2009年02月

オバマ大統領についての論考は日本でも依然、盛んです。

その論考の舞台に、こんどは単行本で参加させてもらいました。

 

なおオバマ大統領の社会主義的な傾向については別のサイトで詳述しました。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/95/

 オバマ大統領と日本沈没 知られざる変幻と外交戦略

オバマ大統領と日本沈没

オバマ大統領と日本沈没 知られざる変幻と外交戦略

著者
古森 義久
定価
1,680円
判型
四六判
ISBN
978-4-8284-1482-9
発行日
2009年 3月 1日

内容紹介

アメリカの第44代大統領に就任したバラク・フセイン・オバマ氏に全世界の熱い視線が集まっている。歴代大統領でもオバマ氏ほど「影」の部分が表に出ない人物はいない。本書は、大統領予備選挙の早期からオバマ氏を考察し、その公式の活動の「光」の軌跡だけでなく「影」の領域をも追った報告書である。黒人初の大統領であるオバマ氏の登場が日本に何をもたらすのか、オバマ氏に関する虚の神話を排し、実である素顔を客観的に伝える。

目次

  • はじめに
  • 序章 オバマ大統領就任式をみて
  • 第一章 オバマ新大統領の知られざる「禁忌」
  • 第二章 オバマ政権は「第三次クリントン政権」
  • 第三章 新政権はアメリカをどう変えるか 
  • 第四章 オバマ政権で沈む日本
  • 第五章 縮む日本、冷える同盟
  • 第六章 米中接近は日本を沈めるのか
  • 第七章 アメリカがなお中国を警戒する理由
  • 終章 日本の針路 ―五つの提言
 

 

2月24日、ワシントンでは麻生太郎首相がホワイトハウスを訪れ、バラク・オバマ大統領と会談しました。

 

麻生首相はオバマ大統領がホワイトハウスに迎える初の外国首脳となりました。

 

これはオバマ政権が日本を重視しているからなのか。

 

現実はそれほど単純なことでもないようです。

 

そのへんの解説を書きました。

なお冒頭は石橋、有元両記者による日米首脳会談に関するニュース記事、事実関係を追った、いわゆる「本記」です。

その下に私が解説を書きました。

 

 

日米首脳会談 「実利」最優先の米政権


 

 【ワシントン=石橋文登、有元隆志】麻生太郎首相は24日午前(日本時間25日未明)、ホワイトハウスでオバマ米大統領と初の首脳会談を行った。両首脳は北朝鮮の長距離弾道ミサイルとみられる「人工衛星」発射準備について「緊張を高める行動を取るべきではない」と牽制(けんせい)した。また、世界的な経済危機に対処するため、基軸通貨ドルの信認維持が重要との認識でも一致した。

                   ◇

 □ワシントン駐在編集特別委員・古森義久

 

 24日の日米首脳会談は近年でも最も簡素で略式の両首脳の話し合いだった。

 

 麻生首相とオバマ大統領とがそれぞれに実利と実務を最優先させ、熱気も華やぎもない会談だったが、双方がそれなりに至近の目的は最小限(ミニマム)、達したといえよう。

                  ■□■

 会談は両首脳の会食も共同の記者会見も声明もない点で異例だった。

 

 両首脳だけ一対一の「差し」の話し合いもなく、公式の首脳会談の要件を満たさない略式でもあった。

 

 オバマ大統領は会談直前に「日米友好の重要性」や「東アジア安全保障の礎石である日米同盟の強化」という言葉を述べたが、その日米友好の光景を米国民に広く知らせる措置はとらなかった。

 

 そもそもこの日、同大統領は夜に議会での初演説を控え、米側の政府、国民、マスコミの関心はすべてその演説に集中したため、日本の首相の来訪はさらに希薄となった。

 

 会談は略式のミニマムという点では1995年1月の村山富市首相の訪米をも思わせた。

 

 だが村山氏でも迎賓館のブレア・ハウスの滞在を認められたのに対し、麻生氏は中心街から離れたホテルの滞在、ワシントン滞在時間も村山氏の半分以下だった。

 

 しかし日本国内の苦境を考えれば、麻生首相が米国の新大統領と会う最初の外国首脳となり、日米同盟の強化や経済不況への対応協力を合意したことは貴重な外交得点だといえよう。

                  

            ■□■

 

 一方、オバマ大統領が日本の首相をホワイトハウスへの初の外国首脳として招いたのは、日本側からの懇請に加えて、日本側に広がった「オバマ政権の日本軽視」懸念のせいだろう。

 

 会談直前に記者が大統領に「なぜ日本なのか」と質問したように、それまでオバマ政権の外交スクリーンにはクリントン国務長官の訪日を除いては日本が大きな対象として浮かんではいなかった。

 

 ホワイトハウスは会談後の発表で「日本の首相との綿密な協議」の筆頭課題として「グローバルな経済危機」をあげた。

 

 この会談も経済不況への対処という切迫した国内課題への枠内に位置づけようと努めたわけだ。

 

そのためなら日本の首相との会談も必要という理由づけである。

 

 そのうえに米国には東アジアでなお予想される激動やアフガニスタンでの対テロ闘争に必要な米軍の前方拠点を確実にする日米同盟のミニマム保持が欠かせない。

 

 その保持を危険にさらす日本側の政治的ほころびは放置できないということだろう。

 

 この点では今回の会談は米側にも明らかに実利をもたらしたといえる。

                  

            ■□■

 

 しかしオバマ政権が実際に日米同盟を従来の基盤のミニマム保持を超えて、ブッシュ政権のように強化に熱を注ぐという形跡はない。

 

 米側が首脳会談でもクリントン長官訪日でも日米安保協力では当然、主題の一つとなるべき中国の軍拡を話題とせず、北朝鮮のミサイルの脅威を語りながらも、日米同盟強化の最近のシンボルである日米ミサイル防衛に一言も触れなかったことがその例証だろう。

 

 だから今回の首脳会談は米国新政権が同盟の実利の根幹だけを保とうとする新時代の幕開けを告げたのかもしれない。

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記事情報終了フッター情報開始

 
 

アメリカのオバマ政権下は経済や金融での国家や政府の役割をどんどん拡大して、民間部門の公的管理を強めています。

 

金融危機や経済不況への緊急の対策とはいえ、どうもそれだけではない節も多いようです。

 

このままではアメリカがついに社会主義の国家になってしまう?!という指摘もアメリカ国内でしきりと聞かれるようになりました。

 

そのへんの虚実について以下の記事を書きました。

 

米国は社会主義に向かうのか 銀行国有化案で現実味


 

 【ワシントン=古森義久】オバマ政権下の米国では政府により民間企業が大幅に救済、管理され、主要銀行の国有化案までが語られるにいたって、「米国は社会主義に向かっているのか」という議論が現実味を帯びるようになった。

 昨年の大統領選挙中からちらついていた「オバマ氏は米国を社会主義化するのか」という論議は、同氏を一貫して支持してきた大手週刊誌ニューズウィークが2月16日号に「私たちは今やみな社会主義者だ」という巻頭評論を載せたことでこれまでとは異なった様相となった。

 

 評論は米国の政府が破綻(はたん)した大企業を次々に公費で救済し、総額1兆ドルに近い景気対策費を出して民間に介入し、救済企業の幹部の給料まで管理する現状は社会主義的な色彩が濃く、「2009年の米国はすでに社会主義的な欧州諸国へと近づいていることを認めざるをえない」と断言した。

 

 10年前の米国は政府支出の対GDP比が34%で、欧州連合(EU)諸国の48%より14ポイントも低かったが、来年は差が8ポイントに縮まることがその例証だという。

 

 共和党側ではこれに対し「欧州型の社会主義が経済を成長させないことは立証されており、民間の活力を伸ばすべきだ」(マイク・ペンス下院議員)という反論が強い。

 

 メリーランド大学のピーター・モリシ経営学教授も「政府支出への全面依存はジェファーソン的米国民主主義に反する」として、政府の役割は個人や企業の自助努力を助長するインフラ枠組み作りに留まるべきだと主張する。

 

 この点、ニューズウィークも米国民の多数派はなお「大きな政府への依存」には反対であることを認め、目前の危機が去ればまた従来の米国式の「資本主義の自由市場スタイルの経済」に戻るとしながらも、現状では消費者も企業も景気回復の能力に欠けているため、政府に期待する以外にない-としている。

 

 もっとも社会主義に対し賛同に近い立場の左派系シンクタンク「米国進歩センター」のヘザー・ボウシー研究員は「社会主義では厳密には国家がほぼすべての生産手段を所有するが、米国ではまだそんな状態は起きていない」と解説する。

 

 オバマ氏に対する「社会主義化論」を最初に打ち上げたのは大統領選中の共和党マケイン候補だった。

 

 オバマ氏の高所得層への大増税による「所得の再配分」策を社会主義的発想と批判したのだが、オバマ陣営はこれを明確に否定した。

 

 それなのに今、オバマ陣営側のニューズウィークが堂々と「社会主義化」を認めたことに、保守派からは「つい4カ月ほど前までオバマ陣営は社会主義批判をあざけってしりぞけたのに、今はその実践にあたっている」(FOXテレビのコメンテーター、グレン・ベック氏)と反発も激しい。

 

 その一方、ニューズウィーク評論は「今の社会主義化を始めたのは実は昨年9月なかば以降のブッシュ政権なのだ」として同政権による大手金融機関や保険会社の救済を指摘しており、社会主義をめぐる議論はなお熱を帯びそうである。

 

産経新聞の同僚の湯浅博記者が『東京特派員』という本を出しました。お奨めのおもしろい書です。
 
湯浅記者は産経新聞のコラムニストとして活躍していますが、最近、注目されたのは以下の「日本の戦後知識人」のデマについて書いた評論記事でした。
 
 
【土・日曜日に書く】東京特派員・湯浅博 進歩派がそこへやってきた
2009年02月14日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面

 ◆ファシズム到来のデマ

 「70年安保」を前にしたあの喧噪(けんそう)の時代。“団塊の世代”がまだ大学生だったころのことである。世は左派の知識人が論壇を跋扈(ばっこ)し、盛んに「革命前夜」のような幻想を振りまいていた。

 大学紛争が激しさを増して、東大の安田講堂をめぐる過激派学生と機動隊の攻防戦が起きた。お茶の水から神保町にかけては、学生たちが「神田カルティエラタン」と称して道路を封鎖した。

 こんな世情不穏の中で、ワイマール共和国のドイツになぞらえる議論がまことしやかに伝えられたものだ。背景にあるのは、雇用不安と政権政党の弱体化であり、この先、ヒトラーのような独裁者がやってくるとあまたの知識人が煽(あお)っていた。

 そんな折に、柔和な語り口のドイツ文学者、西義之が「乱暴を通り越して無責任な議論にすぎない」と切って捨てた。好々爺(こうこうや)のような東大教授であり、はにかむしぐさの裏に鋭利な言論の刃(やいば)を隠していた。

 西はこのとき、『ヒットラーがそこへやってきた』という雑誌連載によって、ナチスという魔物の正体を見事に腑分(ふわ)けしていた。同時に西は、事実に肉薄することによって、ファシズムの到来説が政治的なデマにすぎないことを立証してみせた。懐かしくも頼もしい論考である。

 西義之が昨年10月9日、86歳で死去していたと聞いたのは最近のことだ。すぐに書棚を探してみたが、論考をまとめた本が見あたらない。何度目かの海外転勤のどさくさで失ってしまったらしい。あれを読んで、時代をファシズムと結びつける愚説が心の内で氷解していったことを覚えている。

 うれしいことに、『ヒットラーがそこへやってきた』を古本屋で見つけて38年ぶりに対面した。色あせたページを繰ると、さらに10年さかのぼる60年安保のころにも、「保守政権がファシズム化する」という進歩的文化人からの扇動があったと書かれていた。

 ◆西義之が暴いたウソ

 当時、東京教育大の美濃部亮吉教授が「日本はあのころのドイツよりも危険な状態にある」と力説していたと記録されている。その後の歴史は美濃部説と異なって、ヒトラーに匹敵する人物は現れない。めでたいことに当人は東京都知事になってニコニコ顔であると、西は皮肉っている。

 彼は同時代の知識人の言動を克明に積み上げていくうちに、進歩的文化人の中に「事実そのものの発言を封ずる空気」を感じるようになっていく。

 この場合の進歩的文化人とは、岩波書店の雑誌『世界』や『朝日ジャーナル』などを舞台に、容共左派の立場から主張を展開した言論人たちを指す。

 問題は、なぜ彼らが現状をファシズムと結びつけたがるのかであった。西はその根をたぐっていくうちに、進歩的文化人の“教祖”である東大教授、丸山真男のいくつもの論文に行き当たる。

 早くから丸山理論の仮面をはがした人々に、社会思想家の関嘉彦、京大名誉教授の猪木正道らがいる。西の丸山批判には、思想の骨格をなすファシズム論に集約されるところに特徴があった。

 西は昭和50年に『誰がファシストか』を出版して、独伊にファシズムの源流をたどり、日本にファシズムがあったかを解き明かしていく。その結果、西は丸山こそが主著『現代政治の思想と行動』で、「反共=ファシズム」という単純化によって牽強(けんきょう)付会の虚構を築いたと痛烈に批判した。

 ◆進歩的文化人の残滓(ざんし)

 知的観念論が好きな日本人に丸山の影響力は絶大である。彼のお墨付きを得て、小利口な言論人や政治家は気に入らない相手の罵倒(ばとう)に「ファッショ」を多用した。いつの間にか、共産主義を批判する“反共”が悪に転化するワナが仕掛けられていたのだ。反論封じにこれほど便利な用語はない。

 レッテル張りが得意なのは『都市の論理』の著者として名高い歴史学者、羽仁五郎であった。彼にかかると、「軍備は軍国主義の復活であり、公安警察は戦前の特高の再来であり、まさにファシズムである」となる。

 世界には軍を持たない国家も、公安警察のない国家も存在しないから、例外なしに世界中がファシズム国家である。それでも、当時の過激派は拍手喝采(かっさい)だ。羽仁の書名は「-論理」とせずに、「-扇動」と名付けるべきであった。

 西義之死しても彼の提起した所論がいまに通じることは、本紙連載の「昭和正論座」の論文を読んで分かる。進歩的文化人の後継者は姿を変えてなお生きながらえている。手前みそながら、それを見分ける目を養うに昭和正論座は最適ではないか。(ゆあさ ひろし)
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さてこの湯浅記者が書いた『東京特派員』は、東京を舞台に、江戸時代の鬼平から明治、大正のインドと日本の結びつき、そして現代の国際都市・TOKYOの個々の情景など、多彩な人間ドラマが政治や思想の流れをも背景におもしろく描かれています。
 
カバーの写真の後に、内容の一部を紹介しました。
 
 
   
【東京特派員】鬼平が駆け抜けた町
2003年06月20日 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面


 

 誰がいったか、「おばあちゃんの竹下通り」で人気の巣鴨地蔵通りは、山手線巣鴨駅の少し西を左に入る旧中仙道にあたる。「とげぬき地蔵」の高岩寺は、江戸庶民に親しまれていたかと思いがちだが、台東区の下谷からこの地に移されたのは、明治に入ってからである。

 江戸市中を理解するのに便利な小説『鬼平犯科帳』には、火付盗賊改方、長谷川平蔵の母の実家がある界隈(かいわい)として描かれている。作家、池波正太郎はこの辺りのことを「当時は江戸郊外であって、北方に広がる田畑と木立の田園風景はそのまま王子権現の森につながってゆく」と書いた。この時代、人々の信仰を集めたのは、いまの王子神社の方であった。

 当節流行の「文化はやはり江戸にある」との説からすると、お地蔵様は新参者である。

 巣鴨から王子権現までは約一里(約四キロ)。平蔵は権現参詣の帰りに、化粧気のない町屋の女房らしい女とすれ違う。この女が中仙道沿いの笠屋の女房、お富であり、近ごろ、しきりと徘徊(はいかい)する女スリであるとにらんだ。

 『犯科帳』の一節を地図の上に描くと、どうやら笠屋はいまの巣鴨駅近くのお茶問屋「冠城園(かぶらぎえん)」の前の辺りになる。小説の中では、大伝馬町の茶問屋、長井屋利兵衛がこのお富から懐のものを掏(す)られるシーンが出てくる。実は、この利兵衛が、のちに冠城園が取引相手とする実在の人物であったからおもしろい。

 これに気づいたのは、冠城園の三代目社長、冠城勲さん(六三)と話しているときだ。冠城園の初代、稲次郎は明治三十年に狭山茶を買い込み、大八車を連ねて横浜に運んで大いに財をなした。この茶を買いとってくれたのが、長井利兵衛という人物である。「確か、犯科帳にも利兵衛という人物が登場します」というと、冠城さんは明治の『東京茶商店一覧鑑』なる茶問屋の番付表を出してきた。すると、どうだろう。興行主を意味する勧進元の欄に、「大伝馬町一丁目、長井利兵衛」と刷り込まれていた。

 「不思議な因縁ですね。何代目かは知りませんが、祖父をかわいがってくれたのが間違いなく利兵衛さんだった」

 二代目、稲次郎の時代には大八車がフォードのトラックに変わり、茶箱を二十両の貨車に積んで巣鴨の引き込み線の駅にも降ろした。昭和五年には「景気が悪いから」と頼まれて、新宿の土地五千坪を買って、いまでいう不良債権を買い支えた。後にこれが、勲さんに相続税の大きな負担となってくる。

 さて、『犯科帳』にある長谷川平蔵の母、お園の実家は、旧中仙道沿いにある庚申塚の裏手にあった。庚申塚の少し先にあるそば屋「むさしや」は、昭和二十年四月にこの辺り一帯に対するB29の空襲から逃れた数少ない店である。

 そば好きな池波正太郎にあやかって暖簾(のれん)をくぐってみた。女将の真島冨美子さん(七八)は「あの時分は、向かいのたばこ屋さんとうちだけでね。裏の学生さんがおなかすかしてよくやってきましたよ」と自分史を語る。中仙道の宿場は板橋だったから、街道筋にはいまほど商店がなかった。大正大学の学生たちは、「秋風淋し ふところ寒し むさしやへ」と歌を詠んではツケで食べた。

 冨美子さんは両親が早く亡くなって、祖母ムメの薫陶を受けて小学校のころから店を手伝った。湯やざるの扱い、さらに注文を伝えるさいの独特の符丁も覚えた。

 やがて、学生客の一人、茨城県筑波郡の寺の息子、横島泰峨(やすたか)をムメが気に入り、彼女が十五歳の時に婚約した。冨美子が巣鴨女子商業学校に入ると、泰峨は担任教師に面会し、「私の婚約者をよろしくご指導願いたい」と頭を下げたというから愉快だ。ムメは冨美子を泰峨の実家に行かせたさいには、こう言い聞かせた。「着いたらお便所掃除の道具場所を聞き、朝は皆さんが起きないうちに掃除するように」。この時代、日本人には威厳と慎みがあった。

 戦後、戦地から帰国した泰峨と結婚し、そば屋の後を継いだ。しかし、世事は移ろいやすい。泰峨は昭和三十四年に四十歳で区議会議員に。平成三年に引退すると二年後には他界した。

 冨美子さんは目と鼻の先にある人気のお地蔵様には、「なんだかね、お寺さんは宣伝上手でね、人ごみですよ」。信仰は世につれ、世は人につれ。鬼平が駆け抜けた町の人生さまざまだ。(湯浅博=ゆあさ・ひろし)
 
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インド大使館は靖国神社に近い千鳥ヶ淵戦没者墓苑の入り口にある。8月15日に靖国に向かう九段坂を上ると、参拝帰りの人々に交じってサリー姿のインド人女性たちに出会う。15日は終戦記念日であるが、インドにとっては1947年の独立記念日である。

 午前8時半に大使館前庭でインド国旗を掲揚して独立を祝った。招待された人はそこで振る舞われるカレー料理に舌鼓を打つ。招待客の何人かに、「日本にインドカレーを紹介したビハリ・ボースをご存じですか」と聞いてみた。「チャンドラ・ボースなら知っている」との答えがほとんどだ。

 ビハリとチャンドラの2人のボースは、ともにインド独立にその半生を賭けた革命家であった。

 ビハリ・ボースの素顔は英国植民地のインドで反英独立運動の過激なテロリストだ。ハーディング総督に爆弾を投げつけ、英軍に追われて日本に入国した。1915年(大正4年)、故あって新宿中村屋に潜伏する。

 臼井吉見の大作『安曇野』でボースを知ったのは30年以上も前だ。信州安曇野で育った相馬愛蔵、黒光夫妻の壮大な物語である。

 1901年(明治34年)、夫妻は東大赤門前でパン屋を開業する。店が繁盛すると、夫妻は支店候補地を探しはじめた。愛蔵の『一商人として』によると、当時の新宿はこんな風だった。

 「筋向ひの豆腐やの屋根のブリキ板が、風にあふられてバタバタと音をたててゐるなど、こんな荒んだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地に興隆の気運が眼に見えぬうちに萌してゐた」

 いまでこそビルが林立するが、「場末のいかにも侘びしい町」(黒光『黙移』)にすぎない。しかし、黒光の勘がひらめいた。

 ビハリ・ボースはインド人活動家としばしば日比谷松本楼で落ち合い、カレーを食べながら会合を重ねたという。目的は日本で武器調達し、本国に送ることだった。ちなみに、松本楼のそれは当世風にいうと欧風カレーである。

 ルーツは、英国海軍の艦内食にならって旧海軍が取り入れたことにはじまる。牛肉、にんじん、ジャガイモ、それに小麦粉でとろみをつけて海軍カレーができる。これが一般家庭に広がってカレーライスの定番になった。

 さて、ボースは右翼の大物、頭山満や後に首相となる犬養毅らの支援を獲得した。だが、日本政府は日英同盟の関係でボースの身柄を拘束しようとした。その前夜、ボースは六本木にある頭山邸の裏口から逃げだし、闇に紛れて、頭山派と知己のある中村屋に身を隠した。逃走劇は最近出版された『中村屋のボース』に詳しい。

 中村屋には荻原碌山、高村光太郎、木下尚江、松井須磨子らが出入りし、「中村屋サロン」として大正文化の流れをつくった。やがてボースは英語に堪能な長女、俊子をめとる。その俊子は結婚生活わずか7年で死去してしまう。

 時代は大正から昭和へ移り、三越百貨店の新宿進出に対抗して、中村屋は喫茶部を開いた。その目玉がボースの提案による「インドカリー」だ。ボースは日本のカレーに納得できず、「最上級の材料でインド貴族の食べるカリーを」と義父の愛蔵を口説いたのだ。

 昭和27年に16歳で入社した総料理長、二宮健さん(70)は、「インドから十数種のスパイスとインディカ米を取り寄せ、骨つき鶏肉を出した。だが、日本人の口には合わなかった」という。ボースは苦労の末、愛蔵と2人で独自のインドカリーを開発した。

 二宮さんが昭和14年のレシピでボース流のカリーを作ってくれた。6種類のスパイスと濃厚なバター。大きな骨付きチキンカリーは愛と革命の味がした。これを店のメニューに加えると、材料費がかかって採算がとれないという。

 戦争中のボースは、「日本寄り」との評価から急速に指導力を失う。インド独立連盟のシンガポール大会で、亡命先のドイツからきたチャンドラ・ボースに連盟代表の座を明け渡すことになる。

 ビハリ・ボースはこのときすでに病魔に侵されていた。帰国後の1945年1月、インド独立の行く末をみないまま58歳の命を閉じた。父の最期を看取った長男の正秀も6月の沖縄戦で戦死。エキゾチックな顔立ちの長女、樋口哲子さん(83)はいま、原宿の自宅で夫と2人で暮らしている。(ゆあさ ひろし)

 以前にも言及しましたが、アメリカの主要な新聞、テレビがオバマ大統領をきわめてひいきにしているという実態を詳述した書が出ました。

 

 筆者はCBSテレビで長年、記者を務めたバーナード・ゴールドバーグ氏です。

 

 本のタイトルを直訳すれば「溺愛の恋愛沙汰」、あるいは「メロメロの情事」とでもなりましょうか。

 

 副題は「バラク・オバマと主要メディアの激しいロマンスの哀れな実話」となっています。

 

 以下、内容の概要を本のカバーから紹介します。

 

 

 主流メディアがリベラル偏向であり、大統領選挙ではオバマ候補を支持したことは、周知の事実である。

 

 だがこの選挙ではメディアは通常のリベラル偏向から、きわめ露骨な党派活動へと重要な一線を越えて、バラク・オバマの宣伝擁護者となった。

 

 MSNBCテレビのクリス・マシューのように、客観性の装いさえも捨てて、メディアの偏向からメディアの政治運動へと入った実例が多いのだ。

 

 このオバマ支持の傾向はオバマ大統領誕生後も続いている。

 

 以上の総括を証する実例は本書のなかで詳述される、というわけです。

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