私の連載記事の紹介です。
3月22日産経新聞朝刊の掲載でした。
■【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(5)安田講堂事件
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1968年3月、安田講堂を封鎖し、集会で気勢を上げる学生 |
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1969年1月、東大の安田講堂前には火の手が上がった |
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■「安保粉砕」掲げた政治行動
安田講堂事件というのも忘れられない出来事である。
東京大学の正門を入って真正面の時計台を頭とする大講堂は占拠した学生たちと機動隊との激烈な攻防の舞台となった。
1968年から翌年にかけての事件だった。
この大事件もいまでは過ぎた歳月の長さのためか、ロマンやロマンスの題材によく使われる。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京」という楡周平氏の人気小説でも安田講堂が物語の基点となった。
占拠に加わった活動家の恋人同士が現代では男性が政権与党の有力政治家、女性が大病院チェーン経営主となり、数奇の再会を果たす、というのだ。
テレビの連続ドラマともなった。
だが安田講堂事件をクライマックスとした東大紛争は医学部インターン制度という純教育上の問題を直接の契機としたとはいえ、日米同盟の破棄を求める過激な政治行動の一環でもあった。
主役は「70年安保粉砕」をスローガンに掲げた全共闘であり、「国家権力との闘い」が叫ばれ、東大も「帝国主義的管理に組み込まれた教育工場」とされ、解体までが唱えられた。
帝国主義の打倒といえば当然、日本だけでなく米帝が究極の標的とされた。
私は東大紛争では、学生たちの抗議行動により安田講堂での卒業式が中止される前日の68年3月27日に構内で取材にあたっていた。
なんと王子のデモで投石を受け、重体とされた日のすぐ前日だった。
安田講堂前では東大の医学部学生だけでなく他大学からの学生たちが赤、白、黄などのヘルメットで練りまわり始めていた。
息子や娘の卒業の晴れ姿をみようと上京した両親らも多く、異様な光景を茫然(ぼうぜん)とみつめていた。
なぜ私が東大に、王子に、デモ現場ばかりに送られたかというと、当時の毎日新聞社会部で都内のそれら地区の警察署担当だったからである。
そのころ警視庁管轄下の東京23区内の60ほどの警察署は全体で7つの方面に区分されていた。
私はそのうちの第五方面というのを担当させられた。
豊島区、北区、文京区、板橋区、練馬区のすべての警察署がその区分に入った。
その十数署の管轄内での事件や事故を特定の記者がカバーする。
いわゆる警察まわりだった。
だから私は渋谷区代々木の両親の家から新聞社には出ず、毎朝、第五方面の中枢の池袋警察署に行き、夜遅くまで待機した。
なにかあれば、すぐ池袋署の記者室から飛び出すのである。
その第五方面は地理的に東大を抱える本富士署や米陸軍病院のある王子署を含んでいたのだ。
もっとも警察まわり記者はみな新人であり、大きな事件では東大担当や警視庁担当の先輩記者の手足となった。
安田講堂前では私は次の日に負傷するとは夢にも思わず、活発に走り回って学生の動きを追い、父母の話を聞いた。
翌日の未明、20人ほどの学生が講堂のドアを破って侵入し、一時、立てこもった。
安田講堂占拠の始まりだった。
大学当局は講堂で予定していた卒業式をやめたのだった。
その後、頭蓋(ずがい)骨の損傷から回復した私は警視庁詰となり、捜査二課を担当して汚職事件などを追ったが、東大にも何度も戻った。
69年1月18日、その前年夏から全共闘に占拠され、内部にバリケードをはりめぐらされた安田講堂についに総員8500人もの機動隊が突入するときも、取材陣の一員となった。
講堂内部の学生たちが手製の火炎ビンや鉄パイプ、石塊などを頭上から投げてくるのをみると、どうしても王子での負傷を思いだし、足があまり前には進まなかった。
だが機動隊が突入する直前、時計台のスピーカーから響いてきたうわずった声はいやでも耳に鮮明に残った。
「全共闘の同志! われわれは最後まで徹底的に戦う。われわれは必ず勝利する」
戦う相手、勝利する相手とは、まずは目前の機動隊だとしても、その先の地平線には日本の政府があり、その政府が運命を託す米国があった。
東大紛争も日米安保条約の10年目の自動延長を阻止しようとする「1970年安保闘争」の大学バリケード封鎖でもあったのだ。
だが日米安保条約が築く日米同盟はここでも崩れることはなかった。
(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)
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