2008年12月

 次期のアメリカ大統領のバラク・オバマ氏がどんな政策を打ち出し、どんな哲学を実践するのか。

 

 世界中がかたずをのんで見つめているといっても、誇張ではないでしょう。

 

 そのオバマ次期大統領について組閣などを中心に長い記事を書きました。

 

 雑誌『正論』の2009年2月号に掲載された古森のレポートです。

         

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「変革はワシントンからは起きません。変革は外部からワシントンへとやってくるのです!」

 

 アメリカ大統領選キャンペーンの終盤戦でバラク・フセイン・オバマ候補が最も頻繁に口にした言葉だった。

 

 反ワシントンとも、脱ワシントンとも、呼べる言辞だった。

 

 「変革」と「希望」を政策指針のスローガンとして、首都ワシントンでの国政のあり方を首都の外からの新しい風を吹き込むことで根本から変えるぞ、という宣言でもあった。

 

 だがオバマ氏が第四十四代アメリカ大統領に当選してから一ヶ月余り、十二月中旬の時点でみるオバマ次期大統領は逆にワシントンにぴったりと身を寄せてしまったかのようにみえる。

 

 脱ワシントンも、変革も、意外なほどに感じさせない。

 

 ワシントンの外からの新しい風がどこにも感知できない。

 

 むしろ反対に、次第に明らかとなった新政権や閣僚に任命された顔ぶれをみると、びっくりするほどワシントン・インサイダーが多いのだ。

 

 ワシントン政界の長年の常連たちである。

 

オバマ氏のこの変身は、よくもここまで、と思わせるくらい徹底している。

 

同氏自身、大統領に実際に就任するのは二〇〇九年一月二十日であり、新政権はまだスタートしていないのだから、即断は控えるべきではあろう。

 

まずはお手並み拝見ということで、静観すべきという考え方もあろう。

 

だがその一方、次期大統領として公式に発表していく人事などは、当然、次期政権のあり方を投射し、アメリカのメディアや国民の正面からの論評の対象となる。

 

さてそのオバマ人事案をみると、統治の政党自体は当然ながら共和党から民主党へと変わるとはいえ、オバマ新政権を動かす中枢の高官たちはオバマ氏の「反ワシントン宣言」にもかかわらず、ワシントンですでに長年、おなじみの顔ぶればかりとなりそうなのである。

 

 典型的なワシントン・インサイダーということなら、まず国務長官に指名されたヒラリー・クリントン女史だろう。

 

 周知のように、クリントン氏は一九九三年一月に登場したビル・クリントン大統領のファーストレディーとしてワシントンの主舞台にデビューした。

 

 ホワイトハウスでは歴代の大統領夫人でも初めて閣僚待遇の地位を要求し、実際にクリントン政権の閣議にも定期的に出席するという突出ぶりだった。

 

クリントン女史は二期八年の夫の大統領任務が終わった後はすぐ上院議員へと転進した。

 

二〇〇〇年にニューヨーク州選出の上院議員に当選し、翌年からワシントンの連邦議会上院での議員活動を開始した。

 

そして二〇〇八年の大統領選挙に打って出たのである。

 

それまでの軌跡はまさに強烈なワシントニアン(ワシントン人)だった。

 

オバマ氏が大統領に当選後、最初の主要人事の発表として名前をあげたラム・エマニュエル氏も究極のワシントニアンだった。

 

エマニュエル氏といえば、ワシントンの政治の内幕で民主党の活動家として長年、ギラギラとどぎつい活動をしてきた人物である。

 

同氏はオバマ新政権の大統領首席補佐官という中枢ポストに選ばれた。

 

エマニュエル氏はまだ二十代だった一九八〇年代から常に民主党側で選挙活動やロビー活動にかかわってきた。

 

連邦議会の民主党選挙活動委員会のスタッフとなり、一九九二年にはビル・クリントン大統領候補の選挙を支援して、翌年にはホワイトハウスに登用され、大統領の顧問や補佐官を務めた。

 

エマニュエル氏はワシントンの政治ゲームに精通し、同じ民主党内での争いや共和党との戦いではえげつない、しかし威力のある戦術を駆使するケンカ屋としても知られてきた。

 

自分の活動を妨害する政敵に腐りかけた生魚をボックスに入れて送りつけ、心理的な威圧をかけ、沈黙させたというのはワシントン政界でも有名な「エマニュエル・エピソード」である。

 

オバマ氏が政権引継ぎチームのトップに選んだのも、ワシントンでの活動が長いジョン・ポデスタ氏だった。

 

ポデスタ氏は一九七〇年代からワシントンで連邦議会の民主党議員の補佐官やロビイスト、さらには選挙の資金集め役として活動してきた。

 

一九九三年にはクリントン政権に招かれ、大統領の首席補佐官となった。

 

オバマ氏の他の閣僚級の人事となると、同氏のワシントン・エスタブリッシュメント依存はさらに顕著となる。

 

商務長官に任命されたビル・リチャードソン氏は連邦議会の下院議員を務め、クリントン政権では国連大使やエネルギー長官を歴任した。

 

司法長官に任命されたエリック・ホルダー氏も長年、ワシントンを舞台に活動してきた弁護士で、同じくクリントン政権の司法副長官だった。

 

ホワイトハウスの国家経済会議委員長に選ばれたローレンス・サマーズ氏もクリントン政権の財務長官として日本側でもよく知られた人物である。

 

ハーバード大学の学長を務めた最近、女性差別ともとれる発言をして、辞任に追い込まれたが、それよりもワシントンを拠点とする経済や財政の専門家としての声価が高かった。

 

こうみてくると、オバマ氏の選挙期間中の「ワシントン叩き」も、「ワシントンの既成勢力の否定」も、空疎なレトリックに過ぎなかったのか、と思わされてくる。

 

「ワシントン」を切って捨てるかのような言辞を繰り返しながら、いざ当選したとなると、こんどは「ワシントン」にすり寄り、全面依存という感じにまでなってきたのだ。

 

オバマ夫妻が二人の娘、マリアさん、シャサさんをワシントンでは名門私立の「シドウェル・フレンズ」校に入れると発表したことも、なにやら示唆的だった。

 

というのは、この名門校はワシントンのエスタブリッシュメント向けのエリート学校なのである。

 

クリントン大統領夫妻の一人娘チェルシーさんも同校に通った。

 

ちなみに同じ民主党大統領でも一九七七年一月にホワイトハウス入りしたジミー・カーター氏は末娘のエイミーさんをワシントンの一般の公立小学校に入れていた。明らかにワシントン・エスタブリッシュメントに背を向けた選択だった。

 

(つづく)

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 ブッシュ政権の総括が盛んですが、とにかく「負」だけを拡大して、辛辣で過激な非難を浴びせる論調が大多数です。
 
 しかしブッシュ政権も歓迎すべき成果をあげてきた領域も間違いなく存在します。とくに日米関係や中国、インドとの関係はそうでしょう。
  
 イラクの平定、民主化に成功しつつあることも、もし確実に成功すれば、歴史的な大事業でしょう。
 そのへんについて書きました。
  
ブッシュ政権総括 日米同盟を強化 「イラク民主化」歴史が審判
2008年12月26日 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面


 

 
  第43代米国大統領のジョージ・ブッシュ氏はまもなく2期8年の任期を終えるが、大統領としての実績はどう総括されるのか。
 
  多方面からの辛辣(しんらつ)な批判のなかでも、なお確実な成果が認められる分野も存在する。

 ブッシュ大統領の対外政策でも日米同盟の強化は顕著だった。
 
  小泉政権時代の6年について「日米安保関係はこれまでで最高」と評された。
 
  クリントン前政権が中国に傾き、日本に対しては貿易不均衡だけをことさらたたき、安保の絆(きずな)を軽視するようにみえたのをブッシュ政権は共通の価値観による同盟の重視を説き、日米共同ミサイル防衛や横須賀への原子力空母配備などの具体的な措置をとった。

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 ■拉致で支援惜しまず

 民主党寄りの外交評論家ファリード・ザカリア氏もこの点「ブッシュ大統領は中国の台頭がアジアの戦略的バランスを崩すことを知り、日本との戦略的関係を深化させた」として同大統領の功績を認めた。

 北朝鮮に対してもブッシュ大統領は「悪の枢軸」と非難し、金正日政権を追い込み、北が日本の援助を期待して日本人拉致を認めるという効果を生んだ。
 
  拉致問題では横田早紀江さんをホワイトハウスに招き、激励して、その体験を「最も感動的」として語り続けることで日本への支援を惜しまなかった。
 
  ただし政権末期の1年ほど北朝鮮への軟化を示し、北を「テロ支援国家」指定から外したことがそれまでの対日協力姿勢を曇らせる結果となった。

 しかしブッシュ大統領の最大の功績といえば、やはり2001年の米中枢同時テロ以降、「愛国者法」の施行などにより米国本土では一件のテロも起こさせなかったことだろう。
 
 
  その対テロ戦争の広がりとしてのイラクのフセイン政権の打倒と民主化も、歴史的な重みを持つ政策だった。

 イラクでは大量破壊兵器の備蓄が発見されなかったことや平定への犠牲が予測をはるかに超えたことなど、負の部分は大きかった。
 
  だがその半面、中東の戦略的要衝にもしフセイン政権という自由主義陣営への敵性国家が存続した場合、あるいは新生イラクの国づくりを放棄して米軍が一方的に撤退した場合、日本をも含めての国際社会への打撃や不安、脅威は計り知れなかった。

 その中東の要衝に米欧に顔を向けた民主主義国家が誕生しつつあることは米側への戦略的価値からも、また中東の民主化という歴史上の壮大な実験という点からも、前向きに評価されるだろう。
 
  この点、ブッシュ大統領をつい数日前にインタビューした保守系政治評論家のチャールズ・クラウトハマー氏は「中東の心臓部にいた憎悪いっぱいの敵が対テロ戦争での戦略的な同盟国に変容することは歴史によって必ず歓迎の評価を受けるだろう」と伝えた。
 
  ブッシュ大統領自身も「イラクの平定と民主化は究極には歴史の正当性を証するという冷静さと自信を示した」という。

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 ■対中印外交に評価の声

 同大統領は米国一般の多くから金融危機での失態まで罪を負わされた。
 
 とにかく同大統領へのののしりこそが表明する側の良識を証するような印象さえ生まれてきた。
 
 
 ところが専門家側では前述のザカリア氏のようにブッシュ大統領が中国との関係を実利的にうまく管理し、インドには事実上の核兵器保有を認め、中国を牽制(けんせい)しての米国の戦略的パートナーにすることに成功したという指摘がある。

 ブッシュ大統領の特別補佐官を務めたデービッド・フラム氏は同大統領の「遺産」は「思いやりのある保守主義」としてアフリカのエイズウイルス感染者へ過去最大の医療援助を供したことを強調し、対外政策の一部の継承はオバマ政権によってもなされると書いた。

 世論調査の支持率では政権末期に22%にまで落ちたハリー・トルーマン大統領がその後、米国の歴史でも7番目に人気の高い大統領と目されるようになった。
 
  ブッシュ大統領がどのような歴史の審判を受けるのか、なお即断はできないようである。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

【あめりかノート】ワシントン駐在編集特別委員・古森義久


 

 ■ニッポン的マフィアとその父

 

 日本のドキュメンタリー映画「TOKYO JOE」をみた。

 

 所用で東京に一時、戻った際、ちょうど封切り後まもない時期だったのだ。

 

 この映画は「マフィアを売った男」という副題が示すように、シカゴの本格マフィアの大幹部となったケン・エトーという日系米人2世のスリルに満ちた人生を追っていた。

 

 裏社会ではトーキョー・ジョーと呼ばれたエトー氏は賭博開帳罪などで訴追され、マフィア側から裏切りを疑われ、殺し屋に3発の銃弾を頭に撃ち込まれる。

 

 だが生き延び、マフィアへの報復に出るという物語である。このコラムでも今年5月に取り上げた。

 

 上映中の新宿の映画館はほぼ満員だった。

 

 流れる言葉はすべて英語、字幕だけが日本語という小栗謙一監督の手法は斬新で、観客にも熱気が感じられた。

 

 そんな情景に、ついうれしくなった。

 

 この映画の企画の原案が自分だったからだ。

 

 1983年2月にエトー氏が銃撃された後すぐシカゴなどに出向き、彼の軌跡を調べ「遥(はる)かなニッポン」というノンフィクションの書の主要な一章としたのだった。

 

 だから当時、「エトーは犯罪者とはいえマフィア内部では忠誠とか献身という古典的なニッポンの資質を発揮しました」などと私に告げたシカゴ地検の特捜検事が、二十数年後のいま、スクリーン上での回想で同じ趣旨を語るシーンには思わず身を乗り出した。

 

 忠誠を保った相手に裏切られたのだから、もう捜査当局に全面協力することが自然だと検事は説き、エトー氏の全証言を得たのだった。

 

 彼の波乱の一生は日本とアメリカの交流の物語であり、父と子の離反の物語でもあった。

 

 だから映画でも父の衛藤衛(まもる)氏にかなりの光が当てられているのを知ってほっとした。

 

 エトー氏の足跡をたどりロサンゼルスで会った衛氏はすでに101歳だった。

 

 だがカクシャクなどという表現が吹き飛ぶほど活気にあふれた人物だった。

 

 4時間以上の懐旧談で彼が最も熱をこめたのは日露戦争の体験だった。

 

 21歳の衛氏は九州の小倉の第12師団の兵士として出征し、遼陽の会戦に加わった。

 

 「ひどい目にまあ遭いましたですよ。連隊長がやられ、大隊長も中隊長もやられ、みーんなやられてしまった-」

 

 砲兵連隊の司令部で戦闘詳報を書く任務の衛氏はロシア軍の猛攻を迫真の描写で語った。

 

 そんな雄々しい明治を絵にしたような厳格な日本人の米国生まれの息子がマフィアとなる。

 

 その原因の一端は衛氏自身にもあったのだという。

 

 「一家みんなでカリフォルニアの農場で働いていたとき、私が14歳のケンを勘当したのです。非常にそれを後悔しております」

 

 長男のケンが仕事の手を抜き、弟たちを再三いじめるので「出ていってしまえ!」とどなると、本当に出ていってしまった。

 

 日本ではその時代の子供は親から出ていけといわれても、出てはいかなかったのだという。

 

 日露戦争の日本がマフィアのアメリカへとつながる衛藤家の日米系譜では、父と子の葛藤(かっとう)は両国の慣習の差異で決定的になったようだ。

 

 エトー氏の証言でマフィアの最高幹部ら計15人が逮捕され、有罪とされたことも映画で初めて知った。

 

 なんとそこにはシカゴを抱えるイリノイ州の知事もいた。

 

 そしていま現職の同州知事が汚職容疑で摘発されたのだから、この映画は米国の最も深い負の流れをくみ上げたのだとも読めそうである。

 

 (こもり よしひさ)

 

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オバマ次期アメリカ大統領についての論文の紹介です。

今回の分でその紹介は終わりです。

 

 

なおオバマ政権下で日米同盟がどうなるか、などについては以下のサイトに書きました。

 

 

 

 

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環境問題に関連してオバマ氏は上院議員としてはアメリカ大陸沿岸海域での石油開発に反対していた。

 

原子力発電所の建設にも難色を示し、従来の禁止令を保つことに賛成するという態度だった。

 

いずれもリベラル派としてのスタンスである。

 

ところが大統領選のスタートで石油の値上がりや全般的なエネルギー不足が問題になると、石油の沿岸開発に対しても、原子力発電所の建設に対しても、態度を軟化させてしまった。

 

 

社会問題でもオバマ氏は妊娠中絶や同性愛結婚には寛容というリベラル派の基本姿勢が明確である。

 

オバマ氏が二〇〇七年九月のアイオワ州での予備選で民主党の他の候補たちと集会の舞台に立ち、アメリカ国旗が掲揚されるのに対し一人だけ右手を胸にあてての敬意の表明をしなかったというエピソードも広範に伝えられた。

 

愛国心というような意識が薄いのだ、という解説がもっぱらだった。

 

これまたリベラル派の特徴だといえよう。

 

安全保障に関してはオバマ上院議員は軍事力増強につながる措置にはいつも反対し、核兵器の廃絶というようなことまで唱えた軌跡がある。

 

大統領候補となってからはイランや北朝鮮の核武装問題に対して、「私自身がアメリカ大統領としてそれぞれの相手国の首脳にいっさいの前提条件をつけずに個別に会談し、問題の解決を図る」と言明して論議を呼んだ。

 

 オバマ大統領がなんの前提条件なしに「無法国家」の北朝鮮の金正日書記らと首脳会談をする、というのである。

 

 これまたリベラル融和外交といえよう。

 

 しかしオバマ氏は全体としては上院議員時代に示してきた超リベラル、左傾斜の政策や主張を大統領選挙では大幅に薄める結果となった。

 

 まだまだ自らをリベラルよりも保守とみなす国民がずっと多いアメリカでは候補者たちは中道からやや保守寄りのスタンスをとらなければ、当選は難しいとされるのだ。

 

 だからオバマ氏も最大限、中道や保守の方向へシフトしたのだといえよう。

 

 ところがそれでもオバマ氏の上院議員時代の明確な左カーブはなお記録に残っている。

 

 ただしその軌跡が大手メディアによって詳しく報じられることがきわめて少ないのだ。

 

 だからその軌跡こそがオバマ氏に関する影となるのである。

 

 本番の大統領選ではそのオバマ氏の超リベラル志向は影のままほとんど光をあびないできたといえる。

 

 だがそれでも本番キャンペーンでは衣の下のヨロイのようにちらつくことはときおりあった。

 

 問題はこんご新大統領としてのオバマ氏がどれだけ本来のリベラル色を打ち出していくか、である。

 

 そうした問題や疑問はオバマ氏の第一の影の生まれや育ちにからむ特性、そして第二の過激派とのつながりが示す特徴についても同様だといえる。

 

 だからこそオバマ大統領の未知の領域はまだまだ広く、その未知が生むアメリカ国民の側の不安もなお根深いといえるのである。

 

          (終わり)

   

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http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/90/

          

 

オバマ次期アメリカ大統領についての雑誌論文の紹介を続けます。

 

なおオバマ政権下での日米関係がどうなるか、レポートを別のサイトに書きました。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/90/

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第三の影はオバマ氏の本来の超リベラル志向である。 

 

歴代大統領のなかでもオバマ氏ほど政治経験の少ない人物は珍しいが、国政レベルではわずか三年余の上院議員歴だけのなかでも「上院議員百人のうちでも最もリベラル」と判定されていた。

 

この場合のリベラルとは、「大きな政府」策に基づき、民間への政府の介入や規制を増すことを主唱し、経済面での自由競争や福祉面での自助努力を抑えようという思考だといえる。

 

対外面では軍事を軽視し、対話や協議を優先させ、同盟関係よりも多国間関係を重視する。

 

上院議員としてのオバマ氏はイラク介入に激しく反対し、イラクからの米軍の早期撤退や戦費の大幅削減を唱えていた。

 

労働組合に支援されているから「アメリカ労働者の雇用」を極端に重視し、一連の自由貿易協定に難色を示した。

 

北米自由貿易協定(NAFTA)に反対を表明しながら、カナダの政府には「本音ではないから心配するな」とひそかに告げていた事実が一部メディアにもれて、あわてて否定するという一幕もあった。

 

他方、オバマ氏は外国に生産施設を移すために対外投資を増やすアメリカ企業には特別の課税をするという上院法案にも共同提案者となっていた。

 

要するにオバマ上院議員は保護貿易主義へ明白に傾斜し、労働組合への配慮から外国投資まで抑制するという過激リベラル志向をいやというほど、みせてきたのだ。

 

健康保険に関してもオバマ上院議員はアメリカ国民の多数派がなお「社会主義的」だとして否定的な政府による国民皆保険への賛同を唱えてきた。

 

その一方、大企業への批判的な傾向からキャピタル・ゲイン税や法人税の引き上げを奨励してきた。

 

「富や所得の再配分」というのもオバマ議員の好みのスローガンだった。

 

税制では高所得層への税金の率を思い切って高くして、多額の課税をし、政府としてはその分の税収入増を低所得層に減税や福祉という形で「再配分」するという仕組みだった。

 

本番の選挙戦でもオバマ候補は「年収二十五万ドル以上の高所得者を除いては国民全員のうちの九五%に対し減税を実施する」と言明した。

 

高所得層は所得が多いというだけで悪者扱いをして、その富を収奪し、貧困層へ再配分するという発想である。

 

共和党側からはこれに対して「社会主義的税制」という非難がすぐに飛び出した。

 

さらにはアメリカ国民の四〇%近くが最低課税対象額の所得を得ておらず、その結果として所得税を納めていない事実が判明し、共和党側からはこのオバマ大減税案への不信がぶつけられた。

 

オバマ氏はこの減税については選挙キャンペーン中に減税対象から外す高所得者層の所得水準として当初の年収二十五万ドルから二十万ドル、十五万ドルと、どんどん引き下げる言明を重ねて、真意がどこにあるか、国民の多くを戸惑わせた。

 

(つづく)

 

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