2008年11月

 

 

モラロジー研究所所報11月号の古森義久の講演記録の紹介を続けます。

 

麗澤大学での講演でした。

 

今回の分は「日本精神」とはなんなのか。

 

日本の台湾統治をどう解釈すればよいのか。

 

台湾の総統だった李登輝氏との出会いから、「日本」を語りました。

 

なおオバマ新政権の展望の明暗については以下のサイトに詳しいレポートを書きました。

 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/88/

 

 

 

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「日本精神」を語る李登輝氏

 

  

 一九九七年の香港返還のとき、私は一か月ほど香港で、その報道に当たりました。

 

 中華圏との直接の接触はこれが初めてで、さまざまな人たちの話を聞きましたが、中国政府を批判する香港の人も含めて、戦争の話になると「日本のやったことは間違いだ」と言う人が中華圏には多いことを知りました。

 

 ワシントンに戻った私は、ある雑誌に「日中友好という幻想」という論文を書きました。

 

 すると、この論文を読んだ台湾の李登輝総統から「インタビューに来ませんか」という連絡があったのです。

 

 新聞記者としては願ってもないことでしたので、さっそく産経新聞の単独会見ということで出かけて行きました。

 

 台湾総統府に着くと、背の高い李登輝さんが出迎えてくれて「ようこそ、ようこそ」と、私よりもじょうずな日本語で話しかけてきたことにまず驚きました。

 

 外国の政府のトップが、日本語を母国語のように話すのです。

 

 そしてインタビューでは李登輝さんが総統に就任した十年前からの回顧が始まりました。

 

 一国の元首に相当する人が外国の新聞記者のインタビューに応じる場合、普通は長くても一時間です。

 

 しかし李総統は四十五分ほどたったとき、まだ八年前のことを話していました。

 

 それでは記事が書けなくなるため、「総統、ところで今の状況について」と言うと、李登輝さんは「急がない、急がない。ちゃんと話しますから」と言って、結局四時間以上も話を聞かせてくれました。

 

 メモを取らなければいけない私はぐったり疲れました。

 

 しかし多くの感銘を受けました。

 

 李総統は、話の中で「日本の台湾統治はよかった」と言いました。

 

 そして、「私は二十二歳まで日本人だった。京都帝国大学の農学部で勉強して、帝国陸軍に入って高射砲部隊に配属され、B二九を撃っていた」と言うのです。

 

 また、「日本精神」の大切さを述べ、「それは約束を守ること、うそをつかないことですよ」とも言いました。

 

 台湾の総統が日本の記者にこんなことを告げるとは――と、私は信じられない思いでした。

 

 しかしその後、何度も台湾を訪れるうちに、台湾にはそのような受けとめ方があるということを確認していきました。

 (つづく)

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http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/88/

 

 モラロジー研究所所報11月号に載った私の講演記録の紹介を続けます。麗澤大学での講演でした。

「国について、平和について」という題です。

 

 2回目ですが、今回はベトナムでの体験についてです。

 ベトナムに進駐していた日本軍への好意を地元の人から示され、すっかり戸惑った経験です。

 

 私自身は自分のこうした体験からも「村山談話」が日本のかつての軍事行動をすべて「侵略」として糾弾することには同意できません。

 

 なおオバマ次期大統領の「明」と「暗」について別のところに長いレポートを書きました。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/88/

 

 

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日本に好意を寄せる

ベトナムの人々

 

 アメリカから日本に戻り、新聞社に入社して新聞記者になりました。(厳密には最初に入社して、すぐ休職の形でのアメリカ留学でしたから、復職となります。毎日新聞社でした)

 

 数年後にはベトナムへ特派員として行くことになりました。

 

 ベトナムでもさまざまな体験をしました。

 私がベトナムに赴任した一九七二年は、北ベトナム軍が大攻勢を開始した年です。

 

 ベトナムを南北に分けていた北緯十七度線を越えて、北ベトナム軍の大部隊が南へ攻めてきたのです。

 

 クワンチという、南ベトナム側のいちばん北の省を占領した北ベトナム軍は、すぐ南のフエという都市に向かって攻めてきました。

 

 このとき、サイゴン(現在のホーチミン市)に着いたばかりだった私は、現地へ取材に行くことになりました。

 これから戦場になるのではないかという所ですから、フエの街はパニックに襲われており、多くの市民が撤退していました。

 

 フエというのは日本でいえば、京都、王朝があった古都です。

 

 その市街を朝早くから取材に飛びまわって香河という川のほとりまで来たとき、気づくとお昼を過ぎていました。

 

 おなかが空いていましたが、どこのレストランも開いていません。

 

 みな避難してしまったのです。

途方に暮れて川のほとりで座っていると、ベトナム人のやや年老いた女性が近寄ってきて、いきなり「日本の方ですか。私のレストランを開けてご飯を出してあげましょう」と言うのです。

 

私に同行していた通訳を通しての語りかけですが、ビジネスとしてではなく、好意のようなものを感じました。

 

そこで話を聞いてみると、その女性は「かつて日本軍が駐留していたとき、私の夫は日本軍で働いていた。日本人は尊敬に値する人たちだった」と言います。

 それは私が受けた戦後教育においては、あるはずのないことでした。

 

 東南アジアの国々を侵略し、残虐行為を働いた日本軍は、邪悪な存在として忌み嫌われているはずではなかったのか――。

 

 そうした疑問から、日本軍はベトナムで何をしたかということを調べてみました。

 一九四〇年九月、日本軍はフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に進駐しました。

 

 このとき、ヨーロッパではナチスドイツがフランスを屈伏させて傀儡政権を樹立していましたので、日本とベトナムに駐留しているフランス軍との間には、少なくとも表面上の友好関係がありました。

 ここで日本軍が行おうとしたことは、将来起こるかもしれないイギリスやアメリカ、オランダなどとの戦いに備え、特にシンガポールやマレーシアにあるイギリス軍基地を攻撃するための拠点をつくることでした。

 

 ですから、日本軍にはベトナム自体への領土的野心はなく、ベトナムの人との戦いは全くと言ってよいほどなかったのです。

 ドイツの敗戦が明白になってきた一九四五年三月、フランス軍が敵対的な行動を取ってくることを予測したベトナム駐留の日本軍は、フランス軍に対する武装解除を行いました。

 

「武装解除」と言うと穏健な感じがしますが、実際には攻撃をして、フランスの将兵や植民地のお役人を一挙に捕らえてしまうということです。

この「武装解除」を見ていたベトナムの人たちは、「自分たちと同じような顔をして、体も小さいアジア人が、自分たちがそれまで神様のように思ってきたフランス人を一挙に捕らえて、収容所に入れてしまった」ということで、日本軍に対して畏敬と礼賛の念を抱いたというのです。

 

ただ、五か月後に日本が降伏した後は、「やはり日本軍のしたことは悪いことだった」と断じなければならない風潮になり、みな沈黙してきたのだということを、私はベトナムの知識人たちから聞かされました。

 ちなみに日本軍の降伏後、フランスに対して戦いを挑んだホー・チ・ミンは、その間隙を縫って一九四五年九月にベトナムの独立を宣言しています。

 

 日本軍の将兵の中にはそのままベトナムにとどまり、ホー・チ・ミンの部隊に協力していっしょに戦った人がかなりいました。

 

 また、インドネシアやインドの独立運動においても、日本軍は大きな役割を果たしています。

 

 こうしたことは、戦後の日本では語られない、むしろ語ってはいけないことでした。

 私は日本が行った戦争がすべて正しく、美しかったと言うつもりはありません。

 

 ただ、国と国との利益がぶつかっていくら話し合っても解決がつかず、最後の手段として武力をもって戦うということ自体は、国際法でも認められている行為です。

 

 ですから、戦争そのものを悪とする、しかも一方の国だけを悪としてしまう戦後の思想は、やはり公正さを欠いているのではないかということを感じていったのです。

(つづく

 

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日本や世界や日本人という課題について、私自身が日ごろ抱いている考え方、感じ方の基本について、かなり長時間、語ったことを手際よくまとめて、発表してくれた雑誌があります。

 

その内容はいまの日本が世界でおかれた状況や、国内での諸課題、とくに安全保障や平和の維持などについて考える際に、まず経るべき基本の認識に触れているつもりです。

 

この一文は麗澤大学と一体になっている形の「モラロジー研究所」が月刊で発行する機関誌「モラロジー研究所所報」の11月号に掲載されました。「講演録 国について、平和について」という記録です。

 

この講演は今年7月26日、千葉県柏市の麗澤学園の緑豊かなキャンパス構内にある同学園創設者を記念した廣池千九郎記念講堂で、でした。モラロジー研究所の全国研修の集いでの公開教養講話とされていました。

 

以下はその内容の紹介です。

一部、原文からは省略したところもあります。

 

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日本人としての自覚

      

 私はこれまで長年、新聞記者として働き、その多くを海外での報道活動に費やしてきました。

 

 その過程でいつも考えさせられたことの一つは、日本とは何か、日本人とは何か、そして平和とは何かということでした。

 

 私の初めての外国体験は、大学を出てすぐ、東京オリンピックの前年、一九六三年です。

 

 当時、外国旅行は原則として禁じられていましたが、私はシアトルのワシントン大学にジャーナリズム専攻で入学を認められ、アメリカへ留学することになったのです。

 

 外国へ行くという感覚も今とは全然違っていました。

 

 私は慶應義塾大学出身ですが、そこで柔道をやっていましたので、柔道部の学生が皆、羽田の飛行場まで来て校歌を歌い、「バンザーイ」と言って送り出してくれたのです。

 

 ひょっとしたらもう帰って来られないんじゃないか、一生の別れになるかもしれない、というような感覚でした。

 

 典型的な戦後教育を受けて育った私は、「日本の国だとか民族だとかにこだわることは、軍国主義につながるのでよくない」といった感覚を薄ぼんやりと抱く平均的な若者でした。

 

 それがアメリカで暮らしてみると、さまざまな疑問を持つようになりました。

 当時は日本の自動車産業が成長を始め、アメリカへの日本車の輸出が増え出した時期でした。

 

 街を走っている日本の車を見かけると、何かうれしい気持ちの自分に気づきます。なぜなのか。自分が日本人だからだろう、と当然、考えます。

また、アメリカでは星条旗が揚がれば胸に手を当てて敬意を表し、国歌を歌うときには起立して大きな声で歌うのが普通です。

 

公立の小中学校では、子供たちが国旗に向かって「忠誠の誓い」を唱えます。日本でタブーとされることが、アメリカでは健全なこととされる。

 

これはなぜだろう。

 

このへんから日本について考える私の魂の遍歴が始まりました。

 ワシントン大学には、さまざまな国からの留学生が来ていました。

 

 そうした外国人同士が出会えば、「あなたは日本人ですね。日本の国、日本の社会の特徴は何ですか。政治は今、どうなっているんですか」などと聞かれます。

 

 そこで「私は国際人になりたいと思っているから日本にはこだわらない」と言ってみたところで、非日本人から見れば、私は日本人としてしか扱われません。

 

 もちろん科学や人道主義など、各国が共通に分かち合っていかなければならない分野はたくさんありますが、国際社会での自分にとっての出発点は「日本人である」ということなのだとわかってきました。

 シアトルは日系アメリカ人の多い街でした。

 

 日系人と接触すると、「ヤマダ」「クリハラ」「カトウ」といった名前なので、親しみを覚えてつい日本語で話しかけてしまいます。

 

 しかし、彼らは日本語ができません。

 

 日本人と同じ顔をしていても、国が違えば価値観や感覚が異なることもわかってきました。

 そのころ、大学の体育の授業に柔道が採用されて、私はアルバイトでアシスタントをすることになりました。

 

 主任は日系アメリカ人の物理の先生です。

 

 先生が技のかけ方を説明すると、「では、これから古森にやらせる」ということで、屈強なアメリカ人の若者たちを相手にすることになったのです。

 アメリカの場合、柔道を教えるにも、まず本気で組み合って相手を投げなければ、尊敬されません。

 

 そこでいちばん元気そうな若者五人ぐらいと練習試合をすることになりました。

 

 最初に出てきた学生は、頭を角刈りにした日系人で、いかにも日本の地方出身の純朴な青年という風貌でした。

 

 組み合ってみると相手の強さもだいたいわかりますから、ほっとしながら大外刈りでポーンと投げました。

すると、その青年が立ち上がって私の方を向き、「Shit(クソッ)!」と言ったのです。

 

日本では、武道で負けたからといって、相手に向かって「くそ!」と言うことは考えられません。

 

しかもこれを日本人の風貌をした青年から言われたのですから、ショックを受けました。

 

国や社会が違うと、やはり人間の中身が違ってしまうのだなということを感じさせられたわけです。

(つづく)

 

 

 

 米国の大統領選挙では大手メディアの民主党支持報道が指摘されてきましたが、ワシントン・ポストは民主党バラク・オバマ候補に好意的な報道が一方的に多かったことを自認する同紙紙面審査委員による分析を掲載しました。

 

 ワシントン・ポストは9日の日曜版に同紙オンブズマン(紙面審査委員)のデボラ・ハウエル記者による「選挙報道でのオバマ傾斜」と題する分析記事を掲載しました。

 

 同記事によると、昨年11月から今年11月4日の投票日直前までの期間にワシントン・ポストに載った大統領選挙関連の記事のうちオピニオン記事では――

 

 ①オバマ候補を賞賛した内容が32本だったの対し共和党のジョン・マケイン候補を賞賛したのが13本だった

 

 ②オバマ候補に否定的な内容が32本、マケイン候補に否定的な内容の記事が58本だった――

 

 、ということでした。

  

 つまり自分の新聞の選挙報道の偏向を数字をあげて、認めているのです。

 

 ワシントン・ポストの一般ニュース報道では昨年11月11日からの1年ほどの間にオバマ氏についての記事が計946本、マケイン氏に関する記事が786本載りました。

 

 そのうち第一面に限ると、オバマ氏についての記事が176本、マケイン氏についての記事が144本でした。

 

 つまりオバマ氏に関する記事が数でも量でもずっと多かったというのです。

 

 記事の内容についてはパウエル記者は

 

「ワシントン・ポストはオバマ氏の学生時代、シカゴでの職業生活の出発、汚職で起訴されたシカゴの不動産業者トニー・レズコ氏との長年の関係などもっと調査報道をするべきだった。オバマ氏が認めた十代のころの麻薬使用についてはポストはなにも報じなかった」

 

 と批判的に自分の所属する新聞のオバマ支持傾向を指摘し、事実上、偏向を非難しています。

 

 パウエル記者の紙面審査のこの記事は、さらにポスト紙の写真の扱いにも触れ、オバマ氏の民主党指名が内定した6月4日以降、三段以上の大きさの掲載写真ではオバマ氏の写真が計311枚、マケイン氏が282枚だったと指摘しています。そのうちカラー写真でもオバマ氏164枚、マケイン氏133枚という差になったと報じています。

 

 同記事はまた副大統領候補の動向の報道にも言及して、ワシントン・ポストはじめ他の大手メディアが共和党のサラ・ペイリン候補の問題点を非常に細かく取材し、報道しようしたのに対し、民主党のジョセフ・バイデン候補に対してはとくになにも報道を許さず、均衡を欠いた、と述べています。

 

 米国の主要メディアの大統領選挙報道が結局は顕著な民主党びいきであることがここでも立証されたといえるでしょう。

 

 でも自らの新聞の偏向をその新聞の記者が同紙上で指摘するというのも、アメリカのジャーナリズムの残された健全さかも知れません。

 

村田良平氏といえば、外務次官、駐米大使、駐ドイツ大使などを歴任した輝ける外交官でした。

 

その村田氏が『村田良平回顧録』という上下二巻の大著作を発表しました。

 

その内容には注視すべき点が多々あります。

 

同書の副題にはそれぞれ「戦いに敗れし国に仕えて」と「祖国の再生を次世代に託して」とあります。

 

カバーには「日本人よ、矜持を持て」「戦後とは何だったのか」とも書かれています。

 

この書は日本外交の貴重な資料となるだけでなく、外務次官まで務めた筆者の長い体験と深い知識に裏付けられた「日本観」が論理と熱情を基に雄弁に述べられている点が衝撃的なほどインパクトを投げかけています。

 

とくにいままた論議を呼ぶ「村山談話」を正面から否定し、その破棄を提唱している点には、注目すべきでしょう。

 

村田良平元外務次官の村山談話に関する記述の一部を以下に紹介します。

 

「村山談話はその内容、表現について国会両院の圧倒的多数の支持がそもそもない状況で出されており、またいずれの国も(若干のリップサービスを除いては)何の注目に値する評価も行わなかったから、日本の無用の自虐行為以外の何ものでもなかった。

 それは当然であって、日本国総理が行ったことは誠意の表明のつもりであったかもしれないが、中国、韓国政府は、そういうものとして受け取る心の用意などさらさらなく、この日本の愚行を先々、外交上の対日圧力に利用しようと考えただけだったのだ。原爆や焼夷弾攻撃で殺戮された人々を代表する権利など村山総理にはない。沈黙以外にない」

 

「日本国民は、60年以上前に終わっている大東亜戦争について謝罪めいたことを述べるのを今後一切やめるべきである。既に出てしまった村山談話の引用も一切止めるべきだ。小泉総理が2005年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)で、村山談話に言及した。これが日本首相による第18回目の公式謝罪だったそうだが、もとより不要であるばかりでなく、場ちがいですらあった。

 おそらく中国は、改めて小泉氏及び日本の指導者への軽侮の念を深めたであろう。誰の進言によってこういうことになったのか、総理の側近なら何をかいわんやであるが、外務省が源であれば、その担当局長は愚か者であり、臆病者だ。今後外務省は明確に『日本の謝罪は十二分に済んでいる』との信念の下に仕事をしてもらいたい」

 

「私が村山談話の取消しを主張するのは、起草者が、村山談話に対し、240万を超す英霊がどう思っておられるかを考えたことがそもそもあるのかとの深刻な疑問を抱くからだ。村山であれだれであれ、海没し、あるいは餓死しtが将兵を含む240万の戦死者と80万の民間の犠牲者の名において、他国に『痛切な反省とお詫びの念』を表明することなど決して許されることではないのだ」

 

本書には以下のような一節もあります。

「過去の日本の戦争についての評価」という章の冒頭です。

 

「過去の戦争について評価するには、あくまで昭和初年から開戦までの全世界的な雰囲気を知らねばならない。現在70歳以上の人は、おおむねこれを心得ている。50歳以下となると、必ずも

 全面的ではないが、米国占領軍の導入した史観をそのまま受け入れている人々が多い。

 

 さもなくば、ひろくはマルキシズム思想一般、狭くは戦前からのコミンテルン主導の妄説(ということは過去50年以上、朝日新聞等の偏向メディア、NHKの一部、岩波書店、人文系東大教授の半分以上の唱えてきた史観や社会観や国際情勢観)の影響が直接、及ぶか、あるいは日本共産党、社会党、日教組、全共闘等、左傾した組合の説を信じこんだ教員の教育によって過去の日本を誤った目で見てきた人々だ」

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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