2008年12月

WILL2009年1月号に載った記事の紹介の続きです。

 

この部分はオバマ氏と過激派勢力との年来のつながりについてです。

 

なおオバマ政権下で日米同盟がどうなるのか、などに突いて以下のサイトに書きました。

 

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/90/

 

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オバマ氏に関する第二の影の部分は同氏と過激派とのつながりである。

 

インドネシアからハワイに戻ったオバマ少年は母の両親のスタンレー・ダンハム氏とマデリンさんの夫妻に育てられ、ホノルルの名門私立校に通う。

 

優秀な成績をあげ、やがてはコロンビア大学、ハーバード大法科大学院と進んでいく。

 

しかしオバマ氏は大学を卒業してすぐの一九八三年ごろからシカゴの黒人地区で「コミュニティー・オーガナイザー」という職業に就くことを決める。

 

そして八五年には実際にその種の組織に加わった。この組織は当時、大統領だったレーガン氏の保守主義に反発し、「草の根レベルでの黒人の変革」を求めるリベラル政治色の濃い団体だった。

 

オバマ氏は具体的には貧しい黒人層の生活扶助や住宅改善、政治権利の拡大、そして政治組織づくりなどの活動に専念していたようだ。

 

八八年にはこの活動を一時、休んでハーバード大学のロースクールに学び、弁護士となって一九九一年にまたシカゴに戻った。

 

こういう軌跡のなかでオバマ氏はアメリカの一般の政治基準では明らかに過激とされる活動家たちとのきずなを築いていた。

 

その実態の一角が大統領選の過程で少しずつ表面に出たのだった。

 

まず多くの人を驚かせたのは一九七〇年代に一連の爆破を実行した極左テロ組織「ウエザーマン」の元幹部たちとの交流である。

 

都市ゲリラ戦による革命を唱える同組織の創設に加わったビル・エアーズ氏とその妻のバーナデット・ドーン女史との連帯だった。

 

この夫妻は国防総省や連邦議会、主要銀行などの爆破の犯行に加わり、指名手配されて地下に長年、潜伏していた。

 

だがその後、捜査側の証拠入手の不備が判明したり、一定期間の服役により一応の社会復帰を果たしていた。

 

だがエアーズ氏は九・一一同時テロの直後、自分たちの過去のテロ活動について問われ、「もっと破壊しなかったことが悔やまれる」と述べていた。

 

オバマ氏はこの夫妻と九〇年代から交流し、シカゴの地域活動やイリノイ州議会での政治活動について助言や支援を受けていた。エアーズ氏とはともに民間教育財団の役員を務めていた。

 

だがオバマ氏は最初、そのつながりを質問されると「近所に住む知り合いにすぎない」と答えていたのだった。

 

 シカゴの黒人キリスト教会のジェレマイア・ライト牧師にオバマ夫妻が二十年間も信仰上の指導を受けてきた事実も一時は大きな話題となった。

 

 ライト牧師は「アメリカに呪いあれ!」と叫ぶ過激派の黒人活動家である。

 

 白人主体の社会への憎悪さえみせて、「アメリカ政府がエイズをつくりだした」などとも唱えてきた。

 

 オバマ氏はこの牧師の説教を毎週受けて、結婚式でも司宰を頼んでいた。

 

 だがこのつながりを問われると、オバマ氏は「もう一切の関係を断った」と宣言したのだった。

 

 もっと若い世代ではオバマ選対のブログの責任者のサム・グラハムフェルセン氏の例もあった。

 

 同氏はハーバード大学を二〇〇三年に卒業したばかりの青年だが、社会主義やカール・マルクスへの信奉を明白にした言論や政治の活動を続けてきた。

 

 自室にいつも旧ソ連共産党の旗を掲げ、ノーム・チョムスキー氏の弟子をも自称する左派の活動家である。

 

 全米各州で有権者登録の不正事件を起こした「共同社会組織即時改革協会」(ACORN)という民主党系左派の団体にオバマ氏がかつて密着していたことも、共和党側から非難された。

 

 この組織は黒人など少数民族や低所得層の住宅融資や福祉拡大に努める一方、各種選挙での民主党候補支援のため、少数民族などの有権者登録活動を推進してきた。

 

今回もオバマ支持を鮮明にして全米で合計百三十万人の有権者登録に成功したと発表していた。

 

ところが選挙戦後半にペンシルベニア州でACORNが登録を申請させた有権者二十五万のうち六万近くが手続きの不備や不正を理由に却下されるなど、各地での不正が明るみに出た。

 

しかもオバマ氏自身がかつてACORNの顧問弁護士を務めていた事実も判明したのだった。(つづく)

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 東京で12月13日から「TOKYO JOE」というドキュメンタリー映画が公開されました。

 

 小栗謙一監督の作品、製作は奥山和由氏です。

 

 トーキョー・ジョーとは1980年代にシカゴの本物のマフィアの大幹部としてその名を全米にとどろかせたケン・エトーのことです。

 

 日系二世のエトーの数奇な人生は私がかつて『遥かなニッポン』というノンフィクションで紹介しました。

 

 だから今回、公開された映画でも「原案・古森義久」となっています。

 

 映画の内容、ケン・エトーとはどんな人物だったのか。

 

 以下の産経新聞の記事で一端がわかると思います。

 

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アメリカ犯罪史上、最も悪名高き日本人。人は彼を“東京ジョー”と呼んだ。

 
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映画「TOKYO JOE」公開 マフィアを売った男の人生
2008年12月07日 産経新聞 東京朝刊 生活・文化面


 

 1985年4月22日。米大統領組織犯罪諮問委員会がシカゴで開いた公聴会に、黒装束で全身を覆ったマフィアの幹部が証人として登場した。
 
 謎に包まれたマフィアの世界が暴露されることを期待して、会場には多数の報道陣が詰めかけた。
 
 その中に刺客が潜入している可能性もあり、男は装束の下に防弾チョッキをつけていた。

 男の名はケン・エトー。1919(大正8)年、カリフォルニア州ストックトンの農場で生まれた。
 
 父は大分県出身の牧師。

 ケンが生まれた5年後の24年、日本からの移民を禁止する「排日移民法」が制定される。
 
 低賃金で勤勉に働く日本人移民が白人労働者に脅威を与えたこと、成功した日系人が土地を手に入れ始めたことなどから醸成された強い反日感情が背景にあった。

 ケンが13歳のとき、慣れぬ土地の暮らしに精神を病んだ母が日本へ帰される。
 
 そして14歳のとき、強権的な父に反抗して家を飛び出した。
 
 ケンは農場や缶詰工場などで働きながら、イカサマ博打(ばくち)に手を染めるようになる。
 
 41年、太平洋戦争が始まると、アイダホ州のミニドカ収容所に収容されるが、ここでも同胞相手に博打ざんまいの日々を送り、イカサマの腕を磨いた。

 「当時の日本人コミュニティーには博打場や売春宿が当たり前のように存在し、そういう場所は日本で渡世人をしていた連中が仕切っていました。彼らは客を待つだけではなく、収穫期になると日本人社会に行って賭場を開き、同胞からカネを巻き上げていた」

 そう解説するのは、カリフォルニア州の農場で働いた体験をもとに書いた「ストロベリー・ロード」で大宅賞を受賞した作家の石川好さんだ。

 「日系二世は米国生まれで市民権を持つにもかかわらず、米国の一般社会からは『英語を話す日本人』としか見られません。こうしたこともケンの人生に影を落としたのでは」と、ケンが博打で世を渡ることになった背景を分析する。

                   ◇

 太平洋戦争後、収容所から出たケンは「モンタナ・ジョー」と名乗り、日系二世を中心としたファミリーを作ってカネを稼いで回る。
 
 そんなケンに目をつけたのがイタリアンマフィアだった。彼はシカゴに移り、組織の幹部にのし上がってゆく。
 
 そのころから「トウキョウ・ジョー」とも呼ばれるようになった。

 かねてからこの日系マフィアに目をつけていた連邦捜査局(FBI)はついに賭博開帳容疑でケンを検挙、83年1月19日にシカゴ連邦地裁は有罪判決を下す。
 
 量刑言い渡しの日まで保釈されていたケンは2月10日、大幹部に食事に誘われ、組織の回した車に乗った。

 車は人気のない場所に停車、その刹那(せつな)、ケンは後頭部に3発の銃弾を撃ち込まれる。
 
 秘密の漏洩(ろうえい)を恐れた組織が口封じを図ったのだ。
 
 奇跡的に一命を取りとめたケンは「沈黙の掟(おきて)」を守ろうとした自分を裏切った組織に報復すべく、FBIの協力者となり、2年後の公聴会に登場する-。

                   ◇

 謎に包まれたケンの人生を関係者の証言と記録フィルムで描いたドキュメンタリー映画「TOKYO JOE マフィアを売った男」(小栗謙一監督)が13日から東京の渋谷シネ・アミューズと新宿バルト9で公開される。
 
 公聴会でケンが何を証言し、マフィアの組織はどうなったのか。
 
 その結果は映画で確認してほしい。

 

オバマ次期大統領の閣僚任命がどんどん始まりました。

 

異例のスピードです。

 

歴代の大統領当選者は当選から就任までの2カ月半ほどの期間、次期政権の閣僚らの任命をそれほどは急ぎません。

 

一つには、アメリカの大統領はまだ現職が厳然と存在するという理由もありましょう。

 

しかしオバマ氏はそんな慣例は無視して、超速度で任命を進めています。

 

閣僚級はみな議会の承認を得なければ、就任できません。

しかし民主党多数の議会ではオバマ新大統領の人事案を止めてしまうという見通しはあまり高くありません。

 

さて、こうしたオバマ氏の動きはなにを意味するのか。

 

記事を書きました。

 

ヘッダー情報終了【朝刊 1面】
記事情報開始【チーム・オバマを占う】(1)「変革」から「継続」「ワシントン」依存か

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 「変革」が一夜にして「継続」となり、「反ワシントン」が「親ワシントン」へと一変した-。
米国のバラク・オバマ次期大統領の新政権づくりが急速なペースで進む首都ワシントンでは、いまやこんな反応が一気に広まった。

 「変革」と「希望」を一貫したスローガンとして選挙を戦ったオバマ氏は、終盤ではとくに「変革はワシントンからは起きない。

 

 外部からやってくるのだ」と熱をこめ、叫び続けた。首都に長年、築かれてきた既成の政治の体制や概念とは正面から決別するという宣言としてひびいた。

 

 ところがオバマ氏は国防長官にブッシュ政権の現職ロバート・ゲーツ氏を、財務長官にこれまた現政権下の連邦政府機関たるニューヨーク連銀総裁のティモシー・ガイトナー氏を、それぞれ任命した。

 

 少なくとも国家安全保障と経済・財政政策に関しては「オバマ氏は当面、変革ではなく継続を選んだ」(長老政治評論家のデービッド・ブローダー氏)という反応が不満と安堵(あんど)を錯綜(さくそう)させながら渦巻いたわけだ。

 

 オバマ氏が新政権の主要人事として最初に発表したのは大統領首席補佐官へのラム・エマニュエル氏の起用だった。

 

 同氏はワシントンの究極のインサイダーだったからオバマ氏の脱ワシントン宣言をいぶかる声が起きた。

 

 エマニュエル氏は20代だった1980年代からワシントンで民主党の政治活動に身を投じ、クリントン政権の大統領顧問などを7年も務めた。

 

 ワシントンの政治ゲームに精通する同氏は度し難い政敵に腐りかけの生魚を箱に入れて送り、威圧して沈黙させたという有名な話もある。

 

 オバマ氏が政権引き継ぎチームの責任者に選んだジョン・ポデスタ氏も70年代からワシントンで民主党議員の補佐官やロビイストとして活動し、90年代はクリントン大統領の首席補佐官だった。

 

 オバマ氏は選挙戦中のレトリックとは対照的にいまやワシントンの既成勢力にすっかり身を寄せたようにみえるのだ。

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 ■第3次クリントン政権?

 

 オバマ次期政権は「第3次クリントン政権」になるという皮肉な評もある。

 

 人事面だけみると的外れともいえない。

 

 エマニュエル、ポデスタ両氏に加え、象徴的なのは国務長官に任命されたヒラリー・クリントン氏である。

 

 商務長官に選ばれたビル・リチャードソン氏もクリントン政権の国連大使、司法長官に任命されたエリック・ホルダー氏も同政権の司法副長官、国家経済会議委員長となるローレンス・サマーズ氏も同政権の財務長官だった。

 

 オバマ夫妻が2人の娘を、クリントン夫妻の娘チェルシーさんが通ったワシントンのエスタブリッシュメント向け私立名門校に入れることを決めたというのも、なにやら示唆的である。

 

 ここまでの人事から政策を占っても、上院で最もリベラルとされたオバマ氏の左傾の展望は表面にはなかなか出てこない。

 

  ヒラリー・クリントン氏がイラク攻撃に賛成していたように、次期政権に登用された人たちの軌跡は過激リベラル路線からはほど遠くみえる。

 

  オバマ氏のこうした変身ぶりをどう読めばよいのか。

 

 アフガニスタンなどでの対テロ戦争、イラクの平定と民主化の大詰め、そして米国自体の金融危機、経済不況と、さし迫る緊急課題の数々は次期政権にもまずは継続以外の選択を与えないからか。

 

 そのための民主党の人材といえば、まずクリントン政権を支えた層に頼るほかないからか。

 

 あるいは上院での激しい左傾志向を大統領戦ではすっかり隠したオバマ氏は、この種の変身こそが天性なのか。それとも多様な人材を使いこなし結局は自ら信じるリベラル政策を打ち出すのか。

 

 ワシントンではこのナゾ解きがまだその幕さえ開いていないせいか、なんとも落ち着かない日々が続くのである。

 

(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 

 

 

 

 

 

 

バラク・オバマ次期米国大統領について雑誌『WILL』2009年1月号に書いた論文の続きを紹介します。

 

今回はオバマ氏の影の部分、とくに生まれや育ちをめぐる一連のナゾについて、です。

 

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オバマ氏のそうした影の部分に光をあててみよう。

 

第一はオバマ氏の出自に関する影である。

 

オバマ氏はケニア人の黒人留学生を父に、カンザス州出身の白人女性を母に、一九六一年八月、ハワイのホノルルで生まれたことは広く知られている。

 

だが同氏自身のフセインというミドルネームがイスラム教徒だった父親と祖父の両方に由来していることは、アメリカの大手メディアではまず触れられることがなかった。

 

もちろんイスラムという宗教やその信者がそれ自体、悪いことはなにもない。

 

ただ現在のアメリカではキリスト教徒が絶対多数であり、イスラムは往々にして非民主主義的な価値観や、最悪の場合、テロリズムと結びつけて考えられることも少なくない。

 

国政レベルでの選挙では候補者がイスラム教徒という例はまず皆無に近い。

 

アメリカの国政ではイスラム教徒は超少数派であり、イメージとしてもハンデを負わされるのだ。

 

オバマ氏の「フセイン」というミドルネームはケニア人のイスラム教徒だった祖父フセイン・オニャンゴ・オバマ氏からの継承だった。

 

祖父はケニアのルオ族で、村の長老だったという。

 

しかし今回の大統領選挙キャンペーンではそのミドルネームがマスコミに出ることは皆無に近かった。

 

共和党側の一部で「フセイン」を口にすれば、オバマ陣営からはただちに「人種や宗教の差別だ」という激しい反撃が浴びせられた。

 

その結果、オバマ氏の「フセイン」という名は事実上のタブーとなり、フルネームを記述することさえも禁忌となった。

 

もし共和党側の大統領候補にフセインというミドルネームを持つ政治家が出たとすれば、ニューヨーク・タイムズをはじめとする民主党びいきの大手メディアはその政治家のルーツを徹底して検証する調査報道を展開したことだろう。

 

だがオバマ氏に関してはその名前自体も、その名の由来も「影」となり、光をあてられることはなかった。

 

オバマ氏自身は一九九五年に出版して、全米ベストセラーとなった自叙伝『父からの夢』(日本語版タイトルは『マイ・ドリーム=バラク・オバマ自伝』)で自分のルーツについて詳しく書いていた。

 

その自伝によると、オバマ氏の父バラク・オバマ氏(オバマ氏は父の名前をそのまま継いだ)は息子の生後まもなく単身でハワイを離れ、アメリカ本土へ移ってしまう。

 

その理由はハーバード大学の博士課程での奨学金を得たものの、その金額が家族を養うには十分ではなかったことだという。

 

その結果、オバマ氏は母アン・ダンハムさんとハワイに残って暮らす。

 

だが父子や夫婦の愛はその後もずっと保たれた、という記述だった。

 

しかしオバマ氏のルーツなどをより批判的な立場から調査報道の形で詳しく追跡した『オバマ国家』(ジェローム・コルシ著)という書によると、オバマ氏の出自は本人の主張とは数多くの点で大きく異なるという。

 

二〇〇八年はじめに出版され、全米ベストセラーとなったこの書の著者コルシ氏は、ハーバード大学で政治学博士号を取得した学者である。

 

著作活動も活発で二〇〇四年には民主党大統領候補ジョン・ケリー氏のベトナム戦争へのかかわりを詳述した書を出して、話題となった。

 

保守派ではあるが共和党員ではないという人物である。

 

『オバマ国家』によると、オバマ氏の父親はハワイに留学してきたときはすでにケニアでケジアさんというケニア人女性と結婚し、子供二人がいて、ハワイでのオバマ氏の母親アンさんとの結婚は事実上の重婚だった。

 

しかもオバマ氏の父はアンさんと息子を捨てて、本土に渡ったのであり、ニューヨークの「社会調査ニュースクール」大学からは家族の生活費をも含めての奨学金を得ていたから、「家族を養えない」という主張は事実ではなかった、というのだ。

 

このへんの実態はイギリスの大手紙デーリーメールなどがケニアの現地取材を基に何回も詳しく報道している。

 

オバマ氏の父はアメリカで経済学を学んだ後、ケニアに戻るが、その前に別のアメリカ人白人女性のルース・ナイドサンドさんと結婚している。

 

アンさんと別れた後の結婚であり、ケニアにはルース新夫人を連れて帰った。

 

そしてケニアではルースさんと暮らしながら、なおケジアさんともきずなを保った。

 

父親のこのへんの複雑な女性や家族の関係はオバマ氏の自伝には出てこない。

 

父親はケニアでは満足のいく職を得られず、アルコール中毒となって、飲酒運転で事故を起こし死亡する。

 

事実上の自殺だとされた。

 

一九八二年のことである。

 

このへんの状況も『オバマ国家』やデーリーメールその他で詳しく調査されている。

 

だがオバマ氏自身は自伝では父親の死を単に事故死と記していた。

 

さらにオバマ氏の少年時代のインドネシアでの生活がミステリアスである。

 

母のアンさんはオバマ氏の誕生から四年後の一九六五年にはやはりハワイでインドネシアからの留学生だったロロ・ソエトロ氏と再婚した。

 

ちなみにアンさんはハワイ大学で人類学を専攻していた。

 

一九六八年にはオバマ氏は母に連れられ、インドネシアに移住する。

 

継父となったソエトロ氏は当時、誕生したばかりのスハルト政権の政策で他のインドネシア留学生たちとともに本国へ戻されたからだった。

 

アメリカで地質学などを学んでいた同氏は、他のインドネシア人同様、イスラム教徒だった。

 

 オバマ氏の自伝によると、オバマ母子はソエトロ氏とともにジャカルタ地区に一九六八年から一九七一年まで住んだ。

 

 オバマ氏が六歳から十歳の期間だった。

 

 この間にアンさんはソエトロ氏の子供を七〇年に出産した。

 

 オバマ氏の父親違いの妹となるマヤ・ソエトロさんだった。

 

 このインドネシア時代のオバマ氏の生活や教育にいまなおベールに包まれた部分が多い。

 

 一つにはオバマ氏の滞在期間だが、マヤさんの後の証言では六八年から七三年までだという。

 

 オバマ氏自身が述べた期間より二年も長いのだ。

 

 自伝ではインドネシアでのオバマ少年はジャカルタの私立のカトリック系インターナショナル・スクールへ入れられたことになっている。

 

 だがインドネシア側での記録や証言では、次のような情報も続出していたという。

 

「当時、バリー・ソエトロと呼ばれたオバマ少年は二年ほどは地元の公立学校に通い、イスラム教に基づく教育を受け、イスラム聖典のコーランを読誦させられていた」

 

「オバマ少年は一時はイスラム教を集中的に教えるマドラサにも通い、宗教教育を受けていた」

 

「インターナショナル・スクールの書類には『バリー・ソエトロはホノルルで生まれたインドネシア国籍の少年である』という記述があった」

 

以上のような情報は今回の大統領選ではオバマ陣営からみな否定された。

 

なによりも強調されたのは「オバマ氏はキリスト教徒であり、イスラム教信者だったことはない」という点だった。

 

以上、述べてきた出自をめぐる曖昧さもオバマ氏自身の大統領としての資質とは無関係だともいえよう。

 

これほど数奇で複雑な生まれや育ちにもかかわらず、アメリカ社会で傑出した業績を積み重ねてきた事実はオバマ氏の才能と努力の成果だともいえよう。

 

またこれほど外国の要素が強い人物でも、大統領にまでなれる点にこそアメリカの国家や社会の開かれた偉大さがあるのだ、という議論も十分に成立するだろう。

 

しかしその一方、これほど異端な出自がアメリカ国民一般にとってはほとんどベールに包まれたまま選挙キャンペーンが戦われていった事実は、やはり奇異だといえる。

 

さらにはオバマ氏の生まれや育ちにつきまとう独特の「非アメリカ的」要因がその後のアメリカの政治指導者としての同氏にどれほどにじんできたのか、どうにも不明な部分が多く残ることも否定できない。

 

マケイン候補に票を投じたアメリカ有権者のなかには、この点に不安を述べる人たちも多かったのである。

 

(つづく)

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アメリカに端を発した金融危機からの世界の経済不況がこんごの国際関係や外交関係をどう変えるのか。
 
とくに非経済の安全保障、政治、テロリズムというような領域も経済の不況で変わってしまうのか。
 
そんな疑問を取り上げたコラム記事を書きました。
 
 
 
【緯度経度】ワシントン・古森義久 不況は世界を変えるか
2008年12月06日 産経新聞 東京朝刊 国際面


 

 インドのムンバイで起きた大規模なテロ事件は二重、三重の意味で衝撃的だった。
 
 殺戮(さつりく)や破壊のすごさとともに、この世界はカネの動きだけでは支配されないという冷徹な現実を突きつけたからだった。


 最近の世界は、米国の金融危機が火をつけた国際的不況の広まりにどっぷりと侵食されきった感じだった。
 
 金融とか経済という事象だけが人間集団を虜(とりこ)にし、統御するかの観があった。
 
 ところがムンバイでのテロは人間も国家も、ときには金融や経済の枠をまったく超えた要因に突き動かされるという単純な摂理を示したといえよう。

 とはいっても経済の変化が政治、軍事、安保など非経済の領域にも大きな影響を及ぼしていくのも、これまた世界の現実である。
 
 だからいまの米国の国政や言論の場では、現在の経済不況や金融危機が国際関係をどう変えていくのかをめぐる議論も活発となってきた。

 ブッシュ政権で国家安全保障会議や国務省の枢要ポストを歴任した米国外交問題評議会のリチャード・ハース会長は「不況は外交政策になにを意味するか」という題の論文を米紙に発表して、次のように論じた。

 「不況は米国政府に国内経済刺激への巨額の支出を余儀なくするため、防衛と対外援助の予算がどうしても大幅に削られる。防衛と援助は米国の対外的なパワーと影響力の主要手段だから、その削減は米国の国際的主導権を弱める」

 米国議会調査局も、米国の金融危機が米国の対外政策にどんな意味を持つかを調査した議員用の報告書で伝えていた。

 「この金融危機は、米国が全世界に向けて広めてきた『自由市場資本主義』の終わりの始まりを告げるのかどうか。この問いかけへの答えは米国の対外政策自体の将来を左右する」

 今回の金融危機と経済不況が招きうる国際的な変化としてよく指摘されるのは、グローバリゼーションへの影、とくに米国主導の自由市場経済や規制緩和の流れへのブレーキである。
 
 不況は各国の経済に閉鎖傾向を生み、保護貿易主義を広げる、という説もある。

 こんごの経済では自由よりも国家の介入が再評価されるため、独裁国家の中国や北朝鮮が少なくとも政治的に元気づくという観測もある。
 
 その一方、不況は貧困を増すため、開発途上国では政治の不安定が強まるという見方もある。

 そんななかでとくに注視されたのは米国とすでに対立してきた諸国の動向だった。
 
 金融危機が国際的に反米風潮を強めるのかという設問と一体の主題だった。
 
 たとえば米国が核兵器開発を非難してきたイランでは、政権中枢の高官が「この金融危機は米国への神の罰なのだ」とうれしげに言明したという報道がワシントンにも伝えられた。

 国連総会でブッシュ大統領を「悪魔」と断じたチャベス大統領を抱く南米のベネズエラや、このところグルジア問題やミサイル防衛配備などをめぐり米国への姿勢を強硬にするロシアでも、米国の金融危機の当初はそれを自陣営への大きなプラスと受け止めるような動きが伝えられた。


 ところがその後、石油の価格が暴落した。
 
 米国の金融危機から起きた世界的不況の結果だった。
 
 イランもベネズエラもロシアも産油国である。
 
 当然、外貨の収入が大幅に減ってしまう。
 
 イランでは政府収入の激減の結果、野心的な国家予算が組めなくなって、アフマディネジャド大統領までが周辺から非難されるようになった。
 
 チャベス大統領も国家資金の激減への懸念を認めるにいたった。
 
 両国とも米国を敵視しての強圧的な行動を新たに拡大もできなくなったようだ。

 このへんの実態をハース氏は「不況は米国の力を弱くするが、米国に敵対する諸国も同様なのだ」と評した。
 
 不況は米国の力だけを弱めるのではなく、相対的には国際関係はそれほど変わらないというのが目下の総括のようである。
 
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