2009年06月

広島市長の秋葉忠利氏が以下のような動きをとったことが30日、報道されました。

田母神氏の「原爆の日」講演に広島市長が「待った」

田母神俊雄・前航空幕僚長 

賞論文への投稿が発端で更迭された元航空幕僚長、田母神俊雄氏を原爆記念日(8月6日)に広島市に招き開催予定の講演会について、同市の秋葉忠利市長が、被爆者や遺族の悲しみを増す恐れがあるとして日程変更を29日、文書で要請した。

 主催者側は予定通り実施する構えだが今後、憲法の「集会の自由」が脅かされ、「言論封殺」と批判された“田母神事件”が再燃する恐れも出てきた。

 この講演会は日本会議広島などが計画した「ヒロシマの平和を疑う~田母神俊雄氏が語る、広島発真の平和メッセージ」。

 

 5月に中国の核実験の被害をテーマに講演会を開催。

 

 日本が唯一の被爆国でなく、共産圏の核に日本の反核団体が寛容であることへの疑問を踏まえ、いかに核の惨禍を回避するか--として同氏の講演会を企画したという。

 

 秋葉市長名で田母神氏らに届いた文書では「貴殿が何時何処で何を発言するかは自由で当然の権利」としながらも、(1)8月6日は市内が慰霊と世界の恒久平和への祈りで包まれる(2)田母神氏がこうした演題で講演するのは被爆者や遺族の悲しみを増す結果となりかねない(3)原爆記念日の意味は表現の自由と同様に重要-などを市の立場として日程変更を検討するよう求めた。

 

 主催者側は、これまでも講演会のチラシ配布を市の外郭団体に依頼したが、市の政策方針に反するなどとして断られた、としており「私達は市長以上に核廃絶を願っている。北朝鮮や中国の核実験が問題になるなか、真の平和のためどうすればいいのか、という趣旨の講演会がなぜふさわしくないのか全く理解できない」と話している。

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今回の騒ぎの背後には秋葉市長が長年、核廃絶を主張する際、

中国や北朝鮮の核兵器を非難せず、日本の同盟国のアメリカの核だけを廃絶の対象にあげてきたという経緯があります。

 

秋葉氏に限らず、日本の左翼の反核運動には年来、政治的な偏りが顕著でした。

 

このことを私は7年ほど前にも書きました。

           

 

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【緯度経度】「北」には触れぬ“反核運動” /ワシントン 古森義久
2002年12月29日 産経新聞 東京朝刊 国際面


               (前半略)

 核兵器の増強や拡散に反対ならば、従来の反核派からもイラクや北朝鮮への抗議の声があがってしかるべきだろう。
 
 だが静かなのである。

 日本でも反核派はなぜいま静かなのだろう。
 
 すぐ隣の北朝鮮の政権が核兵器の開発をすでに始めたぞと宣言しているのに「核の廃絶を!」というかつて聞き慣れた声はまったく聞こえてこない。
 
 ここでまた日本の反核運動について改めて考えさせられる。

 日本はいうまでもなく核兵器の攻撃を正面から受けた唯一の国である。
 
 広島や長崎の人間的悲劇はないがしろにされてはならない。
 
 その体験が核兵器の絶対的な忌避につながるのも自然である。

 だがその一方、日本の反核運動の一部がきわめて政治的動機で展開されてきた歴史も否定できない。
 
 冷戦時代、ソ連の共産主義体制との連帯を求める勢力が西側陣営の核だけを非難し、ソ連や中国の核は平和維持のためだからよいとして許容してきたのだ。

 原水爆を禁じようとする日本での運動が共産党系、社会党系に分かれて激しく対立してきたのも、その例証である。

 冷戦中にはソ連当局がひそかに西側自由陣営の反核運動をあおっていた事実もいまでは明らかとなった。
 
 一九八〇年代には北朝鮮が日本の元赤軍派を使ってヨーロッパでの反核運動に加わり、日本向けの反核宣伝文書を作っていたことも関係者により暴露されている。
 
 そもそも一般市民による反核運動というのはソ連とか中国、さらには北朝鮮という全体主義国家では起きえない。
 
 起きても瞬時に弾圧される。日本や米国のような自由の国でしか展開されないのだ。
 
 全体主義国にはそもそも世論が政府を動かすメカニズムもない。
 
 だから反核のほこ先は自由主義国政府の核兵器に対してのみ効果を発揮してきた。

 東西冷戦中、反核運動には構造的にこういう偏りがあった。
 
 だが冷戦がとっくに終わったいまも日本の反核運動は同盟国の米国の核には抗議しても、脅威たりうる北朝鮮や中国の核には奇妙なほどの沈黙を保つ。
 
 運動の歴史的偏りのせいだとは思いたくない。
 
 だが秋葉忠利広島市長のワシントンでの演説には、ついそうした日本の反核の政治的な偏りを思わされた。

 秋葉氏は十月十七日、ワシントンのアメリカン大学でのセミナーで「広がる核の脅威」と題するスピーチをして、もっぱら米国の核政策だけを非難した。
 
 「米国政府は核軍縮への国際社会の努力に逆行している」と糾弾したのだ。

 ところがそのつい前日の十月十六日、北朝鮮政権が米朝核合意に違反する形でウラン濃縮による核兵器開発をひそかに進めていたことを自ら認めていた。
 
 その報道が流れ、米国でも日本でも、さらには国際社会全体でも「北朝鮮の核の脅威」が深刻に語られていたのだ。
 
 そうした国際環境のなかでの演説でも秋葉氏は中国やロシアの核兵器はもちろんのこと、北朝鮮の核になにも触れなかった。
 
 その内容の偏向には聴衆から「国際政治の現実への理解が足りないのではないか」という質問も出たほどという。

 北朝鮮の核が世界を揺さぶる現在、秋葉氏らに改めて問うてみたい。

 日本の反核運動はなぜ北朝鮮の核兵器には反対を表明しないのですか、と。
                ====
 そして私の記事が出た10日ほど後に産経新聞の一面コラム「産経抄」に以下のような記述が出ました。
 
 
【産経抄】
2003年01月09日 産経新聞 東京朝刊 1面

 脅しか、はったりか、はたまた現実なのか、北朝鮮が“核のボート”を揺さぶり続けている。
 
 国際原子力機関(IAEA)は北の核計画凍結を決議し、日米韓も共同声明を出したが、どうにも理解に苦しむことがある 
 
 ▼ほかならぬ日本でこれまで盛んに反核運動を推進してきた人たちがいた。かれらが一向に声を発しない。
 
 昨年の夏、広島と長崎で開かれた原水爆禁止大会は、相変わらず二つに分裂したままだった。
 
 原水協(共産党系)と原水禁(旧総評系)とだが、そのいずれも北朝鮮の核に対してウンでもスンでもない 
 
 ▼ワシントン古森義久記者のリポートによると、昨年十月十七日、秋葉忠利・広島市長がアメリカン大学で「広がる核の脅威」と題するスピーチをした。
 
 しかし市長はもっぱら米国の核政策だけを非難し、中露の核兵器はもちろん、北朝鮮の核には何も触れなかったそうだ 
 
 ▼反核運動をあおってきたはずの進歩的文化人諸氏も、北朝鮮には鳴りをひそめている。
 
 ノーベル賞作家・大江健三郎氏もそのお一人だ。
 
 これは谷沢永一氏のご指摘だが、平成七年元日の朝日新聞上で大江氏は加藤周一氏と対談し次のように語っていた 
 
 ▼「戦後五十年の出発点の、日本人がなめた苦い経験を思想化しようとすれば、日本が取り組むべき中心の課題は核軍縮だと思います。そのための国際的な委員会を作れば、広島、長崎の被爆体験に立って有効な発言ができるはずです」 
 
 ▼いまこそ北朝鮮に対して“有効な発言”をする時ではないか。
 
 昨年の春と秋、大江氏は同紙で外国文化人と往復書簡をかわし、確かに北の核について触れてはいる。
 
 ところがこれが例によってすこぶる難解であり、奥歯にものがはさまったような文章なのである。
               ====
 
だいぶ古い話ではあります。
しかし秋葉忠利氏の言動ということで、いまここに再現しました。
 
少なくとも2002年の秋や冬の時点で秋葉氏が中国や北朝鮮の核兵器をはっきり名指しで非難したり、その廃絶を求めるということはありませんでした。
 
私が記事に書いたアメリカン大学での集いでも、秋葉氏は北朝鮮や中国の核兵器にはっきり言及することはありませんでした。
 

そのことを私が当時、産経新聞に書いたことに対し、その後、一部の左翼系ブログなどが「アメリカン大学の主催者側から古森に対し、『事実確認をしていない恣意的な報道』だと抗議を受け、謝罪を余儀なくされた」などと記していますが、まったくのデマです。

私はこの種の自分の記事に関してアメリカン大学の関係者から抗議その他、なにかの連絡や通報を受けたことは一度もありません。まして「謝罪を余儀なくされた」というのは捏造の記述です。抗議を受けないのになぜ謝罪を余儀なくされるのでしょうか。でっち上げもいいかげんにしてください、と申しておきます。



 

2007年夏にアメリカ下院が日本を糾弾する慰安婦決議を採択するまでの過程ではマイク・ホンダ議員の影で「世界抗日戦争史実維護連合会」という組織が決定的な役割を演じました。在米の中国系反日団体です。

 

あえて「反日」と書くのは、この組織が対日講和条約など国際的な合意を無視して、ただただ日本の過去の罪状を非難し続け、その過去を現在の平和国家・日本と重複させているからです。

 

この反日団体の新しい動きを産経新聞6月30日付朝刊で報道しました。

以下はその記事です。

 

 

 

【朝刊 国際】


記事情報開始在米反日団体 新会長に非中国系 謝罪要求 性格は変わらず


 

 【ワシントン=古森義久】米国議会で2007年に日本を糾弾する慰安婦決議が採択された際、中心的役割を果たした在米中国系反日団体が新たに非中国系米人を会長に選び、第二次大戦での日本の残虐行為への謝罪と賠償をこれまでの講和条約での和解などを無視する形で、なお求めると宣言していることが明らかとなった。

 カリフォルニア州クパティーノに本部をおく在米中国系住民主体の「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会と略)がこの5月、新会長に同州サンフランシスコ北のマリン郡在住の元技師ピーター・スタネク氏を選んだことが地元の新聞マリン・インディペンデント・ジャーナル紙によりこのほど報道された。

 

 同抗日連合会は1994年に在米中国系の活動家らによって結成され、戦争中の日本軍の残虐行為に対し戦後の日本はなお謝罪も賠償も十分にはしていないとして、それらを求めることを活動の最大目標としてきた。

 

 日本の戦時中の残虐行為などは戦後、一連の軍事裁判でいちはやく裁かれたほか51年のサンフランシスコ対日講和条約で賠償や謝罪も済んだとするのが日米両国政府の見解だが、同抗日連合会は日本政府がこれまで謝罪も賠償もしていないという立場をとり、日本を非難してきた。

 

 同連合会は幹部連を通じてマイク・ホンダ下院議員に多額の政治献金をして下院での慰安婦決議案の提出や議決を要請し、2007年7月にはついに下院本会議で採択させた。

 

 同ジャーナル紙は航空機・宇宙船の開発会社、ロッキード・マーティン社の技師だったというスタネク会長の言葉として

 

 (1)同連合会の活動目標は第二次大戦での日本軍の残虐行為への日本政府の謝罪とその犠牲者への賠償の獲得とする

 

 (2)日本軍はアジア全域で合計3千万人の非武装の民間人を殺した

 

 (3)日本軍の「性の奴隷」の慰安婦は朝鮮と中国でそれぞれ約25万人ずつが徴用された

 

――などと報じた。

 

 同連合会はこれまで創設者のイグナシアス・ディン(丁)氏や前会長のアイビー・リー(李)氏ら指導部はすべて中国系で占められており、スタネク氏は初めて非中国系の会長となった。

 

 だがディン氏はなお副会長を務め、同連合会の活動について対外的に公式発言をしているため、「中国系団体」の印象を薄める目的で非中国系のスタネク氏を会長に起用したともみられる。

 

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ベトナム戦争の新刊書の紹介をしたことで、当時の日本記者のベトナム報道のなかでも異色の軌跡を残した産経新聞・近藤紘一記者のことを自然と回想しました。

 

近藤紘一氏は産経新聞が生み出した最も才能ある記者の一人だといえます。今回の新刊書『サイゴンの火焔樹』で紹介した牧久記者と同じ時期に南ベトナムの首都サイゴンに駐在していた近藤氏は、牧記者よりも長い年月、戦争の報道にあたりました。現地ではベトナム女性と結婚し、ベトナムの社会に深く腰をすえ、その地の文化や風習にすっかり慣れ親しんでいました。

 

近藤記者はその一方、フランス語に堪能な利点もあって、南ベトナムの政治家や将軍たちとも親しい交流を保ち、政治、軍事の重要情報をしっかりとつかんでいました。その報道は産経新聞に出ることが当然、最も多かったのですが、その後にすぐれたノンフィクション作家ともなった近藤氏はベトナム体験を単行本でも何冊かまとめました。

 

近藤氏の作品でベトナム戦争、とくにサイゴン陥落前後を伝えた書が『サイゴンのいちばん長い日』(文春文庫)でした。

 

 

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))

 

ベトナム戦争が終わって、日本にもどった近藤氏は次々と魅力あるノンフィクション作品を発表しました。そのなかで大宅壮一ノンフィクション賞を得たのが『サイゴンから来た妻と娘』(文春文庫)でした。

 

この書は近藤氏自身の結婚生活をベトナム社会やベトナム戦争を背景に人間らしい視点でおもしろく描いていました。この作品はテレビドラマともなりました。

 

しかし近藤氏は1986年に45歳の若さで病死しました。

 

サイゴンから来た妻と娘 (文春文庫 こ 8-1)

NHKの台湾に関する偏向番組について産経新聞が6月27日の主張(社説)で意見を表明しました。

 

内容は以下のとおりです。

           

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【主張】NHK番組 訴訟を機に徹底検証せよ

 

 日本の台湾統治を取り上げた番組に偏向・歪曲(わいきょく)があったとして、視聴者らがNHKを相手取り、損害賠償請求の訴訟を起こした。

 問題の番組は4月5日に放映されたNHKスペシャル「アジアの“一等国”」である。

 

 原告には台湾人も含まれている。

 

 「取材に応じた台湾人の話を一方的に都合良く編集している」と指摘し、具体的に台湾統治下の暴動を「日台戦争」と表現したり、先住民族を日英博覧会(1910年)に出演させた企画を「人間動物園」と表現したりしたことを例として挙げている。

 

 いずれも聞き慣れない言葉だ。

 

 それをあえて使ったNHK側に戦前の日本と台湾の人々に対する悪意と偏見がうかがわれる。

 

 NHKの取材に協力したのは旧制台北第一中学の卒業生たちだ。

 

 日本の良い面も悪い面も話したのに、悪い面だけが放送された、NHKにだまされた、などと訴えている。

 

 法廷では、NHKがどんな取材を行い、どう編集したかも明らかにしてほしい。

 

 NHKによれば、この番組はアジアでいち早く近代国家を目指した日本がなぜ国際的に孤立し、敗戦を迎えたかを振り返るシリーズの1回目という。

 

 放送直後から、台湾統治をめぐり「一面的だ」などという批判が相次いでいた。

 

 放送法3条は「意見が対立する問題は多くの角度から論点を明らかにすること」と定めている。

 

 まして、NHKの番組は公共放送としての公正さが一層求められている。

 

 訴訟を機に、NHK自身が徹底検証する必要がある。

 

 NHKの経営委員会も一部委員がこの問題を提起したが、「経営には関係ない」と一蹴(いっしゅう)されたという。

 

 NHKの経営は視聴者の受信料で支えられている。憂慮しているのは、提訴した約8400人にとどまるまい。

 

 NHKは平成13年1月、「問われる戦時性暴力」と題する番組を教育テレビで放送した。

 

 昭和天皇といわゆる「A級戦犯」を「強姦(ごうかん)と性奴隷制」の責任で裁いた民間法廷の模様を報じた内容だ。

 

 政治的圧力の有無に注目が集まったこともあり、肝心の番組内容については何も検証されないままだ。

 

 最近、録画技術の進歩により、放送番組も新聞記事と同様、証拠保存が容易になった。

 

 それだけ視聴者のチェックの目も厳しくなっている。特に、NHKはそのことを強く自覚する必要がある。

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なお6月27日にはまたNHKのこの番組や、その後のNHKの態度に対する抗議の集会と行進が実行されました。

その情景の写真を「花うさぎ」さんのサイトから転載させていただきました。

 

先にこのブログで紹介した書『サイゴンの火焔樹』の書評が6月28日付の産経新聞朝刊に掲載されました。

 

書評を書いたのは古森義久です。

以下に載せます。

 

その後に自分の本の紹介もさせていただきました。

もう古い本ですが。

 

【朝刊 読書】


記事情報開始【書評】『サイゴンの火焔樹』牧久著


サイゴンの火焔樹―もうひとつのベトナム戦争

 

 ■ベトナム戦争の暗部を照射

 ベトナム戦争は終結から30余年が過ぎてもなお熱っぽく語られる。

 

 目前の国際情勢を考えるうえで深遠な教訓となる不変の歴史的意義を持つからだろう。

 

 本書はそのベトナム戦争の本質を戦乱とその後に続いた革命のまっただ中での著者自身の体験を論拠にきわめて正確に描き出している。

 

 ベトナム戦争は1975年4月30日、当時の南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を北ベトナム軍が制圧して終わった。

 

 著者の牧久氏は日本経済新聞の特派員としてサイゴン陥落前後の8カ月間、この歴史的な激動を報道した。

 

 本書はその報道を再現しながらの迫真のノンフィクションだが、筆者は戦争の本質を冷徹に論考する一方、そこで翻弄(ほんろう)された人間たちに温かい視線を向ける。

 

 日本にはベトナム戦争を単に「アメリカの侵略にベトナム人民が団結して戦いを挑み、勝利して民族の和解と祖国の解放を果たした」とみなす向きも多い。

 

 この解釈ではサイゴン陥落時からその後、20年にもわたり、解放されたはずの祖国から南ベトナム住民の10分の1にも及ぶ200万以上が国外へ脱出した現実はどうにも説明できない。

 

 だが本書はベトナム戦争のその暗部に直截な光を当てる。

 

 この戦争が民族独立闘争だけでなく共産主義革命であった事実や、主義を異にするベトナム人同士の戦いだった事実をいやというほど提示する。

 

 闘争の主役だったはずの南ベトナムの革命勢力が勝利後に圧殺された事実や、旧政権側に生きた市民たちが新社会では排され、削(そ)がれていった事実をも具体的な事例を重ねて告げていく。

 

 その結果、ベトナム戦争全体の実像が立体的に姿を現す。

 

 著者はこの歴史解明の作業を自分自身のサイゴンでの報道活動に協力したためにスパイ容疑をかけられ、迫害された元ベトナム人助手兼通訳の苦難や、民族独立に尽くしながら裏切られた元日本兵とそのベトナム人妻の失意を自責の念をこめて伝えることでも期せずして果たしている。

 

 ベトナム戦争を理解するためには必読の書である。(ウェッジ・2520円)

 評・古森義久(ワシントン駐在編集特別委員)

 

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 ベトナム戦争についてはついでに私が以前に出した書も紹介しておきます。

 

 この書は講談社ノンフィクション賞(前身は講談社出版文化賞のノンフィクション部門賞)を受賞しました。

 

 

 

 

ベトナム報道1300日―ある社会の終焉 (講談社文庫)

 

 
 
 ベトナム戦争に関する、最も感銘深く優れたルポルタージュ。, 2005/4/27
By カスタマー
 

 著者・古森義久氏は、毎日新聞ベトナム特派員として3年間、ベトナム戦争末期のベトナムに滞在した。

 

 それは日本人特派員として最長の滞在記録であった。

 

 その間精力的に取材を続け、多くの記者が国外脱出する中でも残留し、1975年4月30日の南ベトナム首都サイゴンの陥落を現地で見届けた。

 

 本書はその克明な記録である。


 ベトナム戦争とは何だったのかを伝えているのみではない。

 

 報道とは何か、1つの国が崩壊するとはどういうことか、戦争や国家崩壊の中でそこに生きる人々の姿はどのようなものだったか、余すところなく伝えている本である。

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