと、戦火で破壊しつくされた街で若者たちがタリバン時代に禁じられていたレスリング、柔道、テコンドーを再開したことを知らされた。

 アフガンは元来、尚武の国であり、格闘技が盛んだったのだ。

 私が興味を示すと、各競技の指導者たちに熱心に招かれ、テコンドーのけいこを荒れ果てたコンクリートの倉庫で1時間以上、見学することとなった。

 30人ほどの青少年の熱気と、自分の体を凍らせる寒風の対照はいまも忘れられない。

 その経験をジアダチ氏らにざっと話すと、身を乗り出して聞いてくれた。 

 ■戦争を乗り越えて 

 なにしろアフガンは1979年末にソ連軍に全面侵攻され、翌年のモスクワ五輪のボイコットの原因となった国である。

 その後の10年余はソ連軍との血みどろの戦い、そして骨肉相はむ内戦、さらに96年にはイスラム原理主義のタリバンに首都を占拠され、オリンピック参加どころかスポーツもできない過酷な時代が続いてきた。

 だから今回の北京五輪へのアフガン選手団は総勢わずか4人である。

 2002年まではタリバン政権が女子のスポーツを禁じたため国際オリンピック委員会から五輪への参加を禁止されていた。

 なにしろ現在もカブールにはスポーツ施設は皆無に近く、五輪候補たちはタリバンが姦通(かんつう)や窃盗で捕まえた男女を公開処刑していた旧競技場で練習してきたというのだ。

 今回も当初のメンバーだった19歳の女子陸上選手が北京へ向かう途中、練習先の欧州で姿を消してしまった。

 国内のイスラム守旧派から「女が五輪出場など、とんでもない」と脅されたのを苦に亡命したらしい。

 そのあとを埋めた女子選手が百メートル競走で14秒余という五輪でも珍しい低記録だったことはすでに広く報じられた。

 参加すること自体が称賛されるべきなのだ。

 「戦争であれほど破壊された国からの出場というのは驚くべき偉業です」と、素直な感想を告げると、2人のアフガン代表は痛くなるほど私の手を握りしめて、離さなかった。

 これまたオリンピックならではの場面だと思った。

 ちなみにアフガンが最初に参加した五輪は1936年のベルリンだったが、メダルはこれまで1つも取っていない。

 今回は昨年のテコンドー世界選手権男子72キロ級で2位となったアハマド・バハウィ選手がメダルなしの記録を破ることも期待される。

 テコンドーの試合は20日から始まった。(編集特別委員)

 


平成20年 (2008) 8月21日[木] 先負

北京五輪もいよいよ後半となりました。
いまのところ、すべてがほぼ予定どおりに、順調に進んでいるようです。
中国の政府にとっても、国民にとっても、歓迎すべき事態でしょう。

しかし水面下ではこのオリンピックに対する外部からの苦情や不満というのも絶えません。とくに他のオリンピックをずっと考察してきた、いわばプロの五輪ウォッチャーの見方を聞いてみました。
 
記事情報開始【古森義久の北京奥運考】五輪観察…「やっぱり異質」

 

 ラリー・マルーニさんと北京のホテルで昼食をともにして、「ああ、オリンピックはこういう人たちに支えられているのだな」と実感した。
  
 彼はワシントンでの知人、米国政府関連機関と契約して働く40代半ばの米国人男性である。

 五輪ファンという言葉は彼にとって軽すぎる。

 夏冬両方のすべての五輪に毎回必ず、どんな遠隔の地でも駆けつけ、開会から閉会まで多くの競技の観戦だけでなく、主催国の社会や市民や文化までをじっくりと観察するというからだ。



 ■許せぬ詐欺サイト 



 まったくの個人で動くその種の五輪観察の常連が米国はじめ欧州やオーストラリアに合計数百人もいて、開催地でいつも顔を合わせる。

 独身のマルーニさんは単独行だが、ほかにも一人旅が意外と多いのだという。

 「常連は30代以上から70代まで文字通り多様な男女です。アテネ五輪では70代半ばの米国人男性が現地で心臓の病気で急死して、仲間内では『ああいう死に方なら悪くない』と話題になりました」

 マルーニさんは日ごろの余暇や趣味をすべて五輪観察に傾ける。

 出発は1988年のソウル五輪だったから夏の五輪だけでも北京は6回目となる。

 「いつも五輪開催の14カ月ほど前から交通手段、宿泊、入場券などの手配を本格的に始めます。その準備段階から現地での競技観戦を含めて、今回の北京はやはり異質です」

 マルーニさんは異質を指すのに「アノマリー」という英語を使った。

 どの五輪でも近年は開会閉会の式から各種競技までのイベント入場券をインターネットで売り出すようになったが、今回に限ってグローバルな規模での詐欺サイトが誕生した。
 
 「beijingticketing.com」というサイトで各種チケットの販売が始まり、多くの人が購入したものの、すべて架空だと判明した。

 被害総額は5000万ドル以上で、米国などの司法当局が捜査を始めた。マルーニさんもあわや被害に遭うところだった。

 中国政府が五輪の計画通りの実施という目的のためにチベット人を弾圧したり、宗教指導者や民主活動家を抑圧したりするという事態も、マルーニさんには「五輪の本来の目的をあまりに踏みにじる行動」として壁となった。

 一度は自分なりの北京五輪ボイコットを考えたが、とにかく現実をみることにした。

 米国の旅行会社を通じて北京でのホームステイを申し込んだ。

 中国人家庭に五輪期間中、合計800ドルを払って滞在するという計画だった。

 だが当局への滞在の登録や中国人家族への英語教授の義務など制約が多すぎることがわかって、旅行会社が計画全体をキャンセルしてしまった。

 ちなみに北京市内の朝陽区では当局が外国人ホームステイ用に600の家庭を選び、各国に宣伝したが、8月までに応募は2組だけ。ドイツ人夫婦と、中東の衛星ニュース局「アルジャジーラ」の記者だったという。 

 ■激しい規制 

 北京入りしてからのマルーニさんはまず入場券の偽造と超高値の闇市場売りのあまりの横行にびっくりした。

 しかも観客席がガラガラという場合が多いのだ。

 歴代の五輪でも初めてみる現象だった。

 そして一般観客を含む外国人への監視と規制の激しさも想像を超えていたという。

 実はマルーニさんは中国は昨年も含めて数回、仕事で訪れたことがある。

 その体験を踏まえ、最も気になることとしてあげたのが以下の点だった。

 「中国の人たちが以前からは考えられないほど民族主義的、自国礼賛になっていることです。そこには排外の要素があらわです。まあ五輪期間中だけの傾向だと思いたいですが」(編集特別委員)

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